第52話
季節は、実りの秋から、最初の冷たい木枯らしが王都の石畳を吹き抜ける、冬の気配が色濃くなる頃へと、その歩みを進めていた。
グランベル王国は、熱に浮かされていた。
賢王アルトリウス三世が主導する二つの国家プロジェクト――『豊穣の女神計画』と『氷の心臓計画』――は、もはや実験の段階を遥かに超え、この国の隅々にまで、その圧倒的な恩恵を、まるで春の陽光のように降り注がせていた。
飢饉という言葉は、過去の歴史書の中にしか存在しない、遠い記憶の遺物となりつつあった。
南の港町ポルト・マーレから、魔法の氷で冷やされたまま運ばれてくる新鮮な魚介類は、もはや王侯貴族だけの贅沢品ではない。ラングローブ商会が築き上げた驚異的な低温流通網によって、今や内陸の山深い村のささやかな食卓にさえ、時折並ぶようになっていた。
王都の中央大市場には、一年中、夏野菜と冬の果物が同時に、そしてありえないほどの安値で溢れかえっている。
民は、満ち足りていた。
腹が満たされ、心が満たされ、そしてその感謝と忠誠の念は、全て、この奇跡の時代を創造した偉大なる賢王と、その治世を支える街一番の商人、ゲオルグ・ラングローブへと捧げられていた。
その熱狂と幸福の、まさに中心地。
ラングローブ商会の壮麗な本店の、最も奥深くにある主の私室。
新田 創は、まるで自分の家のようにくつろぎきっていた。
彼は、この部屋のために特別に誂えさせられたという、雲のように柔らかい巨大なソファに、深く、深くその身を沈め、メイドが運んできた見たこともない美しい果物を、気怠そうに口に運んでいた。
彼の目の前では、この国の事実上の経済宰相とも言うべき男、ゲオルグ・ラングローブが、まるで敬愛する師に自らの学業の成果を報告する殊勝な生徒のように、恭しく、そしてどこか誇らしげに、分厚い羊皮紙の報告書の束を読み上げていた。
「――というわけでして、魔法使い様。ポルト・マーレに新たに建造いたしました第三大氷室も、先週、無事に稼働を開始いたしました。これにより、南方のさらに遠洋でしか獲れぬという幻の深海魚の安定供給も可能となりまして……」
「……ふーん」
創は、生返事をした。
彼の関心は、もはや自分がかつて蒔いた種が、どれほど見事に花開き、果実をつけたかなどという、過去の話にはなかった。
正直に言えば、少し退屈していた。
この世界は、もう安定しすぎている。
平和で、豊かで、そして人々は幸福そうだ。
それは、素晴らしいことだ。
だが、冒険者としてダンジョンに籠もり、自らのレベルアップとスキルビルドの構築に没頭していた、あのゲームのような世界のスリリングな日々と比べてしまうと、どうしても物足りなさを感じてしまうのだ。
(……まあ、平和が一番だけどな……)
彼は、あくびを一つした。
(……そろそろ帰るかなぁ……。日本の部屋に、新しく買ったゲーミングモニターが届いてる頃だろうし……)
彼が、そんなぐうたらな思考に身を委ねていた、まさにその時。
彼の元プロジェクトマネージャーとしての、あの厄介な思考回路が、ふと、一つの些細な、しかし致命的なリスクの可能性に思い至ってしまった。
(……ん?)
彼の動きが、ぴたりと止まった。
(……待てよ。……この国、こんなに豊かになっちまって……。大丈夫なのか……?)
そうだ。
歴史は、繰り返す。
一つの国が突出して豊かになれば、必ず、その富を妬み、そして奪い取ろうとする隣人が現れる。
それは、この世界の、そしておそらくは創が知るあらゆる世界の、普遍的な法則だった。
このグランベル王国は、どうだ。
確かに、アルトリウス王は名君だ。国内の統治は、完璧に近い。
だが、軍事力は?
