第80話
神は、退屈していた。
そして、退屈した神が次に求めるのは、常に新たな「遊び」である。
新田 創、三十七歳。その肩書は、もはや「無職」でも「賢者」でも「異世界の神」でもなく、単に『究極のぐうたら』とでも呼ぶのが最もふさわしい境地に達していた。
日本のどこか人里離れた、しかしネット回線だけは銀河レベルの山奥に築き上げた理想郷。伝統的な数寄屋造りの美しさと、SF世界のオーバーテクノロジーが完璧に融合したその邸宅で、彼は文字通り仙人のような、あるいは廃人のような日々を送っていた。
異世界交易ネットワークは完全に自動化され、彼の次元ポケットには、もはや勘定するのも面倒なほどの富が、日々自動的に積み上がっていく。日本政府との関係も安定期に入り、当初のスリルは薄れつつある。
「………………暇だ」
彼は、自らが設計した完璧な庭園の、錦鯉が優雅に泳ぐ池のほとりの縁側で、大の字になって寝転がりながら、心の底から呟いた。
「……なんか、新しいことしたいなあ……」
その時、彼の脳裏に、ふと、あの神の如き万能船の、まだ一度も使ったことのない機能のことが、稲妻のように閃いた。
『テッセラクト・ボイジャー』。
その心臓部に眠る、究極の、そして最も禁断の力。
(………………タイムマシン)
そうだ。
時間旅行。
そのあまりにも甘美で、そしてあまりにも危険な響き。
一度その存在を意識してしまえば、もはや抗うことはできない。彼の退屈していた心は、一瞬にして子供のような純粋な好奇心と、そして神の領域に足を踏み入れることへの背徳的な興奮に鷲掴みにされた。
(……どこに行こうかなあ……)
彼の思考が、時空を超えて駆け巡り始めた。
(……恐竜の時代? 戦国時代? ……いや、それじゃあ面白くない)
彼の想像力は、さらに翼を広げる。
(……そうだ。……どうせ行くなら、俺が知ってる面白い奴に会いに行こう)
彼の脳裏に、一つのあまりにも有名な、そしてどこまでも痛快なテレビドラマのヒーローの姿が浮かび上がった。
貧乏旗本の三男坊と偽り、市井に紛れて悪を斬る、あの高貴なる将軍。
「…………よし」
創は、むくりと身を起こした。
その目には、新たな、そして最高に面白そうな「遊び」を見つけた、永遠の少年の輝きが宿っていた。
「……行くか。……暴れん坊将軍に、会いに行こう!」
◇
『――クロノス変位ドライブ起動。……ターゲット時間座標、享保五年、西暦1720年卯月。……ターゲット空間座標、武蔵国豊島郡、江戸城本丸御殿上空。……時空連続体アンカーロック。……時間跳躍、開始します』
船の管理AI、734の穏やかな声と共に。
日本の山奥の庭園に置かれていた銀色の箱が、微かな光の粒子を放ちながら、その姿をこの時間軸から完全に消し去った。
次に彼が目を開けた時、
彼の五感を襲ったのは、二百年以上前の、まだアスファルトも排気ガスも存在しない、江戸という都市の生々しい息吹だった。
彼は、テッセラクト・ボイジャーを江戸城の遥か上空、誰にも気づかれることのない成層圏に静止させると、自らの姿をあの賢者・猫のアバターへと変えた。
そして、光学迷彩と認識阻害フィールドを最大レベルに設定し、音もなく、光もなく、まるで一陣の風のように、その巨大な城郭の中枢へと舞い降りた。
そこは、彼が知る歴史の教科書や、時代劇のセットとは全く違う、本物の空気に満ちていた。
磨き上げられた檜の廊下。その上を、衣擦れの音を立てながら足早に行き交う、裃姿の武士たち。奥の部屋からは、厳粛な雰囲気の中で行われているであろう評定の声が、微かに漏れ聞こえてくる。庭園では、手入れの行き届いた松の木が、静かに空を見上げていた。
その全てが、圧倒的なまでの「本物」の持つ重みと匂いを放っていた。
創は、その非日常的な日常の中を、一匹の黒猫として悠然と歩き始めた。
猫という姿は、最高の隠れ蓑だった。
誰も、一匹の猫がこの巨大な城の中に紛れ込んでいることに、さして注意を払わない。時折、彼に気づいた若い小姓や奥女中が、「あら、可愛い猫」と目を細めるだけだ。
