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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第85話

 季節は、冬。

 東京の空は、まるで世界の終わりを予感させるかのような、重く冷たい鉛色の雲に覆われていた。だが、その凍てつくような灰色の日常の、遥か地下深く。茨城県筑波研究学園都市と官邸を結ぶ専用回線の向こう側、プロジェクト・キマイラの心臓部である作戦司令室は、今、人類の歴史が始まって以来、最も熱く、そして最も混沌とした情報戦の最前線と化していた。


「――以上が、本日午前九時時点での『天照』に関する国内外の反応です」


 内閣情報調査室理事官、橘紗英の氷のように冷徹な声が、静まり返った司令室に響き渡った。彼女の背後に広がる巨大なホログラムスクリーンには、滝のように情報が流れ落ちていた。X(旧Twitter)のトレンドリストは『#AMATERASUチャレンジ』『#ガソリンさよなら』といったハッシュタグで埋め尽くされ、動画サイトには『天照』シールを貼ったEV車が日本列島を無充電で横断する様子を収めた動画が、数億回という天文学的な再生回数を記録している。

 だが、その熱狂の裏側で、より深刻なデータが不気味な赤い警告色で点滅していた。

『――ニューヨーク原油市場、サーキットブレーカー発動。取引一時停止』

『――ロシア、及びOPECプラス、緊急共同声明を発表。「世界経済の秩序を破壊する一方的なエネルギー政策に断固抗議する」』

『――在日米軍横田基地周辺における、未確認の諜報活動の活発化を検知。レベル3警戒態勢に移行』


 円卓を囲むこの国の最高首脳たちの顔に、深い疲労の色が刻み込まれていた。

「…………ふう」

 内閣総理大臣、宰善茂が、重々しく息を吐き出した。

「……EV車無双は、我々もある程度は想定していた。……だが、反響がここまでとはな。……正直に言って、少しばかり読みが甘かったようだ」

「いえ、総理」と、橘が静かに訂正した。「甘かったのは、我々の想像力ではありません。……『天照』という奇跡が持つ力が、我々人類の矮小な想像力を、あまりにも、あまりにも超えていただけのことです」


 そうだ。彼らは、この二年間、神の奇跡に慣れすぎていた。病が癒え、作物が瞬時に実る。そんな御伽噺のような日常が当たり前になるにつれ、彼らはどこかで感覚が麻痺していたのだ。

 だが、『天照』は違った。ポーションや神饌野菜が、生命という内面的な世界に作用する静かな奇跡であったとすれば、『天照』は、エネルギーというこの文明社会の血流そのものを支配する、あまりにも直接的で、そしてあまりにも暴力的な奇跡だった。

 それは、世界の経済地図と軍事バランスを、一夜にして塗り替えてしまう神の火。その火の粉が、今や世界中に燃え広がり、制御不能な大火災を引き起こそうとしていた。


「……国内の状況は、どうなっておる」宰善総理が、経済産業大臣に問いかけた。

「はっ……。一言で申し上げますと、狂乱状態でございます」

 経産大臣は、青い顔で報告を始めた。

「……『天照』の初回ロット一千万枚は、発売開始からわずか数分で完売。……流通量の多さから、当初は国内需要をある程度満たせるものと楽観視しておりましたが、国民の需要は我々の想像を遥かに超えておりました。現在、国内の主要なECプラットフォームやオークションサイトでは、その転売品が驚くべき価格で取引されております。当初は定価の数倍でしたが、今や一枚50万円から、状態の良いものでは100万円を超えるという、まるで高級腕時計や中古車のような常軌を逸した価格で取引される事例も報告されております」


「100万だと……!?」宰善総理が呻いた。たかが手のひらサイズのシールに、だ。

「はい。ですが、それでも需要は全く収まりません。……社会問題も発生しております。今年の冬のボーナスを全額つぎ込んで購入するサラリーマン。親の貯蓄に手を出す若者。そして、『天照』を手に入れるためだけに消費者金融に駆け込む人々が後を絶たず、多重債務者の急増が懸念されております」


 官房長官、綾小路俊輔が、冷ややかに付け加えた。

「……それだけではございませんな。……既に、『天照』の購入を専門に融資する、非合法な**『天照ローン』**なる闇金融まで現れ始めております。……まさに、神の火に群がる羽虫のようですな」

「……愚かなことだ」宰善総理は、吐き捨てるように言った。

「まあ、実際便利ですからねぇ。無理もないでしょう」と綾小路は肩をすくめた。「私の試算では、現在の生産ペースでいけば、あと半年もすれば国内の全世帯に二枚程度は行き渡る計算になります。そこまで普及すれば、この狂乱も少しは落ち着くでしょう。そうなれば、いよいよ海外への販売を解禁しても良いのでは、ありませんかな? これほどの金のなる木を、いつまでも国内だけに留めておくのは、あまりにも惜しい」


