第81話
季節は巡り、また巡る。
神の気まぐれが、この大陸の片隅にある穏やかな王国に最初の奇跡の一滴を落としてから、二年という歳月が流れようとしていた。
そして、その一滴の波紋は、もはや誰にも止めることのできない巨大な潮流となり、グランベル王国の全てを、その根底から、そして永遠に書き換えてしまっていた。
大陸南方に広がる巨大な商業連合体から、一台の豪奢な馬車が、グランベル王国の南の国境ゲートをゆっくりと通過していた。
馬車の窓から外を眺めていたのは、初老の商人ヴァレリウス。彼のその鋭い商人の目は、しかし、今、驚愕と、そしてにわかには信じがたいといった困惑の色に見開かれていた。
「………………信じられんな」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
彼の目の前に広がるのは、グランベル王国の主要街道。だが、その道は、彼が最後にこの国を訪れた数年前の、あの泥と轍にまみれた危険な道ではもはやなかった。
道は完璧に磨き上げられた石畳で舗装され、その両脇には等間隔で排水路まで設けられている。そして、何よりもその道を警備する兵士たちの姿。彼らの磨き上げられた鋼鉄の鎧、その背筋の伸びた堂々たる立ち姿。それは、もはやただの田舎王国の衛兵ではなかった。大陸最強と噂されるヴァルストライヒ帝国の精鋭にも匹敵するほどの、圧倒的な練度と自信に満ち溢れていた。
彼らはヴァレリウスの馬車に気づくと、威圧するでもなく、ただ静かに敬礼を送ってくる。その目には、自らの国への揺るぎない誇りと、訪れる者への穏やかな歓迎の色が宿っていた。
「……父上。……これが、グランベル王国なのですか?」
彼の隣に座っていた十歳になる息子、レオが、目をキラキラと輝かせながら尋ねた。
「……ああ。……そうだ。……少なくとも、私が知るグランベル王国とは、全く別の国になってしまったようだがな」
ヴァレリウスは、溜め息をついた。
彼は、この二年間、大陸中の商人たちの間で熱狂的に囁かれるようになった一つの「噂」を確かめるために、この国を訪れたのだ。
『――グランベル王国は、今や地上に現出した楽園である』
『――その国の食卓は神々の饗宴のように豊かで、その街はいかなる盗賊も恐れをなすほどに安全である』
『――そして何よりも、その王都には大陸中の英雄豪傑が集う、最高のエンターテイメントが存在する』と。
最初は、ただの誇張された噂話だと、彼は一笑に付していた。
だが、今、目の前に広がるこの光景は、その噂が決してただの与太話ではなかったことを、雄弁に物語っていた。
数日後、彼らの馬車はついに王都へとたどり着いた。
そして、その城門をくぐった瞬間、彼らは完全に言葉を失った。
街は、活気に満ち溢れていた。
だが、それは彼が知るいかなる商業都市の喧騒とも違う、どこまでも明るく、そして幸福なエネルギーに満ちていた。
道行く人々の顔には、貧しさや不安の色が一切ない。誰もが身綺麗で健康そうで、そしてその表情には穏やかな笑みが浮かんでいる。
そして何よりも、彼らの鼻孔をくすぐったのは、匂いだった。
街のあちこちにある食堂や屋台から漂ってくる、むせ返るような、しかし抗いがたいほどに魅力的な料理の香り。
甘く香ばしいパンの匂い、未知のスパイスで煮込まれた濃厚な肉のシチューの匂い、そして南の港町から運ばれてきたばかりだという新鮮な魚介を焼く、食欲をそそる磯の香り。
「……父上……! なんですか、この美味しそうな匂いは……!」
息子のレオが、たまらないといった様子で叫んだ。
ヴァレリウスもまた、ごくりと喉を鳴らしていた。
彼らは、街道沿いの宿場町で出された硬い黒パンと、塩味の薄いスープにうんざりしていたのだ。
この街の空気は、それだけで一つのご馳走だった。
