第86話
季節は、冬。
東京の空は、まるで世界の終わりを予感させるかのような、重く冷たい鉛色の雲に覆われていた。だが、その凍てつくような灰色の日常の、遥か地下深く。官邸の地下に広がるプロジェクト・キマイラの作戦司令室は、今、人類の歴史が始まって以来、最も熱く、そして最も厄介な地政学的熱病の治療法を巡って、静かなる戦争の最前線と化していた。
「――以上が、過去七十二時間における中東情勢のサマリーです」
外務大臣、古賀雅人が、そのやつれた顔に深い隈を刻みながら、重々しく報告を締めくくった。
彼の背後に広がる巨大なホログラムスクリーンには、もはや目を覆いたくなるような地獄の光景が、リアルタイムで映し出されていた。
リヤドの株式市場は、サーキットブレーカーが機能不全に陥り、株価という概念そのものが消失したかのような垂直落下のグラフを描いている。
ドバイの街頭では、昨日まで世界の富の象徴であった超高級車が乗り捨てられ、その代わりに食料を求める市民のデモ隊が治安部隊と衝突し、黒い煙が上がっていた。
そして、OPECプラスの緊急会合の様子を捉えた衛星画像。そこには、数十年もの間、世界のエネルギーという名の生殺与奪の権を握り、傲慢なまでにその力を誇示してきたはずの王族や閣僚たちが、今はただ、互いに罵り合い、その責任をなすりつけ合うだけの、哀れな敗残者の姿があった。
『天照(AMATERASU)』ショック。
日本が放った神の火は、彼らの国の唯一無二の支柱であった石油という名の黒い黄金を、一夜にして価値のないただの黒い水へと変えてしまったのだ。
「………………ひどいものだな」
宰善茂総理が、その深い疲労の刻まれた顔で、呻くように言った。
「……経済の崩壊は、社会の崩壊へと直結する。……このままでは、中東全域が内戦と無秩序の渦に飲み込まれるのも、時間の問題だ。……それは、我が国のシーレーンの安全保障にとっても、看過できん事態だ」
そのあまりにも重い現実に、司令室は深い沈黙に包まれた。
彼らは、神の力を手に入れた。だが、その力がもたらす副作用の、あまりの巨大さと複雑さに、今、改めて打ちのめされていたのだ。
神の力は、常にそれを行使する者の覚悟を問う。
「……えー、では、本題に入りましょうか」
その重苦しい空気を、まるで手術室でメスを握る外科医のような、どこまでも冷静で、そして非情な声が切り裂いた。
官房長官、綾小路俊輔だった。
彼は、その蛇のような顔にいつもの皮肉な笑みを浮かべ、円卓を見渡した。
「……中東の石油暴落対策です。……彼らが勝手に転んで、勝手に怪我をしただけのことではありますが。……まあ、その怪我のせいで世界中が迷惑を被るのも癪に障りますのでね。……我々が、少しばかり慈悲の心で、絆創膏でも貼って差し上げるというのは、いかがですかな?」
そのあまりにも不謹慎な物言いに、数人の閣僚が眉をひそめた。
だが、綾小路は全く意に介する様子もなく、続けた。
「……何か、作戦はありますか? ……橘君、長谷川教授。……君たちの神の玩具箱の中に、この厄介な火事を消し止めるための、便利な道具は何か残ってはおらんのかね?」
そのあまりにも無茶な、そしてどこまでも傲慢な問いかけ。
だが、その問いに答えたのは、意外にも、これまで常に科学的な現実論を唱えてきた橘紗英だった。
彼女は、静かに立ち上がった。
その氷の仮面のような表情は、いつも通りだったが、その瞳の奥には、新たな、そしてより巨大な「遊び」を見つけた子供のような、微かな、しかし確かな興奮の光が宿っていた。
「…………ございます」
彼女は、きっぱりと言った。
「……ええ。一つ、極めて有効な、そしてどこまでも根本的な『治療法』が」
彼女の合図と共に、ホログラムスクリーンが切り替わる。
そこに映し出されたのは、日本の、どこにでもあるような、しかし無残な姿を晒した一つの山の映像だった。
数年前の豪雨による大規模な土砂崩れで、その山肌がえぐり取られ、木々も草も全て失われた、痛々しい禿山。
「……こちらは、先日、長谷川教授のチームが四国の山中で行った、極秘の環境再生実験の記録映像です」
橘が、淡々と説明を始める。
映像の中で、自衛隊のヘリコプターが、その禿山の上空から、何かキラキラと光る白い粉末を大量に散布していく。
