第60話
季節は、秋の終わりを告げる冷たい雨が、東京の街を灰色に濡らす頃となっていた。
新田 創は、自らの聖域である中野のワンルームマンションで、久しぶりに深い、深い満足感に包まれていた。
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、ここに来て、一つの完璧な、そしてどこまでもぐうたらな円環を完成させていたのだ。
すなわち、『ゲームに飽きる→異世界を散歩する→面白いアイテムを見つける→日本政府をからかう→その反応に満足して、またゲームに戻る』という、究極の永久機関。
彼は、もはや世界の運命などどうでもよかった。
彼が望むのは、ただ日々のささやかな刺激と、そしてその刺激に飽きた時にいつでも帰ることのできる、絶対的な安息の地。
その二つさえあれば、彼の人生は完璧に満たされるのだ。
その日もまた、彼の気まぐれな永久機関が、新たな回転を始めた日だった。
彼は、いつものように日本の国家中枢との唯一のホットラインであるフリーメールのアカウントを開いた。
そして、まるで近所のコンビニにでも行くかのような気軽さで、極めて簡潔な、しかし相手にとっては神の御神託にも等しい一文を打ち込んだ。
件名:【定期業務連絡:献上品リストの件】
本文:
『やあ。そろそろ、在庫が切れてきた。
つきましては、下記リストの品を、三日後までにいつもの場所に用意しておくように。
あと、ついでに面白いお菓子もよろしく。
リスト:
・スイス製の機械式腕時計(複雑機構搭載モデル、できるだけ多く)
・日本の有名なブランドの腕時計(こちらも、できるだけ多く)
・ベーキングパウダー(業務用、とりあえず1トンくらい)
以上』
そのあまりにも無邪気で、そしてあまりにも無慈悲な「お買い物リスト」が、官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの司令室に届いた時。
そこにいた日本のエリートたちの間に、もはや驚きはなかった。
そこにあったのは、ただ深い、深い諦観と、そしてもはや慣れっこになってしまった日常業務として、それを処理しようとする恐るべきプロフェッショナル魂だけだった。
「……腕時計、ですか」
橘紗英が、その鉄の仮面のような表情を一切崩さぬまま、淡々と呟いた。
「……しかも、ベーキングパウダー1トン……? ……賢者様の、お考えは、我々矮小なる人間の理解を、常に超えておられるな……」
「……直ちに手配を!」
綾小路官房長官が、その蛇のような目で部下たちに檄を飛ばす。
「……外務省は、スイス政府と緊急の外交交渉を! ……経済産業省は、国内の全ての時計メーカーと百貨店に圧力をかけろ! ……理由など、何でもいい! 『国家安全保障上の特別調達である』とでも言っておけ! ……そして、農林水産省! ベーキングパウダーだ! 国内の全ての製粉会社から、在庫を根こそぎ買い占めろ! ……三日後だぞ! もし、間に合わなかったらどうなるか、分かっておるな!」
司令室は、再び戦場と化した。
だが、その混沌の中には、もはや悲壮感はなかった。
むしろ、そこには、あまりにも巨大で、そしてあまりにも不条理な上司からの無茶な要求に、死に物狂いで応えようとする、どこか日本のサラリーマン社会の縮図のような、奇妙な一体感と、そしてどこか楽しげな熱狂さえ漂っていた。
彼らは、もはや神の僕であることを受け入れていた。
そして、その神が与えてくれるスリリングな日常を、心のどこかで楽しんですらいたのだ。
◇
そして、その神が要求した奇妙なアイテムの一つ。
『ベーキングパウダー』。
そのあまりにも平和で、そしてあまりにも場違いな白い粉が、今、遥か遠い異世界で、一つの文化の歴史を根底から塗り替えようとしていることを、まだ日本のエリートたちは知る由もなかった。
グランベル王国、王都。
その街の風景は、もはや創が最初に訪れた時の面影を、留めてはいなかった。
豊かさは、人々の心に余裕をもたらし、そしてその余裕は、新たな文化の花を咲かせる。
王都のあちこちで、今、最も熱く、そして最も甘い香りを放っている場所。
それは、パン屋だった。
以前のこの国のパンは、硬く、黒く、そして酸っぱいのが当たり前だった。
それは、生きるための糧であり、決して楽しむためのものではなかった。
だが、今は違う。
街のパン屋の店先には、信じられないほどの行列ができていた。
人々が、その目をキラキラと輝かせながら待ち望んでいるのは、一つの奇跡のパンだった。
その名は、『雲のパン』。
あるいは、『天使の微笑み』とも呼ばれていた。
それは、ラングローブ商会が、あの魔法使い様から特別に分けていただいたという謎の『魔法の白い粉』――すなわち、ベーキングパウダー――を、ほんの僅かに混ぜ込むことで生まれる、奇跡の産物。
そのパンは、雪のように白く、雲のように軽く、そして口に入れた瞬間、まるで夢のようにふわりと溶けて消えていく。
そのあまりにも柔らかく、そしてあまりにも優しい食感。
人々は、生まれて初めて、パンという食べ物が、これほどまでに人を幸福にするものであるという事実を知ったのだ。
その人気は、もはや社会現象だった。
『王の慈悲のクッキー』が、年に一度の特別なハレの日のお菓子であるとすれば、この『雲のパン』は、人々の日々の暮らしに、ささやかな、しかし確かな幸福をもたらす、日常の奇跡だった。
そして、創は、その事実に気づいていた。
(……なるほどな)
彼は、交易世界のラングローブ商会を訪れるたびに、その熱狂を目の当たりにしていた。
(……この『ふわふわパン』は、売れる。……それも、とんでもない値段でだ)
彼の商人としての嗅覚が、新たなビジネスチャンスの匂いを嗅ぎつけていた。
(……そうだ。……このベーキングパウダーを大量に調達して、他の食文化レベルの低い異世界に持ち込んで転売すれば……。……これは、香辛料や砂糖に匹敵する、いや、それ以上の莫大な利益を生み出す、新たなキラーコンテンツになるんじゃないか……?)