彼は、その特権を最大限に利用し、江戸城の中を隅から隅まで探検して回った。
大奥の、きらびやかで、しかしどこか息の詰まるような女たちの世界。
評定所の、国の未来を憂う武士たちの真剣な議論。
そして道場で、木刀を打ち合わせ、汗を流す若き旗本たちの力強い雄叫び。
その全てを、彼は神の視点から、あるいはただの猫の視点から、静かに、そして興味深く観察していた。
数日が過ぎる頃には、彼の存在は、江戸城の中で一つの奇妙な「噂」として、人々の口の端に上るようになっていた。
「……おい、聞いたか? ……近頃、本丸御殿で妙な黒猫を見かけるそうだぞ」
「ああ、知っている。……なんでも、その猫は普通の猫とは少し違うらしい。……その毛並みは、まるで夜の闇そのものを吸い込んだかのように艶やかで、その瞳は、緑色の宝石のように、人の心を見透かすかのように輝いているそうだ」
「……それに、神出鬼没なのだと。……ある時は大奥の廊下の隅に、またある時は評定所の屋根裏に。……そして、人が近づこうとすると、まるで煙のようにすっと姿を消してしまうのだとか……」
「……まさか……。……化け猫……? ……いや、あるいはこの江戸城を守護する何かの神獣の類やもしれん……」
その噂は、いつしか尾ひれがつき、江戸城に現れた謎の『神の使いの黒猫』の伝説として、城内の人々の間で畏怖と好奇の対象となっていた。
そして、その噂は、ついにこの城の主の耳にも届くこととなった。
◇
その日、創はついに目的の人物の居場所を突き止めた。
江戸城本丸御殿、その最も奥深くにある将軍の私的な執務室。
『御座の間』。
彼は、音もなくその部屋の縁側の濡れ縁に舞い降りると、障子の隙間から中の様子をそっと窺った。
部屋の中は、質素だった。
豪華な装飾は何もなく、ただ文机といくつかの書棚、そして壁に掛けられた一幅の質素な水墨画があるだけ。
その文机の前に、一人の男が座っていた。
年は三十代半ば。その顔立ちは精悍で、その目には鋭い知性の光が宿っている。だが、その眉間には、この国の全ての重責をその一身に背負う者の、深い苦悩の皺が刻み込まれていた。
服装もまた、将軍らしからぬ動きやすい、簡素な着流し姿。
彼は、目の前に山と積まれた陳情書や報告書の束に一心不乱に目を通し、時折、筆を走らせて何かを書きつけている。
徳川吉宗。
第八代将軍。
創がテレビドラマで見た、あの白馬に跨り市井を駆け巡る派手なヒーローの姿とは、全く違う。
だが、その背中から滲み出る、民を思い、国を憂う真摯なオーラは、確かに彼が非凡な指導者であることを物語っていた。
創は、しばらくその姿を静かに見つめていたが、やがて意を決した。
彼は、音もなく障子をすっと開けると、部屋の中へと悠然と足を踏み入れた。
突然の侵入者に、吉宗ははっと顔を上げた。
その動きには、一切の無駄がない。彼の右手は、瞬時に脇差の柄へと伸びていた。
だが、彼がその目に捉えたのは、武装した刺客ではなかった。
ただ一匹の黒猫が、部屋の中央で静かにちょこんと座り、その緑色の瞳で、まっすぐに自分を見つめているだけだった。
吉宗の顔から、険が消えた。
そして、その口元に、ふっと微かな笑みが浮かんだ。
「…………ほう」
彼は、脇差から手を離した。
「…………噂になっておる黒猫は、お主か。……見事な毛並みよな。……して、一体どこから入り込んだ? ……まあ、よい。……すぐに外に離してやろう」
彼は、立ち上がろうとした。
だが、その動きは次の瞬間、完全に凍り付いた。
その黒猫が、静かに、しかしはっきりと人間の言葉を話したからだ。
「――いいや、結構じゃよ」
その声は、青年のものとも、老人のものともつかない、どこか不思議な響きを持っていた。
「…………ワシは、お主に会いに来たんじゃ」
「…………………………………………」
吉宗は、完全に絶句していた。
彼の、数々の修羅場を乗り越えてきたはずの冷静沈着な頭脳が、目の前のありえない現象を全く処理できずにいた。
猫が。
猫が、喋った?