「……魔石に、『この大地を、かつての緑豊かな姿へと戻せ』という『願い』を刻印し、それを種子と混合した特殊な肥料です。……そして」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
映像が、早送りになる。
散布から、数時間後。
禿山の茶色い山肌に、ぽつり、ぽつりと、緑色の点が現れ始めた。
十二時間後。
その点は、一面の柔らかな草原へと変わっていた。
そして、二十四時間後。
その場にいた誰もが、息を飲んだ。
そこには、もはや禿山の面影は、どこにもなかった。
そこにあったのは、若々しい木々が生い茂り、小鳥たちがさえずり、そして朝露に濡れた下草がきらきらと輝く、完璧な、生命力に満ち溢れた森の姿だった。
「………………」
司令室は、死んだように静まり返っていた。
「………………一日で、禿山が、元に戻った……?」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「はい」と、橘は静かに頷いた。
「……我々の試算では、この技術を応用すれば、中東の砂漠地帯の一部を緑豊かな森林へと変えることさえ、理論上は可能です。……おそらく、一週間もあれば、目に見える形で結果は出るでしょう。……砂漠の緑化です」
そのあまりにも非現実的で、そしてあまりにも神の如き提案。
司令室は、どよめきと興奮の渦に包まれた。
「す、すごい……!」
「砂漠を、森に……!?」
「これぞ、まさしく神の御業……!」
だが、その熱狂の中で、ただ一人冷静だったのは、やはり宰善総理だった。
彼は、静かに問いかけた。
「……素晴らしい技術だ。……だが、橘君。……一つ、根本的な問題がある。……森を育てるためには、水が必要だ。……砂漠には、その水がない。……どうするのかね?」
そのあまりにも当然の、そして最も本質的な問い。
それに対し、橘は待ってましたとばかりに、不敵な笑みを浮かべた。
「……もちろん、その問題も解決済みです、総理。……長谷川教授」
彼女に促され、これまで子供のように興奮を抑えきれずにそわそわしていた長谷川教授が、待ってましたとばかりに一歩前に進み出た。
「ふっふっふっふ……! 総理! 皆様! お待たせいたしました!」
彼の顔は、もはや科学者ではなく、自らの最高傑作を発表する芸術家のそれだった。
スクリーンに、一つの複雑な機械の設計図が映し出される。
「……これこそが! 我がチームが、この数ヶ月、その叡智の全てを結集して開発した、究極のアーティファクト! 『海神の涙』! ……通称、『超高効率魔石フィルター』にございます!」
彼は、熱っぽく語り始めた。
そのフィルターは、魔石に『塩分と真水を選別せよ』という極めて高度な『願い』を刻印することで機能する。海水を取り込むと、その内部で魔石の力が分子レベルで作用し、水分子(H₂O)と塩化ナトリウム(NaCl)を完璧に、そして一切のエネルギーロスなく分離するという、現代物理学の法則を完全に無視した代物だった。
「……このフィルターを使えば、理論上、無限に海水を真水へと変換することが可能です! 必要なのは、海水と、そして時折魔石を交換する、ほんの少しの手間だけ! ……これさえあれば、砂漠の真ん中に、巨大な湖を、いえ、一つの海をさえ作り出すことも夢ではございませんぞ!」
そのあまりにも完璧すぎる、二段構えの奇跡の提案。
もはや、反論する者など、一人もいなかった。
彼らは、自分たちが今、一つの惑星の環境そのものを自在に作り変えることができる、神の力を手にしてしまったという事実を、改めて思い知らされていた。
「…………よし」
宰善総理が、重々しく言った。
「……では、その計画でいこう。……これは、もはや単なる経済支援ではない。……我々が、世界に真の平和と繁栄をもたらすための、神聖な義務だ。……直ちに、中東の代表国と交渉を開始せよ。……実験として、この緑化計画のための機材一式を、無償で提供すると」
そのあまりにも高潔な、総理の決断。
だが、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、綾小路が、氷のように冷たい声で付け加えた。
「……もちろん、総理。……無償ではありますが、その『テコ入れ』の対価は、きっちりと頂戴いたしますな?」
「……対価?」
「ええ」と、綾小路はにやりと笑った。
