第63話
神の玩具は、ついに人間の手に委ねられた。
そのあまりにも強大で、そしてあまりにも甘美な奇跡の液体。
ポーション。
日米両政府によるあの歴史的な共同声明は、世界中に希望という名の巨大な熱狂の炎を燃え上がらせた。
だが、その輝かしい炎の裏側で。
ワシントンのホワイトハウスの最も奥深く、オーバルオフィスでは、人類の歴史上最も困難で、そして最も不遜な「選別」のための、静かで、しかし熾烈な戦いが繰り広げられていた。
誰が最初に、神の恩寵を受けるのか。
その一人を選ぶという、神の如き権力。
それは、アメリカ合衆国大統領にとって、これまでのいかなる軍事的、あるいは政治的な決断よりも、遥かに重く、そして遥かに危険な選択だった。
「……以上が、本日までに世界中から我が国に寄せられました、『被験者』候補の嘆願書の集計結果です、ミスター・プレジデント」
国務長官が、そのやつれた顔に深い疲労の色を浮かべながら、分厚い報告書の束を大統領執務机の上に置いた。
その数は、既に数百万件を超えていた。
末期の癌に苦しむ幼い少女からの、クレヨンで描かれた拙い絵。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)によって、日に日に動かなくなっていく自らの体を嘆く、若き物理学者の悲痛な手紙。
紛争地帯で、地雷によって両足を失った元兵士からの、魂の叫び。
その一つ一つが、人間の絶望と、そして最後の一縷の希望を乗せた、あまりにも重い祈りの塊だった。
大統領は、その報告書の山を、ただ黙って見つめていた。
その肩に、世界の全ての苦しみがのしかかってくるかのようだった。
「……どう思うね、諸君」
彼は、かすれた声で、そこに集まった側近たちに問いかけた。
「……我々は、この中からたった一人を選ばねばならん。……神でもない、我々がだ」
そのあまりにも重い問いに、誰も即答することはできなかった。
沈黙を破ったのは、国防長官だった。
「……大統領。……政治的な判断を度外視して申し上げるならば、……私はやはり、国民的な英雄を選ぶべきであると考えます。……例えば、あのアフガニスタンでその身を挺して仲間を救い、名誉勲章を受章したマイク・ライリー軍曹。……彼は今、戦場で浴びた劣化ウラン弾の影響で骨肉腫に侵され、余命いくばくもないと聞いております。……彼を救うことは、この国の全ての兵士たちの士気を、最大限に高めることでしょう」
それは、愛国心に満ちた正論だった。
だが、その正論に、大統領首席補佐官が冷徹な現実論を突きつけた。
「……長官のお気持ちは分かります。……ですが、それはあまりにも軍事色が強すぎる。……世界は、この奇跡をアメリカの軍事力強化のための道具と見なすでしょう。……そうなれば、中国やロシアを不必要に刺激することになる」
彼は、続けた。
「……政治的に最も安定した選択肢は、やはり子供です。……それも、メディアがこぞって取り上げるような、フォトジェニックな子供。……例えば、このリストにあるオハイオ州のリリー・ホワイトちゃん。……六歳。……稀少な遺伝子疾患で、日に日に視力を失いつつある。……金髪で、天使のような笑顔の少女。……彼女が、奇跡によって再び光を取り戻す。……これ以上の感動的な物語がありますか? ……来年の中間選挙を考えれば、これ以上の得策は……」
そのあまりにも計算され尽くした政治的な提案に、部屋の空気が凍りついた。
人の命さえも選挙の道具として利用しようとする、その冷徹さ。
だが、それこそがこのワシントンという街の現実だった。
「………………」
大統領は、何も言わなかった。
彼は、ただ目を閉じ、深く、深く思考の海に潜っていた。
英雄か、子供か。
軍事的なデモンストレーションか、政治的なプロパガンダか。
どちらを選んでも、選ばれなかった者たちからの怨嗟の声が上がるだろう。
そのあまりにも重い決断のプレッシャーに、彼の精神はすり減っていく。
