第55話
夜明けは、血と鉄の匂いを連れてきた。
グランベル王国の、どこまでも平和で、そしてどこまでも無防備な北の国境。その地平線の向こう側から、ヴァルストライヒ帝国の精鋭、第三軍団が、まるで夜の闇そのものが凝固して形を成したかのように、音もなく、しかし圧倒的な質量を持って雪崩れ込んできたのだ。
彼らの目的は、征服ではなかった。
若き皇帝レオポルドが命じた、限定的で、外科手術のように精密な懲罰的遠征。
その目的は、ただ一つ。
この平和にボケた南の王国が、偶然手にしてしまったという神の火の欠片――『魔石』と、その力によって生み出されたという新たな『兵士』――を、サンプルとして生きたまま鹵獲すること。
若き将軍ヴァレリウス卿が率いる帝国の尖兵たちは、完璧な規律と、冷徹なまでの効率性で、国境沿いの最初の村へと、その鋼鉄の爪を食い込ませた。
悲鳴を上げる暇さえ、与えられない。
村の貧弱な民兵たちの抵抗など、まるで嵐の前の木の葉のようだった。
帝国の方陣を組んだ重装歩兵の、分厚い盾の壁の前に、彼らの錆びついた槍は虚しくへし折られ、そしてその命は無慈悲に刈り取られていった。
「……ふん。手応えのないことだ」
馬上で、そのあまりにも一方的な蹂躙を眺めていたヴァレリウス卿は、その精悍な顔に侮蔑の笑みを浮かべた。
「これがあの奇跡の豊穣に沸いているという王国の現実か。……なんと脆く、そしてなんと哀れなことよ。……富は、人を強くはせぬ。ただ、豚のように肥え太らせるだけだということを、あの学者上がりの若造の王は、知らぬらしい」
彼は、部下たちに命令を下した。
「……よし、これくらいでよかろう。……これより我々は、この村を拠点とし、敵の反撃を待つ。……噂の『魔法兵』とやらが現れたら、絶対に殺すな。……手足の一本や二本、へし折っても構わん。……だが、必ず生きたまま捕らえよ。……そいつらこそが、皇帝陛下がお求めになっておられる、最高の『献上品』なのだからな!」
その若き将軍の傲慢な声が、夜明け前の冷たい空気に響き渡った。
彼は、まだ知らなかった。
自分たちが今、足を踏み入れたのが、ただの平和な農村ではなく。
眠れる竜の、その逆鱗そのものであることに。
その報せが、王都の王宮に届いたのは、それからわずか数時間後のことだった。
王国の北の国境に張り巡らされた、狼煙による緊急の通信網が、帝国の侵攻を告げていた。
王宮の地下深くにある、作戦司令室。
そこに集結した国王アルトリウス三世と、その重臣たちの顔に、しかし焦りの色はなかった。
むしろ、その表情は、どこか安堵さえ浮かべているように見えた。
「…………来たか」
鉄血公ヴァルハイトが、その武骨な顔に獰猛な笑みを浮かべて言った。
「……思ったよりも、早かったな、北の若造は。……よほど、我々の奇跡が羨ましくてたまらなかったと見える」
「……うむ」
氷の宰相シュトライヒが、静かに頷いた。
「……ですが、陛下。……これは好機です。……彼らが、まだ我々の新たな『力』の本当の恐ろしさを知らぬ、この最初の瞬間にこそ。……彼らのその傲慢な鼻っ柱を、根元から叩き折ってやる、絶好の機会かと」
その冷徹な進言に、アルトリウス王は静かに目を閉じた。
彼の脳裏には、数週間前、あの中央訓練場で目撃した神の如き光景が、鮮明に蘇っていた。
一人の騎士が放った一撃が、大地を割り、石のゴーレムを塵芥へと変えた、あのありえないほどの破壊力。
(……魔法使い殿……)
王は、心の中であの全てを見透かしたような超越者の顔を、思い浮かべていた。
(……あなた様は、この事態さえも予見し、我々にこの『力』を授けてくださったというのか……)
彼は、目を開いた。
その瞳には、もはやいかなる迷いもなかった。
そこにあるのは、この国の民の未来をその双肩に担う、王としての絶対的な覚悟だけだった。
「…………ヴァルハイト公爵」
王の声は静かだったが、部屋の隅々にまで響き渡った。
「……出撃を、命じる」
