第45話 【日本政府編】 神の玩具と為政者たち
賢者・猫が、気まぐれな神のように去っていった後の東京、西新宿の超高層ビル最上階ヘリポートは、奇妙なまでの静寂に包まれていた。
先ほどまで祭壇を荘厳に飾っていたはずの篝火は既に消され、深紅の絨毯も手際よく撤去されている。後に残されたのは、吹き抜ける九月の冷たい風と、神が置いていった十個の小さな置き土産、そしてそのあまりにも巨大な意味を前にして、思考を停止させた日本のトップエリートたちだけだった。
彼らの視線は、ヘリポートの中央に運び込まれたチタン製の厳重なケースの中に、まるで聖遺物のように安置された、五つの銀色のイヤリングと、五つの黒曜石のような腕輪に釘付けになっていた。
見た目は、どこかの高級ブランドが発表した新作アクセサリーのようだ。
ミニマルで、洗練され、そしてどこまでも美しい。
だが、その場にいる誰もが知っていた。
この掌に乗るほどに小さな十個の物体が、先だって提供されたポーションや魔石といった「資源」とは、全く質の異なる恐るべき代物であることを。
あれらが、文明のあり方を根底から変える「可能性」の種子であったとすれば、これらは、既に完成された、個人の能力を神の領域にまで引き上げる「果実」そのものなのだ。
「…………」
沈黙を破ったのは、プロジェクト・プロメテウス科学者チームの狂信的リーダー、長谷川健吾教授だった。
彼は、もはや神の降臨を目撃した預言者のように、恍惚とした表情でそのケースに這い寄った。
「……おお……。おおお……! なんという、なんという完璧なフォルムだ……! この滑らかな曲線、継ぎ目のない構造……。我々人類の、いかなる製造技術をもってしても再現は不可能……! これぞ、まさしく神々の工芸品……!」
彼は、震える手でその中の一つのイヤリングをつまみ上げた。
ひんやりとした、しかしどこか生命の温かみさえ感じさせる、未知の金属の感触。
「……賢者様は、これを『万能言語翻訳機』と仰せられた……。宇宙に存在する、ありとあらゆる知的生命体の言語と思考を、完全に理解できると……。橘理事官!」
長谷川は振り返ると、その目を狂気的なまでの探究心の炎に爛々と燃え上がらせて叫んだ。
「……実験を! 一刻も早く、この神の耳飾りの真の力を、検証させてはいただけませんか!」
その日の深夜。
東京の地下深くに広がるプロジェクト・プロメテウスの第一言語解析研究所は、人類がバベルの塔を建てて以来、初めて経験するであろう歴史的な瞬間に立ち会っていた。
厳重な防音壁に囲まれた実験室。その中央に、一人の老人がぽつんと座っていた。
彼の名は、イシャイ・ヤノフ。
世界でわずか三人しか話者が残っていないとされる、シベリアの極北の少数民族に伝わる古代ツングース語の方言の、最後の伝承者だった。
彼は、日本政府から「文化の保護と記録」という名目で、半ば騙されるようにしてこの場所に連れてこられた。
その老人の向かい側に座るのは、橘紗英が選んだ、内閣情報調査室で最も優秀な若手分析官の一人、結城だった。彼の耳には、あの銀色のイヤリングが控えめな輝きを放っている。
実験室の外のモニタリングルームでは、橘と長谷川、そして日本中から集められた言語学の権威たちが、固唾をのんでその様子を見守っていた。
「……いいかね、結城君」
長谷川が、マイクに向かって興奮を抑えきれない声で指示を出す。
「……賢者様の仰せられたことが真実ならば、君は、これから彼の話す人類史上最も難解とされる言語を、完璧に理解できるはずだ。さあ、始めるがいい」
結城は、深く頷くと、目の前の老人に向かって丁寧な日本語で話しかけた。
「……はじめまして、ヤノフさん。私の声が、聞こえますか?」
老人は、きょとんとした顔で、何かをその古代の言語で答えた。
それは、日本語を話す者にとっては、まるで風の音か獣の鳴き声のようにしか聞こえない、複雑な喉の響きと舌の動きを伴う、異質な音の連なりだった。
モニタリングルームの言語学者たちが、一斉に頭を抱える。
「……ダメだ……。全く聞き取れん……!」
「母音も子音も、我々の知るいかなる言語体系にも属していない……!」
だが。
実験室の中の結城の反応は、全く違った。
彼は、老人の言葉を聞き終えると、何の戸惑いも見せず、ごく自然に、にこりと微笑んで頷いたのだ。
そして、彼は日本語で答えた。
「はい、よく聞こえますよ、ヤノフさん。『なぜ、こんな場所に太陽の子孫がいるのか』ですね。ええ、少しばかり込み入った事情がありまして」
