第71話
神の視点は、世界を変える。
日本政府が賢者より賜りし究極の知の道具、『無限鑑定スクロール』。
その最初の神託がもたらした、あまりにも詩的で、そしてどこまでも深遠な『水』の真実。
それは人類の価値観に、静かで、しかし巨大な地殻変動をもたらした。
世界中で巻き起こった「#私の身近な奇跡」のムーブメントは、単なる一過性のインターネット上の流行では終わらなかった。
それは人々の心に深く、深く根を下ろし、世界のありとあらゆる文化の土壌を豊かに耕し始めたのだ。
環境問題への関心は、かつてないほどの高まりを見せた。
人々は川のせせらぎ、森の木漏れ日、そして一杯の水の中に、宇宙の創生からの奇跡の物語を見るようになった。
芸術家たちはその新たな感性にインスパイアされ、ありふれた日常の中に潜む美を描く、新しい芸術の潮流を生み出した。
そして何よりも、人々の心に小さな、しかし確かな変化が訪れた。
ほんの少しだけ、世界は優しくなった。
誰もが自らの足元にある当たり前の奇跡の価値に気づき、感謝するようになったのだから。
プロジェクト・キマイラが当初目論んでいた情報統制や国家の威信発揚などという、矮小な目的を遥かに超えて。
賢者の気まぐれな贈り物は、結果として、世界をより良い場所へと導きつつあった。
そのあまりにも皮肉で、そしてあまりにも幸福な現実を前にして。
官邸の地下深く、司令室に集う日本の最高首脳たちの心は、これまでにないほどの達成感と、そして一種の神聖な使命感に満たされていた。
彼らはもはや、ただの政治家や官僚ではなかった。
彼らは、神の御心を地上に実現するための代理人。
新たな時代の神官団であると、自らを認識し始めていた。
だが、神官には神官の苦悩がある。
彼らが次にその神の神託を仰ぐべき対象は、何なのか。
その問いは彼らの間で、新たな、そしてより深刻な神学論争を巻き起こしていた。
「……やはり次は、あの『絶対環境耐性シールド』を鑑定すべきです!」
長谷川教授が、その目を狂信的な輝きに満たして熱弁する。
「……あのアーティファクトに秘められた未知の物理法則を解き明かすことこそ、科学の進歩に貢献する我々の使命……!」
「……いや、待て」
その科学の暴走を制したのは、宰善総理の静かな、しかし重い一言だった。
彼は、あの歴史的な『水』の鑑定以来、どこか以前の老獪な政治家の顔とは違う、深い思慮と静けさを湛えた哲学者のような貌を見せるようになっていた。
「……諸君。……我々はまだ、焦りすぎている。……我々はまだ、自分たちの足元さえも見えてはおらんよ。……『水』の鑑定が我々に教えてくれた最も重要な教訓を、もう忘れたのかね?」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、その古びたスーツのポケットから、一枚の硬貨を取り出した。
どこにでもある、百円玉。
「……我々は、自然の摂理の一端を垣間見た。……だが、我々人類は自然の中だけで生きているわけではない。……我々は、我々自身の手で、もう一つの巨大な『自然』を作り上げてきた。……法、国家、経済……。……そして、その我々が作り上げた世界の全ての血流であり、そして全ての呪いでもあるこれ。……このちっぽけな金属の円盤の正体を、我々はまだ何一つ知らない」
彼は、その百円玉を指先で弾いた。
キィンという乾いた金属音が、静まり返った司令室に響き渡る。
「……神が作りたもうた奇跡の次に、我々が知るべきは。……神ならぬ人が作り出した、この最も身近で、そして最も業の深い『神』の正体ではないだろうか。……橘君。……次なる鑑定の対象は、これだ。……『貨幣』の真実を、我々は知るべきだ」
そのあまりにも深遠な問いかけ。
それは、もはやいかなる反論も許さない、絶対的な説得力を持っていた。
