第61話
新田 創の壮大すぎる、しかしその根幹はどこまでもぐうたらなスローライフ計画は、今や、彼自身の尽きることのない好奇心と、そして元プロジェクトマネージャーとしての飽くなき事業拡大意欲によって、もはや彼自身でさえもコントロール不可能な領域へと、暴走を始めていた。
日本の国家中枢との奇妙な共生関係は、安定期に入った。
グランベル王国の食文化、及び軍事革命も、ひとまずは順調な軌道に乗った。
SF世界アークチュリアは、最高の休息と研究のための「別荘」として、その地位を確立した。
そして、冒険者たちのゲーム的世界は、自己を強化し、そして未知の資源を掘り出すための、最高の「トレーニングジム」兼「鉱山」となった。
全てが、順調だった。
順調すぎた。
そして、人間という、あるいは神の領域に足を踏み入れてしまった元人間という生き物は、順調な日常に最も早く飽きる生き物でもあった。
「…………はあ」
創は、東京、中野区の、もはや生態系の頂点に君臨する王の巣穴と化したワンルームマンションの、ゲーミングチェアの上で、深い、深い溜め息をついた。
目の前の巨大なモニターには、『Path of Exile』の、あまりにも見慣れたキャラクター選択画面が映し出されている。
だが、もはや彼の心は踊らなかった。
彼は、気づいてしまったのだ。
どんなに強力なキャラクターを育て上げても、どんなに希少なアイテムを手に入れても、その先にあるのは、ただ次なるシーズンアップデートを待つだけの、虚無であることを。
彼は、立ち上がると、部屋の隅に無造作に積み上げられた次元ポケットの中身を、整理し始めた。
グランベル王国の、美しい金貨。
錬金術師の街の、色とりどりのポーション。
SF世界の、超技術のアクセサリー。
そして、ゲーム的世界の、きらきらと輝くスキルジェムと魔石。
そのどれもが、一つの世界の歴史を永遠に変えてしまうほどの価値を持つ、奇跡の産物。
だが、今の彼にとっては、それらはもはやクリア済みのゲームのトロフィーのように、色褪せて見えた。
「……なんか、新しいことしたいなあ……」
彼は、呟いた。
その時、彼の脳裏に、ふと、あの白い山が浮かび上がった。
日本政府に、無理やり調達させたあの1トンのベーキングパウダーの山。
そうだ。
あれは、まだ手付かずのままだった。
『異世界ベーキングパウダー転売計画』。
彼が、ほんの気まぐれで思いついた、新たなビジネスプラン。
そのアイデアが、彼の退屈していた心に、再び小さな、しかし確かな好奇心の火を灯した。
「…………よし」
創は、決めた。
「……行くか。……新しい世界へ」
彼の思考は、迅速だった。
次なるターゲットとなる世界の「要件定義」を、その頭脳の中で構築し始める。
(……グランベル王国のような中世ファンタジーの世界は、もういい。……食文化レベルが低くて、ふわふわのパンに感動してくれるという条件は必須だが……。……今度は、全く違う毛色の世界がいいな……)
彼の想像力が、翼を広げる。
(……そうだ。……魔法も、剣も存在しない。……だが、科学技術、それも俺のいた二十一世紀の地球とは全く違う方向へと、異常に発達した世界。……歯車と蒸気機関。……石炭の煙と鋼鉄の匂い。……そんな、スチームパンクの世界なんてのは、どうだろうか……?)
そのアイデアは、彼の心を躍らせた。
そんな灰色の世界で生きる人々にとって、雪のように白く、雲のように柔らかいパンは、どれほどの衝撃と、そして幸福をもたらすのだろうか。
その光景を想像しただけで、彼は楽しくてたまらなくなった。
彼は、ベッドの上に胡座をかくと、精神を集中させた。
そして、構築した新たな世界のイメージに向かって、意識の扉を開いた。
「――異界渡り」
次の瞬間。
彼の五感を襲ったのは、これまでのどの世界とも違う、全く新しい世界の息吹だった。
まず、視覚。
空は、なかった。
見上げた先にあるのは、どこまでも、どこまでも続く巨大な歯車と、無数の蒸気パイプが複雑に絡み合った、鋼鉄の天井。
その隙間から漏れ入る光は、太陽のそれではなく、おそらくは巨大なガス灯か、あるいはアーク灯が放つ、人工の黄色い光だけだった。
周囲の建物は、全てが石と、煉瓦と、そして錆びついた鉄骨で作られており、その壁面には、意味も分からぬ圧力計やバルブが、まるで不気味なオブジェのように取り付けられている。
次に、聴覚。
世界は、音で満ち溢れていた。
ゴウン、ゴウン、という巨大な歯車が回転する重低音。
シュコー、シュコー、という蒸気パイプから漏れ出す高温の水蒸気の音。
カン、カン、カン、という遠くの鍛冶場から響いてくるリズミカルなハンマーの音。
そして、それら全ての音の間を縫うように、人々の活気に満ちた、しかしどこか疲労を滲ませた喧騒。
最後に、嗅覚。
石炭が燃える、乾いた匂い。
機械油の、むせ返るような匂い。
