表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/151

第62話

 季節は冬の最も深い場所へと、その歩みを進めていた。

 東京の空は鉛色の雲に覆われ、時折みぞれ混じりの冷たい雨が、アスファルトを黒く濡らしていた。

 だが、その凍てつくような灰色の日常の、遥か地下深く。

 茨城県筑波研究学園都市の地下三百メートルに広がるサイトアスカ第一医療研究所は、今や人類の歴史が始まって以来、最も熱く、そして最も神聖な奇跡の炎が燃え盛る神殿と化していた。

 賢者がもたらした神々の置き土産。

『クリムゾン・ティア』、『万病の霊薬パンアシア』、そして『若返りの秘薬エリクサー・オブ・ユース』。

 それらの奇跡のポーションは、この数ヶ月の間、日本の医療界の全ての叡智を結集した、徹底的な基礎研究と動物実験の対象となっていた。

 そしてその結果は、研究者たちのちっぽけな人間の想像力など、まるで矮小な玩具のようにいとも容易く打ち砕いてしまうほどの、圧倒的な「完璧さ」を証明し続けていた。

 致死率100%の新型ウイルスを投与された実験用のサルが、ポーションを一滴経口摂取しただけで、数時間後にはケージの中で元気にバナナを食べている。

 生まれつき心臓に重い疾患を抱えていた老犬が、その胸にポーションを注射された翌日には、若い頃のように研究施設の廊下を元気に走り回っている。

 そして、遺伝子操作によって人為的にアルツハイマー病を発症させられたマウスの脳内に直接ポーションを投与すれば、その萎縮していた海馬の神経細胞が、まるで春の若葉のように再生し、失われたはずの記憶を取り戻していく。

 副作用は、皆無。

 アレルギー反応も、拒絶反応も観測されない。

 その液体は、まるで生命そのものの設計図を完全に理解し、その最も理想的な状態へとエラーを修正デバッグする、万能のプログラムのようだった。

 科学者たちは、戦慄した。

 そして同時に、深い、深い無力感と倫理的な苦悩に苛まれていた。

 彼らの目の前には、神の処方箋がある。

 癌を、アルツハイマーを、エイズを、筋ジストロフィーを、この世のありとあらゆる不治の病を過去の遺物へと変えてしまう奇跡の液体が、試験管の中で静かな輝きを放っている。

 だが、彼らはそれを使うことができない。

 動物実験の、その先の一線。

 人類の未来を永遠に変えてしまうであろう、その禁断の扉を、開ける勇気が彼らにはなかった。

 いや、正確に言えば、そのあまりにも巨大すぎる責任を負う覚悟が、誰にもできなかったのだ。


 その科学者たちの苦悩と、そして人類の未来そのものを天秤にかける重い、重い報告書は、やがてプロジェクト・プロメテウスの最高責任者、橘紗英の元へと届けられた。

 箱根の山中の司令室。

 彼女は、その三百ページに及ぶ詳細なレポートを、一言一句読み飛ばすことなく、その氷のように冷徹な瞳で読み進めていった。

 そして、最後のページを閉じると、彼女は深く、深く息を吐き出した。

 その息は、まるで冬の朝の空気のように白く、そして重かった。

「…………そう。……限界ですのね」

 彼女は、誰に言うでもなく呟いた。

 科学的な探求の限界。

 そして、倫理的な忍耐の限界。

 時は、来たのだ。

 神が我々に与えたこの禁断の果実を、いつまでも研究室の棚の上に飾っておく時間は、もはや残されてはいない。

 だが、誰がその最初の一口を食すのか。

 誰がエデンの園から追放される、そのリスクを背負うのか。

 彼女の頭脳は、既にそのあまりにも困難な問題に対する、一つの、そして唯一の解決策を弾き出していた。

 それは、あまりにも狡猾で、そしてどこまでも悪魔的な、究極の責任転嫁アウトソーシング計画だった。


 その日の深夜。

 再び官邸の地下深く、危機管理センターに、日本の最高首脳たちが集結していた。

 その空気は、これまでにないほど重く、そして厳粛なものだった。

 橘紗英は、巨大な円卓を囲む閣僚たちを、一人一人その射抜くような視線で見渡した。

 そして彼女は、静かに、しかしその言葉の一つ一つに鋼の如き重みを込めて、口火を切った。

「……皆様。……本日お集まりいただきましたのは、他でもありません。……プロジェクト・プロメテウスの次なるフェーズへの移行に関する、最終的なご裁可を仰ぐためです」

 彼女はそこで、一度言葉を切った。

「……単刀直入に申し上げます。……我々はそろそろ、賢者様より賜りましたポーションの臨床試験……失礼。……臨床『検証』を、難病患者の方を対象に、開始したいと考えております」