 そのあまりにも商売人らしい、そしてどこまでも強欲な提案に、数人の閣僚が喉を鳴らした。だが、その甘い夢想を打ち砕いたのは、外務大臣、古賀雅人の悲痛な声だった。


「…………あー……。それだが……」古賀は、そのやつれた顔に深い苦悩の色を浮かべていた。「……その、海外販売の件ですが……。当面は、絶対になしです」

「ほう? それは、どういうことですかな、古賀大臣」綾小路が、いぶかしげに問い返す。

「今朝方、中東の主要産油国の代表者たちから、極秘の共同嘆願書が、我が省に届けられました。私も、先ほど駐日大使と緊急のビデオ会談を行いましたが……」古賀は、一度言葉を切った。そして、その光景を思い出すかのように、遠い目をした。

「…………泣いてましたよ」

「…………は?」

「あの、常に我々を見下し、石油という武器を盾に傲慢な態度を崩さなかった、あの国のエネルギー大臣が。モニターの向こう側で、文字通り、子供のように泣きじゃくりながら、こう訴えてきました」

 古賀は、その声色を真似てみせた。その声は、震えていた。

「…………『お願いだから、勘弁してくれ』……と」


 司令室は、水を打ったように静まり返った。

 古賀は、続けた。

「彼らは言いました。『天照』の登場により、原油価格は歴史的な大暴落を記録し、彼らの国の経済は既に崩壊の一歩手前であると。もし、日本がその悪魔のシールを本格的に海外へと輸出し始めれば、彼らの国は完全に破綻する。そうなれば、国中で大規模な暴動が起き、内戦状態に陥り、中東全域が火の海になるだろうと。『どうか、我々が新たなエネルギー社会に適応するための時間的猶予を、与えてはいただけないだろうか』……と。そう言って、彼らは、何度も、何度も、頭を下げていましたよ。あの、誇り高き砂漠の民が、です」


 そのあまりにも衝撃的な報告。それは、彼らが画面の向こうの数字としてしか見ていなかったエネルギー革命の、生々しく、そして血の通った現実だった。重苦しい沈黙を破ったのは、やはり、綾小路の、どこまでも不謹慎な呟きだった。


「…………はっ。いい気味だよ」

「…………綾小路君!」古賀が、咎めるような声を上げた。

「なんだね、古賀大臣。私は、事実を述べたまでですが? これまで、さんざん石油という名の生命線を握られ、煮え湯を飲まされ続けてきたのは、どこの国でしたかな? 彼らが、ほんの少し蛇口を締めるだけで、我が国の経済は大混乱に陥った。その彼らが、今や我々の前にひれ伏している。この状況を、痛快と言わずして、何と言いますかな?」

「しかしだな!」

「シーッ!」二人の言い争いを制したのは、橘の鋭い一言だった。「そういうことは、言わない! 今は、感傷や過去の恨み言に浸っている場合ではありません。我々が今なすべきは、この新たな、そして極めて厄介な地政学的リスクに、いかにして対処するかです」


 彼女の氷のような言葉が、司令室の熱を冷ました。

 宰善総理が、重々しく口を開いた。「……古賀大臣。分かった。海外への公式な販売は、当面、凍結とする。だが、綾小路君の言うことも一理ある。我々には、この混乱を収拾する義理もなければ、責任もない。しばらくは、静観だ。もちろん、我が国の国民が個人的に『天照』を入手し、それを海外で販売することまでは、我々には規制できん。しばらくは、そういうことにしておこう」


 そのあまりにも老獪な、そしてどこまでも責任逃れな決定。だが、それがこの複雑怪奇な状況における、唯一の正解であると、誰もが理解していた。

 こうして、世界のエネルギー問題に関する日本政府の基本方針は、定まった。だが、彼らを悩ませる問題は、それだけではなかった。


「総理。恐縮ですが、もう一つ、緊急の案件が」今度は、農林水産大臣の里見が、おずおずと手を挙げた。「エネルギー問題ほど切迫してはおりませんが、こちらもまた、嬉しい悲鳴とでも言いましょうか……」

 彼は、手元の資料に目を落とした。

「例の、奇跡の野菜『神饌(SHINSEN)』の件です。先日、政府が国内限定での一般販売を開始して以来、その噂は瞬く間に世界中を駆け巡りましてな。現在、世界中の名だたる高級レストランのシェフたちが、この『神饌』を使わせてほしいと、連日、我が省に嘆願書を送りつけてきております」

