第53話
神の気まぐれが、また一つこの世界に投下された。
ゲオルグ・ラングローブの私室は、静まり返っていた。だが、その静寂は、嵐が過ぎ去った後の虚無などでは断じてない。それは、これから始まる国家そのものの形を、そして大陸の軍事バランスそのものを永遠に変えてしまうであろう巨大な地殻変動の、まさに震源地そのものだった。
老獪な商人の、常に計算と損得で満たされていたはずの頭脳は、今や、目の前のあまりにも巨大で、そしてあまりにも理解不能な「力」を前にして、完全に思考を停止させていた。
テーブルの上に、無造作に広げられた色とりどりの宝石。
スキルジェム。
それは、ただの美しい石ではない。
身につけた者に超常の力を与え、ただの人間を、一夜にして伝説の英雄譚に登場するような超人へと変貌させる、神の、あるいは悪魔の契約印。
そして、あの魔法使いは、そのあまりにも恐ろしい力を、まるで子供に新しい玩具でも買い与えるかのように、この自分に託していったのだ。
『護身用に、魔法兵ぐらい持っていた方がいいかなと思って』
そのあまりにも軽く、そしてあまりにも世界の理からかけ離れた神の視点。
ゲオルグは、わなわなと打ち震えていた。
興奮ではない。
畏怖だ。
自分は、一体どれほど恐ろしい存在と関わりを持ってしまったのか。
この力は、果たして矮小なる我々人間に、扱いきれる代物なのか。
「…………」
彼は、しばらくその宝石の妖しい輝きに、魅入られたように立ち尽くしていた。
だが、やがて、はっと我に返った。
彼の商人の魂が、このあまりにも巨大すぎる責任の重圧を前にして、一つの絶対的な結論を弾き出していた。
これはもはや、この私、ゲオルグ・ラングローブ一個人が抱えきれるような代物では、断じてない。
これを正しく導き、そして制御できる唯一のお方。
それは、この国にただ一人しかおられない。
彼は、部屋の隅で控えていた最も信頼の置ける側近の男に、振り向いた。
その声は、緊張と、そしてこれから始まる歴史の目撃者となる覚悟に、かすかに震えていた。
「……馬を用意せよ。……いや、違う。……王都で最も速い駅伝馬車を手配しろ。……行き先は、王宮だ」
側近が、息を飲む。
「……会頭……。こ、このような夜更けに……? いかなるご用件で……」
「……黙れ」
ゲオルグは、一喝した。
「……よいか。国王陛下に、こう伝えよ。『ラングローブ商会会頭ゲオルグ。我がグランベル王国の未来百年を左右する一大事につき、たとえこの首を刎ねられる覚悟の上でも、緊急の単独謁見を願い奉る』……と!」
その夜、王宮の最も奥深くにある国王アルトリウス三世の私的な執務室は、暖炉の炎の静かな爆ぜる音と、そして羊皮紙の上に羽ペンが走る乾いた音だけが響いていた。
若き賢王は、玉座から離れてもなお、この国の未来のために、その類稀なる頭脳を休ませることはない。
その静寂を破ったのは、侍従長の慌ただしいノックの音だった。
「……陛下! こ、このような夜分に、誠に申し訳ございません!」
「……何事だ」
アルトリウスは、報告書の束から顔を上げた。その怜悧な瞳が、わずかに険を帯びる。
「……ラングローブ商会のゲオルグ殿が……! 緊急の謁見を願い出ております! その口上、あまりにも尋常ではなく……!」
「……ゲオルグが?」
王の眉が、ぴくりと動いた。
あの老獪で、そして誰よりも慎重な商人が。
アポイントメントもなしに、このような夜更けに自分に会いに来るとは。
よほどのことだ。
「……分かった。通せ」
王は、短く命じた。
そして、彼は万が一の事態に備え、側近中の側近である二人の男を、同席させることを決めた。
一人は、王国最強と謳われる騎士団を率いる、〝鉄血公〟の異名を持つダリウス・フォン・ヴァルハイト公爵。
そしてもう一人は、父王の代から国政を支え、その知略と冷静な判断力で幾多の国難を救ってきた、〝氷の宰相〟エドアルド・フォン・シュトライヒ伯爵。