こうして、人類は自らが作り出した偶像の正体を暴くための、第二の神聖な儀式へとその歩みを進めることとなった。
◇
数日後。
再び、サイト・アスカの地下、純白のクリーンルーム。
黒曜石の祭壇の上に置かれていたのは、もはや水晶のグラスではなかった。
黒いベルベットの布の上に、ぽつんと置かれた一枚の使い古された百円玉。
その銀色の表面には無数の微細な傷が刻み込まれ、それはまるで、この硬貨がこれまで渡り歩いてきた何万、何億という人々の欲望と希望と、そして絶望の歴史そのものを物語っているかのようだった。
祭壇の前に立つのは、今度は、橘紗英ではなかった。
そこにいたのは、官房長官、綾小路俊輔その人だった。
彼は、この儀式の執行者に自ら名乗り出た。
この世界の全ての欺瞞と虚構を暴き出すその役目は、この国の誰よりも深くその欺瞞の中に生きてきた自分こそがふさわしいと。
彼は、いつもの人を食ったような笑みを消し、どこまでも冷徹な、そしてどこか物悲しい表情で『無限鑑定スクロール』を掲げた。
そして、その声はまるで判決を言い渡す裁判官のように、静かに、そして重く響き渡った。
「………………鑑定」
次の瞬間。
世界が、濁った黄金色の光に包まれた。
それは、『水』の鑑定の時の、あの生命の誕生を祝福するかのような清浄な蒼い光とは全く質の違う、どこまでも俗悪で、しかし抗いがたいほどに魅力的な光だった。
鑑定スクロールから放たれた光が、百円玉に降り注ぐ。
そして、クリーンルームの壁面に、新たな幻影が映し出された。
それは、歴史の奔流そのものだった。
物々交換を行う、原始の人々。
貝殻を貨幣として使う、古代の部族。
初めて鋳造された金貨を手に、歓喜する王。
株式市場の熱狂の中で叫び、そして絶望する現代の群衆。
そして、その全ての光景の裏側で、常に血と涙と裏切りと、そしてほんの僅かな愛と希望が渦巻いていた。
そのあまりにも人間臭く、そしてあまりにも業の深い歴史の走馬灯。
モニタリングルームでそれを見ていた日本の最高首脳たちは、もはや言葉もなかった。
そして、綾小路の脳内に、新たな神託が表示された。
それは、希望の詩ではなかった。
冷徹な解剖台の上に横たえられた人間の魂の、その残酷なまでの真実の記録だった。
鑑定結果
【名前】: 貨幣
【レアリティ】: ノーマル
【種別】: 偉大な、古い、古い、古い人類の発明品。全ての悪と善を背負う物。
【効果テキスト】:
[権能:価値の尺度]
あらゆる労働、資源、そして愛や時間といった抽象的な概念にさえ、標準化された定量的な尺度を与える。これにより、本来比較不可能な価値の交換(例:『一生分の労働力』と『一斤のパン』)を可能にする。
【権能:欲望の増幅】
人間の野心と貪欲の触媒として機能する。社会全体の『モチベーション』及び『生産性』のステータスに強力なパッシブ・ボーナスを与えるが、同時に、『腐敗』及び『格差』のデバフ効果を永続的にスタックさせ続ける。
【特性:信仰依存】
この物体の力は、その使用者の集団的な信仰心に完全に依存する。もしこの信仰が揺らげば、その価値はゼロへと収束する。それは、物理的な形を与えられた巨大な集団幻覚である。
【フレーバーテキスト】:
『神ならぬ人が作り出した、最も成功した神。
その価値の源泉は、金属の希少性ではない。
ただ、『価値がある』と億の魂が同時に信じ続ける、その巨大な集団幻想。
それは、見えざる鎖。
人を生まれながらにして縛り、そして時に翼を与える。
それは、渇きを癒さぬ泉。
飲めば飲むほど喉が渇き、人はその蜃気楼を追い求め、一生を終える。
その真の名は、『欲望』の定量化。
故に、これを持つことは世界を持つことと同義であり、
これに持たれることは魂を売ることと同義である』
「………………………………………………」
鑑定結果の最後の一文が、表示された後。