 そのあまりにも直接的で、そしてあまりにも重い提案。

 司令室は、水を打ったように静まり返った。

 厚生労働大臣が、青い顔で震える声を上げた。

「……り、臨床検証ですと……!? し、しかし橘理事官! ……それは、あまりにも危険すぎる! ……倫理的な問題は、どうするのですか! もし万が一のことがあれば、政府は国民からの信頼を完全に失うことになりますぞ!」

「ええ、その通りです」

 橘は、きっぱりと頷いた。

「……だからこそ、我々日本政府単独でそのリスクを背負うべきではないと、私は考えます」

「……では、どうするというのだね?」

 宰善総理が、静かに問い返した。

 その問いに対し、橘は待ってましたとばかりに、その悪魔の脚本を語り始めた。

 その声は、どこまでも甘く、そしてどこまでも狡猾だった。

「…………アメリカですわ」

「…………何?」

「……我々の最も信頼すべき『同盟国』に、この人類史的事業の、栄光ある一番手を譲って差し上げるのです」

 彼女の口元に、微かな、しかし確かな冷たい笑みが浮かんだ。

「……我々は、こう申し出るのです。『この神の奇跡の最初の目撃者となる栄誉は、我々日本人だけが独占すべきものではない。……この栄光は、我々の最も偉大なる友人、アメリカとこそ分かち合うべきである』……と。……そして、その友情の証として、『最初の被験者を選ぶという、最も神聖で、そして最も重い責務を、アメリカ政府に委ねたい』……と」


 そのあまりにも巧妙で、そしてあまりにも意地の悪い提案。

 それは、甘美な毒薬だった。

 アメリカは、決して断れない。

 世界で最初に不治の病を克服した国という、歴史的な栄誉。

 そして、その奇跡の担い手を自らの手で選べるという、神の如き権力。

 そのあまりにも魅力的な餌を前にして、あの傲慢で、そしてどこまでも自信に満ち溢れた超大国が、尻尾を巻いて逃げ出すはずがない。

 だが、その栄光の裏側には、巨大なリスクという鋭い棘が隠されている。

 もし、実験が失敗すれば。

 その全ての非難と責任は、被験者を選んだアメリカ政府へと集中する。

 日本は、ただ「我々は善意で協力しただけだ」と、悲劇の友人として振る舞えば良い。

「………………」

 司令室は、しばし深い沈黙に包まれた。

 誰もが、その作戦のあまりの悪魔的な完璧さに、言葉を失っていた。

 やがてその沈黙を破ったのは、官房長官、綾小路の、くつくつという抑えきれない笑い声だった。

「…………ふっふっふっふ……。……いやはや、橘君。……君は時折、ワシよりも悪魔に見える時があるな。……素晴らしい。……実に素晴らしい脚本だ。……総理、ご裁可を」

 宰善総理は、深く頷いた。

 彼の目には、この非情な決断を下す指導者の深い苦悩と、そしてそれ以上の、国家の未来を切り開くための揺るぎない覚悟が宿っていた。

「………………よろしい。……その作戦で行け」


 ◇


 数日後。

 日米の最高首脳間を結ぶ、極秘のホットライン。

 そのモニターの向こう側で、アメリカ合衆国大統領は、宰善総理からのあまりにも突拍子もない、そしてあまりにも魅力的な提案に、しばし言葉を失っていた。

 彼の隣には、国務長官と、そしてサイト-アスカから一時帰国していたエヴリン・リード博士の姿があった。

 宰善総理が、完璧な外交辞令とどこまでも謙虚な態度でその「友情の証」を語り終えた時。

 大統領は、マイクをミュートにすると、側近たちに向き直った。

 その顔は、喜びと、そしてそれ以上の深い疑念に満ちていた。

「…………どう思うね、諸君」

「……罠ですな、ミスター・プレジデント」

 国務長官が、即答した。

「……間違いなく、罠です。……日本人は、自分たちで火中の栗を拾うのを嫌がり、その厄介事を我々に丸投げしてきたのです。……倫理的な非難も、失敗した時のリスクも、全て我々に押し付ける魂胆でしょう」