彼のぐうたらなスローライフ計画は、今や、彼自身の尽きることのない好奇心と、そして元プロジェクトマネージャーとしての飽くなき事業拡大意欲によって、もはや彼自身でさえもコントロール不可能な領域へと、暴走を始めていた。
日本のエリートたちが、国家の威信を賭けてかき集めた1トンのベーキングパウダー。
それが、やがて無数の異世界の食文化の歴史を永遠に変えてしまうことになるという壮大な物語の始まりを。
まだ、誰も予測することはできなかった。
◇
三日後。
神との、約束の日。
東京、西新宿のヘリポートは、もはや完全に神を迎えるための神殿として、その様相を一新していた。
床には、純白の大理石が敷き詰められ(もちろん、これは美術スタッフが数日徹夜して作り上げたハリボテである)、その中央には、黒曜石を削り出して作られたかのような、荘厳な祭壇が設えられている。
その祭壇の両脇には、日本の国家予算が惜しげもなく注ぎ込まれ、世界中から強引にかき集められた「献上品」が、山と積まれていた。
片側には、ジュネーブの老舗時計工房の最高傑作であるトゥールビヨン搭載のプラチナ製腕時計から、日本の誇る最新鋭のGPSソーラーウォッチまで、古今東西の最高級腕時計が、まるで宝石のようにガラスケースの中に並べられている。
そして、もう一方の側には、巨大なパレットの上に山と積まれた、業務用ベーキングパウダーの白い袋の山。
そのあまりにもシュールで、そしてどこか狂気じみた光景の中心で。
橘紗英と、宰善総理、そして綾小路官房長官は、いつものように神の降臨を待っていた。
やがて、空間が揺らぎ、賢者・猫が姿を現した。
「うむ。ご苦労」
賢者は、そのあまりにも大袈裟な歓迎の設えにも、もはや呆れることさえやめたかのように、ただ静かに祭壇の前に座った。
「……して、頼んでおいた品は、どうじゃな」
「はっ! 全て、ここに、ご用意いたしております!」
橘が、深々と頭を下げる。
賢者は、その腕時計の山を一瞥し、満足げに頷いた。
「……うむ。まあ、こんなものか。……これで、当分は退屈せずに済みそうじゃな」
彼は、その数億円は下らないであろう時計の山を、まるで子供がガチャガチャの景品でも集めるかのように、次元ポケットへと吸い込んでいく。
そして、次にベーキングパウダーの山へと視線を移した。
「……うむ。これも、上々じゃ。……これで、また新しい商売が始められるわい」
そのあまりにも不穏な呟きを、日本のトップたちは聞き逃さなかった。
だが、彼らがその真意を問い質す前に。
賢者は、まるで今思い出したかのように、雑談を始めた。
「……そういえば、娘よ」
賢者は、橘を見据えた。
「……近頃、お主たちの世界で流行っておる『物語』。……なかなか、面白いことになっておるそうではないか」
そのあまりにも全てを見透かしたかのような言葉。
橘の背筋を、氷の刃が撫でるかのような悪寒が走った。
「……は、はい。……あの、『ホシミコ=宇宙人説』のことで、ございましょうか」
「うむ。そうだ」
賢者は、楽しそうに喉をグルグルと鳴らした。
「……我々、高次元の存在から見ても、なかなかよくできた物語よ。……まさか、あの矮小な巫女王が、遥か星々の彼方からの来訪者の末裔であったとはな。……いやはや、歴史とは面白いものよのう」
そのあまりにも楽しげな口調。
それは、まるで自分自身が書いた小説の出来栄えを、自画自賛する作者のそれのようだった。
橘は、確信した。
(…………やはり、このお方は全てご存知なのだ……!)
