第39話 【グランベル王国編】 豊穣の国と賢王の戯れ
賢王アルトリウス三世が、神の石『魔石』の力を解放し、国家の全てを懸けた二つの大事業――『豊穣の女神計画』と『氷の心臓計画』――を始動させてから、季節が一つ巡ろうとしていた。
グランベル王国の風景は、そのあまりにも短い期間のうちに、千年の歴史の中で誰も見たことのない、輝かしい、そしてどこか非現実的なまでの豊かさに、満ち溢れ始めていた。
その変化を、最も劇的に、そして最も鮮やかに体感できた場所。
それこそが、王国の心臓部、王都であった。
かつての王都の市場は、常に喧騒と、そして微かな欠乏の匂いに満ちていた。農村から、荷馬車で何日もかけて運ばれてくる野菜は、その道のりの間に瑞々しさを失い、少しばかりしなびているのが、当たり前だった。南の港町ポルト・マーレから届く魚は、そのほとんどが大量の塩で固められた保存食であり、新鮮な魚の匂いを知るのは、海辺の民だけの特権だった。
だが、今の王都の中央大市場の光景は、全くの別物だった。
朝の陽光が、石畳を黄金色に染める頃、市場には信じられないほどの品々が、まるで洪水のように溢れかえっていた。
「さあ、見てってよ、奥さん! 今朝、ポルト・マーレの氷室から届いたばかりの、キンキンに冷えたアジだよ! ほら、このエラの色を見てみな! まるで、今、海から跳ね上がってきたばかりみてえだろ!」
威勢のいい魚屋の親父が、汗を拭いながら声を張り上げる。彼の店の台の上には、砕かれた魔法の氷の上に、銀色に輝く魚たちがずらりと並べられていた。そのどれもが、驚くべきことに、数日前の港町で味わえたであろう完璧な鮮度を保っていたのだ。
その隣の八百屋の店先には、まるで巨人の国の畑から盗んできたかのような、規格外の野菜や果物が、山と積まれていた。子供の頭ほどもある真っ赤に熟したトマト。腕のように太い、艶やかな緑色のキュウリ。そして、貴婦人の手のひらほどもある、甘い香りを放つイチゴ。
「安いよ、安いよ! グリューネワルト村の、王家御用達の畑から今朝届いたばかりの、奇跡の野菜だ! こんなに美味くて、こんなに安いのは、アルトリウス陛下のおかげだよ!」
その声に、人々がわっと群がる。
そして、何よりも驚くべきは、その値段だった。
これほどの品質、これほどの量を誇る食料が、以前のしなびた野菜や、塩辛いだけの干物とほとんど変わらない、あるいはそれ以下の、驚くほど安い価格で売られているのだ。
『豊穣の女神計画』がもたらした、圧倒的なまでの生産量の増加が、それを可能にしていた。
もはや、食料は、一部の富裕層だけがその鮮度と味を享受できる贅沢品ではない。
それは、この国に生きる全ての民が、当たり前にその恩恵を享受できる、祝福そのものへと変わっていた。
王都の民衆の食卓は、この数ヶ月で革命的に豊かになった。
これまで、硬い黒パンと塩味の薄いスープが日常だった貧しい家庭でさえ、今や食卓には新鮮な野菜のサラダが並び、週に一度は焼きたての魚が湯気を立てるようになった。
その食生活の劇的な改善は、人々の心そのものに変化をもたらした。
腹が満たされれば、心に余裕が生まれる。
街角での些細ないさかいは目に見えて減り、代わりに人々の陽気な笑い声や歌声が、あちこちで聞こえるようになった。
そして、その感謝と幸福感は、全て一つの源泉へと捧げられた。
この奇跡をもたらした、偉大なる賢王、アルトリウス三世陛下へと。
王都の民は、もはや彼をただの統治者としてではなく、国に豊穣と幸福を約束する、生き神のように崇め奉るようになっていた。
もちろん、その奇跡の恩恵を、最も深く、そして最も贅沢に享受していたのは、王宮に住まう人々だった。
その日の昼下がり。
王宮の南側に面した、ガラス張りの優美な温室では、王家の女性たちによる、ささやかな昼食会が開かれていた。
柔らかな陽光が、色とりどりの花々を照らし、小鳥のさえずりがBGMのように響き渡る、楽園のような空間。
