第69話
神の玩具は、人間を狂わせる。
だが、時に神の視点そのものを垣間見せることで、矮小なる人間の魂を、静かなる畏敬の淵へと導くこともある。
日本政府が、賢者・猫より賜りし究極の知の道具。
無限に使える、『鑑定スクロール』。
そのあまりにも強大で、そしてあまりにも危険な力の最初の被験者として、何が、あるいは誰が選ばれるべきか。
官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの司令室では、連日連夜、日本の全ての叡智を結集した、激しい、しかしどこまでも実りのない議論が繰り広げられていた。
科学者たちは、彼らがそのちっぽけな脳で理解できないアーティファクトの解析を求めた。
軍人たちは、敵国の最新鋭兵器の弱点を暴くことを夢想した。
経済官僚たちは、未来の株価の動向を知ることを渇望した。
誰もが、その神の道具を、自らの欲望と好奇心を満たすための便利な奴隷として使役しようとしていた。
彼らは、まだ気づいていなかった。
神の道具は、決して人間の奴隷にはならないという、そのあまりにも当たり前の真実に。
その混沌と欲望の渦に終止符を打ったのは、やはりこの国の全てをその双肩に担う指導者、宰善茂総理大臣の、静かな、しかし鋼のような一言だった。
「…………もうよい」
彼は、疲れ果てた顔で、しかしその瞳の奥に深い、深い思慮の光を宿して言った。
「……我々は、少し頭を冷やすべきだ。……この数ヶ月、我々はあまりにも多くの奇跡を目撃しすぎた。……異世界のポーション、魔石、スキルジェム……。……そのあまりにも強烈な光に目が眩み、我々はいつの間にか、最も大切なことを忘れかけているのかもしれん」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、会議室のテーブルの上に置かれていた、何の変哲もない一つのグラスを手に取った。
その中には、秘書官が先ほど淹れたばかりの透明な液体が満たされていた。
水だ。
「……我々は、常に外に、外にと答えを求めてきた」
総理は、静かに語り始めた。
「……だが諸君。……考えてもみたまえ。……我々が今、立っているこの大地。……我々が今、吸っているこの空気。……そして、我々人間という存在の七割を占めるという、このありふれた液体。……これら全てが、そもそも奇跡ではなくてなんだというのだ?」
彼は、グラスの中の水を会議室の灯りにかざした。
その透明な液体が、きらりと光を反射する。
「……賢者様がもたらした奇跡の本質を理解しようというのであれば。……我々はまず、我々自身の足元に横たわる、最も身近な、そして最も偉大な奇跡から、学び直すべきではないだろうか。……橘君」
彼は、橘紗英に向き直った。
「……我々が最初に鑑定すべきは、これだ。……この何の変哲もない、ただの『水』の真実を、我々は知るべきだ」
そのあまりにも哲学的で、そしてどこまでも本質的な提案。
それは、司令室にいた全ての人間の心を打った。
そうだ。
我々は、いつの間にか驕り高ぶっていたのだ。
神の玩具を手に、神の視点を手に入れたと勘違いしていたのだ。
だが、我々はまだ、自分たちの足元にある世界のことさえ、何一つ理解してはいない。
会議室の空気は、一変した。
欲望と好奇の熱狂は静まり、代わりに、一つの純粋な真理の探求へと向かう厳粛な静寂が、その場を支配した。
◇
数日後。
サイト・アスカの、地下深く。
この歴史的な実験のために特別に設えられた、純白のクリーンルーム。
その中央には、黒曜石を削り出して作られた漆黒の祭壇が置かれ、その上に、たった一つ、完璧な球形に磨き上げられた水晶のグラスが鎮座していた。
グラスの中には、日本の南アルプスの地下三千メートルから汲み上げられ、そしてプロジェクト・プロメテウスの最新鋭の濾過技術によって、理論上考えうる全ての不純物を取り除かれた「超純水」が、静かに満たされていた。
それは、もはやただの水ではなかった。
それは、地球という惑星が持つ生命のエッセンスそのものを凝縮した、聖杯の中身だった。
その祭壇の前に、橘紗英が一人、静かに立っていた。
彼女は、いつもの黒いパンツスーツではない。
この神聖な儀式のために特別に用意された、巫女王ホシミコの時代の巫女装束を模したという、純白の絹の衣装にその身を包んでいた。
その姿は、もはや政府のエージェントではなかった。
それは、神の真理を受け取るための器となることを誓った、高位の巫女そのものだった。
ガラス張りのモニタリングルームでは、宰善総理をはじめとする日本の最高首脳たちが、固唾をのんでその光景を見守っていた。
「…………始めます」
橘の凛とした声が、静寂を破った。
彼女は、両手で恭しく、あの賢者より賜りし『無限鑑定スクロール』を掲げた。
そして、その古びた羊皮紙を、祭壇の上の水のグラスに向けた。
彼女の全ての精神が研ぎ澄まされ、一つの言葉へと収束していく。
その声は、彼女自身のものでありながら、まるで数千年の時を超えて響き渡る、古代の巫女の祈りのようだった。
「………………鑑定!」
次の瞬間。
世界が、蒼い光に満たされた。
スクロールは彼女の手の中で、まるで小さな恒星が生まれたかのように、まばゆい青白い光を放った。
その光は、一条のレーザーのように水のグラスへと注ぎ込まれる。
そして、グラスの中の水が、呼応するように内側から輝き始めた。
水は、もはや液体ではなかった。
それは、銀河を宿した小さな宇宙だった。
グラスの内壁に、星々が生まれ、星雲が渦を巻き、そして生命の最初の叫びがこだまする壮大な幻影が、ホログラムのように映し出されていく。
そのあまりにも神々しい光景。
モニタリングルームの誰もが、その美しさに魂を奪われていた。