その膠着した空気を打ち破ったのは、これまで黙って議論を聞いていた一人の男の、静かな、しかし確信に満ちた声だった。
それは、このプロジェクトの日本のカウンターパート、橘紗英と常に渡り合ってきた、あの老獪な日本の官房長官、綾小路と、唯一互角に渡り合えるであろうこの国の影の実力者。
CIA長官、その人だった。
「…………大統領」
彼は言った。
「……なぜ我々は、そんな面倒な二者択一をしなければならないのですかな?」
「……どういう意味だね?」
「……英雄も子供も、両方救えば良い。……いえ、このリストにある全ての人間をです。……ただし、それはもう少し先の話だ」
CIA長官は、その氷のような目で大統領を見据えた。
「……最初の一人目は、英雄でも子供でもあってはならない。……それは、あまりにも感情的すぎる。……最初の一歩は、もっと冷静に、そして戦略的に踏み出すべきです。……そしてその選択は、我々アメリカがこの奇跡の主導権を完全に握るための、最も効果的な布石でなくてはならない」
彼は、一枚のファイルをテーブルの中央に滑らせた。
「……私が推薦するのは、この男です」
そこに映し出されていたのは、一人の穏やかな笑みを浮かべた、白髪の老人の写真だった。
「……彼の名は、アーサー・トンプソン。……元上院議員。……御年八十八歳。……第二次世界大戦の英雄であり、戦後は五十年に渡り議会でこの国のために尽くしてきた生きる伝説。……党派を超えて、全ての議員から尊敬を集める偉大なる政治家。……そして現在、末期の膵臓癌に侵され、ホスピスでその最後の時を静かに待っておられる」
その名前に、その場にいた誰もが息を飲んだ。
アーサー・トンプソン。
この国の良心の象徴とも言うべき、偉大な名。
「……彼を選ぶのです」
CIA長官は、静かに、しかしきっぱりと言った。
「……彼ならば、いかなる政治的な批判もありえない。……そして何よりも、彼は我々政府の内側の人間だ。……情報のコントロールがしやすい。……そして、彼が奇跡的に回復した後、彼がその口から発する一言一句は、聖書の言葉よりも重く、世界中の人々の心に響き渡るでしょう。……『この奇跡は、我が偉大なる祖国アメリカと、その勇敢なる友人、日本の手によってもたらされた神の祝福である』……と。……これ以上の完璧な広告塔が、他におりますかな?」
そのあまりにも完璧で、そしてどこまでも計算され尽くした提案。
オーバルオフィスは、深い沈黙に包まれた。
大統領は、しばしその老政治家の穏やかな写真を見つめていた。
そして、やがて深く、深く頷いた。
「………………分かった。……アーサー・トンプソン元上院議員に、決定する。……直ちに、ご家族に連絡を。……これは、命令ではない。……あくまで、『お願い』だ。……人類の未来のために、その尊いお体をお貸しいただけないかと」
こうして、人類史最初の奇跡の被験者は決定された。
その選考プロセスは、「世界中から寄せられた嘆願書を厳正に審査した結果、最も象徴的な人物として選ばれた」と、公式には発表された。
その裏側で繰り広げられた冷徹な政治的計算など、もちろん世界中の誰も知る由もなかった。
◇
そして、運命の日。
ワシントンD.C.郊外に位置する、ウォルター・リード米軍医療センター。
その一室は、今や世界の中心と化していた。
部屋は最新鋭の医療機器で埋め尽くされ、その中央のベッドに、アーサー・トンプソン元上院議員が静かに横たわっていた。
その体は病によって痩せ衰え、その呼吸はか細く、浅い。
だが、その瞳の奥には、まだかつての偉大なる政治家の知性と、そして自らの運命を受け入れた人間の、静かな覚悟の光が宿っていた。
そのベッドの周りを、日米の最高の医療チームが、固唾をのんで取り囲んでいた。
アメリカ側のチームリーダーは、もちろんエヴリン・リード博士。
そして日本側からは、この歴史的な瞬間に立ち会うため、特別に派遣された遺伝子工学の権威、神崎麗子博士の姿があった。
