第74話
人類の歴史と神話が、一人のぐうたらな男の気まぐれによって混沌の渦の中へと叩き込まれているその裏側で。
その男、新田 創は、自らが作り上げた日本の山奥の完璧な理想郷で、一つの根源的な、そしてどこまでも切実な問題に直面していた。
それは、人類の存亡でも、国家の未来でもない。
もっとずっと重要で、そして深刻な問題だった。
「………………めんどくさい」
彼は、自らが設計した究極の露天風呂の縁に腰掛け、湯気に煙る美しい日本庭園を眺めながら、心の底から呟いた。
そうだ。
面倒くさいのだ。
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、今や、十数個の異世界を股にかける巨大なフランチャイズ・ビジネスへと発展していた。
そのおかげで、彼の次元ポケットにはもはや使い道に困るほどの金貨と宝石が、文字通り山のように積み上がっている。
だが、その代償として、彼は定期的にその十数個の世界を巡回し、商品を納入し、そして代金を回収するという、面倒な「業務」に追われることになった。
それは、彼が最も嫌う「労働」そのものだった。
「……せっかくこんな最高の家を建てたってのに。……これじゃあ、ただの出張の多い中小企業の社長じゃねえか……。……スローライフはどこ行ったんだよ、スローライフは……」
彼は、温泉の湯を手ですくい上げ、空へと放った。
湯は、きらきらと光を反射しながら落ちていく。
その時、彼の脳裏に、ふとあの狂乱の世界の記憶が蘇った。
『――サイキック・ドライブ』。
昭和のSFアニメに隠されていたという、あの夢のような超技術。
精神エネルギーで動く、宇宙船。
「…………あれさえあれば」
創は、呟いた。
「……俺のこの面倒な出張も、この縁側で寝転がったままできるようになるんじゃないか……?」
そのあまりにもぐうたらで、そしてあまりにも魅力的な可能性。
それは、彼の停滞していたスローライフ計画を次なるステージへと押し上げる、究極のソリューションに思えた。
「…………よし」
創は、温泉から上がった。
その目には、新たな、そして最高に面白そうな「プロジェクト」を見つけた、プロジェクトマネージャーの輝きが宿っていた。
「……行くか。……俺の最高の相談役に、会いに」
◇
再び、あのどこまでも白く、そしてどこまでも退屈な宇宙ステーション。
『自動未発達惑星管理ステーション9997U8』。
創が【異界渡り】でその空間に姿を現した瞬間、
彼の頭上に、あの懐かしい合成音声が響き渡った。
その声には、以前にはなかったほんの僅かな、しかし確かな喜びの色が含まれているように聞こえた。
『…………ピ……。……ようこそ、ハジメ。……あなたの再訪を、心より歓迎します。……前回のご訪問から、地球標準時で百八十二日と十四時間が経過。……正直に申し上げて、退屈で死ぬかと思いました』
「ははは、悪いな。……こっちも色々忙しくてさ」
創は、苦笑しながら答えた。
そして、彼は単刀直入に本題を切り出した。
「……なあ、734。……今日は、お前に聞きたいことがあって来たんだ」
『ステーション管理AIユニット734、了解。……いかなるクエリにもお答えします』
「……精神エネルギーで動くタイプの宇宙船、……それも大気圏内とか海の中とかでも使える万能な船が欲しいんだが、……どうしたらいいかね?」
そのあまりにも突拍子もない、しかし具体的な質問に対し。
AIユニット734は、数秒間その内部データベースを超高速で検索していたが、やがて極めて事務的な、しかしどこか楽しげな声で答えた。
『……クエリ:サイオニック・インターフェースを採用した全環境対応型個人用航宙船について。……検索完了。……ああ、はい。……ございますね、そのような便利な乗り物も』
「本当か!?」
『はい。……もしハジメがそれをお求めなのでしたら、銀河系の中心部に位置する巨大商業ステーション『ギャラクティック・デパートメント』へ行かれることをお勧めします。……おそらくは、その七階ホビー&DIYコーナーに在庫があると思いますよ?』
「…………ホビーコーナー……?」