「……うむ。喋っておるのう」
猫は、まるで彼の心を見透かしたかのように続けた。
「……ワシは賢者・猫じゃよ。……ぶらぶらと歴史を旅する、ただの商人じゃ」
「…………賢者……猫……?」
吉宗の口から、かろうじてその言葉が漏れた。
彼は、目の前のこの存在が、ただの化け猫などではない、何か人知を超えたものであるということを、本能的に理解していた。
「……して、その賢者殿が、この吉宗に何の用じゃ」
その声は、かすかに震えていた。
「うむ。……なに、大した用ではない。……ただ、お主はワシのいた未来の世界では、ちと有名人でのう」
賢者・猫は、楽しそうに喉を鳴らした。
「……『暴れん坊将軍』という、まあ一種の物語の主人公としてな。……その物語の中のお主が、あまりにも痛快で面白い男であった故、本物はどういう男かと一目会いたいと思うて、こうして時を超えてやってきたのじゃ」
そのあまりにも突拍子もない、そしてどこまでも不可解な来訪の理由。
だが、吉宗はその言葉の中に、嘘偽りのない純粋な好奇心の色を感じ取っていた。
彼はしばし呆然としていたが、やがてその口元に、ふっと自嘲と、そしてどこか嬉しさが入り混じった笑みを浮かべた。
「…………それはそれは、光栄なことよな。……この徳川吉宗が、未来の世で物語の種になっておるとは。……して、その物語の中のワシは、一体どのような男として描かれておるのじゃ」
「うむ。……正義感が強く、民を愛し、そして悪を憎む、最高の将軍であったぞ。……まあ、少々暴れん坊が過ぎるきらいはあったがな」
その言葉に、吉宗は声を上げて笑った。
「はっはっはっは! 暴れん坊か! ……言い得て妙よな! ……この国の膿を出し切るためには、時には暴れん坊にもならねばならん時もあるわ!」
彼の顔から、将軍としての苦悩の仮面が剥がれ落ち、一人の人間としての快活な素顔が覗いていた。
「……賢者殿。……お主、商人と言ったな。……ならば、何かを売りに来たのか、あるいは何かを買い付けに参られたのか?」
吉宗は、商談の口調に戻っていた。
「うむ。……まあ、どちらでもよいのじゃが」
賢者・猫は、そう言うと、何もない空間からまるで手品のように一つの物体を取り出した。
ドン、という重々しい音と共に文机の上に置かれたのは、人の頭ほどもある、いびつな形をした黄金の塊だった。
それは、鋳造された金貨などではない。
鉱山から掘り出されたままの、純粋な、そして圧倒的な質量を持つ金塊そのものだった。
「………………なっ!?」
吉宗は、絶句した。
彼の、幕府の財政を立て直すために日々倹約と改革に心血を注いできたその目に、その黄金の輝きはあまりにも眩しすぎた。
「……こ、これほどの巨大な金塊を、いとも容易く……! ……賢者殿、お主はまこと……神仏の類にございますか……?」
「うむ。……まあ、似たようなものじゃな」
賢者・猫は、こともなげに言った。
そして、その緑色の瞳で吉宗をまっすぐに見つめた。
「……吉宗よ。……ワシは、見ての通り退屈しておる。……そして、お主はなかなかに面白い男のようだ。……どうじゃ? ……時々こうして、ワシの遊び相手になってはくれぬか。……ただ、お主と他愛のない話がしたいだけなのじゃが」
そのあまりにも奇妙で、そしてどこまでも子供じみた提案。
だが、吉宗はその言葉の裏にある、この超越的存在の深い、深い孤独の色を感じ取っていた。
そして、彼は決断した。
これは、賭けだ。
だが、この国の未来を賭けるに値する、最高の賭けだ。
彼は、その場に深々と、そして完璧な武士の礼をもって頭を下げた。
「………………それは、光栄の至りにございます。……この徳川吉宗。……賢者様のお話相手、謹んでお受けいたしましょう」
「うむ」
賢者・猫は、満足げに頷いた。
「……ならば、この金塊はくれてやろう。……お主の国の財源にでもするがよい。……なに、ワシにとっては、道端の石ころとさして変わらん」
「…………ありがたき幸せにございます……!」
吉宗は、震える声で礼を述べた。
彼の脳裏には、既にこの莫大な資金を元手にした新たな改革の青写真が、猛烈な速度で描かれ始めていた。
新田の開発、治水事業、そして何よりも民のための目安箱の拡充。
この神の気まれな贈り物は、彼の理想の治世を実現するための、最後の、そして最強の切り札となるだろう。
「……うむ。……では、ワシは去る。……また、退屈した頃にでも顔を出すとしよう」
賢者・猫は、そう言うと、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは。
神の置き土産である、あまりにも巨大すぎる黄金の塊と。
そして、その奇跡を前にして、ただ呆然と立ち尽くす一人の将軍だけだった。
彼はおそるおそる、その金塊に手を触れた。
ひんやりとした、しかし確かな重み。
「…………夢では、ないか……」
彼は、呟いた。
「……奇妙な、しかし何よりも頼もしい神仏が、この江戸城に棲みついたようだな……」
彼は、その金塊を両手で、まるで愛しい我が子でも抱きかかえるかのように、大切に抱きしめた。
「……ありがたい……。……これだけあれば、飢饉に苦む民を救うことができる。……そして、この国の礎を盤石なものにできる。……孫の代まで、いや、その先の未来まで、この国は安泰であろう……!」
彼の目から、一筋、熱いものがこぼれ落ちた。
それは、将軍としての、そしてこの国を愛する一人の男としての、心からの感謝の涙だった。
徳川吉宗が、後に『名君』として、そして『米将軍』として日本の歴史にその名を不滅のものとして刻み込むことになる、享保の改革。
その本当の始まりの裏側に、こんな奇妙で、そしてどこまでも滑稽な神との出会いがあったことを。
まだこの世界の誰も、そしてその改革を成し遂げた張本人でさえも、その本当の意味を完全には理解していなかったのである。
最後までお付き合いいただき、感謝します。
異世界で手に入れた金貨の山よりも、政府が必死でかき集めた国家予算よりも、読者の皆様からの「ブックマーク」と「評価(☆☆☆☆☆)」こそが、私の執筆モチベーションを維持する最高純度の魔石(エネルギー源)です。
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