彼女たちの背後、ガラス張りのモニタリングルームでは、大統領をはじめとする米政府の首脳部と、そして衛星回線で結ばれた日本の宰善総理や橘紗英が、その一部始終を見守っていた。
世界中の何十億という人々が、テレビやインターネットの生中継に釘付けになっていた。
「…………始めましょう」
エヴリン・リードが、静かに言った。
神崎麗子が、頷く。
彼女の手によって、厳重な生体認証ロックがかけられたチタン製のケースが開けられた。
中から現れたのは、一つの美しいガラスの小瓶。
その中で、穏やかな青い光を放つ液体。
『星の涙』。
その奇跡の一滴が、マイクロピペットで吸い上げられ、トンプソン元議員の点滴のチューブへと、静かに注入された。
時間は、止まったかのようだった。
誰もが息を殺し、奇跡が起こるその瞬間を待った。
数秒の、永遠のような沈黙。
そして、それは始まった。
最初に変化が現れたのは、ベッドサイドのモニターだった。
これまで弱々しく不規則な波形を描いていた心電図が、突如として力強い、そして完璧なリズムを刻み始めたのだ。
血圧、血中酸素濃度、脳波。
全てのバイタルサインが、信じられないほどの速度で正常値へと回復していく。
「……すごい……」
若い医師の一人が、かすれた声を漏らした。
次に、変化はトンプソン元議員自身の体に現れた。
死人のように土気色だったその肌が、内側から温かい光が灯ったかのように、みるみるうちに健康的な血の色を取り戻していく。
深く刻み込まれていた苦悶の皺が和らぎ、その表情が穏やかな眠りのそれへと変わっていく。
そして、メインモニターに映し出されていた彼の体内のリアルタイムMRIスキャン映像が、その場にいた全ての人間を戦慄させた。
彼の膵臓に巣食っていた、巨大な癌細胞の塊。
その禍々しい影が。
まるで朝霧が晴れるかのように、端からゆっくりと、しかし確実に消滅していくのだ。
ポーションの成分が血流に乗って癌細胞に到達した瞬間、その異常な細胞だけを選択的に攻撃し、その遺伝子情報を正常な状態へと書き換え、そして自壊へと導いていく。
そのプロセスは、もはや医療ではなかった。
それは、生命のプログラムコードに直接アクセスし、そのバグを修正する、神のデバッグ作業だった。
「…………ビューティーふぉー……」
モニタリングルームでその光景を見ていた長谷川教授が、恍惚とした表情で呟いた。
「…………美しい……! なんと、なんと美しい光景だ……! 無駄がない……! 完璧な調和……! これこそが、生命の本来あるべき姿なのだ……!」
彼の目からは、大粒の涙が溢れ出ていた。
それは、神崎も、エヴリンも、そしてその場にいた全ての医療関係者が共有する感情だった。
彼らは今、人類の歴史上初めて、死という絶対的な敵に対する、完全な勝利の瞬間を目撃していたのだ。
それは、魔法のように完璧だった。
数分後。
モニター上の癌細胞の影は、完全に消え失せていた。
そして、それまで静かに眠っていたアーサー・トンプソン元上院議員が、ゆっくりとその瞼を開いた。
彼は、しばしぼんやりと白い天井を見つめていたが、やがてその意識が完全に覚醒した。
彼は、ゆっくりとその上半身を起こした。
その動きには、つい数分前までの、死を待つだけの老人のそれとは思えないほどの力強さがみなぎっていた。
彼は、自分の両手を、信じられないといった顔で見つめた。
そして、彼は言った。
その声は、かすれてはいたが、かつての偉大なる政治家の威厳を取り戻していた。
「………………のどが渇いたな。……水を一杯、もらえないだろうか」
そのあまりにも平凡で、そしてあまりにも力強い一言。
それが、人類の新たな時代の始まりを告げるファンファーレとなった。
実験室は、爆発したような歓声と、そして感動の嗚咽に包まれた。
医師たちが抱き合い、涙を流している。
モニタリングルームでは、大統領がその威厳も忘れ、ガッツポーズを作っていた。
そのニュースは、瞬時に世界中を駆け巡った。