テーブルを囲むのは、王妃エレオノーラ、そして二人の姫君セレスティーナとリリアーナ、さらに彼女たちに仕える数名の侍女や令嬢たち。
彼女たちの目の前の、純白のテーブルクロスの上には、まるで絵画のように美しい料理の数々が並べられていた。
それは、これまでの王宮の料理のように、複雑なソースや手の込んだ装飾を施したものではない。
むしろ、逆だった。
素材の良さを最大限に生かすため、調理法は、驚くほどにシンプル。
今朝、王立実験農場で収穫されたばかりのミニトマトとベビーリーフを、ただ最高級のオリーブオイルと奇跡の塩で和えただけのサラダ。
ポルト・マーレから氷室輸送で届けられた新鮮な白身魚を、ハーブと共に紙で包み、蒸し焼きにしただけの一皿。
そして、デザートには、山のように盛られた巨大なイチゴとブドウが、添えられているだけ。
だが、その一皿一皿が放つ生命力に満ち溢れた芳香と、鮮やかな色彩は、どんな豪華絢爛な宮廷料理よりも、遥かに贅沢で、そして食欲をそそるものだった。
「まあ……。お姉様。このトマト、本当にお野菜ですの?」
一番年下のリリアーナ姫が、そのルビーのように輝くミニトマトをフォークで突き刺しながら、無邪気な声を上げた。
「まるでお砂糖菓子を食べているみたいに、甘くて美味しいですわ!」
彼女はそう言うと、その小さなトマトを、ぱくりと口に放り込んだ。
その瞬間、彼女の大きな瞳が、幸福にとろりと蕩ける。
「んーっ! 美味しい!」
そのあまりにも素直な反応に、周りの女性たちから、くすくすと楽しげな笑いが起きた。
姉のセレスティーナ姫が、その優雅な仕草で口元をナプキンで拭いながら、微笑んだ。
「ええ、本当に。まるで砂糖のようだけど、でも、これはちゃんとお野菜の素晴らしい甘さですわね。あのケーキの直接的な甘さも、もちろん魅力的ですけれど、こちらも全く捨てがたいですわ」
彼女のその詩的な表現に、王妃エレオノーラが穏やかに頷いた。
「そうですね、セレスティーナ。そして、何よりも素晴らしいのは、このお野菜には、あの独特のえぐみや青臭さが、全くないこと。これなら、どんな野菜嫌いの子供でも、喜んで食べるようになるでしょう。この国の子供たちの健康を考えれば、これ以上の祝福はありませんわ」
王妃のそのどこまでも母性に満ちた言葉に、その場にいた令嬢たちも、次々と同意の声を上げた。
「本当ですわ、妃殿下! これほど美味しいお野菜ならば、むしろ野菜を嫌いになる子なんて、いなくなってしまうでしょう!」
「ええ! 私の弟も大の野菜嫌いでしたのに、昨日、母がこのお野菜で作ったスープを、おかわりまでしておりましたのよ!」
温室は、女性たちの華やかで、幸福なおしゃべりに満たされていた。
その光景を、少し離れた席で、一人の男が満足げな表情で眺めていた。
国王アルトリウス三世、その人だった。
「……うむ、うむ」
王は静かに頷きながら、自らもその奇跡のサラダを口に運んだ。
舌の上で弾ける、トマトの甘み。シャキシャキとした、レタスの歯触り。そして、それら全てを完璧なハーモニーでまとめ上げる、純粋な塩の旨味。
美味い。
心の底から、そう思った。
だが、彼の心を満たしていたのは、ただその味覚的な快楽だけではなかった。
彼は、この一皿の向こう側に、王国全土に広がる民たちの笑顔を見ていた。
(……民も、今頃、この野菜や魚を味わえているようだな。それは、何より幸せなことだ……)
彼の治世の究極の目標。
それは、富国強兵でも、大陸制覇でもない。
ただ、この国に生きる全ての民が、腹一杯美味いものを食べ、笑い、そして明日への希望を持って眠りに就けること。
そのシンプルで、しかし最も困難な夢が、今、この小さな石ころのおかげで、現実のものとなろうとしていた。
その事実に、彼の胸は、王としてのこれ以上ない達成感と、幸福感で満たされていた。
彼は、ふと、その全ての始まりとなったあの奇妙な出来事を思い出した。