そして彼らの視線の先、王都のまさに中心に、そのあまりにも巨大な建造物が、天を突くほどの威容を誇って鎮座していた。
円形の巨大な闘技場。
王立大闘技場、『グラン・コロッセオ』。
そここそが、今、この大陸で最も熱く、そして最も多くの人々を熱狂させている、最高の娯楽の殿堂だった。
「……行くぞ、レオ」
ヴァレリウスは、言った。
「……我々がこの目で確かめるべき『奇跡』は、あそこにある」
闘技場の中は、人の熱気で爆発寸前だった。
数万人は収容できるであろう巨大な円形の観客席は、老若男女、あらゆる階層の人々で完全に埋め尽くされている。貴族たちが座る優雅な貴賓席も、一般市民がひしめき合う立ち見席も、その熱狂においては何ら変わりはなかった。
そして、その観客の中には、ヴァレリウス親子のような、遥か遠い異国からこのスペクタクルを一目見ようとやってきた、多種多様な人種の商人や旅人たちの姿も数多く見受けられた。
彼らの手には、この闘技場の名物である『猪肉の串焼きスパイシー風味』や、黄金色のエールが満たされた木のジョッキが握られている。
誰もが、これから始まる夢の饗宴を前に、子供のように目を輝かせていた。
やがて、闘技場の中央に立つ伝令官が、その声を魔法の道具で増幅させ、高らかに叫んだ。
その声は、闘技場の隅々にまで、雷鳴のように響き渡った。
「――皆の者、長らく待たせた! これより、国王アルトリウス三世陛下御前! 王立魔法武闘会、本日のメインイベントを執り行う!」
その一言に、数万の観客から地鳴りのような歓声が巻き起こった。
「うおおおおおおっ!」
「まずは、東のゲートより入場! 我らがグランベル王国の誇り! 王直属の近衛騎士団が中より、さらに選び抜かれた精鋭中の精鋭! その一撃は大地を割り、その守りは鋼鉄の城壁をも凌ぐ! 『不動の巨岩』の異名を持つ男! サー・ガラハッド!」
東のゲートが、ゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは、磨き上げられた純白の全身鎧に身を包んだ、巨人のような騎士だった。
彼の右手の甲には、大地を思わせる茶褐色の紋章が、微かな光を放って輝いていた。
観客席から、割れんばかりの拍手と歓声が送られる。
「ガラハッド様ー!」
「今日も、あの豪快な一撃を見せてくれー!」
「そして! 対するは西のゲートより入場! 大陸の北方に広がる雪と氷の世界より、このグランベルの奇跡の噂を聞きつけやってきた流浪の剣士! その剣技は吹雪の如く鋭く、その闘志は氷河をも溶かす! 『氷刃』の異名を持つ伝説の傭兵! グレイ・フルバスター!」
西のゲートから現れたのは、対照的に軽装の革鎧に身を包んだ、銀髪の精悍な男だった。
その腰には、二本の優美な曲刀が下げられている。
伝令官の声が、さらに熱を帯びる。
「そして見よ! 彼のその左腕に輝く青い宝石を! あれこそが、我がグランベル王国が真に優れた実力を持つと認めた者にのみ、特別に『貸与』されるという栄光の証! スキルジェム『アイス・ショット』! 今宵、彼は氷の力をその剣に宿し、我らが不動の巨岩に挑む!」
その言葉に、観客席の興奮は最高潮に達した。
自国の英雄と異国の強者が、神の力をその身に宿して雌雄を決する。
これ以上のエンターテイメントが、この世に存在するだろうか。
「……すごい……」
観客席で、息子のレオが呆然と呟いた。
「……父上……。あの宝石が……。あの宝石が、あの魔法の力の源なのですか……?」
「……ああ。……噂は、本当だったようだな」
ヴァレリウスもまた、そのあまりにも非現実的な光景に、ただ圧倒されていた。
試合開始の鐘が、鳴り響く。
二人の戦士が、同時に動いた。
傭兵グレイが、疾風の如き速さで地を蹴る。その二本の曲刀が、青白い冷気をまとわりつかせ、無数の氷の刃となってガラハッドへと襲いかかった。
