第73話
時は、流れた。
神がその気まぐれな最初の一滴を、この地球という名の乾いた大地に落としてから、二年。
その一滴は、もはやせせらぎではなかった。
それは一つの巨大な大河となり、人類の歴史という名の固い岩盤を穿ち、その流れを永遠に、そして不可逆的に変えてしまっていた。
そして、その大河の源泉となった国、日本。
その国の風景は、もはや二年前のそれとは似ても似つかぬ、どこか非現実的な、そして奇妙なほどの輝きに満ち溢れていた。
東京、千代田区、永田町。
国会議事堂の周辺には、かつてのようなデモ隊の怒号も、政治への不信感を叫ぶ声も、もはや存在しなかった。
代わりにそこにあったのは、修学旅行で訪れた学生たちのキラキラとした瞳と、世界中から集まった観光客たちの熱心なカメラのシャッター音だけだった。
彼らのお目当ては、国会議事堂そのものではない。
その隣に新設された、白亜の巨大なドーム状の建造物。
『国立アーティファクト研究博物館』。
表向きは、あの『星見子の遺産』を学術的に研究し、その成果の一部を国民に公開するための施設。
だがその実態は、プロジェクト・キマイラがその総力を結集して作り上げた、世界で最も壮麗で、そして最も巧妙なプロパガンダの神殿だった。
その神殿の中では、連日連夜、あの『水』の鑑定結果がホログラムで上映され、それを見た人々は、国籍も、人種も、宗教も超えて涙を流し、自らの足元にある奇跡の価値を再認識していた。
そのあまりにも高尚で、そしてどこまでも平和的なメッセージ。
それは、日本という国の国際社会におけるイメージを、完全に塗り替えてしまった。
かつての経済大国、あるいはその過去の軍国主義の影を引きずる国というイメージは、完全に払拭された。
今の日本は、世界の人々にとってこう見なされていた。
『古代の深遠な叡智と調和の精神を受け継ぎ、人類を新たな精神的なステージへと導く可能性を秘めた神秘の国』と。
日本政府のソフトパワーは、かつてないほどの高みに達していた。
国連では、日本の提案する環境保護条約が全会一致で採択され、世界中の若者たちの間では、日本語を学び、日本の伝統文化やポップカルチャーに触れることが、一種のクールなステータスとなっていた。
アニメやゲームは、もはやただのサブカルチャーではなかった。
それらは、『巫女王ホシミコの神話的世界観の現代的な再解釈』として、世界中の大学で真面目に研究される対象とさえなっていた。
そして、その絶大なソフトパワーは、国内の政治にも劇的な安定をもたらした。
宰善茂内閣の支持率は、この二年間、うなぎのぼりだった。
かつては40%を超えれば高支持率と言われた時代が嘘のように、今や彼の支持率は常に90%を超えるという、独裁国家でさえ滅多にお目にかかれないような驚異的な数字を叩き出し続けていた。
野党は、もはや存在しないに等しかった。
政府を批判しようものなら、「この国難とも言うべき歴史の転換点に、私利私欲で足の引っ張り合いをするのか!」と、国民から猛烈なバッシングを浴びせられるのがオチだった。
国は、一つになっていた。
『星見子の遺産』という一つの巨大な、そしてどこまでも美しい物語の下に。
だが、そのあまりにも完璧な調和の世界には、一つの奇妙な、そしてどこまでも人間臭い副産物が生まれていた。
それは、かつて社会の日陰者として扱われてきた一つの文化の、異常なまでの隆盛だった。
オカルト。
都市伝説。
陰謀論。
プロジェクト・キマイラが産声を上げた、あの日から。
日本の、いや世界の都市伝説界隈は、ずっと元気であった。
いや、元気などという生易しい言葉では足りない。
彼らは、もはや日陰者ではなかった。
時代の寵児。
新たな神話の時代の最先端を行く預言者たちとして、社会のメインストリームへと躍り出ていたのだ。
かつては深夜のテレビ番組の片隅で、胡散臭い笑みを浮かべていたあの矢島教授は、今やゴールデンタイムの冠番組を持つ国民的な文化人として、その地位を確立していた。
彼の番組『矢島教授のワールド・ミステリー・レポート』は、毎週驚異的な視聴率を叩き出し、彼がその番組内で提唱する新たな「ホシミコ=宇宙人説」の補強証拠は、翌日のXのトレンドを常に独占した。
人々は、もはや政府の公式発表だけでは満足できなくなっていた。
彼らは、飢えていた。
公式の物語の、その行間に隠された、より刺激的で、より深遠な「本当の真実」に。
そして、その大衆の尽きることのない物語への渇望は、やがて驚くべき現象を生み出した。
人々は、もはや与えられるだけの物語の消費者ではなくなった。
彼らは、自らの手で新たな神話を創造する、積極的な参加者へと変貌を遂げていたのだ。
そのムーブメントの震源地は、インターネット上の巨大な匿名掲示板や、考察系ウェブサイトだった。
