第83話
グランベル王国からの帰路は、ヴァレリウスの商人人生において、最も長く、そして最も神経をすり減らす旅となった。
彼の馬車団は、もはやただの商隊ではなかった。それは、一つの国の未来を、そして大陸全土の食文化の歴史を永遠に変えてしまう可能性を秘めた、動く宝物庫だったのだ。
ラングローブ商会から特別に派遣された十数名の屈強な護衛兵が、四方を固める。その中心にある厳重に施錠された荷馬車の中には、麻の袋に詰められただけの、しかしその一粒一粒が金貨数枚分にも相当するであろう奇跡の調味料が、むせ返るような芳香を放ちながら眠っていた。
ヴァレリウスは、息子のレオを自らの馬車の奥深くに座らせ、その窓のカーテンを固く閉ざした。道中、彼はほとんど眠ることができなかった。微かな物音にも、彼はその鋭い商人の耳をそばだて、盗賊の襲撃ではないかとその心臓を跳ね上がらせた。
だが、その心配は杞憂に終わった。
グランベル王国の国境を越えるまで、彼らの旅路は驚くほどに平穏だった。街道は完璧に整備され、等間隔に設置された詰所では、王国の兵士たちが旅人たちの安全に常に目を光らせていた。
そのあまりにも完璧な治安とインフラ。それこそが、あの国の驚異的な発展を支える、見えざる力の証明だった。
ヴァレリウスは、馬車の窓の隙間から遠ざかっていくグランベルの青々とした大地を眺めながら、改めてあの国の王と、そしてあの老獪な商人の器の大きさに、深い畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
数週間の旅の末、彼らはついに故郷の土を踏んだ。
彼らの祖国、商業連合体ロザリア。
大陸南方に位置し、温暖な気候と複数の自由都市の連合によって成り立つ、商業と自由を何よりも尊ぶ国。
その首都である港町、ポルト・ソレイユの光景は、グランベル王都のそれとは全く異なっていた。
そこには、王都のような荘厳な統一感や、国家による完璧な統治の匂いはない。
代わりにそこにあったのは、ありとあらゆる人種と文化が混じり合った、混沌とした、しかしどこまでも生命力に満ち溢れた自由の空気だった。
港には、異国の言葉を話す船乗りたちの怒号が飛び交い、市場には、見たこともない珍品や、真贋定かならぬ骨董品が所狭しと並べられている。
誰もが、己の才覚と腕一本で一攫千金を夢見る。
それこそが、ヴァレリウスが愛する故郷の姿だった。
だが、彼は同時に、この国の食文化の貧しさを、グランベルから帰ってきた今、痛いほどに感じていた。
市場で売られている肉は硬く、パンは酸っぱく、そして人々の顔には、日々の厳しい競争を生き抜くための深い疲労の色が刻み込まれていた。
(…………変えるのだ)
ヴァレリウスは、心の中で誓った。
(……この私の手で。……この国の人々の食卓に、あのグランベルで味わったような幸福な笑顔をもたらすのだ。……それこそが、商人としてこの私に与えられた天命なのだから)
彼の帰還の噂は、瞬く間にポルト・ソレイユの商人たちの間に広まった。
彼が、あの伝説のグランベル王国から、何やらとんでもない「宝」を持ち帰ってきたらしいと。
彼の商会の前には、連日、彼のライバルである商人たちが探るような目でうろつき、あるいは旧知の友人たちが好奇心に満ちた顔で訪ねてきた。
だが、ヴァレリウスは、その全てを丁重に断った。
彼が、その奇跡の最初の目撃者として選んだ相手は、ただ一人しかいなかった。
この商業連合体ロザリアを、その若さにもかかわらず、その類稀なる知性と、そして時には冷徹なまでの決断力で束ね上げる絶対的な指導者。
女王イザベラ、その人だった。
数日後、ヴァレリウスは息子のレオを伴い、丘の上に立つ女王の居城『白亜宮』へと向かっていた。
彼が女王陛下への単独謁見を願い出た時、宮廷の役人たちは皆、鼻で笑ったという。一介の商人が、女王陛下に直接会うなど前代未聞であると。
だが、ヴァレリウスがその献上品として、ラングローブ商会のゲオルグ会頭直筆の紹介状と、そしてほんの一欠片の『奇跡の塩』を差し出した時。
宮廷の空気は、一変した。
そして彼は、異例の速さで、その日の午後に謁見の許しを得たのだ。
白亜宮の玉座の間は、グランベルのそれのような武骨な荘厳さとは対極にあった。
壁には大陸中の高名な画家たちが描いた美しい風景画が飾られ、床には磨き上げられた純白の大理石。そして部屋全体が、南国の色とりどりの花々が放つ甘い香りに満たされていた。
それは、武力ではなく、文化と富によって国を治める女王の美意識の象徴だった。