そのあまりにも滑らかな通訳。
モニタリングルームが、水を打ったように静まり返った。
「…………は?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
長谷川が、マイクに噛み付くように叫ぶ。
「き、君! 結城君! 今、彼が何と言ったか、本当に分かったのか!?」
「はい、もちろん」
結城は、当たり前だといった顔で答えた。
「彼は、私のことを『太陽の子孫』と呼び、なぜ彼の故郷の神話に出てくる存在が、こんな暗い洞窟にいるのかと、不思議がっておられます。それと、少しお腹が空いたので、アザラシの干し肉が食べたいとも」
そのあまりにも具体的で、あまりにも完璧な翻訳内容。
言語学者たちが、一斉に椅子から立ち上がった。
「……ば、馬鹿な……!」
「ありえない……! あの言語を、初見で完璧に……!? しかも、神話的な背景まで理解しているというのか!?」
彼らの長年の研究とプライドが、目の前のあまりにも非現実的な光景によって、粉々に打ち砕かれていく。
実験は、続行された。
古代エジプトのヒエログリフを、楔形文字を、そしてもはや誰も解読不可能とされていたインダス文明の未解読文字さえも。
イヤリングを装着した結城は、それらの古代の叡智を、まるで昨日の新聞でも読むかのように、すらすらと、淀みなく読み解いていった。
そして、とどめ。
長谷川が、用意させていた最後の実験。
スピーカーから、ある「音」が流された。
それは、海洋生物学者がアラスカ沖で録音した、ザトウクジラの複雑で、どこか物悲しい歌声だった。
そのメロディーとも、ノイズともつかない音の奔流を数分間聞き終えた結城は、静かに目を閉じた。
そして、やがてその目に、うっすらと涙を浮かべた。
「…………そうか」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
「……なんて、悲しい歌なんだ……」
「……結城君?」
「……彼は、歌っているんです。かつて、共にこの大海を旅した、今は亡き伴侶のことを……。彼女と共に見た、月の美しさを。彼女と共に潜った、深海の静けさを。そして、彼女を奪っていった巨大な鉄の船への、深い、深い憎しみを……。これは、壮大な愛と喪失の叙事詩です……」
そのあまりにも詩的で、そしてあまりにも魂を揺さぶる翻訳。
モニタリングルームにいた全ての人間が、言葉を失っていた。
我々は、今日、この日、この場所で、初めて他の種族の、その心の声を聞いたのだ。
言語の壁は、完全に消え去った。
それは、人類が真の意味で、この星の他の生命と対話する時代の始まりを告げる、産声だった。
◇
時を、同じくして。
第二物理科学研究所の、地下深く。
そこでは、もう一つの、より直接的で、そしてより暴力的な「奇跡」の検証が行われようとしていた。
巨大な耐爆実験ドーム。その中央に、一人の男がぽつんと立っている。
陸上自衛隊特殊作戦群の中から選び抜かれた、最高の兵士。コードネーム、『ハヤブサ』。
彼の左腕には、あの黒曜石のような滑らかな腕輪が装着されていた。
ドームを取り囲む防弾ガラスの向こう側には、防衛大臣の岩城剛太郎、そして陸、海、空、各自衛隊の制服組のトップたちが、固唾をのんでその様子を見守っていた。
「……岩城大臣」
航空自衛隊の幕僚長が、緊張に声を震わせながら問いかけた。
「……本当に、よろしいのですか。これでは、まるで公開処刑ですぞ」
「……うむ」
岩城は、その熊のような巨体を微動だにさせず、短く答えた。
「……だが、やらねばならん。我々は、この神の武具の限界性能を知る必要がある。たとえ、そのために一人の優秀な兵士の命が失われることになったとしてもな」
その声は、非情だった。だが、それがこの国の数千万の民の命を預かる者の、覚悟だった。
最初の実験は、火炎放射だった。
ドームの壁に設置された巨大なノズルから、ごう、という轟音と共に、千度を超える灼熱の炎が、ハヤブサの体を完全に飲み込んだ。
監視室のモニターの温度計の針が、一瞬で振り切れる。
女性のオペレーターが、悲鳴を上げる。
だが、数秒後、炎が収まった時。
ドームの中央に立つハヤブサの姿は、何一つ変わっていなかった。
彼の迷彩服には、焦げ跡一つついていない。
彼の周囲を、まるで見えない卵の殻のような、淡い青白い光の膜が覆っているのが見て取れた。
『……こちらハヤブサ』
