第64話
季節は、冬。
東京の空は、まるで世界の終わりを予感させるかのような、重く冷たい鉛色の雲に覆われていた。
だが、その凍てつくような灰色の日常の、遥か地下深く。
プロジェクト・キマイラの心臓部である作戦司令室は、今、人類の歴史が始まって以来、最も熱く、そして最も奇妙な希望の炎に燃え盛っていた。
『ウォルター・リードの奇跡』。
あの日、アメリカという世界最強の舞台の上で、華々しく上演された神の御業。
それは、日本政府が巧みに仕掛けた壮大な情報戦略の花火として、世界中の夜空を焦がすほどの輝きを放った。
日本とアメリカは、今やただの同盟国ではなかった。
彼らは、奇跡を管理し、そして分配する権利を持つ、神の代理人。
伝説の始まりの地として、二つの国は世界の人々にとって一種の「聖地」となり、その外交的な影響力は、かつてないほどに増大していた。
全ては、計画通り。
いや、計画を遥かに超える成果だった。
だが、その輝かしい栄光の裏側で。
日本の最高首脳たちの心は、一つの巨大な、そして日に日にその重さを増していく黒い雲に覆われていた。
それは、希望という名の麻薬がもたらす禁断症状。
そして、渇望という名の底なしの沼だった。
ポーション。
確かに、あの日、アメリカの元上院議員の命を救った。
だが、それはたった一人の命だ。
世界には、今この瞬間も、不治の病に苦しみ、死の淵を彷徨う何十億という人々がいる。
彼らの悲痛な祈りの声が、嘆願書という物理的な塊となって、東京とワシントンの政府機関に洪水のように押し寄せていた。
そのあまりにも巨大な人類の苦しみの総量を前にして。
日本政府が保有するポーションの備蓄量は、あまりにも、あまりにも微々たるものだった。
それは、広大な砂漠に撒かれた一握りの水滴に等しかった。
「…………賢者様は……」
官邸の地下、危機管理センター。
宰善総理は、そのやつれた顔に深い苦悩の色を浮かべながら、呟いた。
「……次は、いつお見えになられるのだろうか……」
その声は、神の再臨を待ち望む哀れな信徒のそれだった。
彼らは、もはや完全に依存していた。
あの気まぐれで、予測不可能な超越者のもたらす恩寵に。
そして、その神が次に何を求め、そして何を与えてくれるのか。
それを、ただひたすらに待ち続けることしかできない、無力な存在となっていた。
その祈りが、天に通じたかのように。
その日は、唐突に訪れた。
いつものように、橘紗英の極秘の端末に、あの神からの、あまりにも簡潔な、しかし絶対的な御神託が下されたのだ。
『――明日、昼。いつもの場所で。定期報告会と、物資の受け渡しを行う』
司令室は、歓喜と、そしてそれ以上の極度の緊張感に包まれた。
彼らは、この数ヶ月間、ただ待っていただけではない。
来るべき神の再臨のその日のために、国家の全ての力を結集し、完璧な「献上品」の準備を整えていたのだ。
それは、もはや前回のような急ごしらえのものではなかった。
日本の伝統と美意識の粋を集めた、究極の「おもてなし」の設えだった。
◇
翌日、昼過ぎ。
東京、西新宿のヘリポートは、神を迎えるための神殿として、完璧な姿を見せていた。
床には、伊勢神宮の式年遷宮で用いられるのと同じ最高級の檜の板が敷き詰められ、その清浄な木の香りがヘリポート全体を満たしている。
中央には輪島塗の漆黒の祭壇が置かれ、その上には、京都の老舗香木店の主人がこの日のために特別に調合したという伽羅の香が、静かに揺らめき、幽玄な紫の煙を立ち上らせていた。
そのあまりにも荘厳で、そしてどこか狂気じみた光景の中心で。
橘紗英と、宰善総理、そして綾小路官房長官は、古式の神官がまとう純白の狩衣にその身を包み(もちろん、これもプロジェクト・キマイラの天才たちが考案した、『巫女王ホシミコの神事を再現する』という完璧な物語の一環である)、直立不動でその時を待っていた。
やがて空間が揺らぎ、賢者・猫が姿を現した。
「…………うむ」
