第75話
神の日常は、矮小なる人間の非日常である。
新田 創が、あの銀河の中心で手に入れた究極の玩具『テッセラクト・ボイジャー』。
そのあまりにも規格外すぎる万能船は、彼の壮大すぎるスローライフ計画を、もはや完成を通り越して、新たな、そしてどこまでもぐうたらな次元へと引き上げていた。
彼は、もはや自らの足で異世界を渡り歩くことさえやめてしまった。
なぜなら、その必要が全くなくなったからだ。
彼の日本の山奥に築かれた理想郷の、美しい日本庭園。
その池のほとりに、まるでミニマリストの芸術家が作り上げたオブジェのように静かに鎮座する、一辺が二メートルの銀色の箱。
それが彼の新たな城であり、オフィスであり、そして世界と世界を繋ぐ唯一無二の玉座だった。
朝、彼は自室の布団の中で目を覚ます。
そして、思考するだけで、彼の意識は庭に置かれた銀色の箱の中枢、恒星規模の広さを持つブリッジのコマンド・チェアに座る自分自身のアバターと完璧に同期する。
彼は、もはやパジャマを着替える必要さえない。
ベッドに寝転がったまま、彼は自らの巨大な異世界交易帝国の全てを統べるのだ。
『――おはようございます、マスター』
船の管理AIが、彼の脳内に直接、穏やかな声で語りかけてくる。
目の前の巨大なホログラムスクリーンには、彼の十数個の「支店」からの昨日の売上報告が、美しいグラフとなって表示されている。
『グランベル王国』の金貨の備蓄量。
鋼鉄の街『ギア・ヘイム』での高級腕時計の販売実績。
水の都『アクアリア』での、塩と胡椒の消費動向。
その全てを、彼はベッドの中で確認する。
そして、彼は思うのだ。
(……うーん。……アクアリアの胡椒の消費量が少し落ちてるな。……そろそろ新しいスパイスでも投入して、テコ入れしてやるか。……カレー粉とか、ウケるかな……)
彼はもはや、ただのぐうたらな男ではなかった。
神の視点から複数の世界の経済をコントロールする、異次元のCEOそのものだった。
そして、その日の「業務」が始まる。
「……よし、AI。……今日の配達スケジュールを表示してくれ」
『かしこまりました、マスター。……本日のデリバリーは三件。……第一便、グランベル王国王都中央市場、ラングローブ商会第三倉庫。……納品物は、ベーキングパウダー百トン。……第二便……』
彼は、そのスケジュールを確認すると、満足げに頷いた。
そして、彼はコマンド・チェアの上で、深く息を吸い込んだ。
その瞬間、彼の魂に刻み込まれたあの究極の権能が発動する。
【異界渡り】。
だが、それはもはや彼個人のための能力ではなかった。
彼のその意志は、彼が座すこの恒星規模の宇宙船そのものと一体化していた。
『――時空連続体アンカーロック。……ターゲット座標、世界線コードGRN001、グランベル王国王都上空三千フィート。……異界渡りシークエンス開始』
次の瞬間。
日本の山奥の庭園に置かれていた銀色の箱が、ふっとその姿を消した。
そして、それと全く同時に。
遥か彼方の異世界、グランベル王国の王都の青空のど真ん中に、ぽつんと、同じ銀色の箱が何の前触れもなく出現した。
「…………うわー、便利、便利」
創は、ブリッジのスクリーンに映し出された眼下の美しい王都の街並みを眺めながら、心の底から呟いた。
移動も、異界渡りで行ける。
もはや、ワープ航法どころの騒ぎではない。
因果律そのものを無視した、究極の物流システム。
彼は、船のカーゴベイからベーキングパウダーのコンテナを、念動力でそっと地上へと降ろしていく。
地上では、ゲオルグ・ラングローブとその部下たちが空を見上げ、その神の如き光景に、深々と頭を下げていた。
彼らは、もはや驚かない。
空から銀色の箱が現れ、そこから奇跡の物資が降ってくる。
それは彼らにとって、もはや当たり前の日常の光景となっていたのだ。
「…………最初は面食らう異世界の人物達だったが……。……神の乗り物と理解したので、動じないか。……みんな、俺に慣れてるようでいいね。……楽だ」
創は、満足げに頷いた。
ゲオルグが用意していた金貨の詰まった木箱を、同じように念動力で回収すると、彼のその日の「配達業務」の一件目は終了した。