だが、ガラハッドは動じない。
彼はその巨大な盾を大地に突き立て、低く吼えた。
「――『不動なる者の咆哮』!」
彼の全身から茶褐色のオーラが迸り、目に見えない衝撃波が周囲へと広がる。
グレイが放った無数の氷の刃は、その衝撃波に触れた瞬間、まるで春の陽光を浴びた霜のように、はかなく霧散した。
「なっ!?」
グレイの顔に、驚愕の色が浮かぶ。
その一瞬の隙を、ガラハッドは見逃さなかった。
彼は巨大な戦槌を天に掲げ、大地そのものを揺るがすかのような雄叫びを上げた。
「――『大地の怒り』!」
彼がその戦槌を大地に叩きつけた、その瞬間。
闘技場の石畳が、まるで生き物のように隆起し、巨大な土の津波となってグレイへと襲いかかった。
そのあまりにも規格外の、天変地異のような光景に。
数万の観客は、もはや歓声を上げることさえ忘れ、ただ呆然と、その神々の戦いを見守っていた。
試合は、壮絶な打ち合いの末、辛くもサー・ガラハッドの勝利に終わった。
だが、勝者にも、そして敗者にも、観客席からは惜しみない、そして温かい拍手が送られた。
彼らは、最高のショーを見せてくれた二人の英雄を、心から讃えていた。
その夜、
ヴァレリウス親子は、王都で最も評判の高いレストランの一室で、その日の興奮の余韻に浸っていた。
彼らの目の前のテーブルには、これまでの人生で一度として味わったことのない、夢のような料理の数々が並べられていた。
奇跡の野菜で作られた甘美なサラダ。
氷室輸送で届けられた、新鮮な白身魚のカルパッチョ。
そして、何種類もの未知のスパイスで煮込まれた、とろけるように柔らかい牛肉のシチュー。
「……美味しい……」
息子のレオが、その目を潤ませながら呟いた。
「……父上……。こんなに美味しいものを毎日食べられるなんて……。この国の人々は、本当に幸せなのですね……」
「……ああ。……そうだな」
ヴァレリウスは、深く頷いた。
彼の心は、もはや商人としての損得勘定にはなかった。
そこにあったのは、純粋な感動と、そして自らの国の未来への微かな希望だった。
彼は、窓の外に広がる魔石のランプの優しい光に照らされた、平和で、そしてどこまでも豊かな王都の夜景を見つめていた。
そして、彼は決意した。
この国の奇跡の、ほんの一欠片でも良い。
それを、自らの故郷へと持ち帰るのだと。
このグランベル王国との新たな交易の道を、この手で切り拓くのだと。
その頃。
王宮の最も高い塔の、そのバルコニーで。
国王アルトリウス三世とゲオルグ・ラングローブが、静かにその眼下に広がる自らが作り上げた楽園の夜景を見下ろしていた。
「……見事なものだな、ゲオルグ」
王が、静かに言った。
「……民は満ち足り、国は豊かになり、そして他国からは我々の力を恐れるのではなく、我々の文化と豊かさを求めて人々が集まってくる。……これこそが、朕が夢見ていた真の『強い国』の姿なのかもしれん」
「はっ。……もったいのうございます。……これも全ては、陛下の御威光と、そして……」
ゲオルグは、夜空を見上げた。
「……我々にこの全てを与えてくださった、あの気まぐれな神のおかげにございますな」
その言葉に、王はふっと笑みを漏らした。
「……うむ。……全くだ。……あの御仁は、今頃どこの世界で、また新たな退屈しのぎを探しておられることやら」
そのあまりにも穏やかで、そしてどこまでも幸福な王国の夜。
その全てが、遠い異世界の、ただ怠惰に暮らしたいと願う一人のぐうたらな男の、ほんの些細な「お節介」から始まったという、壮大で、そしてどこまでも滑稽な真実を。
もはやこの世界の誰もが、その物語の幸福な登場人物であることを、ただ受け入れていた。
グランベル王国の輝かしい黄金時代。
その幕は、今まさに上がったばかりだった。