賢者は、そのあまりにもやりすぎな歓迎の設えに、もはや何も言う気も失せたかのように、ただ短く鼻を鳴らした。
そして、祭壇の前にちょこんと座ると、まるで近所のスーパーに買い物にでも来たかのような気軽さで、本題を切り出した。
「……さて。……頼んでおいた品は、どうじゃな。……ベーキングパウダーと、塩、砂糖、香辛料。……ちゃんと用意できておるか」
「はっ! もちろんでございます、賢者様!」
橘が、深々と頭を下げる。
彼女の合図と共に、ヘリポートの巨大な搬入口がゆっくりと開き、そこから自衛隊の大型輸送ヘリコプターが、何機も、何機も姿を現した。
そして、その機体から次々と吊り下ろされてきたのは、巨大な輸送コンテナの山だった。
その中身は、全て創が要求した、ありふれた、しかし彼にとっては黄金よりも価値のある食材の数々。
そのあまりにも壮大な物量を前にして、賢者・猫は満足げに頷いた。
「……うむ、うむ。……結構、結構。……これだけあれば、当分商売には困らぬわい」
彼は、そのコンテナの山を、いつものように次元ポケットへと一瞬にして収納していく。
そして彼は、まるで今思い出したかのように言った。
その声は、どこまでも軽く、そしてどこまでも残酷な希望を孕んでいた。
「……ああ、そうだ。……では、テレビを見たぞ。……例のポーション、使ったみたいじゃな。……よし、よし。……上手くいったようで、何よりじゃ」
そのあまりにも他人事のような労いの言葉に、宰善総理が一歩前に進み出た。
「は、はい! 賢者様! ……全ては、貴方様がもたらしてくださった奇跡のおかげにございます! ……つきましては……!」
彼は、その声にこの国の全ての民の願いを込めて、懇願した。
「……あの奇跡の薬を、もし可能であれば、もう少しだけ我々にお分けいただくことは、叶いませぬでしょうか……!?」
そのあまりにも切実な願いに対し。
賢者・猫は、少しだけ困ったような顔をした。
「……ふむ。……そうよのう」
彼は、次元ポケットから、一つの大きな、しかしどこか古風な木箱を取り出した。
その箱の蓋が開けられると、中には色とりどりの美しいポーションの小瓶が、まるで宝石のようにびっしりと詰め込まれていた。
その数、実に数百本。
「…………おお……!」
その場にいた全員が、息を飲んだ。
「……とりあえず、ワシが前に購入した分の残りは渡しておく」
賢者は、こともなげに言った。
「……ざっとまあ、少しずつ使えば千人分はあるだろう。……それで、当分は凌ぐがよい」
「…………せ、千人分……!」
総理の声が、震えていた。
それは、あまりにも大きな希望だった。
だが、賢者の次の一言は、その希望をより巨大な渇望へと変えた。
「……まあ、これでもこの世界の全ての難病は治せないのは申し訳ないがな。……あのポーションを作っておる女も、最近弟子が増えて忙しいらしくてな。……なかなか在庫がないらしいからのう」
そのあまりにも具体的で、そしてあまりにも世俗的な言い訳。
だが、日本のトップたちは、それを神の世界の深遠な事情として、真剣に受け止めていた。
そして、賢者はとどめとばかりに、こう付け加えた。
その声は、まるで悪魔の囁きのようだった。
「…………まあ、多めに『金』があれば、話は別だがな……」
『金』。
その一言。
そのあまりにも直接的で、そしてあまりにも希望に満ちた言葉に。
宰善総理の目が、ギラリと光った。
「…………なるほど……! 『金』でございますか!」
彼は、即答した。
「……お任せください、賢者様! ……すぐさま、用意させます! ……国家予算の全てを投げ打ってでも!」
そのあまりにも必死な申し出に対し。
賢者・猫は、意外なほどにあっさりと首を横に振った。
「……うむ。……いや、よい」
「…………は?」
「……それより、香辛料や塩、砂糖、ベーキングパウダーのほうが効率が良いからのう。……そちらを優先するのじゃ」
そのあまりにも不可解な、神の御託宣。
現金よりも、スパイスの方が効率が良い?