そして、その口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……しかし、不思議なものだな」
王のその唐突な呟きに、女性たちのおしゃべりが、ぴたりと止まった。
「これほどの奇跡も、これほどの豊かさも、そして我々のこの幸福な食卓も……。その全てが、元をただせば、王都の片隅にいた、ただ一人の石工の男の、ささやかな親切心から始まったのだからな」
その言葉に、王妃がくすりと笑った。
「まあ、陛下。また、あの石工のジャック様のお話ですの?」
「ああ。そうだとも」
王は、楽しそうに頷いた。
「今や、この国で彼の名を知らぬ者は、赤子でもおるまい。旅人に施した親切が、国を救った男。吟遊詩人たちは、彼を『聖ジャック』とまで呼んで、その美談を歌い上げておるそうではないか」
王は、そこで一度言葉を切ると、わざとらしく芝居がかった仕草で、溜め息をついてみせた。
「……ああ。朕も、一度、その偉大なる聖人に直々に会って、この国の王として心からの礼を言いたいものだ。そして、その功績を称え、爵位でも与えてやりたいところなのだが……」
王は、そこでちらりと王妃の顔を見た。
「……だが、まあ、それはさすがに彼にとっては迷惑であろうな。いきなり王宮に呼び出され、堅苦しい作法を強いられ、挙げ句の果てに貴族になれなどと言われた日には、あの伝説の男も、逃げ出すに違いない」
そのあまりにも人間味あふれる王の冗談に。
温室は、幸福な笑い声に包まれた。
王妃エレオノーラは、扇子で口元を隠しながら、その美しい瞳を細めた。
「ハハハ。まあ、陛下。またお戯れを」
彼女は、誰よりも知っていた。
自分の夫であるこの偉大なる賢王が、その心の奥底で、誰よりも民を愛し、そしてその民の中から生まれたささやかな善意の物語を、心から尊んでいることを。
その王の優しさが、彼女は、何よりも誇らしかった。
だが、その和やかな時間は、一人の侍従の慌ただしい足音によって破られた。
侍従は、温室の入り口で深々と頭を下げると、緊張に声を震わせながら告げた。
「……も、申し上げます、陛下! た、ただいま、ラングローブ商会のゲオルグ殿が、緊急の要件にて謁見を願っております!」
「……ゲオルグが?」
王の顔から、穏やかな笑みが消えた。
「……何事だ。彼には、魔石の研究と流通の全てを一任しているはず。彼が、アポイントメントもなしに朕に会いに来るとは、よほどのことだ。……分かった、すぐに通せ」
温室の幸福な空気は、一瞬にして、国家の最高意思決定の場の、張り詰めた緊張感へと変わっていた。
やがて、ゲオルグ・ラングローブが、その恰幅のいい体を汗で濡らしながら、部屋に飛び込んできた。
彼は、王の御前にひざまずくと、震える声で、しかしその声の奥に抑えきれない興奮の色を滲ませながら、告げた。
「……陛下! あ、あのお方が……! あの魔法使い様が、再び我が商会に、お見えになりました!」
「…………何!?」
王は、椅子から立ち上がった。
その表情は、驚愕と、そして何よりも強烈な期待に満ちていた。
「して、用件は何だ!?」
「はっ! それが……!」
ゲオルグは、ごくりと喉を鳴らした。
「……またしても、新たな……我々の常識を、遥かに超えた『奇跡』を、お持ちになられたと……!」
その一言は、グランベル王国の歴史が、またしても新たな、そして誰も予測し得ないページへと、その駒を進めることを告げていた。
王は、窓の外に広がる平和な王都の風景を見つめた。
そして、その全ての始まりとなった、あの名もなき石工の男のことを、ふと思い出していた。
(……迷惑か。あるいは、本当に一度、会ってみるのも面白いやもしれぬな……)
王の口元に、再び悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
この国の壮大で、そしてどこまでも滑稽な物語は、まだ始まったばかりなのだ。
そのことを、この世界の住人たちは、まだ誰も知る由もなかった。




