第56話
日本政府が、神の気まぐれという名の爆弾を、自らの手で、国際社会という名のガラス細工の陳列室に、そっと、しかし確信を持って設置してから、数日が経過した。
官房長官、綾小路俊輔による、あのどこまでも計算され尽くした定例記者会見。
それは、彼らが意図した通り、そしてある意味では彼らの意図を遥かに超えて、世界中に巨大な、そしてどこまでも混沌とした知的興奮の津波を引き起こした。
津波の第一波は、世界の主要な報道機関からもたらされた。
だが、その見出しは、日本政府が望んでいたであろう「日本、未知の遺物を新たに発見」などという、客観的なものでは断じてなかった。
ワシントン・ポスト紙の一面トップを飾ったのは、こうだ。
『JAPAN CONFIRMS “TRUTH SEEKER” LEAKS. Is the Internet Prophet Real?』
(日本政府、『真実の探求者』のリーク情報を事実上認める。インターネットの預言者は、本物だったのか?)
ロンドン・タイムズ紙は、より英国らしい皮肉を込めて、こう報じた。
『The Queen's New Toys: Japan Unveils More "Artifacts", Deepening the Myth and the Mystery』
(女王の新たなる玩具:日本が、さらなる『遺物』を公開。神話と謎は、さらに深まる)
北京の人民日報は、その社説でこう警告した。
『日本の情報開示は、欺瞞に満ちた一歩前進、二歩後退である。彼らが、真に世界の平和と協調を望むのであれば、全ての遺物の全面的な国際共同管理を、受け入れるべきである』
世界は、もはや日本政府の公式発表そのものを、額面通りには受け取っていなかった。
彼らの関心は、ただ一つ。
政府の、その回りくどく、そして何かを隠しているのが見え見えの発表が、あの正体不明の預言者『@Truth_Seeker_JP』が事前にリークしていた情報と、完全に一致したという、その驚くべき事実一点にこそ、集中していたのだ。
日本政府が仕掛けた、巧妙な情報統制の罠。
それは、皮肉にも、彼らが最も警戒し、そして利用しようとしていたインターネットの預言者の神性を、絶対的なものとして世界に証明してしまうという、最高に皮肉な結果を生み出したのである。
津波の第二波は、もちろん、その震源地であるXのタイムライン上から巻き起こった。
それは、もはや熱狂ではなかった。
一つの巨大な宗教が、誕生する瞬間の、歴史的な産声だった。
『@Truth_Seeker_JP』のアカウントは、もはや聖地と化していた。
彼の過去の全ての投稿には、何億という単位の「いいね」とリポストが付き、そのフォロワー数は、天文学的な数字へと膨れ上がっていた。
世界中の人々が、彼の一言一句を、聖典の言葉のようにありがたがり、その真意を巡って、日夜、オンライン上で神学論争のような議論を繰り広げていた。
そして、その熱狂の中心で、一つの揺るぎない「真実」が、人々の共通認識として完全に定着しつつあった。
@hoshimiko_believer
見たか!聞いたか! あの『囁きの羅針盤』も!『停滞の砂粒』も!『不死鳥の羽衣』も! 全部、全部、本物だったんだ! Truth_Seeker様の仰せられた通りだったんだ!
@conspiracy_master
これで、確定したな。政府が公式に発表しているアーティファクトは、氷山の一角に過ぎない。Truth_Seeker様が、これまでにリークしてくださった、あの『月泣きの聖杯』も、『地母神の心臓』も、『運命の織機』も、全て実在するんだ。日本政府は、それら本当の『奇跡』を、まだ我々から隠しているんだ!