王国の武と知の象徴とも言うべき二人の重鎮が、王の左右を固める。
執務室の空気は、一瞬にして、国家の最高意思決定の場の、張り詰めた緊張感に満たされた。
やがて、重厚な扉が開かれ、ゲオルグ・ラングローブが、その恰幅のいい体を汗で濡らしながら、部屋へと滑り込んできた。
彼は、王と、その左右を固める二人の重鎮の威圧的な視線を一身に浴びながら、床に額がつくほど深く、深くひざまずいた。
「……陛下……! このような夜更けに、突然の謁見をお許しいただき、誠にもったいのうございます……!」
「……面を上げよ、ゲオルグ」
王の声は、穏やかだった。
「……そなたの、その血相を変えた様子。ただ事ではあるまい。……申してみよ。そなたが、我が国の未来百年を左右すると申したその一大事とは、一体何のことだ」
ゲオルグは、ごくりと乾いた喉を鳴らした。
彼は、懐からあのビロードの袋を取り出すと、その中身を、王の目の前の巨大な執務机の上に広げた。
カラカラ、という乾いた心地よい音と共に、色とりどりの宝石が、暖炉の炎を反射して妖しい輝きを放った。
「…………これは?」
王の目に、いぶかしげな色が浮かんだ。
その隣で、鉄血公ヴァルハイトが低い声で唸った。
「……ふん。美しい宝石ではあるが……。このような石ころが、国の未来を左右するとでも言うのか、商人よ。……貴様、我々を愚弄しておるのか?」
そのあまりにも武骨な物言いを、氷の宰相シュトライヒが静かに制した。
「……お待ちください、公爵。……この宝石……。ただの石ではありますまい。……その内側から放たれる微かな光……。まるで、生き物の脈動のようだ。……ゲオルグ殿。これは、一体……?」
ゲオルグは、震える声で、その日の午後に起きた、あまりにも非現実的な出来事の全てを語り始めた。
あの魔法使い様が、再び現れたこと。
そして、この宝石が、身につけた者に超常の力を与える、神の道具であるということを。
彼は、その証拠として、自らの右手を王の御前に差し出した。
その手の甲には、深紅の炎の形をした魔法の紋章が、うっすらと輝いていた。
そして、彼は自らが体験した、あの衝撃的な魔法の発動を熱っぽく語った。
そのあまりにも荒唐無稽な物語。
執務室は、しばし深い沈黙に包まれた。
沈黙を破ったのは、やはり王だった。
彼の顔には、驚愕でも、疑念でもなく、むしろ全てを納得したかのような、深い、深い思慮の色が浮かんでいた。
「…………うむ」
王は、静かに頷いた。
「…………やはり、そうか」
「……へ、陛下……?」
「……ゲオルグよ。そなたの主、あの魔法使い様の懸念は、尤もかもしれん」
王は、立ち上がると、壁に掛けられた巨大な大陸の地図の前に立った。
「……ここ数ヶ月。我が国の、その異常なまでの豊かさは、既に大陸中の国々の知るところとなっておる。そして、その豊かさを妬み、あるいはその秘密を奪い取ろうと画策する不穏な動きがあることも、我が諜報網は掴んでおる」
彼は、地図の上のグランベル王国の隣に位置する、巨大な帝国を指差した。
「……特に、北のヴァルストライヒ帝国。かの国の皇帝は、野心に満ち溢れた若き獅子だ。我が国が豊穣に沸き、平和を謳歌しているこの状況を、彼が黙って見過ごすはずがない。……おそらくは、国境付近で何らかの小競り合いを計画し、それを口実に、我が国の内情を探ろうとしてくるだろう。……その報告が、朕の元に届いたのは、つい昨日のことだ」
「…………なっ!?」
その場にいた全員が、息を飲んだ。
「……あの魔法使い様は……」
王は、振り返った。その目には、神の如き存在への畏敬の念が宿っていた。
「……その全てを、お見通しであったのだな。……そして、我々に、その脅威に対抗するための『力』を授けてくださった。……なんと、なんと深く、そしてどこまでも先を見通された御心か……」
王のその言葉。
