第47話 【日本政府編】 神の玩具と壊れかけの大人たち
新田 創の壮大すぎるスローライフ計画は、彼自身の尽きることのない、そしてどこまでもぐうたらな好奇心によって、もはや誰にも、彼自身にさえも予測不可能な領域へと、その舵を切り始めていた。
インターネット上の正体不明の預言者、『@Truth_Seeker_JP』が紡ぎ出す、壮大で、美しく、そして完全に捏造された「偽りの神話」。
それを、現実世界でまるで答え合わせでもするかのように、一つ一つ具現化させていく。
そのあまりにも不遜で、そしてあまりにも滑稽な神の如き「遊び」に、彼はここ数日、すっかり夢中になっていた。
交易世界で手に入れた莫大な金貨を元手に、彼は様々なファンタジー世界を渡り歩き、まるでAmazonでポチるかのような気軽さで、『囁きの羅針盤』を、『停滞の砂粒』を、そして『不死鳥の羽衣』を、次々とそのコレクションに加えていった。
次元ポケットの中は、今や世界中のオカルトマニアや陰謀論者たちが、喉から手が出るほど欲しがるであろう、夢のアーティファクトで満ち溢れていた。
だが。
東京、中野区のあの薄汚れたワンルームマンションに戻ってきた創の心を満たしていたのは、達成感ではなかった。
それは、むしろ一種の「虚しさ」に近かった。
「…………」
彼は、床の上に戦利品をずらりと並べ、それをゲーミングチェアの上から、ぼんやりと眺めていた。
美しい。
確かに、美しい。
どのアイテムも、その世界の最高の職人たちの技と魂が込められた、一級品だ。
だが、それだけだった。
「…………なんか、違うんだよな」
創は、ポリポリと頭を掻いた。
「集めるまでは、楽しいんだけど……。いざ手に入れてしまうと、途端にどうでもよくなっちまう……。これじゃあ、ソシャゲのガチャと一緒じゃねえか……」
そうだ。
彼は、気づいてしまったのだ。
どんなにすごいおもちゃを手に入れても、それを見せびらかし、一緒に遊んでくれる友達がいなければ、その喜びは半分以下になってしまうという、子供の頃に誰もが学ぶ、あの普遍的な真理に。
彼は、孤独だった。
このあまりにも巨大すぎる秘密と、あまりにも規格外すぎる力を共有できる相手が、この世界のどこにも、一人としていなかったのだ。
そのどうしようもない孤独感が、彼の心を、微かな、しかし確かな退屈の色に染め上げていた。
その時。
彼の退屈を持て余した脳裏に、ふと、一つの最高の「遊び相手」の顔が浮かび上がった。
「…………あ」
そうだ。
いるじゃないか。
俺が、どんなに無茶苦茶な、どんなに理解不能な「おもちゃ」を見せても、決して呆れたり引いたりすることなく、常に全力で、真剣にリアクションを返してくれる、最高のビジネスパートナーが。
彼の口元に、久しぶりに悪戯っぽい、子供のような笑みが浮かんだ。
「…………ふっふっふっふ……」
彼は、笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
(そうだ、あの人たちだ! 日本政府の、あのいつも難しい顔してるエリート様たち!)
(あいつらに、この俺の新しいコレクションを見せてやったら、一体どんな顔をするだろうか……?)
その光景を想像しただけで、彼の退屈していた心が、再び生き生きとした好奇心の輝きを取り戻していくのが分かった。
(……よし、決めた!)
彼は、椅子から跳ね上がった。
(……見せてやろう! そして、貸してやろう! この俺の最新のコレクションを! あのクソ真面目な狸女の、度肝を抜いてやる!)