この平和な国に、もし大陸の覇権を狙う尚武の帝国が、その牙を剥いてきたとしたら?
この幸福な民の笑顔を、守り抜くことができるのだろうか。
(………………まずいな)
創は、内心で舌打ちした。
(……これは、俺のスローライフ計画における重大なリスク要因だ。……この国が戦争にでも巻き込まれて、俺の安定した交易ルートが断たれたりしたら、たまったもんじゃない。……それに、ゲオルグの爺さんが死んだりしたら、後味も悪いしな……)
彼は、面倒なことが心底嫌いだった。
そして、戦争ほど面倒なことは、この世に存在しない。
(……仕方ないか……)
彼は、深く、深く、溜め息をついた。
(……少し、テコ入れしてやるか……。これも全ては、俺の安眠のためだ……)
「…………あっ、そうだ」
創は、まるで今思い出したかのように、わざとらしく声を上げた。
その唐突な一言に、それまで熱心に報告を続けていたゲオルグが、びくりと体を震わせ、顔を上げた。
「……は、はい! 魔法使い様! な、なんでございましょうか!」
「いやあ、すっかり忘れてましたよ」
創は、ポリポリと頭を掻いた。
「……ラングローブさん。あなたに、また新しい『おみやげ』があるんでした」
その「おみやげ」という言葉の響き。
その一言が持つ、計り知れないほどの重みと価値を、ゲオルグ・ラングローブは、この国の誰よりも深く理解していた。
彼の顔から、血の気が引いた。
そして次の瞬間、その顔が、抑えきれない期待と興奮に、真っ赤に染まった。
「……お、おみやげ、でございますか……!?」
その声は、完全に裏返っていた。
「ええ、まあ、大したもんじゃないんですけどね」
創は、そう言うと、次元ポケットから一つのビロードで作られた、美しい小さな袋を取り出した。
そして、その中身を、黒檀のテーブルの上にさらさらとこぼれ出した。
カラカラ、という乾いた心地よい音と共に、テーブルの上に転がり出たのは、十数個の、様々な色と形にカットされた、美しく、そしてどこか神秘的な輝きを放つ宝石だった。
燃えるような、深紅の石。
凍てつく氷のような、青い石。
森の若葉のような、鮮やかな緑の石。
そのどれもが、内側から淡い魔力の光を放っていた。
「…………美しい……」
ゲオルグは、その見たこともない宝石の輝きに、思わず息を飲んだ。
「……魔法使い様……。これは、またなんと素晴らしい宝石を……。これもまた、どこか遠い世界の……?」
「ええ、まあ、そんなところです」
創は、鷹揚に頷いた。
「……ですが、ラングローブさん。これは、ただの飾り石じゃあありませんよ」
彼は、にやりと笑った。
「……これは、あなたの、そしてこの国の未来を守るための、『力』そのものです」
「……力、でございますか……?」
ゲオルグは、戸惑いの表情を浮かべた。
創は、その宝石の中から、一つ、燃えるような深紅の石をつまみ上げた。
そして、それをゲオルグに差し出した。
「……ラングローブさん。少し怖いかもしれませんが、このジェムを、あなたの手のひらの上に置いてみてください」
そのあまりにも奇妙な要求。
だが、ゲオルグにそれを拒否するという選択肢は、もはや存在しなかった。
目の前のこの男は、神なのだ。
その神の御業を、疑うことなど彼にはできはしない。
「……は、はい。……承知いたしました」
ゲオルグは、震える手でその深紅の宝石を受け取った。
ひんやりとして、滑らかな感触。
だが、その石の内側からは、まるで生き物の心臓のように、温かい魔力の脈動が確かに伝わってくる。
彼は、意を決して、言われた通り、その石を自らの右の手のひらの中央に、そっと置いた。
次の瞬間。
ゲオルグの身に、異変が起きた。
「…………なっ!?」
手のひらの上の宝石が、まるで灼熱の鉄塊のように、凄まじい熱を発したのだ。