「……石油の利権を、少しばかり譲っていただきましょう。……我々のその慈悲深い行いに対する、彼らからのささやかな『感謝の印』として、ね」
そのあまりにも狡猾な提案に、経産大臣が苦笑いを浮かべた。
「……えー……。よろしいのですかな、綾小路長官。……もうオワコンの石油の利権など、今更いりますかな?」
そのどこまでも的を射た皮肉。
だが、綾小路は全く動じなかった。
「ふっふっふ。……大臣、あなたはまだ分かっておらん。……確かに、『天照』の登場で、ガソリン車の時代は終わりを告げつつある。……市場は、今、その変化にパニックを起こして暴落しているに過ぎん。……ですが、そのうち必ず落ち着くでしょう。……考えてもみてください。……航空機は、どうですかな? あの巨大な鉄の塊を、電気の力だけで空に飛ばすのは、少なくともあと数十年は難しいでしょう。……船舶は? 工場の巨大な機械は? ……そして何よりも、この世界に存在するありとあらゆるプラスチック製品や化学繊維の原料は、一体何からできているか、ご存知ですかな?」
彼の言葉は、静かだった。だが、その言葉の一つ一つが、未来を見通す預言者のように重く響いた。
「……石油の時代は、終わらない。……ただ、その役割が変わるだけです。……燃料としての価値が下がれば、逆に、素材としての価値は相対的に高騰する。……その時、世界の石油利権を最も安値で手に入れている国が、次なる時代の産業を支配するのですよ。……まあ、今のうちに、その未来への切符を手に入れておきたい、というだけの話ですな」
そのあまりにも老獪で、そしてどこまでも先を見据えた戦略眼。
司令室にいた誰もが、その男の本当の恐ろしさに、改めて戦慄した。
「………………よし」
宰善総理が、重々しく言った。
「……それで行こうか。……全計画の指揮は、橘理事官、君に一任する。……目標は、一ヶ月だ。……一ヶ月で、中東の砂漠に、我々の手で最初の森を創造するのだ!」
「「「御意!」」」
◇
一ヶ月後。
アラビア半島の、どこまでも続く広大な砂漠地帯、ルブアルハリ砂漠。
その一角は、もはや地球上のいかなる場所とも似ていない、神話の光景へと変貌を遂げていた。
ほんの数週間前まで、そこにあったのは、灼熱の太陽に焼かれ、生命の気配一つない、ただの死の砂丘だけだった。
だが、今。
そこには、地平線の彼方まで続くかのような、広大な、青々とした森が広がっていたのだ。
まだ若々しいが、しかし力強く天に向かって伸びる木々。その足元には、色とりどりの野の花が咲き乱れ、せせらぎには、小魚の群れがキラキラと輝いている。
そして、その森の中心には、一つの巨大な湖が、まるで砂漠に埋め込まれた巨大なサファイアのように、静かな水を湛えていた。
その湖畔に設えられた、巨大な白い天幕の下。
この地域の遊牧民の族長たちが、信じられないものを見る目で、その光景をただ呆然と見つめていた。
彼らの目の前では、日本の技術者たちが設置したという、銀色に輝く巨大な機械――『海神の涙』――が、静かに、しかし絶え間なく、ペルシャ湾から引き込まれた塩辛い海水を飲み込み、そしてその反対側から、一つの川と見紛うほどの莫大な量の、清浄な真水を吐き出し続けていた。
その水が、この森を育み、この湖を満たしているのだ。
「…………アッラーよ……」
族長たちの中で最も年嵩の、白髭の長老、シェイク・ハミドが、その場にひざまずいた。
彼の、砂漠の太陽で焼かれた深い皺だらけの顔を、涙が伝っていく。
「……これは、預言者様が約束された、最後の楽園の顕現か……。……我らが神は、我々を見捨ててはおられなかったのだ……!」
彼は、東の空――日本の方向――に向かって、深々と、そして何度も、感謝の祈りを捧げた。
その祈りは、もはや特定の宗教の神に向けられたものではなかった。
それは、この砂漠の民に、水と、緑と、そして未来への希望という、最も尊い奇跡をもたらしてくれた、遥か東方の、名も知らぬ新たな「神」への、心からの祈りだった。
日本の、そして一人のぐうたらな男の、ほんの些細な「慈悲」と「計算」が、今、この乾いた大地に、新たな神話の種を蒔いた。
その種が、やがてどのような花を咲かせ、どのような果実を結ぶことになるのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。