そして、高温の金属と蒸気が混じり合った、独特の匂い。
創は、そのあまりにも異質で、そしてどこまでも人工的な世界の、ど真ん中に立っていた。
ここは、鋼鉄の街。
創は、その圧倒的な光景に、しばし立ち尽くしていた。
そして、彼はまず、情報収集を始めることにした。
彼は、数日をかけてこの街の安宿に身を寄せ、労働者たちが集まる安酒場で、情報を集めていった。
そして、彼は、この街が『ギア・ヘイム』と呼ばれる巨大な工業都市国家であり、いかなる王も貴族も存在せず、ただいくつかの巨大な工業ギルドの代表者たちによる評議会によって、統治されているという事実を知った。
そして、その中でも最も巨大で、最も強力なギルド。
それが、この街の鉱業、製鉄、そして蒸気機関技術の全てを牛耳る、『鉄腕ギルド』であることを。
そして、その鉄腕ギルドを率いているのが、弱冠二十代にしてその父の跡を継ぎ、その類稀なる才覚と冷徹な決断力で、ギルドをさらに巨大なものへと発展させた、一人の若き女男爵、『セラフィーナ・フォン・アイゼンベルク』であることを。
創は、ターゲットを定めた。
この壮大なビジネスを成功させるためには、この街の実質的な女王とも言うべき、その鉄の女男爵と直接渡り合うしか道はないと。
◇
数日後。
創は、鉄腕ギルドの壮麗な本部ビルの前に立っていた。
それは、もはや建物ではなかった。
一つの、巨大な鋼鉄の芸術品だった。
天を突くほどの尖塔は、巨大な歯車で飾られ、その壁面には、真鍮のパイプが複雑な模様を描いている。
その威容は、訪れる者を圧倒し、そしてこのギルドの絶対的な力を、無言のままに誇示していた。
創は、その重厚な鉄の扉を押し開けた。
そして、受付で、ギルドの長であるセラフィーナ女男爵への面会を求めた。
もちろん、最初は門前払いだった。
だが、創は、少しだけ魔法を使った。
受付の女性が、誤って床に落としてしまった山のような書類の束を、彼女が拾い上げるよりも早く、レビテーションの力でふわりと宙に浮かせ、完璧な順番で揃えて、彼女の机の上へと戻してやったのだ。
そのありえない光景を前にして、受付嬢は腰を抜かし、そしてその報告を受けたギルドの幹部たちは、この奇妙な男に会ってみる価値があると判断した。
創が通されたのは、ギルド本部の最上階にある、女男爵の執務室だった。
その部屋は、彼女の権力と、そしてその美意識を象徴していた。
壁一面が、巨大なガラス窓になっており、その向こう側には、この鋼鉄の街の心臓部である巨大な時計塔の歯車が、ギギギ、と重々しい音を立てて回転しているのが見えた。
部屋の中央には、黒鉄と真鍮で作られた巨大な執務机。
そして、その向こう側。
一人の女性が、椅子に深く腰掛けていた。
セラフィーナ・フォン・アイゼンベルク。
年は、二十代後半。その顔立ちは、まるで氷の彫刻のように、冷たく、そして美しかった。鋭い知性を感じさせる灰色の瞳。そして、その口元は常に固く結ばれ、いかなる感情の揺らぎも許さない。
そして、何よりも創の目を引いたのは、彼女の右腕だった。
それは、人間の腕ではなかった。
肩から先が、全て真鍮と鋼鉄で作られた、精巧で、そしてどこか凶悪な美しさを持つ、蒸気機関駆動の義手だった。
その義手から、時折、シュコー、という微かな蒸気の漏れる音が、静かな執務室に響いていた。
「……何の用だ、旅の魔術師」
セラフィーナが、その銀鈴のような、しかしどこまでも冷たい声で口火を切った。
「……私の貴重な時間を割いてまで会いに来たのだ。……よほどの面白い手品を、見せてくれるのだろうな?」
その声には、あからさまな侮蔑の色が滲んでいた。
「ええ、まあ、そんなところです」
創は、にこりと笑った。
「私は、ハジメ。異世界を旅する商人でございます」
彼は、そのいつもの口上を述べた。
そして、彼は、この冷徹な鉄の女男爵の心をこじ開けるための、最初の一手を打った。
彼は、次元ポケットから一枚の皿を取り出した。
その皿の上には、彼があらかじめ別の世界で焼いておいた、雪のように白く、雲のように柔らかいパンが、一切れ乗せられていた。
「……女男爵閣下。……まずは、これを一つ、いかがかな?」
そのあまりにも場違いな申し出に、セラフィーナの美しい眉が、ぴくりと動いた。
だが、彼女は何も言わず、その白い塊を、値踏みするように見つめた。
そして、その鋼鉄の義手で、器用にそのパンをつまみ上げ、自らの口へと運んだ。
咀嚼する。
次の瞬間。
彼女の氷の仮面のような表情が、初めて、ほんの僅かに揺らいだ。
その灰色の瞳が、驚愕に大きく見開かれている。
「…………すごいぞ、これは!!」
彼女の口から漏れ出したのは、彼女の外見からは想像もつかないほどの、純粋な、子供のような感嘆の声だった。