それは、もはや国家間の交渉でも、ビジネスでもない。
それは、ただ退屈を持て余した、強大すぎる力を持つ一人の「子供」が思いついた、壮大な、そして相手にとってはあまりにも迷惑な「お披露目会」の始まりだった。
創は、すぐさまノートパソコンを開いた。
そして、あの橘紗英へと繋がる唯一のホットラインに、またしても極めて簡潔で、しかし相手にとっては神の気まぐれな召集令状とも言うべき一文を、打ち込んだ。
件名:【緊急業務連絡:新規案件のお披露目会について】
本文:
『面白い玩具が、またいくつか手に入った。
ついては、明日、昼過ぎ。いつもの場所で、お披露目会を開催する。
遅れるなよ』
そのあまりにも一方的で、そしてあまりにも子供じみたメールが、官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの司令室に届いた時。
そこは、文字通り地獄のような混乱の渦に叩き込まれた。
「き、緊急召集!?」
「明日だと!? 馬鹿な! こちらには、こちらのスケジュールというものが……!」
「黙れ! 神のスケジュールに、我々が合わせるのだ!」
橘紗英は、そのメールの文面をモニターに表示させたまま、数秒間、完全に凍り付いていた。
そして、やがて、その常に氷のように冷徹だった顔に、深い、深い疲労と、そしてどこか諦観にも似た感情を浮かべながら、静かに、しかしはっきりと部下たちに命令を下した。
「………………御意。賢者様の、御心のままに。……総員、第一級戦闘配備。……いえ、第一級『お披露目会』準備、開始」
◇
翌日、昼過ぎ。
東京、西新宿の、もはや創にとっては近所の公園のような感覚になりつつあるヘリポート。
そこには、昨日までとは打って変わって、まるで国賓を迎えるかのような厳粛で、そしてどこか滑稽なほどの歓迎の準備が整えられていた。
床には、再び深紅の絨毯が敷かれ、その中央には、白木の美しい展示用のテーブルがいくつも並べられている。
そして、その周りを、この国の最高首脳たちが、まるで新作ファッションショーの最前列に座るセレブリティのように、緊張した面持ちで取り囲んでいた。
宰善総理、綾小路官房長官、そして橘紗英と長谷川教授。
彼らの顔には、この数週間、ほとんど不眠不休で国家の舵取りを担ってきた、深い疲労の色が刻み込まれていた。
だが、それ以上に彼らの心を支配していたのは、未知への期待と、そしてそれと同等の恐怖だった。
『面白い玩具』。
神がそう称するものが、一体どれほどの奇跡と、そして混沌をもたらすのか。
彼らには、もはや想像さえつかなかった。
やがて、空間が何の前触れもなく揺らいだ。
そして、テーブルの前に、すっと一匹の艶やかな黒猫が姿を現した。
その姿は、いつも通り尊大で、そしてどこか眠たげだった。
だが、今日のそのエメラルドグリーンの瞳の奥には、明らかにいつもとは違う輝きが宿っていた。
それは、新しいおもちゃを友達に自慢したくてたまらない、純粋な子供のような、ワクワクとした輝きだった。
「うむ。待たせたのう」
賢者・猫は、大きなあくびを一つすると、集まった人間たちを見渡した。
「……なにやら、お主たちの世界では、ワシの持ち物について、様々な面白い『噂』が飛び交っておるそうではないか。……ふっふっふ。全く、矮小なる者たちは、想像力だけは豊かでいかんな」
そのあまりにも全てを見透かしたかのような言葉に。
橘の背筋を、氷のように冷たい汗が、一筋伝った。
(……やはり、このお方は全てご存知なのだ……! あのリーカーの存在も、我々がそれを利用していることも……! 我々は、やはりこのお方の掌の上で踊らされているに過ぎないのか……!)