だが、その熱は、彼の皮膚を焼くことはない。
むしろ、その熱は彼の皮膚を通り抜け、血管を駆け巡り、彼の存在の最も中心へと向かっていく。
そして、宝石は、まるで水に溶ける砂糖のように、彼の手のひらの肉の中へと、すう、と音もなく沈み込んでいった。
痛みは、全くない。
ただ、自らの肉体が異物によって侵食されていくという根源的な恐怖と、そしてそれ以上の、未知の力がその身に宿っていくという、圧倒的な全能感にも似た感覚。
彼の右手の甲に、まるで魔法の紋章のように、深紅の炎の形をした痣が、うっすらと浮かび上がった。
そして、彼の脳内に、直接、膨大な知識の奔流が叩き込まれた。
炎とは、何か。
それは、いかにして生まれ、いかにして制御され、いかにして敵を焼き尽くす力となるのか。
その全ての情報が、彼の理解を超えた次元からダウンロードされていく。
「…………こ、これは……!? あ、頭の中に……! 何かが……!」
ゲオルグは、頭を抱え、その場にうずくまった。
「……おっ、できたじゃん」
創は、その光景を満足げに眺めていた。
「……大丈夫ですよ、ラングローブさん。少し、驚いただけです。……おめでとうございます。あなたは、今この瞬間から、魔法使いになりました」
そのあまりにも軽い、祝福の言葉。
やがて、情報の奔流が収まった時。
ゲオルグは、はあ、はあと荒い息を吐きながら、顔を上げた。
その顔には、恐怖と混乱と、そしてそれを遥かに凌駕する、純粋な子供のような驚嘆の色が浮かんでいた。
彼は、自分の右手を、信じられないといった顔で見つめている。
彼には、分かった。
炎の操り方が。
「……では」
創は、促した。
「……使ってみてください。その部屋の隅にある、あの空っぽの暖炉に向かって手を突き出して、心の中で強く念じるのです。『ファイアーボール!』……とね」
ゲオルグは、まるで操り人形のように、その言葉に従った。
彼は、震える右手を暖炉に向けた。
そして、全ての精神を集中させ、その人生で初めて、魔法の呪文を心の中で唱えた。
(……ファ、ファイアーボール……!)
次の瞬間。
彼の掌から、ごう、という音と共に、人の頭ほどの大きさの灼熱の火の玉が迸った。
火の玉は、一直線に暖炉の奥の壁へと飛んでいき、そして命中した。
ズウウウウウンッ!!!
凄まじい爆発音と衝撃波が、応接室全体を揺がした。
壁に飾られていた高価な絵画が、ガタガタと揺れる。
テーブルの上のティーカップが倒れ、甲高い音を立てて割れた。
煙が、晴れた後。
そこには、黒々と焼け焦げ、そして巨大な穴が空いた、無残な暖炉の残骸だけがあった。
「…………おっとっと」
創は、ポリポリと頬を掻いた。
彼が何か言う前に、ゲオルグが叫んだ。
「……おお……!」
彼は、自分の右手を見つめ、わなわなと震えていた。
「……おおおおおおっ……! わ、私の手から……! 炎が……! なんという、なんという力だ……!」
彼は、完全に我を忘れていた。
その破壊の痕跡さえもが、彼にとっては自らが手にした神の力の証明として、輝いて見えた。
「……まあ、威力は上々みたいですね」
創は、冷静に分析した。
「……ですが、ラングローブさん。これでは、あなたのこの美しい応接室が、いくつあっても足りなくなってしまいそうだ」
彼は、そう言うと立ち上がった。
そして、焼け焦げた暖炉の壁の前に立つと、その穴に向かって軽く手をかざした。
次の瞬間。
壁の瓦礫や煤が、まるで時間を逆再生するかのように、ひとりでに動き始め、元の場所へと収まっていく。
そして、数秒後には、そこには何事もなかったかのように、完璧に修復された美しい大理石の壁があった。
そのあまりにも常識を超えた修復魔法を目の当たりにして。