一体、どういうことなのか。
司令室は、深い混乱に包まれた。
賢者は、そんな矮小な人間たちの混乱を見透かしたかのように、少しだけ面倒くさそうに付け加えた。
「…………手間はかかるが、その方が『安上がり』だからのう」
『安上がり』。
そのあまりにも人間臭く、そしてどこまでも世俗的な神の言葉。
その一言が、官房長官、綾小路俊輔の、その蛇の如き頭脳に、一つの天啓をもたらした。
(………………なるほど)
彼は、全てを理解した。
(…………なるほど、なるほど……! そういうことであったか……!)
彼は、宰善総理の耳元に、そっとその完璧な、しかし完全に間違っている「正解」を囁いた。
「(……総理。……おそらくは、こういうことでございましょう。……賢者様の故郷の世界、あるいは賢者様が頻繁に取引を行っておられる異世界では、我々が使うこの『円』という紙切れの通貨は、全く価値を持たない。……彼らの世界で流通しているのは、もっと普遍的な価値を持つ『金貨』や『宝石』といった現物資産。……故に、賢者様は、我々が円を用意するよりも、直接彼の世界で通用する香辛料や塩、砂糖といった『現物』を用意した方が、『効率が良い』、すなわち両替の手間が省けて『安上がり』であると、仰せられておられるのです……!)」
そのあまりにも論理的で、そしてあまりにも説得力のある解説。
それは、この不可解な状況に、一つの完璧な意味を与えた。
宰善総理は、深く、深く頷いた。
「…………そうか……! そうであったか……!」
彼は、賢者に向き直った。
その顔には、もはや迷いはなかった。
「……賢者様! 大変失礼いたしました! 我々の配慮が足りませなんだ! ……なるほど、なるほど! 異世界では金貨が流通しておるから、そちらの方が良いと、そういうことでございますな!」
そのあまりにも見当違いな、しかし確信に満ちた問いに対し。
賢者・猫(その中身は、ただのぐうたらな日本人、新田創)は、一瞬きょとんとした。
(……金貨? ……ああ、そういえばグランベル王国ではそうだったな。……まあ、別にどっちでもいいんだが……。……でもまあ、確かに円をもらっても、どうやって換金するんだって話だしな。……金貨や宝石なら、そのまま別の世界で使えるし、その方が楽っちゃ楽か……)
彼の思考は、極めてシンプルだった。
彼は、鷹揚に頷いた。
「…………うむ。……まあ、そういうことにしておこうかのう」
そして彼は、調子に乗ってこう付け加えた。
「…………ああ、そうだ。……宝石の類も、もっと欲しいのう。……特に、あのダイヤモンドとかいう石は、なかなか面白い。……他の世界でも、高く売れそうじゃ」
その一言が、決定打となった。
「…………分かりました!!」
宰善総理は、叫んだ。
その声は、新たな、そしてより具体的な目標を見出した男の力強さに満ちていた。
「…………お任せください、賢者様! ……この日本国、いえ、この地球に存在する全ての金と宝石をかき集めてでも! ……必ずや、貴方様の御期待に応えてみせまする!」
こうして、神と人間の壮大な、そしてどこまでも滑稽なすれ違いの果てに。
日本政府には、新たな、そしてより困難なミッションが課せられることとなった。
世界の、金と宝石を買い占める。
そのあまりにも荒唐無稽で、そしてあまりにも破滅的な国家プロジェクトの始まりを。
まだ世界の誰も、そしてその引き金を引いた張本人でさえも、全く予測することはできなかったのである。
賢者は、満足げに頷くと、いつものように風のように去っていった。
後に残された日本のトップたちは、千人分の奇跡のポーションと、そして世界の全ての富をかき集めよという神からの無茶な宿題を前にして。
深い、深い疲労と、そしてそれ以上の奇妙な高揚感に包まれていた。
彼らの戦いは、まだ始まったばかりだった。