それは、もはやこの宝石が本物であるという、絶対的な証明に他ならなかった。
鉄血公ヴァルハイトの顔が、武人としての興奮に赤く染まった。
「……陛下! もし、その話が真であるならば……! これは、我が国の軍事史における、最大の革命となりますぞ!」
氷の宰相シュトライヒもまた、その冷静な仮面の奥で、この新たな力がもたらすであろう計り知れない政治的な可能性に、その頭脳をフル回転させていた。
「……うむ」
王は、玉座に戻った。
そして、その声に絶対的な王者の決意を込めて、命じた。
「……ヴァルハイト公爵。そなたに、命じる。……至急、この魔法使い殿に頂いたジェムの実験を行うのだ」
「は、はっ! 御意!」
「……ただし」と、王は続けた。その目は、剃刀のように鋭かった。
「……被験者は、慎重に選べ。……まずは、我が近衛騎士団の中から、最も忠誠心が高く、そして口の堅い者から、順序にだ。……この神の力がいかなるものなのか、その全貌が明らかになるまで、この事実は、この場にいる我々だけの最高機密とする」
「……はっ! このダリウス・フォン・ヴァルハイト! 我が騎士の名誉に懸けて!」
公爵は、その場にひざまずき、深々と頭を下げた。
◇
翌朝、夜明けと共に。
王宮の最も奥深くにある、通常は王族しか立ち入ることの許されない中央訓練場は、異様なほどの緊張感に包まれていた。
磨き上げられた石畳の広大な訓練場の中心に、一人の騎士がぽつんと立っている。
彼の名は、サー・ケイレブ。
年は、まだ二十代半ば。しかし、その実力と、そして何よりも王家への揺るぎない忠誠心の篤さで、異例の若さで近衛騎士団の分隊長に抜擢された若き獅子。
その全身を、磨き上げられた鋼鉄の全身鎧が覆い、その背中には、彼の身長ほどもある巨大な両手剣が背負われている。
その若き騎士を、訓練場の隅に設けられた観覧席から、国王アルトリウス、ヴァルハイト公爵、シュトライヒ宰相、そしてゲオルグ・ラングローブが、固唾をのんで見守っていた。
ケイレブの前に、ヴァルハイト公爵が自ら歩み出た。
そして、その手に一つのスキルジェムを握りしめていた。
それは、大地を思わせる、力強い茶褐色の輝きを放つ石だった。
「……ケイレブよ」
公爵の声は、厳粛だった。
「……今から、そなたに陛下より賜りし神の恩寵を授ける。……心して、受けよ」
「はっ!」
ケイレブは、その場にひざまずき、恭しく兜を脱いだ。
公爵は、そのジェムを、ケイレブの分厚い鎧の手甲の上に、そっと置いた。
次の瞬間。
ジェムは、眩い光を放ち、鋼鉄の手甲を、まるで水ででもあるかのように通り抜け、ケイレブの手の甲の皮膚の中へと、すう、と吸い込まれていった。
ケイレブの体が、びくりと震えた。
「…………ぐっ……!」
彼の脳内に、直接、膨大な情報の奔流が叩き込まれる。
大地とは、何か。
力とは、何か。
そして、その二つをいかにして融合させ、敵を粉砕する一撃へと変えるのか。
『ヘビー・ストライク』。
そのスキルの概要、その発動方法、そしてその力の感覚が、彼の魂に直接刻み込まれていく。
数秒後、情報の奔流が収まった時。
彼の手の甲には、大地を叩き割る巨大な戦槌の形をした、茶褐色の紋章がうっすらと浮かび上がっていた。
「……なるほど……」
ケイレブは、立ち上がった。
その声は、驚きと、そして自らの身に宿った未知の力への畏怖に、震えていた。
「……ジェムから、スキルの概要が流れ込んで来ますな……。……これは……これは、まさしく神の御業……」
「……うむ。ケイレブよ」
ヴァルハイト公爵が、頷いた。
「……まずは、その身に宿った力の変化を試してみよ。……いつも通り、素振りをしてみせよ」
「はっ!」
ケイレブは、背中の巨大な両手剣を抜き放った。
その剣は、それだけで成人男性一人分に匹敵するほどの重量を持つ。
だが、彼がその剣を振るった瞬間。
観覧席から、どよめきが起こった。
ブオンッ!