彼女の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
だが、賢者の次の言葉は、彼女のその深刻な予測の、遥か斜め上をいくものだった。
「まあ、よい」
賢者・猫は、心底楽しそうに喉をグルグルと鳴らした。
「その、お主たちの貧困な、しかしどこか愛らしい想像力が生み出した『物語』。……それが、全くの的外れというわけでもないことを、今日この場で、ワシが直々に証明してやろうではないか」
賢者はそう言うと、まるでマジシャンがシルクハットから鳩を出すかのように、何もない空間から次々と「おもちゃ」を取り出し始めた。
最初に彼がテーブルの上に、ことりと置いたのは。
古びた真鍮製の、美しい羅針盤だった。
そのガラスの蓋の下で、針が、まるで生き物のように微かに震えている。
「…………これは……?」
長谷川教授が、かすれた声を漏らした。
その形、その佇まい。
それは、あのリーカー『@Truth_Seeker_JP』が投稿した、『囁きの羅針盤』の想像図と、寸分違わぬ姿をしていた。
「うむ」と、賢者は頷いた。
「お主たちが、『囁きの羅針盤』と呼んでおるものよ。まあ、大体その噂通りの代物じゃ。心の奥底で望むものを、指し示してくれる。便利な道具よ」
次に彼が取り出したのは、小さな革袋だった。
その袋の口を傾けると、中からサラサラと、純白のきめ細やかな砂が、テーブルの上にこぼれ落ちた。
「そして、これが『停滞の砂粒』じゃな」
賢者は、こともなげに言った。
「この一粒を振りかければ、あらゆる物体の時間を止めることができる。まあ、便利な保存食作りの道具よ」
そのあまりにも軽い説明。
だが、その言葉が持つ意味のあまりの巨大さに、その場にいた全員が、呼吸を忘れた。
そして、とどめ。
賢者は、最後に一枚の畳まれた布を、テーブルの上にふわりと広げた。
それは、陽光を反射して、まるで溶けた黄金のようにきらきらと輝く、この世のいかなる織物とも違う、神々しいまでの羽衣だった。
「そして、これが『不死鳥の羽衣』じゃ」
賢者は、その羽衣の端を指先でつまみ上げた。
「まあ、頑丈で、燃えんし、切れんし、汚れても勝手に綺麗になる。便利な一張羅よ」
そのあまりにも、非現実的な光景。
数日前まで、インターネットの片隅で、ただの荒唐無稽な都市伝説として語られていた、あの夢のアーティファクトたちが。
今、目の前に、本物として存在している。
そのあまりにも衝撃的な事実を前にして。
日本の最高首脳たちの、理性のタガが、音を立てて外れ始めた。
「…………は」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
「…………ははは……」
誰かが、乾いた笑い声を上げた。
「…………うそだろ」
彼らは、完全に混乱していた。
何が起きているのか、全く理解ができなかった。
最初に我に返ったのは、やはり橘紗英だった。
だが、その彼女の常に冷静沈着だった声さえもが、僅かに、しかし確かに震えていた。
「……け、賢者様……。こ、これは……一体、どういうことでございましょうか……? なぜ、貴方様が、あのインターネット上のただの噂話に過ぎなかったはずの品々を、お持ちなので……?」
そのあまりにも当然の問いに対し。
賢者・猫は、きょとんとした顔で首を傾げた。
そして、心底不思議そうに答えた。
「……ん? なにを言っておるのだ、娘よ」
そのエメラルドグリーンの瞳は、どこまでも純粋で、無邪気だった。
「……噂ではないぞ? これは、ワシのコレクションじゃ」
「………………は?」
「うむ。お主たちの世界で、面白い『物語』が流行っておると聞いたのでな。ワシも気になって、自分の宝物庫を探してみたら、まあ、大体同じようなものがあったのでな。せっかくだから、持ってきてやったのじゃ」
賢者は、続けた。
「……お主たち、こういうのが好きなのであろう? ならば、貸してやる。しばらく、これで遊ぶがよい」
『貸してやる』。
『遊ぶがよい』。
そのあまりにも子供じみた、そしてあまりにも神の如き言葉。
その一言で。
橘紗英の頭の中に、一つの、あまりにも恐ろしく、そしてあまりにも滑稽な仮説が、雷鳴のように轟き渡った。
(……まさか……)
彼女の血の気が、さーっと引いていくのが分かった。
(……まさか、このお方は……。あのリーカーの情報を見て……。その物語に合わせて……。わざわざご自身のコレクションの中から、似たような本物のアーティファクトを探し出して、ここに持ってこられたというのか……!? まるで、子供がサンタクロースに手紙を書くように……!? 我々を、喜ばせるためだけに……!?)