「は、はっ!」
「……ただし」と、王は続けた。
「……全軍を動かすには及ばぬ。……それでは、北の若造の思う壺だ。……我々は、あくまで『国境を侵した不届きな賊を討伐する』。……ただ、それだけだ」
彼は、その隣に控えていた一人の若き騎士に、向き直った。
その騎士こそ、あの日、訓練場で神の力をその身に宿したサー・ケイレブ、その人だった。
彼は、この数週間の間に、この国の歴史上初めて創設された新たな騎士団の、初代団長に任命されていた。
その騎士団の名は、『王立宝珠騎士団』。
スキルジェムをその身に宿し、一人一人が人間を超えた力を持つ、一騎当千の魔法兵団。
その存在は、王国の最高機密として、固く秘匿されていた。
「……ケイレブよ」
王は、言った。
「……そなたに、最初の任務を与える。……そなたの騎士団の中から、選りすぐりの十二名を率い、直ちに北へ向かえ」
「は、はっ!」
ケイレブは、その場にひざまずき、恭しく命を拝した。
「……そして、その神の力をもって、我が国の土を穢す愚かなる賊どもを、根絶やしにせよ。……よいな? ……ただし、決して必要以上の殺戮はするな。……彼らの将は、生きたまま捕らえよ。……そして生き残った哀れな兵士たちには、恐怖と絶望という二度と忘れられぬ土産物を持たせて、故郷へと帰してやるのだ。……我らがグランベル王国の真の恐ろしさを、その骨の髄まで刻み込ませてやるのだ」
そのあまりにも冷徹で、そしてあまりにも残酷な王の勅命。
ケイレブは、深々と頭を下げた。
「…………御意。……このサー・ケイレブ! 我が王に、勝利を!」
◇
その日の昼下がり。
グランベル王国、北の国境。
帝国の侵攻を受け、完全に制圧された小さな村。
若き将軍ヴァレリウス卿は、村で最も大きな教会の鐘楼の上から、眼下に広がる自軍の完璧な布陣を、満足げに眺めていた。
彼の第三軍団、五千の兵士たちは、村を中心に、まるで教科書にでも載っているかのような完璧な野戦陣形を敷いていた。
前面には、分厚い盾を構えた重装歩兵の方陣が、鋼鉄の壁を築いている。
その両翼には、いつでも突撃可能な態勢で重装騎兵が控え、そして後方には、弓兵隊と巨大な投石機が、静かにその出番を待っていた。
「…………ふん」
ヴァレリウスは、鼻を鳴らした。
「……噂の『魔法兵』とやらは、まだ現れぬか。……よほど、腰が重いと見える。……あるいは、我ら帝国軍のこの完璧な布陣を前に、恐れをなして尻尾を巻いて逃げ出したかな?」
その彼の傲慢な呟きに、副官が追従の笑みを浮かべる。
「はっ! まさに、その通りかと存じます、閣下! ……グランベルの騎士など、所詮は馬上槍試合で貴婦人に媚を売ることしか能のない、軟弱者の集まり! 我ら帝国軍の敵では、ございません!」
彼らが、そんな勝利を確信した会話を交わしていた、まさにその時だった。
地平線の彼方から。
一つの小さな、黒い点が現れた。
そして、その点は、信じられないほどの速度でこちらへと近づいてくる。
最初は、一頭の馬のようにも見えた。
だが、その速度は、あまりにも異常だった。
それは、馬ではない。
それは、人間だった。
たった一人。
磨き上げられた銀色の全身鎧に身を包み、その背中には巨大な両手剣を背負った、一人の騎士。
その騎士は、まるで疾風そのものとなったかのように大地を蹴り、帝国の完璧な布陣へと、一直線に向かってくる。
「…………なんだ、あれは……?」
ヴァレリウスが、いぶかしげに呟いた。
「……斥候か? ……それにしても、一人とは。……自殺志願者か?」
帝国の前衛にいた歩兵たちが、そのあまりにも異常な光景に、どよめいた。
「……敵襲! 敵襲だ!」
「……た、たった一人だぞ!?」
「……馬鹿な! なんだ、あの速さは!」
だが、彼らの混乱は、すぐに恐怖へと変わった。
その銀色の騎士は、速度を一切緩めることなく、鋼鉄の盾の壁へと、その身を叩きつけたのだ。
ズウウウウウウウウウウウンッ!!!!!!