空気を切り裂く音が、尋常ではなかった。
あまりにも速く、そしてあまりにも力強い。
まるで、木の枝でも振るうかのように、軽々とその鋼鉄の塊を振り回している。
「…………なんということだ……」
シュトライヒ宰相が、呻いた。
「……彼の身体能力が、明らかに上がっていますぞ……! あの重々しい全身鎧を、着ていないかのようだ……!」
そうだ。
彼の筋力、敏捷性、その全ての身体能力が、ジェムを身につけただけで、人間を超えた領域へと飛躍的に向上していたのだ。
「…………では、ケイレブよ」
ヴァルハイト公爵の声が、震えていた。
「……本命を、試すがよい。……訓練用のゴーレムに向かって、そのスキルとやらを放ってみせよ」
「はっ!」
訓練場の反対側に設置されていた、魔石によって動く石造りの巨大な人型訓練用ゴーレムが、ギギギ、と音を立てて起動した。
ケイレブは、そのゴーレムに向かって、ゆっくりと歩み寄る。
そして、その巨大な両手剣を、両手で高く天に掲げた。
彼の全身から、茶褐色のオーラが立ち上り始める。
そのオーラは、彼の両腕を伝い、両手剣の剣身へと集束していく。
剣が、唸りを上げた。
大地の怒りそのものが、その鋼鉄の刃に宿ったかのようだった。
ケイレブは、その人生で初めて、スキルの名を叫んだ。
その声は、騎士としての礼節と、そしてこれから放たれる未知の力への畏怖が、入り混じっていた。
「…………失礼…………! ヘビー・ストライクッ!!!!!」
次の瞬間。
世界が、震えた。
彼が振り下ろした両手剣の切っ先が、石畳の地面に叩きつけられた、その瞬間。
ズウウウウウウウウウウンッ!!!!!!
地響きと、轟音。
剣が叩きつけられたその一点から、放射状に、地面に巨大な亀裂が走った。
そして、その亀裂から、凄まじい衝撃波が前方へと迸ったのだ。
衝撃波は、訓練用のゴーレムの分厚い石の装甲を、まるで紙切れのように貫き、その巨体を木っ端微塵に粉砕した。
だが、その破壊は、そこで止まらなかった。
衝撃波は、さらに訓練場の奥の分厚い石の壁にまで到達し、そこに巨大な蜘蛛の巣状の亀裂を刻み込んだ。
「…………なんという威力ですか……!!!!」
観覧席で、ゲオルグ・ラングローブが悲鳴に近い声を上げた。
その衝撃波の余波だけで、観覧席にいた彼らの体も、激しく揺さぶられていた。
やがて、粉塵が晴れた後。
そこに広がっていたのは、もはや訓練場とは呼べない、破壊の爪痕だった。
粉砕された、ゴーレムの残骸。
そして、大地そのものが悲鳴を上げているかのような、無数の深い亀裂。
その破壊の中心に、ケイレブは、一人呆然と立ち尽くしていた。
彼は、自分の両手を、信じられないといった顔で見つめている。
これが、自分が放った力なのか。
観覧席は、死んだように静まり返っていた。
誰もが、そのあまりにも規格外の破壊力を前にして、言葉を失っていた。
やがて、その静寂を破ったのは、鉄血公ヴァルハイトの震える声だった。
彼は、王の御前に進み出ると、その場に深々とひざまずいた。
そして、その武人としての生涯の全てを込めた報告を、上げた。
その声は、畏怖と、そしてそれを遥かに凌駕する歓喜に、打ち震えていた。
「…………陛下……! ご覧に、なられましたか……!」
彼は、叫んだ。
「……彼らの身体能力は、人間を超え、鎧を着ていないかのようです! そして、そのスキルの威力は、一撃で城壁を砕くカタパルトにも匹敵いたします! ……これさえあれば……! このスキルジェムさえあれば……!」
彼は、顔を上げた。その目には、涙さえ浮かんでいた。
「…………まさに、無双の兵に、成れます!!!!!」
そのあまりにも力強い報告。
アルトリウス王は、静かにその言葉を聞いていた。
彼は、破壊された訓練場を、そして自らの力に呆然とする若き騎士を、そしてテーブルの上の、まだ無数に残された色とりどりの宝石を、ゆっくりと見渡した。
そして、彼の口元に、静かな、しかし絶対的な王者の笑みが浮かんだ。
(……素晴らしい……)
彼は、心の中で呟いた。
(……素晴らしいぞ、魔法使い殿。……あなた様が授けてくださったこの力。……このアルトリウス、必ずや、正しく、そして最大限に使ってみせようぞ……)
グランベル王国の歴史の歯車は。
またしても、一人のぐうたらな男のほんの些細な気まぐれによって、誰も予測し得なかった、新たな、そしてより強力な軍事国家への道を、その重い扉を開けようとしていたのである。




