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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第36話 【グランベル王国編】 賢王の決断と国家プロジェクト

 魔法使いハジメ・ニッタが、神の気まぐれのように現れ、そして去っていった後のゲオルグ・ラングローブの応接室は、静まり返っていた。だが、その静寂は、嵐が過ぎ去った後の虚無などでは断じてない。それは、これから巻き起こるであろう国家そのものを揺るがす巨大な地殻変動の、まさに震源地そのものだった。

 ゲオルグは、床に置かれた巨大な木箱――その中に無造作に詰め込まれた無数の『魔石』――を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 先ほど、目の前で繰り広げられた奇跡の数々。

 人の意志の力だけで重い花瓶が宙を舞い、ただの水が一瞬にして氷塊へと変貌する。

 そのあまりにも常識からかけ離れた光景が、彼の網膜に、そして魂に、焼き付いて離れなかった。

 彼は、商人だ。その人生は、常に計算と、駆け引きと、そして現実的な損得勘定の上に成り立ってきた。

 だがあの石は、違う。

 あの石がもたらすものは、富や権力といった矮小なものではない。

 あれは、世界の法則そのものを根底から捻じ曲げる、文字通りの『神の力』だ。

 そして、あの魔法使いは、その神の力を、まるで道端の石ころでも譲るかのように、この自分に託していったのだ。

『国として動いていただけると嬉しい』

 その言葉が、ゲオルグの頭の中で何度も、何度も反響していた。

 これはもはや、一介の商人が独力で抱えきれるような代物では、断じてない。

 彼は、震える手で顔を覆った。

 興奮と、畏怖と、そして自らが背負うことになったあまりにも巨大すぎる責任の重さに、その恰幅のいい体がわなわなと打ち震えていた。

 彼は、すぐさま最も信頼の置ける部下を呼びつけると、たった一言だけ、かすれた声で命じた。

「……国王陛下に、緊急の単独謁見を願い出よ。我が商会の、いえ、この国の存亡を賭けた一大事であると」


 その日の深夜。

 王宮の最も奥深くにある国王アルトリウス三世の私的な執務室は、暖炉の炎の静かな爆ぜる音だけが響いていた。

 アルトリウスは、分厚い領地経営に関する報告書の束から顔を上げると、目の前で緊張に体を硬くさせ、深々と頭を垂れている王国一の商人の顔を、静かに見つめた。

「……して、ゲオルグよ」

 王の声は穏やかだったが、その奥には、夜の静寂を切り裂く剃刀のような鋭さが隠されていた。

「そなたが、このような夜更けに朕との緊急の謁見を望んだからには、よほどのことなのであろうな。申してみよ。そなたの言う、『国の存亡を賭けた一大事』とは、一体何のことだ」

 ゲオルグは、ごくりと乾いた喉を鳴らした。

 彼は、懐から厳重に幾重にも絹の布で包んだ一つの物体を取り出した。

 そして、それを王の目の前の巨大な執務机の上に、恭しく置いた。

 布が、解かれる。

 中から現れたのは、一つの青黒い、鈍い輝きを放つ、ただの石ころだった。


「…………これは?」

 王の目に、いぶかしげな色が浮かんだ。

「はっ。陛下。これこそが、我が国の、いえ、この世界の未来そのものにございます」

 ゲオルグは、震える声で言った。

 そして彼は、あの日、魔法使いハジメが彼の前でやってみせたことの全てを、語り始めた。

 何もない空間から、突如として冷たくて甘い神々の食べ物を取り出したこと。

 そして、この何の変哲もない石ころが、人の意志の力だけで重力を覆し、熱を自在に操る、奇跡の道具であることを。

 そのあまりにも荒唐無稽な物語を、アルトリウス王は、眉一つ動かさず、黙って聞いていた。

 彼の怜悧な瞳は、ゲオルグの言葉の真偽を、その表情の微かな揺らぎから見極めようとするかのように、ただ静かに彼を見据えている。

 やがて、ゲオルグが全てを語り終えた時。

 王は、初めて口を開いた。

「…………面白い」

 たった一言。

「……面白い物語だな、ゲオルグ。そなたは、いつから吟遊詩人になったのだ?」

 その声は、どこまでも冷ややかだった。

「はっ……! へ、陛下、これは決して戯言などでは……!」

 慌てるゲオルグを、王は手で制した。

「……良い。言葉は、もう良い。朕に、その『奇跡』とやらを見せてみよ。もし、そなたの言葉が真であるならば、朕はそなたを信じよう。だが、もしこれが、朕を謀るための狂言であったならば……」