@sekai_no_owari
日本政府は、大量のアーティファクトを隠している。……それは、もはや都市伝説ではない。……決定付けられた、真実だ。
その結論は、あまりにも単純明快で、そしてあまりにも魅力的だった。
人々は、もはや疑うことをやめた。
彼らは、信じた。
この国の地下深くには、まだ自分たちの想像を遥かに超えた、無数の神の道具が眠っているのだと。
そして、その神話の扉を開ける唯一の鍵を、あの正体不明の預言者だけが握っているのだと。
日本政府が、必死で作り上げた『巫女王ホシミコ』という公式の神話。
それは、皮肉にも、民衆が自らの手で育て上げた、より巨大で、より過激なカルトの教義の前に、その主役の座を明け渡しつつあったのだ。
そして、その熱狂的な神話創造の動きは、そこで止まらなかった。
一つの巨大な謎が解明されれば、人々は必ず、その奥にある、さらなる巨大な謎を求め始める。
彼らの尽きることのない好奇心と、物語への渇望は、ついに一つの根源的な問いへとたどり着いた。
『――では、その巫女王ホシミコとは、そして彼女が遺したアーティファクトとは、そもそも一体何者で、どこから来たのか?』
政府の公式見解は、あくまで「古代日本の謎の女王」だった。
だが、そのあまりにもローカルで、そしてどこかスケールの小さな物語に、世界中の人々はもはや満足できなくなっていた。
彼らは、もっと壮大で、もっと自分たちの存在そのものに関わる、普遍的な物語を求め始めていたのだ。
そして、その大衆の無意識の渇望に、完璧な答えを与えたのが、一人のカリスマ的な男だった。
彼の名は、矢島教授。
自らを「超古代文明研究家」と名乗り、これまで数々のオカルト専門誌や深夜のテレビ番組で、「ピラミッドは宇宙人の発電所だった」、「縄文土器は古代の宇宙服だ」といった奇説、珍説を熱っぽく語り続け、学界からは完全に異端児として扱われてきた男。
だが、この日を境に、彼はただの変人から、時代の寵児へと、その立場を劇的に変えることとなる。
彼が、自らの動画チャンネルで緊急生配信した、一つのプレゼンテーション。
そのタイトルは、こうだった。
『――星見子の遺産、その禁断の真実。……我々は、宇宙から来た』
そのあまりにも扇情的で、そしてあまりにも魅力的なタイトルに惹きつけられ、彼のチャンネルには、同時接続者数が数百万という、驚異的な数字で殺到した。
矢島教授は、その興奮に満ちた視聴者たちを前に、その白髪混じりの髪を振り乱し、まるで神の啓示でも受けたかのように、熱っぽく語り始めた。
「……皆様! 目を覚ます時が、来ました!」
彼の声は、確信に満ちていた。
「……政府の発表は、嘘ではありません。……ですが、それは、より巨大な真実を隠すための、巧妙なカモフラージュなのです! ……皆様、考えてもみてください! 傷を瞬時に癒し、無限のエネルギーを生み出し、そして時さえも止める、この驚異的な超技術! ……それが、今から千数百年も昔の、我々の祖先が独力で作り上げたという話を、皆様は本気で信じることができますか!?」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、背後のスクリーンに、キトラ古墳のあの古代の星図を映し出した。
「……これこそが、全ての答えです! ……政府は、これをただの天文図だと発表しました。……なんと愚かな、そして臆病な解釈か! ……これは、天文図などではない! これは、『星図』なのです! 我々の太陽系を遥かに超えた、銀河の道標! そう、我々の真の故郷への地図なのですよ!」
彼の熱弁に、チャット欄が爆発的な速度で流れていく。
『!!!』
『マジかよ……!』
『鳥肌が立った……!』
矢島は、続けた。
「……そうです! 巫女王ホシミコ! ……彼女は、ただの巫女ではなかった! ……彼女こそが、太古の昔、この地球という未開の惑星に降り立った、我々の真の創造主……! 高度な知的生命体、すなわち『宇宙人』との間に生まれた、最初の『星の子』だったのです!」
そのあまりにも壮大で、そしてあまりにもSF的な物語。
「……彼女は、我々未熟な人類が、いつか宇宙へと旅立つその日に備え、自らの故郷の星の偉大なる遺産を、この日本の地下深くに封印したのです! ……我々が今手にしているアーティファクトは、古代日本の遺物などではない! それは、宇宙人が我々に残してくれた、時を超えた贈り物なのですよ!」
そして、彼はとどめとばかりに、あの謎のリーカーの名前に言及した。
「……では、『@Truth_Seeker_JP』とは何者か? ……もはや、お分かりでしょう! ……彼こそが、現代に蘇ったホシミコの血を引く末裔! あるいは、今も我々人類の進化を静かに見守り続けている、宇宙の『監視者』たちが遣わした、エージェントなのです! ……彼は、我々が真実に目覚める時が来たと判断し、政府の情報統制を打ち破り、その封印を解き始めたのですよ!」
そのあまりにも完璧で、そしてあまりにも都合の良い物語。
それは、これまでバラバラだった全ての謎のピースを、一つの壮大な神話の絵図の中に、完璧に収めてみせた。