その玉座の間に、女王イザベラは静かに腰を下ろしていた。
年は、まだ二十代後半。その顔立ちは、象牙の彫刻のように気高く、そしてどこまでも理知的だった。豊かな黒髪を優雅に結い上げ、その瞳は、深い森の湖のように、相手の心の奥底までも見通すかのような静かな輝きを宿していた。
彼女こそが、幾多の老獪な商人たちや周辺国の野心的な王たちを、その若さにもかかわらず、巧みな外交術と経済政策で手玉に取り、この商業連合体に未曾有の繁栄をもたらした、若き天才女王だった。
「……面を上げなさい、ヴァレリウス」
女王の声は鈴の音のように可憐だったが、その響きには、いかなる嘘も欺瞞も許さない、絶対的な女王の威厳が込められていた。
ヴァレリウスは、床に額がつくほど深くひざまずいていた姿勢から、ゆっくりと顔を上げた。
「はっ。……この度、女王陛下に単独での謁見という望外の栄誉を賜り、身に余る光栄に存じます」
「……ええ。……あなたの噂は、かねがね聞いていますわ。……民を思う、誠実な商人であると。……そして、あの今や大陸中の噂の的となっているグランベル王国から、何か面白い『おとぎ話』を持ち帰ってきたとも」
女王の唇に、微かな、しかしどこまでも鋭い笑みが浮かんだ。
「……さて。……そのおとぎ話、このわたくしにも聞かせてはもらえなくて?」
そのあまりにも全てを見透かしたかのような言葉。
ヴァレリウスは、ごくりと喉を鳴らした。
そして、彼はあらかじめ用意していた献上品を、侍従の手を通じて女王の御前へと差し出した。
それは、この国の宮廷料理長に、彼が持ち帰った奇跡の調味料のほんの一部を渡し、たった一つのことだけを命じて作らせた、極めてシンプルな一皿だった。
『――この国で手に入る最高の素材を、ただ焼くだけでよい。……味付けは、この塩と、この黒い粒だけで』と。
皿の上にあったのは、今朝水揚げされたばかりの、新鮮な舌平目のムニエルだった。
その黄金色の焼き目から立ち上るバターの芳醇な香りと、そしてこれまで誰も経験したことのない、刺激的で、そして抗いがたいほどに食欲をそそる香辛料の香り。
女王は、その香りに僅かに眉を動かしたが、表情は変えなかった。
彼女は、侍従に毒見をさせた後、自ら銀のナイフとフォークを手に取った。
そして、その一切れを、優雅な仕草で自らの口へと運んだ。
次の瞬間。
女王イザベラの、常に冷静沈着だった鉄の仮面のような表情が、初めて、そして劇的に崩れ落ちた。
彼女の、深い森の湖のようだった瞳が、純粋な子供のような驚愕に、大きく、大きく見開かれている。
「………………なんですの、これは……!」
彼女の口から漏れ出したのは、もはや女王としての威厳を保つことさえ忘れ去った、ただの一人の人間としての、魂からの叫びだった。
「…………美味しい……! ……な、なんて、なんて美味しい料理なの……!?」
衝撃だった。
舌平目の、淡白だが奥深い旨味。それを完璧に引き立てる、純粋でまろやかな塩味。そして、その全てを全く新しい次元の美食へと昇華させる、複雑で、刺激的で、そしてどこまでも気品のある黒い粒の魔法。
彼女は、生まれて初めて、食という行為が、これほどまでに人の心を、魂を、直接揺さぶるものであるという事実を知った。
彼女は、もはや女王としての体面も忘れ、夢中で、しかしどこか名残惜しそうに、その奇跡の一皿を味わった。
そして、最後の一切れを食べ終えた時、彼女の目にはうっすらと涙さえ浮かんでいた。
「………………素晴らしいわ」
彼女は、静かに呟いた。
そして、顔を上げた。
その目は、もはや商人ヴァレリウスを値踏みする女王の目ではなかった。
それは、同じ奇跡を目撃した、同志を見る目だった。
「……ヴァレリウス。……あなたの話、聞かせてもらえるかしら。……その全てを」
「は、ははっ! 御意!」
ヴァレリウスは、語った。
あの魔法使いハジメとの出会い。
グランベル王国の驚異的な変貌。
そして、賢王アルトリウス三世が抱く、食文化による平和という壮大な理想。
そのあまりにも荒唐無稽で、しかし彼の言葉の端々から滲み出る絶対的な真実の重みを。
女王イザベラは、一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで聞き入っていた。
そして、全てを聞き終えた時、彼女は深く、深く頷いた。
「…………そう。……そういうことでしたのね。……アルトリウス王……。噂には聞いていたけれど、これほどの器の王だったとは。……そして、その背後にいるという魔法使い……。……面白い。……面白くなってきましたわね」