「……私も、同意見です」

 エヴリン・リードが、静かに付け加えた。

「……ですが、大統領。……これは、我々が決して断ることのできない罠です」

 彼女の目は、科学者としての純粋な好奇心と、そして国家の代表としての冷静な計算で輝いていた。

「……考えてもみてください。……この人類史最初の奇跡の瞬間の主導権を、我々が握るのです。……誰を救うか、その選択権を我々が手にする。……それは、世界の覇権国家として、これ以上ない象徴的な力となります。……そして、何よりも」

 彼女は、続けた。

「……この共同検証を通じて、我々はあのポーションの現物を、そしてその詳細な臨床データを、合法的に手に入れることができる。……これほどのチャンスは、二度とありません」


 その二人の側近の、完璧な分析。

 大統領は、深く頷いた。

 そうだ。

 これは罠だ。

 だが、その罠の中にある餌は、あまりにも甘美すぎる。

 彼は、マイクのミュートを解除した。

 そして、その顔に、この国の指導者としての最大限の度量と、そして友愛の笑みを浮かべて言った。

「…………お前なぁ……。……宰善総理。……君たちのその友情と信頼の証を、……この私が受け取らないとでも思ったかね?」

 彼は、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。

「……分かった。……そのあまりにも重く、そしてあまりにも栄誉ある大役、……このアメリカ合衆国が、喜んで引き受けさせてもらおう。……もちろん、その代わりというわけではないが」

 彼の目が、きらりと光った。

「……検証用のポーションのサンプルは、潤沢に提供してもらえるのだろうな? ……我々の最高の研究施設でも、並行してその安全性を徹底的に検証させてもらいたい」

「……もちろんですとも、ミスター・プレジデント」

 モニターの向こう側で、宰善総理が深々と頭を下げた。

「…………よし。……やった」

 その瞬間、日本の官邸の地下深くで、橘紗英が誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いたのを、アメリカ側は知る由もなかった。


 こうして、日米両政府による歴史的な共同声明が、世界に向けて発表された。

『――日米両政府は、人類の未来のために、歴史的なパートナーシップの下、アーティファクト『星の涙』の最初の臨床検証を、共同で実施することをここに宣言する。……なお、その最初の被験者となる人物の選定は、人道的見地から最大限の配慮の下、アメリカ合衆国政府がその責任を持って行うものとする――』

 そのニュースは、世界中に衝撃と、そして巨大な希望の光をもたらした。

 不治の病に苦しむ世界中の何億という人々が、そのテレビの画面に食い入るように見つめ、祈りを捧げた。

 誰が選ばれるのか。

 人類で最初に神の恩寵を受ける幸運な人物は、一体誰なのか。

 世界の全ての視線が、ワシントンのホワイトハウスの、その一つの決断に集中した。

 そして日本政府は、その世界の喧騒の一歩後ろに下がり、友人としてその歴史的な瞬間を静かに見守るという、最も安全で、そして最も美味しい立場を手に入れたのだ。

 そのあまりにも完璧なシナリオの完成に、橘紗英は満足げに頷いた。

 そして、その全ての元凶である男が、その頃何をしていたかというと。

 彼は、久しぶりに訪れたSF世界アークチュリアで、管理AIのイヴに地球の「お好み焼き」という概念を説明し、その原子レベルでの完璧な再現に成功し、そのあまりの美味しさに一人悦に入っていたという事実を。

 まだこの世界の誰も、知る由もなかったのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
橘さん、首脳陣の後ろで、ゲンドウポーズしてる。絶対。 新だったりシンだったりする世紀の大検証は置いといて、 創さんの『お好み焼き』は、   大阪 or 広島 どっち? ( ・`◇・´) 両方持ち込ん…
橘「計画通り…」
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