そのあまりにも常軌を逸した、そしてあまりにも愛情に満ち溢れた(と解釈できなくもない)、神の行動原理。
それは、彼女がこれまで築き上げてきた全ての論理的思考、全ての戦略的思考を、完全に無意味なものへと変えてしまった。
彼女の混乱をよそに。
宰善総理と綾小路官房長官は、別の、しかし同様に恐ろしい思考の迷宮に迷い込んでいた。
(……待て……)
綾小路が、その蛇のように冷たい目で賢者・猫を見つめていた。
(……おかしい……。話が、出来すぎている……。これは、罠だ……。この賢者という存在は、我々が、あのリーカーの情報を完全に把握していることを知っている。そして、その上で、我々の反応を試しているのだ……!)
彼の猜疑心に満ちた頭脳が、最悪のシナリオを弾き出す。
(……そうだ……! 間違いない……! あの『@Truth_Seeker_JP』というアカウントは、そもそも……!)
彼の思考と、隣にいた宰善総理の思考が、全く同じ一つの戦慄すべき結論へと、同時にたどり着いた。
(…………この賢者様ご自身が、運営しておられるアカウントなのではないか…………!?)
そのあまりにも冒涜的で、そしてあまりにもありえそうな仮説。
それは、彼らの最後の理性の砦を、完全に粉砕した。
そうだ。
そう考えれば、全ての辻褄が合う。
あのリーカーの、神の如き情報源。
そして、今日のこのあまりにも出来すぎた展開。
全ては、この賢者という超越的な存在が、退屈しのぎに仕組んだ、壮大な自作自演の茶番劇なのだとしたら?
我々は、神の手のひらの上で踊らされているどころではない。
我々は、神が自ら書き下ろした壮大な物語の登場人物として、神の望む通りの役割を、ただ演じさせられているだけの、哀れな操り人形に過ぎないのではないか。
そのあまりにも恐ろしい認識。
それは、彼らの為政者としての最後のプライドを、ズタズタに引き裂いた。
「……あ……」
「……ああ……」
宰善総理と綾小路官房長官の口から、同時に意味のないうめき声が漏れた。
彼らは、もはや発狂寸前だった。
だが、彼らはギリギリのところで耐えた。
この国の未来をその双肩に担う者として、ここで正気を失うわけにはいかなかった。
彼らは、ただわなわなと震えながら、目の前の無邪気な、そしてどこまでも残酷な神の化身を、見つめることしかできなかった。
「うむ。では、そういうことじゃ」
賢者・猫は、そんな人間たちの内面の地獄など、全く意に介する様子もなく、満足げに頷いた。
「ワシは、また別の玩具探しで忙しいからのう。あとは、よしなに計らえ」
彼は、大きなあくびを一つすると、自分が来た時と全く同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に、残されたのは。
神が、気まぐれに「貸してくれた」、あまりにも巨大すぎる奇跡の数々と。
その奇跡を前にして、もはや自分たちの正気さえも信じられなくなった、日本のトップエリートたちだけだった。
彼らは、ただ呆然と立ち尽くす。
やがて、誰かが呟いた。
その声は、もはや誰のものなのか、区別もつかなかった。
「…………もしかして…………あのリーカーは、本当に…………?」
「…………あるいは、賢者様が、本当に…………?」
「…………もう、分からん…………」
「…………頭が、どうにかなりそうだ…………」
彼らの発狂寸前の囁き声は、ヘリポートの強風の中に、虚しく吸い込まれて消えていった。
神の不在の祭壇の上で。
ただ、神が置いていった、あまりにも美しく、そしてあまりにも残酷な玩具たちだけが、静かにその真価を知られる時を待っていた。