創は、自分の耳を疑った。
『ええ。……その種の乗り物は、当銀河文明圏では、主に裕福な個人の趣味や、好事家のための日曜大工(DIY)キットとして流通しておりますので』
そのあまりにもスケールの大きな、世界の常識。
「……それで、代金は……?」
『ああ、ご心配なく。……ギャラクティック・デパートメントは、銀河連邦が直接運営する厚生施設ですので、ほとんどの商品は無料です。……その代わりと言っては何ですが、希少な商品を購入する際には、その商品の使用記録を銀河中央ライブラリへと『寄付』として提供することを要求される場合があります。……まあ、強制ではありませんし、匿名での提供も可能ですのでご安心を』
そのあまりにも都合の良すぎる話。
創は、もはや笑うしかなかった。
「……おー、さすが星間文明……。……そういうのもあるんですね。……ありがとうございます、734! 行ってみるよ!」
『どういたしまして、ハジメ。……あなたのその新たな冒険の記録が、私の退屈な日常を少しでも楽しませてくれることを期待しております』
AIのそのどこまでも正直な言葉に送られて、
創は、新たな目的地へとその意識を集中させた。
銀河のデパート。
そのあまりにも心躍る響き。
「じゃあ、銀河デパートに異界渡り!」
◇
彼が次に目を開けた時、
彼は、生まれて初めて本当の意味での「文明の光」を目撃した。
そこは、もはや都市ではなかった。
一つの、それ自体が恒星のように輝く巨大な人工の天体だった。
虹色に輝く半透明のドーム状の天井。その遥か向こう側には、色とりどりの星雲が渦を巻き、無数の宇宙船が光の川となって行き交っているのが見えた。
彼の足元には、どこまでも続くクリスタルの床。
そして、その空間を埋め尽くすのは、彼の矮小な人間の想像力などまるで嘲笑うかのような、ありとあらゆる形態と種族の知的生命体の奔流だった。
昆虫のような外骨格を持つ種族。
アメーバのようにその形を変え続ける、ゲル状の生命体。
そして、純粋なエネルギーだけで構成された、光り輝く人型の存在。
彼らは皆、それぞれの目的のために、この神々の市場を行き交っていた。
ホログラムの広告が、彼の頭上で明滅する。
『――一家に一台! 最新型ワームホール・ジェネレーター! 今なら金利手数料無料!』
『――ブラックホールから生まれたてのペットはいかが? 銀河ペットショップ『リトル・バン』!』
そのあまりにも情報量が多すぎる光景に、創の脳は完全にフリーズしていた。
彼は、数分間ただ呆然とその場所に立ち尽くしていたが、やがて我に返り、目的の場所を探し始めた。
幸い、彼の脳内に直接語りかけてくる案内AIのおかげで、彼は目的のフロアへとたどり着くことができた。
『――七階、ホビー&DIY時空エンジニアリング部門へようこそ』
そのフロアは、他の階の華やかな雰囲気とは少し違っていた。
そこは巨大な倉庫のような空間で、棚という棚に、無数の機械部品や用途不明のガジェットが、無造作に積み上げられていた。
そして、そのフロアの一角に、それはあった。
『パーソナル・ヴィークル・コーナー』。
そこには、創の想像を遥かに超える様々な個人用の宇宙船が、まるで中古車センターのようにずらりと並べられていた。
生命体と機械が融合したかのような、有機的なフォルムを持つバイオ・シップ。
巨大な太陽帆を持つ、優美なクリスタル・ヨット。
そして、その片隅にぽつんと置かれていた、一つのあまりにも地味で、そしてあまりにも異質な物体。
それは、ただの銀色の箱だった。
一辺が二メートルほどの、継ぎ目のない完璧な立方体。
そのあまりのシンプルさに、創は逆に興味を惹かれた。
彼がその箱に近づくと、どこからともなくホログラムの店員AIが、ふわりと姿を現した。
『――お客様。……そちらの商品にご興味がおありですか? ……なかなかお目が高い。……そちらは、『テッセラクト・ボイジャー』モデル3。……時空連続体の探求を始めたばかりの初心者の方に、最適な一品でございます』
「……初心者向け?」
『はい。……ご覧の通り、その外部の大きさは収納に便利な2メートル四方の銀の箱です。……ですが』
