第84話
神の気まぐれな贈り物は、常に矮小なる人間の想像力の地平線を、嘲笑うかのように軽々と飛び越えていく。
日本政府が、賢者より賜りし二つの神の火――奇跡の農作物『神饌(SHINSEN)』と、無限のバッテリーシール『天照(AMATERASU)』――を、ついに民衆へと解き放ってから、季節は冬の最も深い場所へと、その歩みを進めていた。
そして、その二つの静かなる革命は、日本という国の日常を、穏やかに、しかし確実に、そして後戻りの決して許されない未来へと、変貌させていた。
茨城県筑波研究学園都市の、さらに地下深く。
外界とは完全に遮断された、プロジェクト・プロメテウスの心臓部、『サイト・アスカ』第二物理科学研究所。
その空気は、もはやかつてのような混沌とした熱狂ではなく、より組織化され、そしてより体系化された知的な興奮に満ち溢れていた。
長谷川健吾教授率いる天才、あるいは変人たちは、この数ヶ月の間、『魔石』という名の神の火の、その法則性を解き明かすための地道で、しかし壮大な研究に、その魂の全てを捧げていた。
そして今、彼らの目の前には、その研究の最初の、そして最も重要な応用事例である『天照』の、最終性能検証という名の、新たな神託を待つ儀式が始まろうとしていた。
巨大なドーム状の実験室。その中央の耐電磁パルス仕様の実験台の上に、一枚の半透明のシールが、まるで聖遺物のように静かに置かれている。
その周りを取り囲むのは、長谷川教授をはじめとするプロジェクト・プロメテウスの科学者たち。そして、この日のために特別に民間から招聘された、日本のエレクトロニクス産業と自動車産業の頂点に立つ、二人の男の姿があった。
一人は、国内最大の総合電機メーカー『Nippon Electronics』の中央研究所所長、須藤博士。白髪をオールバックにし、その鋭い眼光は、常に製品のコストと性能と信頼性という三つの現実的な指標だけを見据えている、百戦錬磨の技術者。
もう一人は、世界に冠たる自動車メーカー『YAMATO MOTORS』のEV開発部門統括責任者、片山チーフエンジニア。その日に焼けた顔と、油の染みついた作業着は、彼が現場の叩き上げであることを物語っていた。
彼らは、政府からのあまりにも非現実的な要請を受け、半信半半疑のまま、この神々の実験室へと足を踏み入れたのだ。
「……では、始めましょうか」
この歴史的な実験の指揮を執るのは、もちろん橘紗英だった。彼女は、ガラス張りのモニタリングルームから、その氷のように冷徹な声で指示を下した。
最初の実験は、単純明快だった。
研究員が、市販されている最新鋭のスマートフォンを手に取る。そのバッテリーは、完全に放電され、うんともすんとも言わないただの文鎮と化している。
研究員は、そのスマートフォンの背面に、『天照』のシールを一枚、そっと貼り付けた。
次の瞬間。
その場にいた全員が、息を飲んだ。
死んでいたはずのスマートフォンの画面が、ぱっと明るく点灯したのだ。
そして、画面の右上に表示されたバッテリーのアイコンが、凄まじい勢いで充電されていく。
1%、10%、50%、80%、そして100%。
満充電まで、わずか数秒。
「…………馬鹿な」
Nippon Electronicsの須藤博士が、その生涯で初めて、心の底からの弱々しい声を漏らした。
「……電源はどこだ……? ケーブルも、ワイヤレス充電パッドも、何もないぞ……!? なんだ、これは……!? 魔法か……!?」
そのあまりにも素人じみた感想に、長谷川教授がどこか誇らしげに、そして憐れむように鼻を鳴らした。
「……ふっふっふ。……須藤博士。……あなたほどの碩学が、まだそんな前時代的な物理法則に魂を囚われているとは、嘆かわしい。……これは、魔法などという神秘的なものではありません。……これは、我らが賢者様が示してくださった、新たな科学の、ほんの入り口に過ぎんのですよ」
実験は、続行された。
ノートパソコン、デジタルカメラ、コードレス掃除機、そして最新鋭の業務用ドローン。
ありとあらゆるバッテリー駆動の電子機器が、次々とその神のシールの前に差し出されていく。
結果は、全て同じだった。
一度シールを貼れば、その機器はもはや充電という概念から完全に解放された。
ドローンは、三日三晩、実験ドームの中を飛び続け、そのプロペラが物理的に摩耗して壊れるまで、決してバッテリーが尽きることはなかった。
「…………参ったな」
須藤博士は、完全に白旗を上げていた。
彼は、その技術者としての人生の全てを捧げてきたバッテリー開発という分野が、このたった一枚のシールによって、完全に過去の遺物へと変えられてしまったその事実を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「……橘理事官。……これは、もはや国家機密どころの話ではない。……これは、産業革命だ。……いや、それ以上の、文明の特異点そのものですぞ……!」