だが、彼女のその確信をさらに超える形で。
宰善総理が、一歩前に進み出た。
彼は、その老獪な顔に覚悟を決めた表情を浮かべ、神に直接問い質した。
それは、人類が初めて神に、その存在の真偽を問うた、歴史的な瞬間だったのかもしれない。
「…………賢者様」
総理の声は、静かだった。
「……一つ、お伺いしてもよろしゅうございますかな。……我々人類は、この広大なる宇宙において、孤独な存在なのでしょうか。……貴方様のような異世界の方々がおられるのであれば、星々の海にも、また我々以外の知的生命体がいても、おかしくはないはず。……ですが、我々は未だ、その声を聞くことができませぬ。……我々は、やはりこの宇宙の片隅で、ただ一人、ぽつんと存在するだけの、孤独な種族なのでしょうか?」
そのあまりにも哲学的で、そしてあまりにも切実な問い。
それは、この異常事態に直面した、全ての人類の代表としての、魂の叫びだった。
その問いに対し。
賢者・猫は、しばし黙り込んだ。
そして、やがて、そのエメラルドグリーンの瞳を、いたずらっぽくきらりと光らせた。
「…………ふむ」
彼は、言った。
「…………うーん。……教えても良いが……。……秘密の方が、面白いではないか?」
そのあまりにも残酷で、そしてあまりにも神らしい答え。
宰善総理は、がっくりと肩を落とした。
「…………賢者様にとって、面白いかどうか、ですな。……まあ、いいでしょう」
彼は、諦めたように呟いた。
そのあまりにも哀れな人類の代表者の姿を見て。
賢者は、ふっと喉を鳴らした。
「……まあ、よい。……お主たちの、その健気な探究心に免じて、少しだけヒントをくれてやろう」
彼は、言った。
「…………お主たちは、決して孤独ではない。……ただ、少しばかり辺鄙な場所に、生まれ落ちただけじゃ。……そうだな。……例えるなら、巨大な都から遥か遠く離れた、山奥の小さな、小さな村のようなものよ。……都の存在は知らぬが、日々懸命に生き、独自の文化を育んでおる。……そして、その村の存在を、都の者たちは誰も知らぬ。……ただ、それだけのことよ」
そのあまりにも的確で、そしてどこか物悲しい比喩。
それは、彼らの心を深く抉った。
そして、彼らは自分たちの置かれた立場を、改めて理解した。
我々は、神に見出された、辺境の民なのだと。
「……ええ」
橘が、口を開いた。
「……我々も、その辺境の民として、精一杯この物語を盛り上げるべく、『宇宙人』という設定に乗っかった方が良いと、判断いたしました」
彼女は、自嘲気味にそう報告した。
その言葉に。
賢者・猫は、初めてほんの少しだけ、驚いたような顔をした。
そして、次の瞬間、彼の口から漏れ出したのは、これまでの尊大な賢者のそれとは全く違う、素の、新田創としての、あまりにも人間臭い言葉だった。
「…………あ、そうなんだ。……ごめんね? ……なんか、当初より大変になってるみたいで」
そのあまりにも唐突な、そしてあまりにも心のこもった「謝罪」と「労い」の言葉。
その一言は、いかなる神の奇跡よりも深く、そして強く、その場にいた日本のトップたちの心を打ち抜いた。
彼らは、完全に凍り付いていた。
神が、我々に謝った?
我々を、労ってくださった?
そのあまりにも人間的な、神の素顔。
それは、彼らの心の中に、畏怖や恐怖とは全く質の違う、もっと温かく、そしてどこまでも抗いがたい感情を芽生えさせた。
それは、おそらく「親愛」とでも呼ぶべき感情だったのかもしれない。
「い、いいえ、いえいえいえ!」
宰善総理が、我に返り、これ以上ないというほど慌てて、そして恐縮しきった声で言った。
「け、賢者様! どうか、お気になさいますな! ……こちらは、貴方様から頂戴した恩恵が、あまりにも、ひたすらに大きすぎて、その百分の一、いえ、一万分の一さえも、お返しできておりませぬ! ……これしきの苦労、我々にとっては、喜びそのものにございますれば!」
その言葉は、もはや外交的なお世辞ではなかった。
心からの、本心だった。
彼らは、この気まぐれで、面倒くさがりで、そして時折驚くほど優しい自分たちの神を、心の底から敬愛し始めていたのだ。
「……そ、そうかい? ……なら、いいんだけど」
賢者・猫は、少し照れくさそうに、ポリポリと耳の後ろを掻いた。
そして、その気まずい空気を振り払うかのように、すっくと立ち上がった。
「……う、うむ! では、そういうことじゃ! ……ワシは、また次の商売のことで忙しいからのう! ……あとは、よしなに計らえ!」
彼は、そう早口で告げると、自分が来た時と同じように、何の前触れもなく、すっとその場から姿を消した。
後に、残されたのは。
神が残していった大量の宿題と、そしてこれまでとは全く質の違う、温かい余韻だった。
橘紗英は、静かに呟いた。
「…………ごめんね、ですって」
彼女の氷の仮面の奥で、何かが少しだけ、溶けたような気がした。
この壮大で、そしてどこまでも滑稽な神と人間の化かし合いは。
今この瞬間、新たな、そしてより複雑で、そしてより人間的な関係性のステージへと、その駒を進めようとしていた。