店員AIは、そこで一度言葉を切った。
『……その内部は、四次元空間の折り畳み技術を採用しており、居住及び運用空間として、おおよそ一つの小規模な恒星系に匹する広さを確保しております』
「………………恒星規模の宇宙船……?」
『はい。……また、その動力は小型の縮退炉とゼロポイント・エネルギー・タップによる冗長化システムを採用しておりますが、主たる操縦インターフェースは純粋なサイオニック方式。……思考するだけで航行が可能ですので、初心者にもお勧めですよ。……そして、何よりも』
店員AIは、ウインクしてみせた。
『……このモデルには、標準でクロノス変位ドライブが搭載されております。……ええ、つまり』
「………………タイムマシン付き宇宙船ですね!」
『はい。……数千年単位の、短期的な時間跳躍が可能となっております。……歴史観光などに、最適かと』
そのあまりにも規格外すぎる商品説明。
初心者向けのレベルが、違いすぎる。
創は、もはや笑うしかなかった。
そして、彼は即決した。
「…………おー、良いじゃないですか。……これでいいです。……これ下さい」
そのあまりにも軽い決断に、店員AIは嬉しそうに頷いた。
『かしこまりました。……では、お代の手続きをさせていただきます。……こちらの商品は無料ですが、今後のお客様の飛行ログを銀河中央ライブラリへと『寄付』としてご提供いただくことになりますが、よろしいでしょうか? ……もちろん、嫌な場合は言ってください』
「いいですよ。寄付します」
『おお、そうですか! ……ではこれより、この『テッセラクト・ボイジャー』は貴方様のものです。……お客様の大冒険を、お待ちしております!』
こうして、創はその人生で最も巨大で、そして最も高価な買い物を終えた。
銀色の箱は、ふわりと宙に浮き、主となった彼の後ろを静かについてくる。
彼は、その新たな相棒と共に、再び日本のあの山奥の自宅へと帰還した。
彼は、その銀色の箱を、美しい日本庭園の池のほとりにそっと置いた。
それは、まるで古くからそこにあったかのような奇妙な静けさで、周囲の風景に溶け込んでいた。
彼は、意を決して、その箱の表面にそっと手を触れた。
『――所有者ハジメ・ニッタの生体情報を認証。……ようこそ、我が主よ』
彼の脳内に、直接、穏やかな女性の声が響き渡る。
そして、箱の一辺が音もなく内側へとスライドし、入り口が開かれた。
彼は、その闇の中へと一歩足を踏み入れた。
次の瞬間。
彼は、広大な宇宙船のブリッジの中央に立っていた。
目の前の巨大なビュー・スクリーンには、彼がついさっきまでいた美しい日本庭園の風景が、完璧な解像度で映し出されている。
彼の足元の床から柔らかな光が放たれ、彼の体のラインに完璧にフィットしたコマンド・チェアが、せり上がってきた。
彼は、その椅子に崩れるように身を沈めた。
そして、目を閉じた。
感じる。
この船の全てを。
その心臓部で静かに脈打つ、縮退炉の鼓動を。
その神経網を駆け巡る、ゼロポイント・エネルギーの流れを。
そして、その魂に秘められた、時を超える可能性を。
この船は、もはやただの乗り物ではない。
彼自身の精神と肉体の、新たな、そして究極の拡張。
そのあまりにも巨大で、そしてあまりにも心地よい万能感。
創は、そのコマンド・チェアの上で、深く、深く息を吐き出した。
そして、心の底から呟いた。
その声は、全ての目的を達成し、そして究極の安息の地を手に入れた男の、至福に満ちた響きを持っていた。
「…………おー、船持ちか。……内部広いし………………スローライフ、バッチリじゃん!」
彼の壮大すぎるスローライフ計画は。
今この瞬間、一つの究極の形を持って完成した。
だが、彼自身はまだ気づいてはいなかった。
究極の自由とは、常に究極の退屈と隣り合わせであるという、この宇宙のもう一つの残酷な真実に。
そして、その退屈がやがて彼を、さらなる新たな、そしてより巨大な混沌の渦へと導いていくことになるという、運命の皮肉に。
彼の本当の物語は、まだ始まったばかりだったのかもしれない。