そこでは、日夜、プロの作家顔負けの想像力と知識を持った名もなき探求者たちが、新たなアーティファクトの可能性について、熱狂的な議論を繰り広げていた。
彼らは、古今東西のあらゆる神話、伝説、そしてSFやファンタジーの物語の中からヒントを見つけ出し、それを『星見子の遺産』の世界観と巧みに結びつけ、新たな「失われたアーティファクト」の物語を紡ぎ出していく。
『――なあ、お前ら。……旧約聖書の失われたアーク(聖櫃)ってあるだろ。……あれこそが、ホシミコが遺した最強のアーティファクトの一つなんじゃないか? ……中には十戒の石板だけじゃなく、超科学兵器の設計図が入ってたんだよ!』
『――いや、俺は日本の古代史からアプローチしたい。……ヤマタノオロチ伝説。……あれはただの蛇じゃない。……あれこそが、ホシミコが封印した多頭型の自律戦闘兵器だったんだ。……そして、その体内から出てきた草薙の剣こそが、その制御キーだったんだよ!』
彼らの想像力は、もはや誰にも止められなかった。
そして、その中でも、特にここ数ヶ月、人々の心を捉えて離さない一つの魅力的なテーマがあった。
それは、「実は実在した? SFの装置!」というものだった。
その火付け役となったのは、とある考察系雑誌に掲載された、一本の特集記事だった。
そのタイトルは、『我々が夢見た未来は、過去にあった? ――昭和SFアニメに隠されたホシミコの超科学』。
その記事の内容は、衝撃的だった。
筆者は、1970年代から80年代にかけて日本で放映された数々のロボットアニメやSFアニメを、徹底的に再検証。
そして、そこに登場する数々の架空の超科学技術と、現在日本政府が断片的に公表しているアーティファクトの情報の間に、驚くべき類似点があることを指摘したのだ。
『……例えば、1979年に放映された伝説的なロボットアニメ『超時空戦艦アンドロメダ』。……その中に登場するワープ航法『サイキック・ドライブ』の設定図をご覧いただきたい。……これは、術者の精神エネルギーを直接空間そのものに作用させ、時空を歪めるという画期的なシステムだ。……そしてこの理論は、先日、日米共同研究チームが発表した『囁きの羅針盤』が観測者の意識に反応するという報告と、奇妙なまでに一致するではないか!』
『……あるいは、1982年の『魔法少女プリンセス・ルナ』。……主人公が使う変身ブローチは、身につけた者の周囲の環境情報を瞬時に解析し、最適な戦闘服へとその形態を変化させる。……これは、あの『不死鳥の羽衣』が持ち主の体型に合わせて自動的にサイズを変化させたという噂と、完全に符合する!』
その記事は、一つのあまりにも魅力的で、そしてどこまでも荒唐無稽な結論を提示した。
『――もしかしたら、これらのアニメの制作者たちは、無意識のうちに、あるいは何者かの導きによって、ホシミコが遺した超科学の断片を『インスピレーション』という形で受け取っていたのではないだろうか? ……我々がかつてテレビの前で胸を躍らせたあの夢のようなSFの装置は、ただの空想ではなかった。……それは、我々の足元、飛鳥の地下深くに眠っていた、失われた過去の『真実』の姿だったのかもしれないのだ!』
そのあまりにもロマンチックな仮説。
それは、日本中のかつて少年少女だった大人たちの、心の最も柔らかい部分を鷲掴みにした。
彼らは、熱狂した。
自分たちが愛したあの物語が、ただの作り話ではなかったのかもしれない。
その可能性に、彼らの心は震えた。
そして、その熱狂は、新たな神話の創造へと繋がっていった。
人々は、もはやただ過去の作品を再検証するだけでは満足しなくなった。
彼らは、自らの手で新たな「実在したかもしれないSF装置」を「想像」し、それをアーティファクトとして発表し始めたのだ。
『……なあ、皆。……人間の夢の中に潜入して、情報を盗み出す装置ってどう思う? ……絶対あるよな、そういうの! ……政府は、それを使って他国の首脳の弱みを握ってるんだぜ!』
『……いや、俺はもっと平和的なやつがいいな。……どんな料理でも一瞬で作り出せる分子調理マシンとか! ……ホシミコ女王は、グルメだったに違いない!』
その無限に広がる、想像力の奔流。
プロジェクト・キマイラの司令室では、橘紗英が、そのあまりにも混沌とし、そしてどこまでもコントロール不可能な民衆の物語創造のエネルギーを、モニター越しに静かに見つめていた。
彼女の顔には、もはや焦りの色も、安堵の色もなかった。
そこにあったのは、ただ巨大な自然現象を前にした一人の観測者の、深い、深い諦観だけだった。
(……もはや、我々が物語を作るのではない。……物語が、我々を、そしてこの世界を勝手に飲み込んでいく。……面白い。……面白いじゃないの、賢者様。……これこそが、貴方が望んだ混沌ですの……?)