『奇跡は起きた! トンプソン元上院議員、癌から完全回復!』
『人類は、死を克服した!』
世界は、歓喜の渦に包まれた。
ニューヨークのタイムズスクエアでは、見知らぬ人々が抱き合い、その奇跡を祝福した。
パリのシャンゼリゼ通りでは、車のクラクションが祝砲のように鳴り響いた。
バチカンのサン・ピエトロ広場では、人々がひざまずき、神に感謝の祈りを捧げた。
全ての難病は、例外なく治癒する。
その事実は、もはや希望的観測ではない。
揺るぎない現実として、世界中に認識されたのだ。
その日の夕方。
ホワイトハウスのローズガーデンで、緊急の記者会見が開かれた。
壇上に立ったのは、アメリカ合衆国大統領。
そしてその隣には、少しやつれてはいるものの、自らの足でしっかりと立ち、穏やかな笑みを浮かべるアーサー・トンプソン元上院議員、その人の姿があった。
そのあまりにもドラマチックな光景に、世界中の記者たちが息を飲んだ。
大統領は、その熱狂を背に、高らかに宣言した。
「……我が友人、アーサー・トンプソンは帰ってきた! ……そして今日この日、人類は新たな夜明けを迎えたのだ! ……この偉大なる奇跡は、我がアメリカ合衆国の科学力と、そして我々の最も勇敢で、そして最も信頼すべき友人、日本との揺るぎない友情の絆によってもたらされた! ……我々は、共に手を取り合い、病も死も存在しない輝かしい未来へと、人類を導いていくことを、ここに誓う!」
そのあまりにも力強く、そしてどこまでも自己中心的で、しかし誰も反論することのできない勝利宣言。
世界は、その言葉を受け入れるしかなかった。
この日を境に、アメリカと日本は、もはやただの先進国ではなくなった。
彼らは、奇跡を管理し、そして分配する権利を持つ、神の代理人。
伝説の始まりの地として、二つの国は、世界の人々にとって一種の「聖地」となったのだ。
東京とワシントンの大使館には、奇跡の治療を求める世界中からの嘆願書が洪水のように押し寄せ、二つの国の外交的な力は、かつてないほどに増大していった。
その頃。
全ての元凶である男は。
東京、中野区の薄暗いワンルームマンションの、ゲーミングチェアの上で。
久しぶりに試してみた自らのアーティファクトの一つ、『囁きの羅針盤』の性能に、一人感心していた。
彼は、昨夜どこかに置き忘れてしまったテレビのリモコンを探していたのだ。
羅針盤の針は、数秒間迷うように震えた後、ぴたりと部屋の隅に積み上げられた空のピザの箱の山を指し示した。
創は、その山を面倒くさそうに崩した。
すると、その一番下から、彼が探し求めていたリモコンが姿を現した。
「……おお。……あった、あった。……へえ、こいつ結構使えるじゃん」
彼は、満足げに頷いた。
そして、その手に入れたリモコンでテレビの電源を入れた。
画面には、ちょうどホワイトハウスからの緊急記者会見の映像が映し出されていた。
感動的なBGMと共に、回復したトンプソン元議員の元気な姿と、それを祝福する世界中の人々の熱狂が映し出されている。
創は、その映像を、まるで他人事のようにぼんやりと眺めた。
そして、ただ一言、誰に聞かれることもなく呟いた。
「…………へー。……あのポーション、使ったんだ。……ちゃんと効いたみたいで、良かったな」
彼の心には、人類を救ったという自覚も、責任も、そして感動も、一欠片もなかった。
それは、まるで自分が書いたプログラムのデバッグが無事に完了したのを、確認したエンジニアのような、極めてドライな感想だった。
彼は、その歴史的なニュースにすぐに興味を失うと、ザッピングを始め、深夜のアニメの一挙放送を見つけると、満足げにチャンネルを固定した。
人類の新たな時代の幕開けを告げる、壮大なファンファーレのすぐ隣で。
神は、ただ静かに、そしてどこまでもぐうたらに、自らのスローライフを満喫していた。
そのあまりにも巨大で、そしてあまりにも滑稽な真実を。
まだこの世界の誰も、知る由もなかったのである。