「ほう?」

「パリの三ツ星レストラン『ル・ジャルダン・セクレ』の総料理長からは、『あのトマトのためとあらば、私の生涯の全てを捧げても良い』と、ポエムのような手紙が届いております。ニューヨークの『ジ・エンペラーズ・テーブル』からは、白紙の小切手が同封されておりました。『言い値で買おう』と」

 そのあまりにも熱狂的なラブコールに、司令室に微かな笑いが起きた。

「それだけではございません」里見は、続けた。「各国政府からも、公式、非公式のルートを通じて、様々な要請が来ております。特に多いのが、『あの魔石の肥料を、我々の国の特産品にも使ってみてはくれないか』という、共同研究の申し出です」

 彼は、リストを読み上げた。

「イタリア政府からは、『我々の至宝、サンマルツァーノ種のトマトが、あの奇跡の肥料によって、どのような至高の味へと昇華するのか、ぜひ試して欲しい』と。フランス政府からは、『ペリゴール地方の黒トリュフの栽培に応用できないか』という、極めて真剣な打診が。そして、中米のいくつかの国からは、『コーヒー豆の品質改良に、絶大な効果が期待できるのではないか』と……」


「あー、そっちも、そんなことになってるのか」宰善総理は、もはや呆れるしかなかった。人類の欲望とは、かくも尽きることのないものか。

「まあ、いいんじゃないか? そっちは」綾小路が、あっさりと言った。「『天照』と違い、『神饌』は、直接的な軍事脅威にはならん。むしろ、我が国の食文化という名のソフト・パワーを、世界に知らしめる絶好の機会だ。それに、何よりも」

 彼は、にやりと笑った。

「あの野菜は、一日で収穫できる。いくらでも生産可能なのだからな。もはや、チートというレベルではない。これを外交カードとして使わぬ手はないでしょう」

「うむ。私も、同感だ」橘も、静かに頷いた。「通常品種で、あの奇跡的な美味しさです。もし、各国の最高級ブランドの品種に、あの魔石の力を応用すれば、一体どのような怪物が生まれるのか。正直、私も興味があります。これは、我が国の農業技術の高さを世界にアピールし、そして将来的な食料市場における主導権を握るための、絶好の布石となり得ます」


 その二人の、あまりにも合理的な進言。宰善総理の心は、決まった。

「…………よし。分かった」彼は、言った。「里見大臣。その話、受ける方向で進めてくれ。ただし、一度に全てではない。相手国の重要度や、こちらへの貢献度を慎重に見極めながら、順次、段階的に受け入れを展開していくのだ。我々は、決して安売りはせん。この奇跡の価値を、彼らに骨の髄まで思い知らせてやるのだ」

「は、ははっ! 御意!」里見大臣は、その顔を喜びに輝かせた。


 こうして、その日の会議は終わった。

 神の火の扱い方を巡る、二つの、全く対照的な決定。

 ハードパワーの象徴であるエネルギー技術は、固く、固く国内に秘匿する。

 そして、ソフトパワーの象徴である食文化は、巧みに、そしてしたたかに世界へと解き放つ。

 硬軟織り交ぜた、完璧な外交戦略。

 彼らは、もはや神の気ままぐれに翻弄されるだけの存在ではなかった。

 彼らは、その神の力を、自らの国家の利益のために最大限に活用しようとする、恐るべき、そしてどこまでも人間臭い為政者たちへと、完全に変貌を遂げていた。

 その壮大で、そしてどこまでも滑稽な神と人間の共犯関係が、これから世界をどのような未来へと導いていくのか。それを知る者は、まだ誰もいなかった。

 彼らはただ、目の前の、あまりにも面白すぎる世界的ゲームの盤面を前に、その駒を進めることに夢中になっていただけだったのだから。

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EV車無双ですか?これは走る別荘&「災害時の避難場所」としてEV式キャンピングカーが製造され大売れしますね!そして裏の世界では銃やミサイル付きの軍用ドローンに天照が使われて兵器に使用した国&個人が転売…
魔石粉販売は悪用もできそうなので、いっそエネルギー問題解決したなら 巨大植物工場でクリーンな神饌の輸出に舵切っても良さそうな コスト面で越えられなかった品種もこれなら元取れそう
 肥料だけじゃなく品種改良自体できるんじゃない?寒さにも暑さにも強くたくさん実がなるそれこそ樹に大量のなるスイカとか生み出せそう、そして1世代だけのはずの購入したスイカの種に使うと家庭菜園が農場になり…
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