◇
その頃。
全ての元凶である男は。
その混沌の震源地である日本に、いながらにして、その喧騒からは完全に隔絶された天空の城にいた。
彼は、ついに自らの究極の目標を達成していたのだ。
日本のどこか、人里離れた山奥。
彼がその異世界で稼いだ莫大な富を惜しげもなく注ぎ込んで作り上げた、究極のスローライフのための要塞。
それは、伝統的な日本の数寄屋造りの美しさと、SF世界アークチュリアの超技術が完璧に融合した、地上に現出した理想郷だった。
広大な敷地には、美しい苔の庭園と、鯉が泳ぐ池。
そして、その中央に佇む巨大な平屋の邸宅。
壁は自己修復機能を持つ特殊な漆喰で塗られ、縁側は浮遊魔法によって常に地面から数センチ浮いている。
もちろん、内部には源泉掛け流しの露天風呂、最新鋭のホームシアター、そして彼の魂そのものとも言うべき、地球の自転さえ計算に入れて設計された究極の防振床を持つゲーミング・サーバー・ルームが完備されていた。
彼は、その縁側で大の字になって寝転がっていた。
手には、最新のスマートフォン。
彼は、退屈しのぎに世間のニュースを眺めていた。
そして、彼の目に、あの特集記事が留まった。
『我々が夢見た未来は、過去にあった? ――昭和SFアニメに隠されたホシミコの超科学』
「…………へえ」
創は、どこか感心したように呟いた。
「……サイキック・ドライブか。……面白いこと考えるなあ、こいつら」
彼は、その記事をただの面白い読み物として楽しんでいた。
自分自身がその全ての原因であるなどとは、露ほども考えずに。
だが、その記事を読み進めるうちに。
彼のぐうたらな脳内に、一つの天啓が閃いた。
それは、これまでの彼の全ての行動原理を根底から覆す、新たな、そしてより高次の欲望の目覚めだった。
(………………サイキック・ドライブ)
彼は、その言葉を口の中で転がした。
(…………精神エネルギーで飛ぶ、宇宙船……)
彼の思考が、加速していく。
(………………いいな、それ)
そうだ。
いい。
すごく、いい。
(……あれさえあれば、俺のこの面倒な異世界ビジネス出張も、もっと楽になるんじゃないか……? ……わざわざ現地に行かなくても、この縁側で寝転がったまま思考するだけで、商品を届けたり、金貨を回収したりできるようになるんじゃないか……?)
そのあまりにもぐうたらで、そしてあまりにも魅力的な可能性。
それは、彼のスローライフ計画をさらなる高みへと引き上げる、究極のソリューションに思えた。
「…………よし」
創は、むくりと身を起こした。
その目には、新たな、そして最高に面白そうな「プロジェクト」を見つけた、プロジェクトマネージャーの輝きが宿っていた。
「……次の目標は決まったな。『サイキフィック・ドライブの調達』だ。……アークチュリアの銀河ネットで検索してみるか。……あるいは、もっとぶっ飛んだ超能力文明の世界でも探してみるか……」
世界の人々が、過去の物語の中に夢を見ているその裏側で。
その物語の創造主は、人々が生み出した新たな夢を追いかけて、未来の、そして遥か彼方の宇宙へとその思考を巡らせていた。
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも滑稽な物語の無限ループ。
その循環の中心で、ただ一人、全ての引き金を引きながら、その事実に全く無自覚な男は。
満足げにあくびを一つすると、自らの新たな「仕事」に取りかかるべく、重い腰を上げるのだった。