ゲオルグは、ようやく我に返った。
そして、目の前のこの男の力の、本当の底知れなさに、改めて戦慄した。
自分ごときが初めて使った火の玉で、あれほどの破壊力。
ならば、この魔法使い様が本気になれば、一体どれほどの奇跡を起こせるというのか。
彼は、その場に崩れ落ちるようにひざまずいた。
「……も、申し訳ございません、魔法使い様……! こ、この私、あまりのことに取り乱してしまい……!」
「ははは、構いませんよ」
創は、鷹揚に笑った。
そして、テーブルの上の残りのスキルジェムを指し示した。
「……ラングローブさん。ご覧の通り、これは、身につけた者に魔法やスキルを使えるようにする、便利な宝石です。……あなたが今体験したのは、その中のほんの一つに過ぎません。……ここには、氷を操るもの、雷を呼ぶもの、そして人の傷を癒す力を持つものまで、様々あります」
彼は、そこで一旦言葉を切った。
そして、その真の目的を告げた。
その声は、あくまで軽く、そしてどこまでも善意に満ちているように聞こえた。
「……この国も、随分と豊かになった。……そして、豊かになった分、それを妬む他国が、いつ攻めてきてもおかしくはない。……そう思いましてね。……護身用に、魔法兵ぐらい持っていた方がいいかなと思って、これを差し上げます」
彼は、にこりと笑った。
「……これを使えば、ただの農民でも、一日にして強力な魔法兵団に生まれ変わることができるでしょう。……それに、ただスキルが使えるようになるだけじゃあ、ありませんよ。……これを身につけた者は、そのジェムの特性に応じて、身体能力そのものが飛躍的に向上します。……まあ、色々実験してみてください。きっと、面白い結果が出るはずですから」
告げられた、国家の軍事バランスそのものを根底から覆しかねない、とんでもない提案。
ゲオルグ・ラングローブは、もはや言葉を失っていた。
彼はただ、床に額を擦り付けるようにして、深々と頭を下げ続けることしかできなかった。
このお方は、神だ。
我々に豊穣を与え、幸福を与え、そして今また、我々を守るための絶対的な力さえも与えようとしておられるのだ。
そのあまりにも巨大で、そしてあまりにも無償の愛(と、彼には思えた)。
その前に、彼が差し出せるものなど、もはや何一つなかった。
「……では」
創は、立ち上がった。
「……王様によろしくです」
彼は、そのいつもの決まり文句を告げると、自分が来た時と全く同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に、残されたのは。
一つの国家の軍事力を、一夜にして魔法の軍団へと変貌させる可能性を秘めた、色とりどりの宝石の山と。
そのあまりにも重すぎる神の贈り物を前にして、ただわなわなと打ち震える、一人の商人の姿だけだった。
ゲオルグは、やがておそるおそる顔を上げた。
そして、テーブルの上の宝石の一つを、震える手でつまみ上げた。
彼の脳裏には、既にこの神の力を身につけた無敵の魔法兵団が、グランベル王国の旗を掲げ、大陸を席巻する幻影が浮かび上がっていた。
だが同時に、彼の心の奥底で。
商人としての冷静な思考が、囁いていた。
(……待て。……落ち着け、私。……これは、力だ。だが、力は常に、それを持つ者を試す。……このあまりにも強大すぎる力を、我々人間は、本当に正しく使いこなすことができるのだろうか……?)
その根源的な問いに、答えることができる者は、まだ誰もいなかった。
グランベル王国の歴史の歯車は。
またしても、一人のぐうたらな男のほんの些細な気まぐれによって、誰も予測し得なかった、新たな、そしてより血なまぐさい可能性を秘めた未知の領域へと、その重い扉を開けようとしていたのである。