だが、その狂騒の中心で、ただ一人、冷静な目をしていた男がいた。
YAMATO MOTORSの片山チーフエンジニアだった。
彼は、腕を組み、その鋭い目で実験の様子を黙って見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。
「……橘理事官。……素晴らしい技術であることは、よく分かりました。……ですが、我々自動車屋が知りたいのは、そんなおもちゃの性能ではありません」
彼は、実験ドームの隅にカーテンで隠されていた、一つの巨大なシルエットを指差した。
「……我々が知りたいのは、ただ一つ。……こいつに貼った時、一体どこまで走れるのか。……それだけです」
彼の言葉と共に、カーテンがゆっくりと開け放たれる。
そこに現れたのは、YAMATO MOTORSが社運を賭けて開発した、最新鋭のフラッグシップEV(電気自動車)。
その名は、『雷電 X-GT』。
流線型の、まるで未来の戦闘機のようなフォルム。そのボディは、プロジェクト・キマイラの一環で極秘に提供された、あの『不死鳥の羽衣』の繊維構造を解析して生まれた、自己修復機能を持つ特殊なカーボン素材で覆われている。
それは、日本の技術の粋を集めた、究極の走る芸術品だった。
「……雷電のバッテリー容量は、150kWh。……現在市販されているEVの中では、世界最大級です」
片山は、静かに言った。
「……こいつを、フル充電するのに、家庭用の急速充電器を使っても数時間はかかる。……そして、その電気代は、現在の日本の平均的な電気料金で換算すれば、おおよそ五千円といったところでしょう。……この『天照』とやらが、この化け物を、一体どれだけ走らせることができるのか。……それを見せていただきたい」
そのあまりにも大胆で、そしてあまりにも本質的な提案。
それは、この実験の真のクライマックスの始まりを告げていた。
実験は、まずドーム内に設置された巨大なシャシーダイナモメーター(走行試験装置)の上で行われた。
雷電の後輪の下で、巨大なローラーが回転を始める。
モーターの、静かだが力強い唸り。
時速100キロ、200キロ、そして300キロ。
現実の道路ではありえない速度で、雷電はひたすらに走り続けた。
実験室の巨大なモニターには、走行距離、消費電力、そしてバッテリー残量を示すグラフがリアルタイムで表示されていく。
だが、そのバッテリー残量のグラフだけが、奇妙なまでに全く動かなかった。
常に、100%のまま。
一日が過ぎ、二日が過ぎ、そして三日が過ぎた。
雷電は、走り続けていた。
交代で乗り込むテストドライバーたちの顔には、疲労と、そしてそれ以上の信じられないといった驚愕の色が浮かんでいた。
「……おいおい、どうなってんだよ、これ……」
「……もう走行距離、一万キロ超えたぞ……。……日本一周できるじゃねえか……」
科学者たちは、もはや寝ることも忘れ、そのモニターに釘付けになっていた。
そして、実験開始から五日目の朝。
シャシーダイナモでの基礎データ収集を終えた雷電は、ついに本当の戦場へと解き放たれた。
場所は、同じく筑波にある、日本自動車研究所(JARI)の高速周回路。
一周5.5キロ。世界でも有数の、超高速走行が可能なテストコース。
そのコースは、この日のために完全に封鎖され、国家最高機密の実験場と化していた。
日の出と共に、雷電は走り始めた。
モーターの甲高い唸りと共に、その流線型のボディがアスファルトの上を滑るように加速していく。
それは、もはや自動車ではなかった。
地上を駆ける、一筋の銀色の稲妻だった。
時速300キロを超える速度で、雷電はひたすらに、ひたすらに周回を重ねていった。
一周、また一周と。
走行距離のカウンターが、凄まじい勢いでその数字を増やしていく。
一万キロ、二万キロ、三万キロ。
地球を、一周した。
だが、雷電は止まらない。
四万キロ、五万キロ、六万キロ。
科学者たちの間から、もはや笑い声さえ聞こえ始めていた。
「……ハッハッハ! ……もうダメだ! ……俺の、物理学者としての脳が、完全に壊れた……!」
「……月まで行けるぞ、これ……! 往復できるかもしれん……!」
だが、その狂乱の宴は、唐突に終わりを告げた。
実験開始から、ちょうど七日目の昼過ぎ。
ホームストレートを疾走していた雷電のモーター音が、ふっと、途切れた。
そして、その銀色の稲妻は、まるで糸の切れた凧のように緩やかに速度を落とし、コースの真ん中で、完全に沈黙した。
運転席のテストドライバーからの、焦ったような無線が入る。
