第79話
季節は巡り、また巡る。
神がその気ままぐれな最初の一滴を、この地球という名の乾いた大地に落としてから、二年という歳月が流れようとしていた。
そして、その一滴の波紋は、もはや誰にも止めることのできない巨大な津波となり、世界のあらゆる岸辺を洗い、その風景を永遠に変え続けていた。
日本は、もはやただの極東の島国ではなかった。彼らは、古代の神話と未来の超科学を同時にその手に握る、世界の新たな極。アメリカは、その日本の最大の盟友であり、そして最大の監視者として、奇跡のお裾分けに与りながらも、その水面下では日本の本当の秘密を暴こうと、熾烈な情報戦を繰り広げている。グランベル王国は、神の恩寵を一身に受け、大陸の歴史上前例のない豊穣と、そして恐るべき軍事力を手にした新たな覇権国家として、その産声を上げた。
そして、その全ての元凶である男、新田創は。
東京中野区の、あのもはや彼の精神と肉体が完全に最適化された生態系の揺り籠の上で。
一つの深遠な、そしてどこまでもぐうたらな悩みに頭を抱えていた。
「………………暇だ」
心の底から、声が漏れた。
そうだ。彼は、暇だった。あまりにも、暇すぎた。
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、もはや全ての目標を達成してしまっていた。異世界交易ネットワークは完全に自動化され、彼の次元ポケットには、もはや勘定するのも面倒なほどの富が、日々自動的に積み上がっていく。日本政府との関係も安定期に入り、当初のスリルは薄れつつある。
彼は、神となった。だが、神は孤独で、そして退屈なのだ。
「……なんか、新しいことしたいなあ……」
彼は、何度目かも分からないその呟きを、青く澄み渡った秋の空に向かって吐き出した。
◇
その頃、彼の退屈とは全く無関係に、彼の僕たちは、新たな、そしてより深遠な知的迷宮の入り口で途方に暮れていた。
官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの作戦司令室。
その空気は、ここ数ヶ月保たれていた奇妙な安定と、自信に満ちたものではなかった。そこにあったのは、自らの知性の限界を突きつけられた者たちの、深い、深い困惑と、そして微かな、しかし抗いがたいほどの畏怖だった。
巨大な円卓を囲む宰善茂総理、橘紗英、綾小路官房長官、そして各分野の専門家たちの視線は、中央のホログラムスクリーンに映し出された、一枚のあまりにも奇妙な報告書に釘付けになっていた。
報告書のタイトルは、こうだ。
『――世界神話体系における猫科動物の神格化に関する統計的異常値の検出とその考察――』
報告を行ったのは、プロジェクト・キマイラの神話創造チームに所属する帝都大学の若き天才、貴島准教授だった。彼は、AIを用いた大規模な比較神話学のデータマイニングの過程で、一つのあまりにも不可解な「偏り」を発見してしまったのだ。
「……以上が、我々の調査結果です」
モニターの向こう側、サイト・アスカの分室からの中継で、貴島准教授が、その神経質そうな顔に興奮の色を浮かべて、説明を締めくくった。
「……結論から申し上げます。……世界中の、文化的に全く接点のないはずの古代文明において、『猫』あるいは『猫に近い生物』が、神、あるいは神の使いとして、極めて高い頻度で登場します。……もちろん、犬や蛇、鳥といった動物も同様に神格化される例は多数存在します。ですが、猫科の神格存在が持つ『特性』には、驚くべき共通点が見られました」
彼は、スクリーンにキーワードをリストアップしていく。
『気まぐれ』、『超越的な知恵』、『魔術の司り手』、『夜と月の象徴』、そして、『人間に文明や豊穣をもたらす気まぐれなトリックスター』。
「……この特性の一致率は、統計学的に見ても、もはや単なる偶然の一致として片付けられるレベルを遥かに超えています。……まるで、一つの『原型』となる存在が太古の地球に実在し、その記憶の断片が、世界中の神話の中に痕跡として残されているかのようです。……もちろん、これはあくまで学術的な仮説に過ぎませんが……」
そのあまりにも思わせぶりな報告が終わった後、司令室は深い沈黙に包まれた。