そして、橘紗英の脳内に、直接、半透明の美しいウィンドウが浮かび上がった。
そこに記されていたのは、神の視点から語られる、一つの物質の叙事詩。
我々が「水」と呼ぶ、ありふれた奇跡の本当の姿だった。
鑑定結果
【名前】: 水 (H₂O)
【レアリティ】: ユニーク
【種別】: 奇跡の物質 / 生命の溶媒 / 星々の記憶
【効果テキスト】:
[特性:生命の揺り籠]
あらゆる炭素系生命体の発生、及び進化のための根源的な触媒として機能する。この物質が液体の状態で安定して存在する惑星環境において、生命が自然発生する確率は、受動的に「+1000%」のボーナス補正を受ける。
[特性:万物の溶媒]
既知のいかなる液体よりも広範な物質を溶解させ、複雑な化学反応を可能にする。栄養の運搬、老廃物の排出、遺伝情報の伝達など、全ての生命活動の維持に不可欠な機能。
[特性:状態変化]
極めて狭く、そして普遍的な温度領域において、固体(氷)、液体(水)、気体(水蒸気)という三つの異なる相へと自由に変化する。この特性こそが、惑星の気候システムと天候を支配する根源的なエンジンである。
[特性:記憶の媒体]
その特異な水素結合ネットワークは、自らが経験したあらゆる環境のエネルギー的な情報を、微細な振動パターンとしてその構造内に記録、保持する。この宇宙的な記憶は、通常、いかなる手段を以ってしても読み解くことはできない。
[備考]
この物質のレアリティは、『ユニーク』に分類される。銀河標準宇宙において、これほど安定し、かつ生命に最適な溶媒が普遍的に存在する惑星環境は、統計上、極めて稀有な奇跡である。
――ただし、選ばれし『水の惑星』において、この奇跡は空気のようにありふれた日常の風景に過ぎない。
【フレーバーテキスト】:
汝、足元を見よ。
汝が当たり前と信じるその日常こそが、
宇宙が百億年の孤独と沈黙をかけて紡ぎ出した、
ただ一度きりの奇跡であると知れ。
今ある物を、奇跡と思いなさい。
それは、最初の星々が鍛え上げた水素の記憶を宿し。
超新星の灼熱の心臓で生まれた、酸素の夢を見る。
彗星の涙として氷の旅路を越え、
この青い揺り籠に、最初の雨として降り注いだ。
それは、空を映す鏡であり、
夜明けを抱く海である。
全ての物語の始まりであり、
全ての物語が溶けて消える、最後の静寂である。
それは、全てであり、
そして、何ものでもない。
それは、ただの………………水だ。
「………………………………………………」
鑑定結果の最後の一文が表示された後。
橘紗英は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼女の目から、一筋、透明な雫がこぼれ落ち、純白の衣装の襟を濡らした。
彼女は、泣いていた。
だが、それは悲しみの涙ではなかった。
それは、あまりにも巨大で、そしてあまりにも美しい真理に触れてしまった人間の魂が流す、畏敬と、そして感謝の涙だった。
モニタリングルームは、死んだように静まり返っていた。
誰もが、そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも詩的な神の言葉の前に、ただひれ伏すことしかできなかった。
長谷川教授は、わなわなと打ち震え、その場にひざまずいていた。
「…………美しい……。……なんという、なんという美しさだ……。……これこそが、科学が追い求め続けた究極の真理の姿……!」
綾小路官房長官でさえも、その常に皮肉な笑みを浮かべていた唇を戦慄かせ、言葉を失っていた。
やがて、その静寂を破ったのは、宰善総理の深い、深い溜め息だった。
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、実験室へと入っていくと、祭壇の前に立ち、その水晶のグラスをそっと手に取った。
彼は、その中に満たされたただの水を、まるで神の血でも見るかのように見つめた。
そして彼は、静かに呟いた。
その声は、この国の指導者としての全ての重圧から解き放たれた、一人のちっぽけな、しかし尊い人間の声だった。
「…………我々は……」
彼は、言った。
「……我々は、ずっと異世界の奇跡ばかりに目を奪われておったな。……ポーションだの、魔石だのと。……だが、本当の、最大の奇跡は……。……ずっと、ここにあったのだな。……このグラスの中に。……この星の上に。……我々の、すぐ足元に……」
彼は、そのグラスをゆっくりと口元へと運んだ。
そして、その人生で初めて、本当の意味で「水」を味わうかのように、一口、その液体を含んだ。
その喉を通り過ぎていく、清涼な感触。
その全身の細胞へと染み渡っていく、生命の感覚。
その瞬間、彼の心の中の全ての迷い、全ての不安、全ての驕りが、綺麗さっぱりと洗い流されていくような気がした。
彼らは、神の道具を手に入れた。
だが、その道具が彼らに最初に教えたのは、新たな力を手に入れる方法ではなかった。
それは、自分たちが既に手にしている奇跡の本当の価値を、知るということだった。
プロジェクト・キマイラは、この日を境に、その貌を変えた。
それは、もはや世界を欺くための壮大な嘘ではなかった。
それは、世界に存在する全てのありふれた奇跡の本当の価値を再発見し、そしてそれを世界中の人々と分かち合うための、新たな神話創造の物語へと、その舵を切り始めたのだ。
そのあまりにも静かで、そしてあまりにも深遠なパラダイムシフト。
その変化を、まだ世界の誰も、そしてそのきっかけを作った張本人でさえも、全く気づいてはいなかった。
彼はその頃、おそらくはどこか別の世界の酒場でエールでも呷りながら、「水割りは邪道だ」などと、くだらないことを考えていたに違いなかったのだから。