彼のヘルメットに内蔵された通信機から、完全に平静を保った声が聞こえてきた。
『……熱、全く感じず。むしろ、少し涼しいくらいだ。繰り返す。全く問題ない』
「…………なんだと」
幕僚たちの間から、どよめきが起こる。
実験は、エスカレートしていった。
液体窒素による絶対零度に近い極低温攻撃。
数万ボルトの高圧電流。
そして、最新鋭のレールガンから放たれる、音速の数倍の速度を持つタングステンの弾丸。
そのありとあらゆる致死的な攻撃の全てを。
ハヤブサは、その身に傷一つ負うことなく、ただ静かに耐え続けた。
彼の周囲を覆う薄い青白い光の膜――賢者が『絶対環境耐性シールド』と呼んだもの――は、いかなる物理的な攻撃も、エネルギー的な攻撃も、完全に無効化していた。
そして、最後の実験。
岩城は、重々しく命令を下した。
「……地下の備蓄弾頭を使用する。目標、実験ドーム中央。……起爆させろ」
その命令に、オペレーターたちが血相を変えた。
「だ、大臣! お待ちください! あれは、戦術核に匹敵する……!」
「構わん。やれ」
岩城の声は、揺るがなかった。
数秒の、悪夢のような沈黙。
そして、監視室の分厚い防弾ガラスの向こう側で。
世界が、白く染まった。
音さえも、光に飲み込まれる。
凄まじい衝撃波が、地下施設全体を激しく揺さぶった。
モニターは全てホワイトアウトし、計測機器は、そのほとんどが異常な数値を叩き出したまま、沈黙した。
数分後。
ようやく、ドーム内の粉塵が晴れてくる。
そこに広がっていたのは、地獄のような光景だった。
ドームの内壁は、高熱でどろどろに溶け落ち、床は巨大なクレーターと化している。
だが。
そのクレーターの、ど真ん中に。
ハヤブサは、立っていた。
無傷で。
その身を包む青白い光のシールドは、先ほどよりもほんの少しだけ、その輝きを増しているようにさえ見えた。
『…………こちら、ハヤブサ』
通信機から、ノイズ混じりの、しかし確かな生存を告げる声が聞こえてきた。
『……少し、驚いた。以上だ』
監視室は、死んだように静まり返っていた。
誰もが、呼吸を忘れ、思考を停止させ、ただ目の前の神の如き兵士の姿を、見つめていた。
やがて、岩城防衛大臣が、その巨体をゆっくりと椅子に沈めた。
ガタン、という大きな音が、やけに大きく響いた。
彼の百戦錬磨の武人の顔に、初めて、恐怖と、そしてそれを遥かに凌駕する歓喜の色が浮かび上がっていた。
「…………すごいな」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
「……これさえあれば……。これさえあれば、我が国は、もはやいかなる国の核の脅威にも、屈することはない……。いや、違う……」
彼の目が、ギラリと輝いた。
「……これさえあれば、我々は、世界最強の軍隊を手にすることができる……!」
その日の深夜。
再び、官邸の地下深く、危機管理センターに、日本の最高首脳たちが集結していた。
彼らの顔には、二つの相反する感情が浮かんでいた。
人類の新たな輝かしい未来への扉を開いたという、高揚感。
そして、そのあまりにも強大すぎる神の力を、矮小なる人間の手で本当に制御できるのかという、根源的な恐怖。
会議は、荒れた。
「……公表すべきです!」
最初に声を上げたのは、これまで常に慎重な姿勢を崩さなかった外務大臣の古賀だった。
だが、その声は、もはや国際協調を訴える穏健なものではなかった。
それは、新たな力の虜となった、熱狂的なタカ派の叫びだった。
「特に、この『絶対環境耐性シールド』! この絶対的な防衛力の存在を、世界に見せつけるべきです! これさえあれば、我が国は、もはやいかなる国からの軍事的恫喝にも、屈する必要はない! 北の核保有国も、大陸の覇権主義国家も、もはや我々の敵ではない! 我々は、真の平和を、自らの手で勝ち取ることができるのです!」
そのあまりにも過激な変節。
だが、その熱狂は、防衛大臣の岩城も共有していた。
「うむ! 古賀大臣の言う通りだ! これこそが、真の抑止力! 我が国は、もはやアメリカの核の傘に頼る必要など、ないのだ! 我々は、自らの神の盾で、この国を守ることができる! そして、その力をもって、我々は世界に新たな秩序を提示すべきなのだ!」
そのあまりにも危険な、軍国主義的な熱狂に冷や水を浴びせたのは、やはり官房長官の綾小路だった。
「…………はー……。だから、脳筋は困りますな」
彼は、心底うんざりしたというように、溜め息をついた。
