第82話
グランベル王国の輝かしい黄金時代。
その噂は、もはやただの旅人の与太話ではなかった。整備された街道を駆け巡る商人たちの口から口へと、確かな熱量を伴って大陸中に伝播していく。それは一つの巨大な物語となり、人々の心を捉え、そして彼らの足をあの奇跡の王国へと向かわせる、抗いがたい引力となっていた。
大陸南方に広がる巨大な商業連合体からやってきた初老の商人、ヴァレリウスもまた、その引力に強く引かれた一人だった。
彼が王都に滞在して、既に数日が過ぎていた。
その間、彼と息子のレオは、文字通り夢の中にいるかのようだった。街角の屋台で売られているただの串焼きでさえ、彼の故郷の王侯貴族が食す祝宴のメインディッシュを遥かに凌駕するほどの、芳醇な香りと奥深い味わいを持っていた。夜の街は魔石のランプの優しい光に照らされ、子供たちが笑い声を上げながら走り回れるほどに安全だった。そして何よりも、この街の人々の顔に浮かぶ、あの穏やかで幸福な表情。それは、金では決して買うことのできない、真の豊かさの証だった。
ヴァレリウスは、確信していた。
この国が持つ奇跡の源泉――あの神の如き調味料と、人の理を超えた力を与えるというスキルジェム――は、間違いなく本物であると。
そして、彼は商人としての人生の全てを賭けた、一つの大博打に打って出る決意を固めていた。
この奇跡を、自らの故郷へと持ち帰る。
そのためには、この国の全ての奇跡の流通を牛耳っているという、あの伝説の商人との直接交渉以外に道はなかった。
ラングローブ商会会頭、ゲオルグ・ラングローブ。
今やその名は、大陸中の商人たちの間で、畏怖と、そして嫉妬の対象として囁かれていた。一介の街の商人が、国王陛下の絶対的な信頼を勝ち取り、この国の経済そのものを裏側から支配するに至った、生ける伝説。
そのような大人物に、自分のような異国の商人が会うことなど、果たして可能なのだろうか。
ヴァレリウスは、半ば無謀とも思えるその挑戦のために、ラングローブ商会の壮麗な本店へと足を運んだ。彼は、自らの商人としてのこれまでの実績と信用、そしてこの取引にかける情熱を綴った長文の手紙を、受付の者に託した。
返事は、期待していなかった。
だが、その翌日の夕刻。
彼が宿屋で息子のレオとチェスを指していると、部屋の扉が控えめにノックされた。
そこに立っていたのは、ラングローブ商会の紋章が刻まれた豪奢な制服に身を包んだ、一人の秘書だった。
「――ヴァレリウス様でいらっしゃいますね。我が主、ゲオルグ・ラングローブが、明日の昼下がり、貴殿との会見を望んでおります」
そのあまりにもあっけない、しかしあまりにも重い一言。
ヴァレリウスはしばし呆然としていたが、やがてはっと我に返ると、その場に深々と頭を下げた。
彼の商人としての人生を賭けた大勝負の、その幕が、今、静かに上がったのだ。
◇
翌日、昼下がり。
ラングローブ商会の最上階にある、会頭の私的な応接室。
そこは、ヴァレリウスの想像を遥かに超える、静謐で、しかし圧倒的な権威に満ちた空間だった。
壁には天井まで届く本棚が設えられ、革の装丁の古そうな本がびっしりと並んでいる。それらは、ただの飾りではない。この大陸の全ての国の歴史、法律、そして商業の記録が、そこに眠っているのだ。床には、北方の雪豹の毛皮で作られたという深紅の絨毯が敷き詰められ、足音を完全に吸い込んでいた。
そして、部屋の中央。
黒檀で作られた巨大な執務机の向こう側で、一人の男が穏やかな笑みを浮かべて彼らを待っていた。
ゲオルグ・ラングローブ。
その恰幅のいい体躯を、上質な紫紺の絹の服が包んでいる。その顔は、人の良さそうな田舎の地主といった風情で、常に温和な笑みを浮かべている。
だが、ヴァレリウスは知っていた。
この穏やかな笑顔の奥に、大陸の経済を動かすだけの鋼のような意志と、剃刀のような鋭い知性が隠されていることを。
「これはこれは、ヴァレリウス殿。そして、レオ君だったかな。ようこそ、ラングローブ商会へ」
ゲオルグの声は、その見た目通り、どこまでも穏やかで、そして温かかった。