人々は、熱狂した。
これだ。
これこそが、自分たちが求めていた物語だ。
その日を境に、『ホシミコ=宇宙人ハイブリッド説』は、もはやただの都市伝説ではなくなった。
それは、世界中の多くの人々にとって、政府の公式見解よりも遥かに信憑性の高い『真実』として、受け入れられていったのだ。
◇
そのあまりにも混沌とし、そしてあまりにも滑稽な世界の熱狂を。
箱根の山中の司令室で。
橘紗英と、宰善総理、そして綾小路官房長官は、もはや笑うしかないといった表情で見つめていた。
彼らの目の前の巨大なモニターには、矢島教授の熱弁する姿と、そしてそれに熱狂する無数のコメントが映し出されていた。
「…………はー……」
綾小路が、深い、深い溜め息をついた。
その蛇のように冷たい顔に、初めて純粋な疲労の色が浮かんでいた。
「…………総理。……これは、一体どういうことでございましょうか」
彼の声は、かすれていた。
「……我々が、国家の全ての叡智を結集して作り上げた、完璧なはずの『嘘』が。……その辺の三流SF小説のような『もっと大きな嘘』によって、完全に上書きされておりますが……」
「……まあ、落ち着け、綾小路君」
宰善総理は、意外なほどに穏やかな表情をしていた。
その顔には、むしろこの壮大な茶番劇を、心の底から楽しんでいるかのような、不思議な余裕さえ漂っていた。
「……面白いじゃあないか。……我々が創り出した神話が、民衆の手によって勝手に成長し、進化していく。……まるで、生き物のようだ」
「……ですが、総理!」
橘が、珍しく焦りの色を滲ませて言った。
「……このままでは、我々は物語の主導権を完全に失います! ……『星見子の遺産』は、もはや我々のコントロール下にはありません! ……世界は、我々を古代の叡智の正当な後継者としてではなく、宇宙人の置き土産を管理しているだけの、ただの管理人として見なし始めるでしょう! ……それは、我が国の国益を著しく損ないます!」
そのあまりにも正論な、危機感の表明に対し。
宰善総理は、ふっと笑った。
そして、彼は、この国の最高責任者として、誰も予想し得なかった驚くべき決断を下した。
「…………ならば」
彼は、言った。
「…………その物語に、乗ってしまえば良い」
「………………は?」
橘と綾小路の声が、完全にハモった。
「……そうだとも」
総理は、楽しそうに頷いた。
「……民衆が、それを望むのであれば。……我々が、今更『いや、あれは宇宙人ではなく、古代の日本人です』などと訂正したところで、誰も聞きはすまい。……ならば、いっそ、我々自身が、その新たな神話の、最も熱心な信者になってしまえば良いのだよ」
彼は、立ち上がった。
その目には、老獪な政治家の、そして最高のエンターテイナーの輝きが宿っていた。
「……橘君。……プロジェクト・キマイラに、新たな指令を下す。……これより我々は、『ホシミコ=宇宙人ハイブリッド説』を、公式に否定も肯定もしない。……だが、水面下で、その説を補強するような『新たな証拠』を、次々とリークしていくのだ。……そうだな。……例えば、あの自己修復する羽衣の繊維構造が、地球上のいかなる炭素系生命体のものとも、一致しなかったとか。……あるいは、あの羅針盤が、時折オリオン座の方向を指し示すことがあるとか。……どうだね? 面白いだろう?」
そのあまりにも悪魔的で、そしてあまりにも楽しげな提案。
橘と綾小路は、もはや言葉もなかった。
彼らは、改めて理解した。
自分たちが仕えているこの老人の、本当の恐ろしさを。
彼は、神さえも、民衆さえも、そして嘘さえも、全てを自らの壮大な物語の駒として利用し尽くす、真の怪物なのだと。
「……我々は、物語の主導権を失ったのではない」
総理は、言った。
「……我々は、物語そのものになるのだよ」
その頃。
全ての元凶である男は。
東京、中野区の薄暗いワンルームマンションの、ゲーミングチェアの上で。
久しぶりにログインした『Path of Exile』の世界で。
全く新しい、そして全く実用的ではない、奇妙なスキルビルドの構築に、その類稀なる才能の全てを無駄に費やしていた。
彼は、息抜きにスマートフォンの画面をちらりと見た。
ニュースアプリのトップには、『矢島教授の超理論炸裂! 巫女王ホシミコは宇宙人だった!』という、扇情的な見出しが躍っている。
彼は、その見出しを、まるで遠い国のゴシップニュースでも見るかのように、ぼんやりと眺めた。
そして、ただ一言、誰に聞かれることもなく、呟いた。
「…………へー、宇宙人か。……そっちの方が、確かに夢があるよな。……さてと。このトーテムビルド、火力はゴミだけど、見た目は最高に面白いんだよなあ……」
そのあまりにも呑気で、そしてあまりにもぐうたらな呟きは。
世界の歴史と神話が、音を立てて軋み、彼自身でさえもはや予測不可能な混沌の未来へと、その重い扉を開けようとしている、その壮大なBGMのすぐ隣で。
誰に聞かれることもなく、ただ静かに、東京の夜の空気の中へと溶けて消えていった。