 王は、それ以上言わなかった。

 だが、その沈黙は、いかなる脅しの言葉よりも、ゲオルグの背筋を凍りつかせた。


「……は、ははっ! 御意!」

 ゲオルグは、震える手で机の上の魔石を手に取った。

 そして、それを王に恭しく差し出した。

「陛下。どうか、この石をお手に。そして、そこにございます、その銀の水差しに向かって、ただ一言、『浮け』と、心の中でお命じください」

 アルトリウス王は、しばしゲオルグの顔と、その手に乗せられた石ころを見比べていたが、やがてふっと息を吐くと、その魔石を手に取った。

 ひんやりとした、滑らかな感触。

 王は、言われた通り、机の隅に置かれた王家の紋章が刻まれた、重厚な銀の水差しを見据えた。

 彼の心の中では、まだ半信半疑の念が渦巻いていた。

 だが同時に、この忠実なる商人が、自らの命と商会の全てを賭けてまで、自分に嘘をつくとは到底思えなかった。

 彼は、意を決した。

 そして、王としてではなく、一人の人間としての純粋な好奇心で、念じた。

(……浮け)


 次の瞬間。

 賢王アルトリウス三世は、その三十数年の人生の中で初めて、子供のような純粋な驚きの声を上げた。

 ゴトリ、と重々しい音を立てて、銀の水差しが、その大理石の机の上から数ミリ浮き上がったのだ。

 そして、ゆらりと、まるで水に浮かぶ木の葉のように頼りなげに、しかし確かに、宙に静止した。

 王の呼吸が、止まった。

 彼の常に冷静沈着なその瞳が、信じられないものを見るように、大きく、大きく見開かれている。

 彼は、恐る恐るその宙に浮かぶ水差しに、指を伸ばした。

 指先に触れる、ひんやりとした金属の感触。

 幻覚ではない。

 現実だ。

「…………は……」

 王の口から、乾いた声が漏れた。

「…………ははは……」

 そして次の瞬間、彼は声を上げて笑った。

 それは、王としての威厳に満ちた笑いではなかった。

 生まれて初めて不思議な玩具を手に入れた、無邪気な少年のような、腹の底からの歓喜の笑い声だった。

「……ははははは! すごい! ゲオルグ! これは、すごいぞ! 本当に、浮いたではないか!」


 そのあまりのはしゃぎように、ゲオルグはあっけに取られていたが、すぐに安堵の息を漏らした。

 信じていただけた。

「は、はっ。もったいのうございます」

「……素晴らしい……!」

 王は、なおも興奮冷めやらぬ様子で、宙に浮かぶ水差しを、つんつんと指でつついている。

「……して、ゲオルグよ。これだけではあるまい。あの魔法使いは、この石に、他にも力があると申しておったな」

 その言葉に、ゲオルグは、はっと我に返った。

 そうだ。本題は、これからだった。

「はっ。陛下。その通りにございます。あのお方は、仰せになられました。『この石を砕き、肥料とすれば、作物は数日にして実を結ぶ』と」

 その言葉に、王の笑顔が、すっと消えた。

 彼の顔が、再び賢王としての鋭い表情に戻る。

「……何と申した……? 作物が、数日で実を結ぶだと……?」

「はっ。にわかには信じがたいこととは存じますが……。あのお方の仰せられることに、偽りはございません」

 アルトリウス王は、しばし黙り込んだ。

 彼の頭脳が、その一言が持つ、あまりにも巨大な意味を瞬時に計算していた。

 促成栽培。

 それは、すなわち食料生産の革命。

 天候に左右されることなく、安定して食料を供給できる。

 それは、この国の民を、永遠に飢饉の恐怖から解放することを意味していた。

「…………素晴らしい……」

 王の口から、今度は歓喜ではなく、深い、深い感動に打ち震えた声が漏れた。

「……これこそ、真の奇跡だ……! これこそ、民の暮らしを大きく改善できる、神の代物ではないか……!」

 彼の第一の思考は、常に民にあった。

 この石の価値は、宙に物を浮かせるような派手な奇術などではない。

 民の腹を満たし、その暮らしを豊かにする、この地味で、しかし何よりも尊い力にこそあるのだと、彼は瞬時に見抜いたのだ。


「……陛下。奇跡は、まだこれだけにとどまりませぬ」

 ゲオルグは、続けた。

「あのお方は、さらにこうも仰せに……。この石は、『冷やす』こともできると……」

「……冷やす?」

 王は、初めて聞くその概念に、首を傾げた。

「なんということだ……。冷やすとは、どういうことだ、ゲオルグ? 雪や氷のように、物を冷たくできるということか?」

「はっ。まさに、その通りにございます。いえ、雪や氷などとは比較にもならぬほど、瞬時に、そして強力にでございます」

 ゲオルグは、あの日自分が体験したアイスクリームの衝撃的な味と、水差しが一瞬で凍りついたあの光景を、熱っぽく語った。

 王は、その物語を、もはや疑うことなく、しかし信じられないといった表情で聞き入っていた。

 そして、全てを聞き終えた時、彼は天を仰いだ。

「……冷えた食べ物を、食べることができるということか……。夏に、氷を浮かべた葡萄酒を飲むことができると……? ……なんということだ……。それは、もはや人の贅沢を超えている。まさしく、神の所業。……この石は、神の石だな……」