所要時間、わずか五分。
彼は、同じように鋼鉄の街へ、水の都へと次々と世界を渡り、その「業務」を淡々とこなしていく。
そして、その業務の合間にも、彼の元には様々な世界からの「メール」が届く。
船に搭載された超光速量子通信システムは、次元の壁さえも越えて、日本のインターネット網へと常時接続されていたのだ。
『――賢者様。……例の鑑定スクロールの解析により、我が国の古代史における新たな発見が……』
『――ハジメ様。……先日お納めいただいた腕時計の、追加発注の件ですが……』
「…………うむうむ、便利、便利」
創は、それらのメールを、ベッドの中でスマホをいじるのと全く同じ感覚で処理していく。
彼のスローライフは、今や複数の世界とリアルタイムで繋がりながら、しかしその中心は常に日本の自室の布団の中にあるという、奇妙で、しかし彼にとっては究極に理想的な形で実現されていた。
◇
その日の「業務」を全て終えた創は。
久しぶりに、自らの故郷の空を散歩してみることにした。
彼は、テッセラクト・ボイジャーを日本の上空、成層圏の遥か上、ほとんど宇宙空間と言っても差し支えない高度へと移動させた。
そして、船の光学迷彩モードを、最大レベルへと引き上げた。
『――機体外部不可視モード、レベル5起動。……全ての電磁波、光学、重力観測に対する完全なステルス状態に移行します』
ブリッジのビュー・スクリーンには、眼下に広がる青く美しい地球の姿が映し出されていた。
白い雲がゆっくりと渦を巻き、大陸の緑と海の青のコントラストが、あまりにも美しい。
「…………綺麗だなあ」
創は、思わず呟いた。
会社員時代、毎日毎日満員電車に揺られ、灰色のビルディングの谷間で息を詰まらせていた自分が、今、こうして、たった一人でこの神の視点から自らの故郷の星を眺めている。
そのあまりにも非現実的な事実に、彼は改めて自らの数奇な運命を感じずにはいられなかった。
彼は、ゆっくりと船の高度を下げていった。
眼下に見えてきたのは、彼が最もよく知る、そして最も愛する街の姿。
東京。
無数のビルがまるで巨大な墓標のように林立し、その間を、血管のように高速道路が網の目のように走っている。
夜になれば、その一つ一つが宝石のように輝くのだろう。
創は、そのコンクリート・ジャングルの上空を、まるで幽霊のように音もなく漂いながら、懐かしい場所を探した。
新宿、渋谷、そして池袋。
かつて彼が、青春の全てを捧げた街。
その一つ一つを眺めるたびに、彼の胸に、甘酸っぱい、そしてどこかほろ苦い記憶が蘇っては消えていった。
そして、彼の視線が東の方角へと向いたその時。
彼の目に、一つのあまりにも巨大で、そしてあまりにも象徴的な建造物が飛び込んできた。
空を貫く一本の巨大な槍のようにそびえ立つ、白銀の塔。
「…………おっ、スカイツリーだ」
彼は、思わず声を上げた。
東京スカイツリー。
この街の、新たなシンボル。
彼は、その塔の存在をもちろん知っていた。
だが。
「…………そういえば、俺……」
彼は、呟いた。
「…………スカイツリー、東京に住んでるけど、行ったことないなあ……」
そうだ。
いつでも行ける。
そう思っているうちに、結局一度も訪れたことのない場所。
それは、地元民にとっての「あるある」だった。
彼は、船のセンサーを最大解像度に設定し、その塔の展望台をズームアップしてみた。
スクリーンに映し出されたのは、三百六十度の絶景を前に、歓声を上げる無数の人々の姿だった。
寄り添い、眼下のミニチュアのような街並みを指差す、若いカップル。
窓にへばりつき、目を輝かせる小さな子供たち。
そして、その子供たちを優しい眼差しで見守る、老夫婦。
そのあまりにも平和で、そしてあまりにもありふれた幸福な光景。
それを見ていた創の心の中に、ふと、一つの温かい、そしてどこか切ない感情が込み上げてきた。
(………………親父と、母さん……)
彼の脳裏に、実家の両親の顔が浮かび上がった。
最後に会ったのは、もう一年以上も前になる。
彼らは、元気でやっているだろうか。
あの奇跡の野菜と魚が、彼らの食卓にも並ぶようになって、少しは健康になっただろうか。