『……こちら、雷電! ……応答せよ! ……システム、全停止! ……バッテリー残量、ゼロ! ……繰り返す! ゼロだ!』
その報告に、管制塔は一瞬静まり返った。
そして次の瞬間、爆発したような歓声が上がった。
「うおおおおおおっ!」
「終わった! ついに、終わったぞ!」
「限界を確認した!」
彼らは、抱き合い、叫び、そして泣いていた。
一週間にわたる、神との死闘に、ついに終止符が打たれたのだ。
だが、本当の戦いは、これからだった。
長谷川教授が、その目を血走らせながら、ホワイトボードの前に立った。
「……総員! データ解析を急げ! ……総走行距離は!? 総消費電力は!? そして、そのコストパフォーマンスは、一体どうなっておるのだ!」
数時間にわたる、日本の最高の頭脳たちによる徹夜の計算作業の末。
ついに、その驚くべき結論が弾き出された。
管制塔のメインスクリーンに、一つの、しかし人類の未来を永遠に変えてしまうであろう、あまりにも衝撃的な数字が表示された。
『――総走行距離:201,452km』
『――総消費電力:30,217kWh』
そして、その下に、赤い、巨大なフォントで。
『――換算電気料金:約604,340円』
※深夜電力料金(1kWhあたり約20円)で計算した場合
「…………ろくじゅうまんえん」
誰かが、かすれた声で呟いた。
そうだ。
たった一枚の、手のひらサイズのシールが。
六十万円分ものエネルギーを、生み出したのだ。
そのあまりにも規格外の、そしてあまりにも常識からかけ離れたコストパフォーマンス。
「…………これ、原価いくらなんだ……?」
YAMATO MOTORSの片山が、呆然と呟いた。
その問いに、答えることができる者は、誰もいなかった。
◇
その数日後。
インターネットは、一つの動画によって、完全に焼き尽くされた。
投稿者は、国内で最も人気の高い自動車系Youtuber、『GT Koji』。
その動画のタイトルは、あまりにも扇情的で、そしてあまりにも魅力的だった。
『【神回】たった一枚のシールで、EVは『無限』になるのか!? 限界まで走らせてみた結果が、ヤバすぎた……!』
動画の中で、Kojiは興奮気味に語る。
「どーもー! GT Kojiでーす! ……いやー、皆さん、見てくださいよ、これ! ……ついに、手に入れちまいましたよ! ……噂の、あの神のシール! 『天照』をね!」
彼は、カメラに向かって、一枚の半透明のシールを誇らしげに見せつける。
「……いやー、これ手に入れるのに、マジで苦労しましてねえ。……とある、まあ、言えない筋から、無理を言って譲ってもらったんですけど。……今回は、こいつを俺の愛車、雷電X-GTに貼って、一体どこまで走れるのか、限界に挑戦してみたいと思いまーす!」
そこから始まるのは、怒涛の映像の洪水だった。
高速道路を疾走する雷電。
サービスエリアで、バッテリー残量が全く減っていないことに驚愕するKojiの顔のアップ。
『一日目……走行距離1000km突破! ……まだ、100%!』
『三日目……走行距離5000km! ……意味が、分かりません!』
そして、ついに限界が訪れた七日目。
高速道路の路肩で、完全に沈黙した愛車を前に、呆然と立ち尽くすKojiの姿。
そして、最後のテロップ。
『――総走行距離、なんと20万キロオーバー! ……電気代に換算して、約60万円分!!!』
「…………マジかよ……」
Kojiは、カメラに向かって、心の底からの声を絞り出した。
「…………皆さん、聞こえますか。……これは、時代の終わりの音です。……そして、新しい時代の、始まりの音です。……そう、ガソリンの時代は、終わったんだ……!」
彼は、天に向かって、高らかに拳を突き上げた。
「――これからは、EVの時代だあああああああっ!!!!!」
そのあまりにも熱狂的で、そしてあまりにも説得力のある動画。
それは、瞬く間に数千万回再生され、世界中に拡散された。
Xのトレンドは、再び『天照』一色に染まった。
『#AMATERASUチャレンジ』
『#EVの時代』
『#ガソリンさよなら』
その熱狂は、もはやただのインターネット上のお祭りではなかった。
現実の世界を、動かした。
翌日、秋葉原の家電量販店には、開店前から、『天照』を求める人々の長蛇の列ができた。
そして、全国の自動車ディーラーには、EVの購入を希望する人々が、洪水のように押し寄せた。
それまで、航続距離や充電インフラの問題から、どこか中途半端な存在だったEVは、この日を境に、完全に時代の主役へと躍り出たのだ。
YAMATO MOTORSをはじめとする日本のEV関連メーカーの株価は、ストップ高を記録した。
エネルギーの、そして産業の地殻変動が、たった一本の動画によって引き起こされたのだ。