「いいですか、お二人とも。その神の盾は、確かに素晴らしい。ですが、その数は、たったの五つしかないのですよ? そして、その盾を身につけることができるのは、たったの五人の人間だけだ。その五人で、どうやってこの国、一億二千万人の全てを守ると、仰るのですか? それは、抑止力などという高尚なものではない。ただの王様の新しいおもちゃです。それを自慢したいと、駄々をこねている子供と、何ら変わりはありませんな」
そのあまりにも冷徹で、そしてあまりにも的を射た皮肉。
岩城と古賀の顔が、怒りと屈辱に赤く染まる。
「な、なんだと、綾小路!」
「貴様、我々を愚弄するか!」
「――そこまでだ」
宰善総理の静かな、しかし絶対的な一言が、その場の熱を切り裂いた。
彼は、深く、深く、目を閉じていた。
その脳裏では、無数のシミュレーションが超高速で繰り返されていた。
この神の道具を、どう使うべきか。
公表すれば、世界は嫉妬と恐怖に狂い、新たな冷戦の時代が始まるだろう。
かといって、完全に秘匿すれば、この偉大な力を宝の持ち腐れにしてしまうことになる。
そのあまりにも困難な、二律背反。
やがて、彼はゆっくりと目を開いた。
その目には、この国の未来の全てをその一身に背負う指導者の、深い、深い苦悩と、そして一つの揺るぎない覚悟が宿っていた。
「…………秘密だな」
彼は、静かに、しかしきっぱりと告げた。
「……この二つのアーティファクトの存在は、本日、この場にいる我々だけの、最高機密とする。いかなる同盟国にも、いかなる国際機関にも、その存在を明かすことは、断じて許さん」
その絶対的な決定に、誰もが息を飲んだ。
総理は、続けた。
「……岩城大臣、古賀大臣。君たちの逸る気持ちは、分かる。だが、考えてもみよ。子供が強力な玩具を手に入れた時、まずすべきことは何か? それを、友達に自慢することか? 違うだろう。まずは、その玩具の正しい使い方と、その危険性を、親からじっくりと学ぶことだ。そして、それを安全に使えるようになるまで、決して家の外に持ち出してはならない。……今の我々は、まさにその子供と、同じなのだよ」
そのあまりにもシンプルで、そしてあまりにも本質的な比喩。
岩城も古賀も、もはや何も言い返すことはできなかった。
「……うーーーーん……」
どこかの省庁から来ていた若い官僚が、苦しそうなうめき声を漏らした。
「……ですが、総理……。これほどの素晴らしい技術を、活用しないというのは……。せめて、一つだけでも公表して、例えば、災害救助や、あるいは深海や宇宙の探査といった、平和的な目的に利用することはできないのでしょうか……?」
それは、その場にいた多くの者が、心の奥底で抱いていた素朴な、しかし切実な疑問だった。
だが、そのあまりにも純粋な善意に満ちた提案を、宰善総理は、静かに、しかしきっぱりと首を振って否定した。
「…………ダメです」
その声は、非情なまでに冷たかった。
「……一つの例外を認めれば、それは必ず第二、第三の例外を生む。そして、やがては堤防が決壊するように、全てが白日の下に晒されることになるだろう。……我々は、まだこの神の火を扱うには、あまりにも未熟すぎるのだよ」
彼は、そこで一旦言葉を切った。
そして、その顔に、あのプロジェクト・キマイラの始動を告げた時と同じ、老獪な、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「……まあ、もちろん」
彼は、続けた。
「……我々自身が公表するのは、愚の骨頂です。……ですがね」
彼の目が、いたずらっぽくきらりと光った。
「……もし、またどこかの正体不明の『真実の探求者』とやらが、この神の道具の存在を『リーク』してくれたとしたら……。それは、また別の話ですがねえ」
そのあまりにもあからさまな示唆。
そのあまりにも悪魔的な提案。
会議室にいた全ての人間が、その言葉の本当の意味を理解した。
そして、彼らの顔に、恐怖と、そしてそれ以上の、禁断の共犯者としての笑みが浮かび上がった。
彼らは、もはや神の恩寵にただひれ伏すだけの、哀れな信徒ではなかった。
彼らは、神がもたらした奇跡の奔流を、自らの国家の利益のために、巧みに、そしてしたたかに制御し、利用しようとする、恐るべき、そしてどこまでも人間臭い為政者たちへと、変貌を遂げていたのだ。
その壮大で、そしてどこまでも滑稽な、神と人間の化かし合いの第二幕が、今、静かにその幕を開けようとしていた。