(……連れてきてやりたいなあ……)
彼は、心の底から思った。
(……親父と母さん連れて、こんど観光でもいいな……)
もちろん、この神の船でではない。
普通の電車に乗り、普通にチケットを買って、そして普通にエレベーターの列に並ぶ。
そして、三人で展望台からこの景色を眺めるのだ。
「すごいなあ、創」と感心する父親と、「まあ、高いわねえ」と怖がる母親。
その何でもない、しかし何物にも代えがたい家族の時間。
彼は、その光景を想像しただけで、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
神の力を手にし、世界を股にかける超越者となった彼が、今、心の底から求めているのは、そんなどこにでも転がっている、ささやかな人間の幸福だったのだ。
「…………よし」
彼は、決めた。
「……今日は、このままスカイツリー見学でもしようかな」
彼は、船を塔のすぐそば、誰にも気づかれることのない空中の一点に静止させた。
そして、ブリッジのスクリーンに三百六十度のパノラマ映像を映し出し、まるで自分が本当にその展望台にいるかのような気分で、その絶景を満喫し始めた。
眼下に広がる、自らが生まれ育った街の姿。
その一つ一つの光の中に、人々の暮らしがある。
その当たり前の事実に、彼は改めて深い感動を覚えていた。
彼は、しばらくその静かな空中散歩を楽しんでいた。
だが、その穏やかな時間は、彼の指先がコマンド・チェアのアームレストに表示されていた一つのアイコンに、何気なく触れてしまったその瞬間に、終わりを告げた。
それは、砂時計と螺旋を組み合わせたような、神秘的なデザインのアイコンだった。
彼がそれに触れた瞬間、彼の脳内に、船の管理AIの穏やかな声が響き渡った。
『――クロノス変位ドライブ……オンライン。……時間座標の入力を、お待ちしています、マスター』
「…………あ」
創は、声を上げた。
そうだ。
すっかり忘れていた。
この船には、そんなとんでもない機能がついていたのだ。
「…………タイムマシンも、使ってみたいなあ……」
彼の口から、無意識のうちにそんな呟きが漏れ出した。
その一言は、禁断の果実の囁きだった。
一度その存在を意識してしまえば、もはや抗うことはできない。
彼の心の中に、子供のような純粋な好奇心が、むくむくと頭を擡げてくる。
(……どこに行こうかなあ……)
彼の思考が、時空を超えて駆け巡り始めた。
(……このスカイツリーが建設される前の姿を見てみるか? ……あるいは、百年後の未来の東京? ……いや、それじゃあ面白くない)
彼の想像力は、さらに翼を広げる。
(……恐竜の時代に行って、TREXとツーショット写真を撮ってみるか? ……いや、食われたら洒落にならん)
(……戦国時代に行って、信長に会ってみるか? ……いや、言葉が通じるか分からんし、面倒くさそうだ)
(……そうだ! ……高校の文化祭の日に戻って、当時好きだったあの子にもう一度だけ会ってみるというのはどうだろう……? ……いや、ダメだ、ダメだ! ……それはあまりにも痛々しすぎる……!)
彼の頭の中は、もはや時空を超えた冒険の計画でいっぱいだった。
彼はもはや、ただのぐうたらな男ではなかった。
究極の力を手にした、最強のタイムトラベラー。
その自覚が、彼の心をこれまでにないほどの高揚感で満たしていた。
彼は、コマンド・チェアに深く座り直し、その顔に、これから始まる最高の「遊び」を前にした少年のような、無邪気な笑みを浮かべた。
そのたった一つの気まぐれが、やがて世界の、いや、人類の歴史そのものの根幹を揺るがしかねない巨大な事件の引き金を引くことになるという可能性など、全く想像さえせずに。
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、今、時間という最後の禁断の扉を開けようとしていた。
その先に待つものが、輝かしい冒険か、あるいは修復不可能な破滅か。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。