「……ゲオルグ・ラングローブ様……! この度は、私のような異国の商人のために、直々にお時間を割いていただき、身に余る光栄にございます……!」
ヴァレリウスは、緊張のあまり声が上ずりそうになるのを必死でこらえながら、深々と頭を下げた。
だが、ゲオルグは、その彼の緊張を解きほぐすかのように、鷹揚に笑って手を振った。
「いえいえ、どうか顔を上げてくだされ。……商人は、縁が大事です。……どのような遠い国から来た方であろうと、その志に誠意があると感じたならば、私はこうして会うことにしておるのです。……さあ、どうぞお掛けください」
彼は、ヴァレリウス親子を客人のための、雲のように柔らかいソファへと促した。
すぐに、メイドが銀の盆に乗せた見たこともない美しい茶器と、そして甘い香りを放つ焼き菓子を運んでくる。
そのあまりにも丁寧で、そしてどこまでも対等なもてなし。
ヴァレリウスの心は、少しだけ解きほぐされていた。
「……さて」
ゲオルグは、自らも席に着くと、単刀直入に切り出した。
「……ヴァレリウス殿。……あなたがこの私に会うために多大な労力を払われた、その理由。……正直に聞かせてはくれませぬかな?」
その穏やかで、しかし全てを見透かすかのような瞳。
ヴァレリウスは、ごくりと喉を鳴らした。
そして、彼は覚悟を決めた。
小手先の駆け引きなど、この男の前では無意味だ。
ただ、自らの商人としての魂の全てを、正直にぶつけるしかない。
「……はい、ゲオルグ様。……本日は、我が商業連合体の、いえ、我が故郷の全ての民の未来を賭け、貴方様にご相談があって参りました」
彼は、背筋を伸ばした。
「…………単刀直入に申し上げます。……貴方がたが独占しておられるという、あの奇跡の調味料……。……塩、砂糖、そして香辛料。……その国外への輸出を、この私、ヴァレリウスの商会に、独占的にお任せいただくことは叶いませぬでしょうか」
そのあまりにも大胆不敵で、そしてあまりにも直接的な申し出。
部屋の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
ゲオルグは、その言葉を黙って聞いていた。
彼の顔から、穏やかな笑みは消えていない。
だが、その目の奥の光だけが、剃刀のように鋭く光っていた。
ヴァレリウスは、続けた。
「……もちろん、ただでとは申しません。……我が商会は、南方の国々との間に、百年以上に渡って築き上げてきた独自の交易ルートと、絶対的な信用を持っております。……そして、貴方がたが要求される代金は、金貨で、一括で、必ずやお支払いすることをお約束いたします。……どうか、この通りでございます!」
彼は、ソファから立ち上がると、その場にひざまずき、深々と頭を下げた。
その姿には、一人の商人としての、そして故郷を思う一人の男としての、全てのプライドと、そして切実な願いが込められていた。
しばしの沈黙。
やがて、その静寂を破ったのは、ゲオルグのふっと漏らした、微かな笑い声だった。
「…………ははは」
彼は、静かに笑っていた。
「……どうか、顔を上げてください、ヴァレリウス殿。……あなたのその熱意と誠意は、十分に、十分に伝わりました」
ヴァレリウスが、おそるおそる顔を上げる。
ゲオルグは、その顔に再びあの人の良い笑みを浮かべていた。
そして、彼は驚くべき言葉を口にした。
「……はい。……ヴァレリウス殿のこと、悪いですが事前に調べさせていただきました」
「…………え……?」
「……あなたが、南方の商業連合体でどれほどの信望を集めているか。……そして、あなたが決して暴利を貪るわけでもなく、常に民衆のことを第一に考え、良心的な価格で商品を捌いている、稀有な商人であるということも」
ゲオルグは、満足げに頷いた。
「……素晴らしい評判でしたぞ。……あなたのような商人であれば、我がグランベル王国の奇跡を託すにふさわしい」
彼は、そこで一旦言葉を切った。
そして、決定的な一言を告げた。
その言葉は、ヴァレリウスの耳に、まるで天からの福音のように響いた。
「…………ええ。……ぜひ、その輸入……いや、我々からすれば輸出になりますかな。……その大役、あなたにお任せしたい」