轟音。
そして、信じられない光景が広がった。
帝国軍が誇る分厚い鉄の盾が、まるで薄いガラス細工のように、粉々に砕け散った。
盾を構えていた屈強な兵士たちが、まるで藁人形のように宙を舞い、そして肉塊となって地面に叩きつけられる。
銀色の騎士は、ただ一人で、歩兵の方陣を、中央から綺麗に一直線に突き破っていた。
「…………ば、馬鹿な……!」
鐘楼の上からその光景を見ていたヴァレリウスは、絶句した。
「……あ、あれが……! あれが、人間だというのか……!?」
だが、悪夢はまだ始まったばかりだった。
その最初の騎士を、皮切りに。
地平線の彼方から、さらに十数名の、同じような輝く鎧をまとった騎士たちが姿を現したのだ。
彼らは、もはや軍隊ではなかった。
それは、神話の時代から蘇った、半神の軍勢だった。
一人の騎士が、その手に握った青い宝石を天にかざす。
次の瞬間、大地が凍てついた。
突撃しようとしていた帝国の重装騎兵たちが、その軍馬もろとも、巨大な氷の彫像へと変貌を遂げていた。
一人の騎士が、その弓に緑色の輝きを宿した矢をつがえ、空へと放つ。
矢は、無数の光の雨となって降り注ぎ、それが着弾した場所から致死の毒の霧が発生し、弓兵隊が阿鼻叫喚の地獄へと叩き込まれた。
そして、先頭を駆ける、あの銀色の騎士、サー・ケイレブ。
彼は、その巨大な両手剣を大地に叩きつけた。
『ヘビー・ストライク』。
大地が裂け、衝撃波が、帝国の後方に控えていた巨大な投石機を、まるで玩具のように粉々に吹き飛ばした。
「…………ひっ……」
ヴァレリウスの喉から、かすれた悲鳴が漏れた。
「…………あ、悪魔だ……! あいつらは、人間じゃねえ……! 悪魔の軍団だ……!」
もはや、それは戦いではなかった。
一方的な、蹂躙。
完璧な規律と訓練を誇ったはずの帝国の精鋭たちが、まるで子供のように、赤子の手をひねるように、軽く蹴散らされていく。
五千の兵士が、たった十数名の騎士たちによって、わずか数分の間に、完全に崩壊した。
「……た、退却だ……! 全軍、退却しろぉぉぉっ!!!!!」
ヴァレリウスは、狂ったように叫んだ。
だが、その命令は、もはや誰にも届かなかった。
兵士たちは、完全に戦意を喪失し、ただ我先にと、北へ、北へと逃げ惑っていた。
それは、もはや軍隊ではなかった。
恐怖に支配された、ただの烏合の衆だった。
やがて、戦場に静寂が戻った。
後に残されたのは、おびただしい数の帝国の兵士たちの死体と、そして破壊された武具の残骸だけだった。
その地獄のような光景の中心に。
サー・ケイレブと、その十二名の宝珠騎士団が、静かに立っていた。
彼らの銀色の鎧には、返り血一つついていない。
息も、全く乱れていなかった。
ケイレブは、生き残った帝国の将校たち――その中には、腰を抜かし、完全に戦意を喪失した若き将軍ヴァレリウス卿の姿もあった――を部下たちに捕縛させると、静かに空を見上げた。
そして、彼は、この神の如き力の本当の恐ろしさに、改めて身を震わせていた。
これが、我が王の新たな力。
これが、我がグランベル王国の新たな牙。
彼は、逃げ惑う帝国の兵士たちの背中を、静かに見送った。
王の命令通り。
彼らに、恐怖と絶望という、二度と忘れられぬ土産物を持たせるために。