 王は、深い、深い感嘆のため息をついた。

 彼はようやく、この小さな石ころが持つ本当の恐ろしさを、理解したのだ。

 これは、ただ便利な道具などではない。

 これは、文明そのものを、人の暮らしのあり方そのものを、根源から変えてしまう、革命の種子なのだと。


 彼は、玉座から立ち上がった。

 そして、執務室の中を、まるで檻の中の虎のように、ゆっくりと、しかし確かな足取りで歩き始めた。

 彼の頭の中では、今や無数の計画が、猛烈な速度で生まれ、そして構築されていた。

「……ゲオルグよ。そなたの話は、分かった。そして、あの魔法使い様の御心もな」

 王は振り返ると、その目に絶対的な王者の決意の光を宿して言った。

「……すぐに、国家レベルのプロジェクトを立ち上げるぞ!」

 その言葉の力強さに、ゲオルグは息を飲んだ。

「この神の石の可能性の全てを解き明かし、そして我が国の未来のために最大限に活用するための、一大プロジェクトだ! そして、その責任者は、他の誰でもない。この私、アルトリウス三世が、直々に務める!」

「……へ、陛下!?」

 ゲオルグは、驚愕した。王が、自らプロジェクトの陣頭指揮を執ると言うのか。

「そうだ。これほどの一大事、他の誰に任せられるというのだ」

 王は、きっぱりと言った。

「そして、ゲオルグ。そなたには、そのプロジェクトの心臓部を担ってもらう。そなたは、この神の石の唯一の供給先だ。その管理と分配の全てを、そなたに一任する。よいな?」

「……は、ははっ! 身に余る光栄にございます!」

 ゲオルグは、その場に再びひざまずいた。

 王は、満足げに頷くと、執務室の壁に掛けられた巨大なグランベル王国の地図を指差した。

「……やらねばならぬことは、山積みだぞ、ゲオルグ。様々なプロジェクトを、同時に立ち上げる必要がある」

 彼の思考は、もはや誰にも止められない速度で、未来へと駆け出していた。

「……まずは、食物に対する効果を徹底的に検証せねばなるまい。王宮の菜園を、全て実験農場へと作り替えよ。国中から、最高の農学者たちを召集するのだ。この石が、我が国の食料事情をどれほど豊かにできるか、その限界を見極める」

「はっ!」

「そして、それと平行して、あの『冷やす』という未知の力についての検証も進める。これも、国中から最高の学者と職人たちを集めよ。氷が、平時でも食べられるようになる。夏でも、新鮮な魚や肉を遠くまで運べるようになる。そして、何よりも……」

 王は、楽しそうに喉を鳴らした。

「……冷えた飲み物を、飲めるようになる。……ゲオルグよ。考えてもみよ。真夏の炎天下、汗水流して働く民たちが、仕事終わりにキンキンに冷えたエールを一杯呷るのだ。それだけで、彼らの幸福度は、どれほど増すことだろうか」

 その光景を想像し、王は、心の底から楽しそうに笑った。

「……国が変わるぞ、これは。良い方向に、な」

 彼は、地図の上を指でなぞった。

「……この石の力を使えば、北の不毛の大地も、緑豊かな穀倉地帯へと変えられるやもしれん。南の港には、巨大な氷室を作り、大陸中から新鮮な魚介が集まる一大拠点となるだろう。我がグランベル王国は、変わる。いや、我々の手で変えるのだ。この神の石と共に」


 そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも具体的な国家改造計画のビジョン。

 ゲオルグ・ラングローブは、もはや畏敬の念を通り越して、神のごとき叡智を持つこの若き賢王の器の大きさに、ただただ打ち震えることしかできなかった。

 彼は、理解した。

 あの魔法使い様が、なぜこの国の、この王の前に現れたのかを。

 神は、神を知る。

 このアルトリウス三世という王こそが、神がもたらしたこの奇跡の火を、正しく、そして最大限に活用できる、唯一無二の人物なのだと。

 ゲオルグは、自らがその歴史の歯車を回す重要な役割を担っているという事実を、改めてその魂に刻み込んだ。

 彼の商人としての人生は、終わった。

 今日、この日、この瞬間から、彼の人生は、この偉大なる王と共に、国家の未来を創造するための壮大な物語の一部となったのだ。

 そのあまりにも重く、そしてあまりにも光栄な運命を、彼は静かに、そして確かに受け入れた。

 夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。

 グランベル王国の、新たな時代の幕開けを告げる光が。



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― 新着の感想 ―
いや、冷やせばものもちが良くなるに至るには少し時間が必要なような
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