「………………おお……!」
ヴァレリウスの口から、感嘆の声が漏れた。
「…………おおおっ……! ま、まことでございますか、ゲオルグ様……!?」
「ええ、まことですよ」
ゲオルグは、鷹揚に頷いた。
「……もちろん、お値段は相応のものになりますがな。……ですが、あなたの商才をもってすれば、決して損にはならないでしょう。……いや、むしろ、あなたの故郷に計り知れないほどの富と幸福をもたらすことになるはずです」
彼は、窓の外に広がる平和で豊かな王都の風景に目をやった。
「……我が国の王、アルトリウス陛下は、常々こう仰せられております。『真の平和とは、食文化の豊かさから始まる』……と。……我々は、この奇跡を我が国だけで独占するつもりは毛頭ない。……いずれは、この大陸の全ての国々と、この幸福を分かち合うべきであると、そう考えておりました。……故に、ヴァレリウス殿。……あなたのこの申し出は、まさに渡りに船だったのですよ」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも高潔な理念。
ヴァレリウスは、もはや感服するしかなかった。
この国の王も、そしてこの商人も、その器が、自分がこれまで出会ってきたいかなる権力者とも全く違うのだと。
「……我々は、この国の産物を国内で捌くことにかけては、誰にも負けませぬ。……ですが、国外の文化も、言葉も違う相手との商いとなりますと、話は別。……それこそ、あなたのようなその道のプロにお任せするのが一番よろしい。……ぜひ、その輸出、全面的にお任せしたい」
「………………おお……! ありがとうございます……! ありがとうございます、ゲオルグ様……!」
ヴァレリウスは、もはや言葉にならなかった。
彼は、再びその場にひざまずくと、震える声で、その商人としての生涯の全てを込めた誓いを立てた。
「……このヴァレリウス! ……必ずや、必ずや、貴方様と、そして国王陛下のその御期待に添えるよう、我が魂の全てを賭けて努力いたしまする……!」
「ええ。お願いしますよ」
ゲオルグは、満足げに頷いた。
その二人の、固い、固い握手。
それは、もはや単なる商談の成立ではなかった。
一つの大陸の食文化の、そして歴史そのものの未来を左右する、新たな、そして揺るぎないパートナーシップが誕生した瞬間だった。
◇
ラングローブ商会の壮麗な本店の、その重厚な扉を後にした時。
ヴァレリウスは、まだ夢の中にいるかのようだった。
彼の隣で、息子のレオが心配そうな顔で彼を見上げていた。
「……父上。……大丈夫ですか……?」
その声に、ヴァレリウスははっと我に返った。
そして、次の瞬間、彼の顔がくしゃりと崩れた。
そして、彼は声を上げて笑った。
それは、これまでの人生で一度として見せたことのない、純粋な子供のような、腹の底からの歓喜の笑い声だった。
「…………はっはっはっはっは! ……やった……! やったぞ、レオ!」
彼は、その愛しい息子を、その場で、きつく、きつく抱きしめた。
「…………商談は、成立だ! ……あのラングローブ商会が! ……あの奇跡の調味料の、他国への輸出を、この父に任せていただけることが決まったんだぞ!」
「…………本当ですか、父上!? やったあ!」
レオもまた、父親の喜びを全身で受け止め、歓声を上げた。
ヴァレリウスは、息子を抱きしめたまま、空を見上げた。
王都の空は、どこまでも青く、そしてどこまでも高く澄み渡っていた。
「…………よし! ……忙しくなるぞ、レオ!」
彼は、その愛する息子の目を見据えて言った。
「…………手伝ってくれるな?」
「…………もちろんです、父上!」
レオは、その小さな胸を張って、力強く答えた。
そのあまりにも頼もしく、そしてあまりにも愛おしい息子の姿に、ヴァレリウスの目から一筋、熱いものがこぼれ落ちた。
それは、商人としての、そして一人の父親としての、心からの喜びの涙だった。
彼の、そしてこの大陸の、新たな、そしてより美味しく、より幸福な未来へ向かう壮大な船出が、今、静かに始まろうとしていた。