誰もが、その報告書が真に意味する恐るべき可能性に思い至っていた。
だが、誰もそれを口にすることはできなかった。
あまりにも、荒唐無稽すぎる。
あまりにも、常識からかけ離れている。
その重苦しい沈黙を最初に破ったのは、やはりこの国の最も皮肉屋で、そして最も現実的な男、官房長官の綾小路だった。
「…………はー……」
彼は、心底うんざりしたというように、深い溜め息をついた。
「……つまり、貴島君。……君が言いたいのは、こういうことですかな? ……『世界中に猫の神様が多いのは不思議ですねえ。……そういえば、我らが賢者様も猫でしたねえ。……これってもしかして、賢者様が昔から地球の歴史にちょっかいを出していた証拠なんじゃないですかねえ?』……と。……そういうことですかな?」
そのあまりにも的確で、そしてどこまでも人を食ったような要約。
司令室に、乾いた笑いが漏れた。
外務大臣の古賀が、青い顔で首を横に振った。
「……よしたまえ、綾小路君。……不敬であろう。……それに、そんな馬鹿な話があるものか。……猫科の動物は、その俊敏さや夜行性から、古代の人々が神秘性を感じやすかった。ただ、それだけの話だろう。……我々は少し、賢者様の奇跡に当てられすぎて、正常な判断能力を失いつつあるのではないのかね?」
それは、常識的な人間としての、あまりにも当然な反応だった。
「……全くだ」
経済産業大臣も、それに同調する。
「……我々の頭は、いつからオカルト雑誌の編集部になったのだ。……これでは、あの矢島教授と変わらんではないか」
そうだ。
これは、ただの偶然だ。
そう、思いたかった。
誰もが、そう結論付けようとしていた。
だが。
そのあまりにも健全な常識論を、一つの冷徹な事実が粉々に打ち砕いた。
これまで黙って報告を聞いていた橘紗英が、その氷のような声で、静かに口を開いたのだ。
「…………皆様。……一つ、興味深いデータがございます」
彼女は、手元の端末を操作した。
中央のホログラムスクリーンに、一枚の画像が映し出される。
それは、古代エジプトの壁画の写真だった。
猫の頭を持つ女神、バステトが描かれている。
「……これは先日、我々の諜報衛星が、エジプトのサッカラの未盗掘の墓から、特殊な電磁波スキャンで撮影したものです。……ご覧ください。……この女神バステトの手に、握られているものを」
彼女は、その部分を拡大した。
そこに描かれていたのは、アンク(生命の鍵)でも、ウアス杖(権力の杖)でもなかった。
それは、どう見ても長方形で、薄く、そしてその表面にリンゴがかじられたような紋様が描かれた、一枚の板。
スマートフォンだった。
「………………は」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
司令室は、再び水を打ったように静まり返った。
「……もちろん」と、橘は続けた。その声には、一切の感情がなかった。
「……これは、ただの偶然の一致かもしれません。……古代エジプトの工芸品に、たまたま似たようなデザインがあった。……ただ、それだけのことかもしれません」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
そして、その場にいる全員の魂を射抜くかのような鋭い視線で、言った。
「…………ですが、皆様。……我々は本当にそれを、『偶然』として片付けてしまってよろしいのでしょうか?」
そのあまりにも重い問いかけ。
誰も、答えることはできなかった。
彼らの頭の中に、あの賢者の、あまりにも気まぐれで、あまりにも予測不可能で、そしてあまりにも人間臭い行動の数々が、走馬灯のように蘇っていた。
『――面白いから貸してやる』
『――ワシは忙しいからのう』
『――まあ、そういうことにしておこうかのう』
あの神は、全知全能でありながら、同時にどこまでも退屈しきった遊び人のようだった。
そんな彼が、数千年前の古代エジプトにふらりと現れ、退屈しのぎに現地の人々に未来の道具を見せびらかし、それを神話として崇め奉られていたとしても、何ら不思議はないのではないか。
いや、むしろ。
(…………ありえる……)
宰善総理が、呻くように呟いた。
(…………あの賢者様ならば、十分にありえる……!)