「……な、なんだ、この食感は……! 柔らかい……! まるで、雲を食べているかのようだ……! そして、この優しい甘さ……! 私が、これまで口にしてきた、あの石のように硬く、味のない黒パンとは、全く違う……! これが……これが、パンだというのか……!?」
彼女は、完全に我を忘れていた。
その初めて経験する至福の食感と味わいに、その鉄の心が、完全に打ちのめされていた。
「……お待ち下さい、女男爵閣下」
創は、静かに言った。
「……パンを作るのは、貴方がたです」
彼は、次元ポケットから小さな紙袋を取り出した。
そして、その中から一握りの白い粉末を、テーブルの上に広げた。
ベーキングパウダーだ。
「……この粉を使うと、このようなふわふわパンになります。……凄いですよね?」
その言葉に、セラフィーナは、はっと我に返った。
彼女の頭脳が、瞬時に、この白い粉が持つ計り知れない商業的な価値を計算し、弾き出していた。
食料革命。
それは、この常に食料の安定供給に問題を抱えてきた工業都市国家にとって、何物にも代えがたい福音だった。
「……して、このパンは、いくらだ?」
彼女は、商人の顔に戻っていた。
「……代金は、金貨で欲しいのですが……」
創が、そう切り出すと、セラフィーナは即答した。
「……分かった! 金貨を、ありったけ出そう!」
だが、創のプレゼンテーションは、まだ終わらない。
「……あと、このような時計がありまして」
彼は、次元ポケットから、もう一つ、スイス製の最高級機械式腕時計を取り出した。
その小さな円盤の中で、無数の歯車が、複雑に、そして完璧な秩序を持って動き、時を刻んでいる。
そのあまりにも精密で、そしてあまりにも美しいマイクロメカニクスの芸術品。
それは、この巨大な蒸気機関と歯車の世界で生きるセラフィーナにとって、魔法そのものよりも遥かに衝撃的で、そして理解不能なオーバーテクノロジーだった。
「…………なんだ、これは……?」
彼女は、その緻密な時計に、完全に心を奪い取られていた。
「……この緻密な時計、見たことないぞ……?」
「ええ。私の世界の、高級時計です。……よろしければ、その一台、差し上げますので使ってみてください。……これも、商品です」
創のその言葉に、セラフィーナは、もはや言葉もなかった。
「…………うむむ。……分かった。……凄い商品ばかりだ……」
彼女は、呻いた。
そして、その鉄の女男爵の顔に、初めて弱々しい色が浮かんだ。
「…………悪いが、お代はすぐに用意できない……」
それは、彼女の商人としての最大限の誠実さであり、そして事実上の白旗宣言だった。
その言葉に対し。
創は、待ってましたとばかりに笑った。
「……分かりました。……では、差し上げますので、その使用感などを後で教えてください。……お代は、後々で結構です」
「…………は? ……いいのか?」
セラフィーナは、自分の耳を疑った。
「ええ、いいですよ」
創は、こともなげに言った。
そして、彼は、この交渉の本当の切り札を切った。
その声は、どこまでも穏やかで、しかしその言葉は、神の最後通牒のように、冷たく響き渡った。
「…………私にとって、世界などいくらでもあるのでね。……ここで、お代を頂けなくても、二度と来ないだけです」
その一言。
そのあまりにも絶対的で、そしてあまりにも残酷な真実。
セラフィーナ・フォン・アイゼンベルクは、初めて、本当の恐怖を知った。
目の前のこの男は、ただの商人ではない。
彼は、世界そのものを手玉に取る、神か、悪魔か。
そして、その神の気まぐれな恩寵を失うこと。
それは、この灰色の世界に差し込んだ唯一の光を、永遠に失うことと、同義だった。
(…………恐ろしい……)
彼女は、震えていた。
(……お前のような男が、二度と来ないだと……? ……それこそが、地獄だ……!)
だが、彼女は鉄の女男爵だった。
その恐怖を、彼女は一瞬にして、鋼の覚悟へと変えた。
彼女の顔に、ふっと笑みが浮かんだ。
それは、これまでの氷の仮面ではない。
一人の好敵手を見つけた、勝負師の、獰猛で、そしてどこまでも楽しげな笑みだった。
「…………はははははは!」
彼女は、声を上げて笑った。
「……気に入ったぞ、ハジメとやら! ……お前の、その胆力、そのふてぶてしさ! このセラフィーナ・フォン・アイゼンベルクが、生涯で出会った男の中で、最も面白い!」
彼女は、立ち上がると、その鋼鉄の義手を創に差し出した。
それは、この国の流儀における、絶対的な信頼とパートナーシップの誓いの証だった。
「…………また、来てくれ。……次に、来る時までには、この街の全ての富をかき集めてでも、お前を満足させるだけの金貨を、たんまりと用意しておく。……約束だ」
そのあまりにも力強い言葉。
創は、にやりと笑うと、その鋼鉄の手を固く握り返した。
彼の新たな世界の、新たなビジネスは。
今、最高の形で、その幕を開けたのだった。