◇
そのあまりにも一方的な、そしてあまりにも衝撃的な戦いの結果は。
グランベル王国の公式の発表という形で、瞬く間に大陸中の国々へと伝えられた。
だが、その発表の内容は、誰もが予想したものとは全く異なる、奇妙なものだった。
王宮の広報官は、各国の大使たちを前に、極めて事務的な、しかしその言葉の端々に抑えきれない侮蔑の色を滲ませながら、こう発表したのだ。
「――昨日未明。我がグランベル王国、北の国境地帯に、国籍不明の、大規模な『武装盗賊団』が侵入したとの報告がありました。……彼らは、近年、我が国の驚異的な経済発展を妬んだ、どこかの誰かさんに雇われた、哀れな傭兵の集団であったものと思われます」
その「どこかの誰かさん」という、あまりにもあからさまな表現に、各国の大使たちの間にどよめきが走った。
「……ですが、ご安心ください。……その数千人規模の、まあ、比較的装備だけは立派だった賊の集団は、我が国王陛下が新たに編成されました王直属の近衛騎士団、わずか十数名によって、侵入からわずか数時間のうちに、完全に討伐、あるいは掃討されました。……ええ、まあ、正直、少し手応えがなさすぎて、騎士たちもがっかりしていたと、報告を受けておりますが」
そのあまりにも見下した物言い。
「……よって、我がグランベル王国は、ここに改めて周辺国にアピールいたします。……我が国は、平和を愛する国であります。……ですが、もしその平和を脅かす愚かなる『賊』が現れたならば、我々は、いかなる時も容赦はいたしませんと。……以上です」
そのあまりにも傲慢で、そしてあまりにも力強い宣言。
それは、もはや外交的な声明ではなかった。
それは、大陸の全ての国々に向けられた、絶対的な最後通牒だった。
そして、その公式発表と時を同じくして。
命からがら帝都へと逃げ帰った第三軍団の生き残りたちの口から漏れ出した恐怖の噂が、商人たちのネットワークを通じて、大陸中に広まっていった。
「……聞いたか? ヴァルストライヒ帝国の、あの精鋭第三軍団が、グランベルの北の国境で壊滅したらしいぞ……!」
「ああ、聞いたとも! しかも、相手はたった十数名の騎士だったとか……!」
「……悪魔だ……。彼らは、人間じゃない。……大地を割り、氷の嵐を呼び、一撃で百の兵士を薙ぎ払う、銀色の悪魔だったと、生き残った兵士たちは、皆、震えながら語っていたそうだ……」
グランベル王国の公式発表という「建前」。
そして、帝国の兵士たちがもたらした恐怖の「本音」。
その二つの情報が組み合わさった時。
大陸中の国々の指導者たちの心の中に、一つの揺るぎない結論が刻み込まれた。
「…………グランベル王国は、凄い力を手に入れたらしい」
彼らは、もはやグランベルを、ただの幸運な成金国家として見ることをやめた。
彼らは、今や、神の雷をその手に宿した眠れる竜として、恐れ、そして敬うようになったのだ。
そのあまりにも劇的なパワーバランスの変化。
その全ての始まりが、遠い異世界の、ただ怠惰に暮らしたいと願う一人のぐうたらな男の、ほんの些細な「護身用に」という気まぐれな善意にあったという、壮大で、そしてどこまでも滑稽な真実を。
まだ、この世界の誰も、知る由もなかったのである。