「マジかよ……」
誰かが、言った。
「……頭、陰謀論者かよ、俺たち……」
別の誰かが、言った。
「……いや、でもなあ……。……あの賢者様だしなあ……」
そして、その最後の呟きが、この場にいる全員の偽らざる本心だった。
その日を境に、プロジェクト・キマイラの内部に、新たな、そして最も極秘のセクションが創設された。
その名は、『神話考古学調査室』。
通称、『プロジェクト・オラクル』。
その使命は、ただ一つ。
世界中のあらゆる神話、伝説、そしてオーパーツを、ただ一つの仮説に基づいて再検証すること。
『――賢者は、過去にもこの地球を訪れていたのではないか?』
それは、もはや科学ではなかった。
一つの巨大な神話の謎を解き明かすための、壮大な神学探求の始まりだった。
日本の最高のエリートたちは、今や政府の官僚であることをやめ、神の足跡を追い求める孤独な巡礼者へと、その貌を変えていた。
◇
その頃。
彼らが神の如く崇め奉り、その過去の行動の一挙手一投足にまで神学的な意味を見出そうと躍起になっている、その全ての元凶である男は。
日本の山奥の、究極の理想郷で。
久しぶりに、ある一つのささやかな、しかし彼にとっては極めて重要な「業務」をこなしていた。
それは、彼が飼い始めた一匹の黒猫の爪切りだった。
「…………こら、タマ。……暴れるな、危ないだろ」
創は、縁側で日向ぼっこをしながら、その膝の上で必死に抵抗する小さな毛玉と格闘していた。
彼はこの数ヶ月、完璧すぎる理想郷のあまりの静けさと孤独に耐えかね、ついに近所の保護猫シェルターから一匹の黒猫を引き取ったのだ。
その名は、タマ。
日本で最もありふれた、猫の名前。
だが、その存在は、創の殺伐とした(と本人は思っている)日常に、唯一無二の温かい光をもたらしていた。
「……よし、終わった」
最後の爪を切り終え、創がタマを解放すると、猫は不満そうに「にゃあ」と一声鳴いて、ぷいとどこかへ行ってしまった。
創は、その自由気ままな後ろ姿を、どこまでも優しい目で見送っていた。
そして、彼はふと思い出したように呟いた。
「…………そういえば」
彼の脳裏に、あの古代エジプトの壁画の映像が蘇った。
先日、彼が退屈しのぎに見ていた矢島教授のオカルト番組で紹介されていたものだ。
「…………古代エジプトの猫の神様、バステトだっけか。……あの頃の時代の人間も、猫が好きだったんだなあ」
彼は、にこりと笑った。
「……まあ、気持ちは分かるけどな。……この可愛さは、時代も世界も超えるよなあ……」
彼は、縁側にごろりと寝転がると、大きなあくびを一つした。
そして、彼は思いついた。
それは、ただのほんの些細な気まぐれだった。
だが、その気まぐれこそが、またしても世界の神話を新たな混沌の渦へと叩き込む、次なる一滴となることを、彼はまだ知らない。
(………………そういえば、俺の賢者アバターも、猫の姿だったな)
彼は、ぼんやりと思った。
(……なんで、猫にしたんだっけか。……ああ、そうだ。……最初に日本政府の前に現れる時、人間の姿じゃ警戒されるだろうし、かといって威厳がありすぎても面倒くさそうだし。……まあ、猫くらいが一番ちょうどいいかなって。……それくらいの、軽い気持ちだったよなあ……)
彼の思考は、続く。
(………………でも、結果として大正解だったよな)
そうだ。
猫という姿は、神秘的でありながらどこか愛嬌があり、人々の警戒心を解き、そして畏敬の念を抱かせるには、完璧な器だった。
(………………もしかしたら)
彼の口元に、いつもの悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
(………………俺が最初に猫の姿を選んだのも。……太古の昔から、この星の人間の遺伝子に刻み込まれた『猫=神聖な生き物』っていう無意識の刷り込みを利用した、俺の天才的な深層心理戦略だったのかもしれないな……!)
そのあまりにも後付けで、そしてどこまでも自己肯定感に満ち溢れた、完璧な自己分析。
彼は、自分自身のその天才的な(と彼が信じている)洞察力に一人悦に入り、満足げに深く頷いた。
「………………うん。……きっとそうだ。……俺、すげえ」
そのあまりにも呑気で、そしてどこまでもぐうたらな神の自己満足。
その裏側で、日本の最高の頭脳たちが血眼になって神話の中に彼の足跡を探し求め、そのあまりにも深遠な御心に打ち震えているという、壮大で、そしてどこまでも滑稽な真実を。
まだこの世界の誰も、そして彼自身でさえも、全く気づいてはいなかったのである。