綾小路は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼の、常に人を食ったような笑みを浮かべていた唇が、固く結ばれている。
彼の蛇のように冷たい目に宿っていたのは、もはや皮肉ではなかった。
それは、自らが作り出した神の、そのあまりにも空虚な正体を直視してしまった、創造主の深い、深い絶望の色だった。
モニタリングルームは、墓場のような沈黙に包まれていた。
『水』の鑑定の後の、あの感動と一体感はそこにはなかった。
そこにあったのは、ただ気まずく、そしてどこまでも居心地の悪い自己嫌悪の空気だけだった。
「…………レアリティ……ノーマル、か」
長谷川教授が、がっくりと肩を落とした。
「……あれほどの奇跡である『水』が『ユニーク』で……。……我々人類の文明の全てを築き上げてきたこの『貨幣』というシステムが……。……たかが『ノーマル』だと……?」
その言葉は、彼の科学者としてのプライドを深く、深く傷つけた。
「……当然ですな」
綾小路が、静かに言った。
「……神が創りたもうた奇跡と、人が作り出した虚構。……その価値に、天と地ほどの差があるのは当たり前のこと。……我々は今日、それを思い知らされたのです。……ただ、それだけのことです」
そのあまりにも冷徹で、そしてあまりにも自己嫌悪に満ちた結論。
誰も、反論することはできなかった。
彼らは今、人類が自ら作り出した最も巨大な偶像の、その空っぽの正体を暴いてしまったのだ。
その日、深夜まで続いた緊急の閣議。
その議題は、ただ一つだった。
『――このあまりにも危険な真実を、世界に公表すべきか否か』
結論は、満場一致で決まった。
「…………否だ」
宰善総理が、重々しく言った。
「……『水』の真実は、人々に希望と調和をもたらした。……だが、この『貨幣』の真実は、世界に何をもたらす? ……『お前たちの信じる価値は全て幻だ』と告げられて、人々はどうなる? ……世界経済は崩壊し、社会は無秩序の混沌へと陥るだろう。……それは、人類の自殺行為に等しい」
彼は、立ち上がった。
「……我々は今、神の道具を手にした代償として、新たな、そして最も重い責務を負ったのだよ、諸君。……それは、人類をあまりにも残酷な真実から守るという責務だ」
こうして、彼らは新たな秘密の番人となった。
奇跡の守護者であると同時に、絶望的な真実の墓守として。
その壮大で、そしてどこまでも皮肉な運命を、彼らは静かに受け入れた。
そして、その全ての元凶である男は。
その頃、何をしていたかというと。
彼は、久しぶりに訪れた鋼鉄の街『ギア・ヘイム』で、鉄の女男爵セラフィーナ・フォン・アイゼンベルクと、次なるビジネスの商談をまとめていた。
「……なるほど。……ベーキングパウダーの次は、チョコレートですか」
セラフィーナが、その鋼鉄の義手で、創が差し出した甘く、そして僅かに苦い黒い菓子をつまみ上げた。
「……ええ、まあ」
創は、答えた。
「……これはまた、あなたの街の人々を骨抜きにする悪魔の食べ物ですよ。……つきましては、その対価として前回お約束いただいた金貨を、そろそろお願いしたいのですがね」
彼は、もはや完璧な商人として振る舞っていた。
その頭の中には、人類の根源的な苦悩も、貨幣の哲学的真実も、一欠片もなかった。
そこにあるのは、ただ次なるポーション代とスキルジェム代をいかにして効率よく稼ぐかという、極めてドライな計算だけだった。
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、今や、彼自身を最も彼がなりたくなかったはずの、ワーカホリックなビジネスマンへと完璧に変貌させていた。
そのあまりにも滑稽で、そしてどこか物悲しい真実を。
まだ、彼自身さえも全く気づいてはいなかったのである。