彼女の口元に、再び笑みが戻っていた。
だが、それはもはや皮肉な笑みではない。
新たな、そして最高に面白いゲームの盤面を前にした、勝負師の獰猛で、そしてどこまでも楽しげな笑みだった。
「…………ヴァレリウス」
彼女は、言った。
「……その奇跡の調味料、わたくしがこのロザリア商業連合体の全ての富を以って買い取りましょう。……言い値で構いませんわ」
「……おお……!」
「……ですが、その前に一つ確認させて。……あなた、いくらでこれを仕入れてきたのかしら?」
そのあまりにも直接的な、商人の問い。
ヴァレリウスは一瞬ためらったが、正直にグランベル王国で提示された価格を告げた。
その金額を聞いた瞬間、女王は信じられないといった顔で目を見開いた。
「………………安すぎませんこと?」
彼女は、自分の耳を疑った。
「……なんですの、その値段は。……わたくしが聞いていた噂では、その十分の一の量でさえ、小国一つが買えるほどの価値があると……。……もっと、もっと高いと思っておりましたわ……」
そのあまりにも純粋な驚き。
ヴァレリウスは、その言葉に静かに首を横に振った。
「……いえ、女王陛下。……それが、かの国の正当な価格なのでございます。……そして、それこそが、かの国の王の真の偉大さの証」
彼は、言った。
「……これは、グランベル王国のご厚意なのです。……賢王として名高いアルトリウス王は、この奇跡を独占し暴利を貪るのではなく、大陸の全ての民とこの幸福を分かち合いたいと、心から願っておられるのです。……流石、賢王と有名なアルトリウス王ですね……。……そのあまりにも高潔な理想に触れ、この私ヴァレリウスは、心の底から感動しております」
彼は、続けた。
「……そして、その偉大なる王の御心は、香辛料の輸入を他国にも広めるようにと、この私に示唆してくださいました。……故に、私はこのロザリアを拠点とし、この大陸中に、この香辛料の輪を広げていきたいのです」
そのあまりにも高潔で、そしてどこまでも誠実な商人の言葉。
女王イザベラは、しばし黙り込んだ。
彼女の頭脳は、超高速で回転していた。
彼女は、この男がもたらした奇跡の味の、そのさらに奥にある、計り知れないほどの政治的、そして外交的な価値を、瞬時に見抜いていた。
これは、ただの商売ではない。
これは、大陸の未来の勢力図を塗り替える、壮大なゲームなのだと。
そして、このヴァレリウスという男は、そのゲームにおける最も重要な駒なのだと。
彼女は、決断した。
「………………分かりましたわ、ヴァレリウス」
彼女は、立ち上がった。
そして、その顔にこの国を束ねる女王としての、絶対的な笑みを浮かべて言った。
「……あなたのその高潔な志、気に入りました。……このわたくし、イザベラが、あなたの後ろ盾となって差し上げましょう」
「…………え……?」
「……これをお持ちなさい」
彼女は侍従に命じ、自らの紋章が刻まれた美しい巻物を持ってこさせた。
「……これは、このわたくしから周辺国の王たちへと宛てた親書です。……あなたが、我がロザリア商業連合体が全権を以って信頼する唯一無二の『グランベル王国認定特使』であることを証明する紹介状。……これをお持ちになりなさい。……これさえあれば、いかに閉鎖的な国の王であろうと、あなたとの謁見を無下に断ることはできなくなるはずですわ」
そのあまりにも破格の、そしてあまりにも強力な支援の申し出。
ヴァレリウスは、もはや言葉もなかった。
彼は、ただその場にひざまずき、震える手で、その女王からの親書を恭しく受け取った。
「………………ありがとうございます……! ……女王陛下……! このご恩、生涯忘れませぬ……!」
「……ええ。……期待しておりますわよ、我が国の新たなる『外交官』殿」
女王は、満足げに微笑んだ。
その笑みの裏で、彼女の頭脳が冷徹に計算していたことを、ヴァレリウスはまだ知らない。
(……これで、この大陸の全ての香辛料の流通は、この我がロザリアを経由することになる。……そして、その流れを支配する者は、いずれこの大陸の経済そのものを支配することになるでしょう。……ふふ、アルトリウス王。……あなたも、なかなか面白いゲームを仕掛けてくださるではありませんか)
若き賢王と、若き天才女王。
二人の、大陸の未来を賭けた、壮大で、そしてどこまでもエレガントなチェスゲームの最初の駒が、今、静かに動かされた。
そして、その駒として選ばれた男は、自らのあまりにも重すぎる運命を知らぬまま、ただ故郷の民に美味い飯を届けられるという純粋な喜びに、その心を震わせるだけだった。




