第34話 【現代日本編】 ゲーム廃人と賢者様
その日、日本政府が、人類史最大級の「嘘」をでっち上げるための壮大で奇妙な神話創造会議に、その叡智の全てを注ぎ込んでいた、まさにその裏側で。
全ての元凶である男、新田 創は、東京のあの殺風景なワンルームマンションで、彼にとってのもう一つの、そしてある意味では最も重要な「現実」へと、完全に没入していた。
カーテンは閉め切られ、部屋に差し込む光は、PCモニターが放つ青白い、不健康な光だけ。床には、コンビニ弁当の空き容器やエナジードリンクの空き缶が、現代的な遺跡のように無造作に散らばっている。
その部屋の中心、使い古されたゲーミングチェアに座る創の姿は、もはや国家の運命を左右する「賢者」の威厳など、微塵も感じさせなかった。虚ろな目、無精髭、そしてここ数日風呂に入っているのかさえ怪しい、気の抜けたスウェット姿。
彼は、神ではなく、ただの「ゲーマー」に完全に戻っていた。
この二週間、創は、文字通り寝食を忘れてPCゲーム『Path of Exile』の世界に、その魂の全てを捧げていた。
それは、彼自身に言い聞かせているように、決してただの遊びではなかった。いや、遊びではあったのだが、同時にそれは、彼が足を踏み入れたあの「ゲーム的世界」の法則を、自らの肉体に、魂に、再び刻み込むための、必要不可欠な「研究」であり、「シミュレーション」でもあったのだ。
モニターの中では、彼の分身であるキャラクターが、圧倒的な力で、画面を埋め尽くす無数のモンスターを、まるでゴミでも掃除するかのように薙ぎ払っていた。
彼が、この二週間の研究の末にたどり着いた一つの答え。
それは、『アーマースタック』ビルド。
防御力の数値を、常軌を逸したレベルまで高めることで、その数値をそのまま絶大な攻撃力へと変換する、攻防一体の究極のビルド。
彼のキャラクターは、もはや神話の巨人のように、敵のどんな攻撃も、赤子の手をひねるかのように受け流し、そしてその身にまとった光り輝くオーラだけで、周囲の敵を塵芥へと変えていく。
「……ははは、気持ちいい……!」
創の口から、乾いた、しかし心の底からの歓喜の笑いが漏れた。
これだ。
この絶対的な万能感。
理不尽な上司も、面倒なクライアントも、嫉妬深い同僚もいない。ただ、己が時間と知識を注ぎ込んで完璧に組み上げた「システム」が、圧倒的な結果を叩き出す。
その純粋な達成感。
それこそが、彼がこのゲームを愛してやまない理由だった。
そして、その日の深夜。
彼の二週間にわたる「研究」が、ついに一つの究極の成果へと結実する。
画面の中で、ひときわ巨大な禍々しいボスモンスターが、断末魔の叫びと共に光の粒子となって消滅した。
そして、その後に残されたドロップアイテムの、眩い光の奔流。
その無数のアイテム名の中に、創は見つけた。
PoEプレイヤーならば、誰もが夢見るあの伝説のユニークベルトの名前を。
『Mageblood』
「…………来たっ!」
創は、椅子から跳ね上がった。
心臓が、破裂しそうなほど高鳴っている。
メイジブラッド。
それは、もはやただの装備品ではない。
このゲームのプレイスタイルそのものを、根底から変えてしまう奇跡のアイテム。
彼は、震える手でそのベルトを拾い上げた。
そして、自分のキャラクターに装備させる。
次の瞬間、彼のキャラクターの腰に、四つの空のフラスコスロットが輝きを放った。
彼は、あらかじめ用意しておいた移動速度を爆発的に上げる『クイックシルバーフラスコ』、攻撃速度を高める『シルバーフラスコ』、そして防御力を極限まで高める『御影石のフラスコ』を、そこにセットした。
すると、どうだ。
フラスコの効果が、もはや時間制限なく、永続的に発動し続ける。
彼のキャラクターは、常に神速で戦場を駆け抜け、常に鋼鉄の守りをその身にまとい、そして常に嵐のような速度で敵を殲滅し続ける。
もはや、それはキャラクターではなく、災害そのものだった。
「……最強は、アーマースタックビルドだよな、やっぱり……。そして、メイジブラッドも手に入れたし……。とりあえず、今シーズンの初期目標はクリアかな……」
彼は、満足げに呟いた。
だが、彼の元プロジェクトマネージャーとしての冷静な分析は、すぐにそのゲーマーとしての純粋な興奮に釘を刺す。
(……でも、メイジブラッドは、結局のところインフラだからな。これ自体がゴールじゃない。これを使って、何を成すか。これがあることを前提として初めて構築可能になる、本当の究極のビルド。その最初の一歩に過ぎないんだ。高額品だろうと、なんだろうと、結局は初心者卒業の第一歩みたいなもんだしな……)
彼の思考は、常に次なるフェーズを見据えていた。
そんなゲームの世界での壮大な達成感と、そして次なる目標への思いに耽っていた、その時。
彼の現実世界での意識の片隅で、ノートパソコンのメールの着信を知らせる小さな通知音が、控えめに鳴った。
「……ん?」
創は、我に返った。
そうだ。
すっかり忘れていた。
俺には、ゲームの世界のキャラクターだけでなく、現実世界での「賢者様」という、もう一つのアバターがあったのだ。
「……おっと。久しぶりに、メールでも見るかな」
彼は、やれやれといった風に肩をすくめると、PoEのウィンドウを最小化し、あの日本政府との唯一の連絡窓口であるフリーメールの受信箱を開いた。
そこには、橘紗英から、一通の、極めて簡潔な、しかし重要事項を伝えるメールが届いていた。
件名:【定例報告、及び新規案件に関するご確認依頼】
本文:
『賢者様。先だってご提供いただきました各種サンプルの初期分析が、完了いたしました。つきましては、その中間報告をさせていただきたく存じます。
また、それに関連し、賢者様のその御存在を世界から秘匿するためのカバーストーリーの基本方針が固まりましたので、ご裁可を仰ぎたく存じます。
ご多忙中とは存じますが、ご都合のよろしい日時をご指定いただければ幸いです』
そのあまりにも堅苦しいビジネスメールを読んで。
創は、大きなあくびを一つした。
(……めんどくせえ……)
それが、彼の正直な感想だった。
せっかく、これからメイジブラッドを手に入れた記念に、最高難易度のマップにでも挑戦しようと思っていたのに。
だが、彼も元社会人だ。
クライアントからの連絡を無視し続けることが、どれほど自分の首を締めることになるか、身に染みて分かっている。
彼は、やれやれといった風に返信ボタンをクリックした。
そして、PoEのチャット欄に打ち込むのと同じくらいの気軽さで、返信を打ち込んだ。
『じゃあ、明日行くよ。昼過ぎくらいで。』よし、これでOK
送信。
クリック一つで、この国の最高機密のスケジュールが決定する。
そのあまりの手軽さに、彼自身、少しだけ笑ってしまった。
(……カバーストーリーねえ……。一体、どんなのを考えたんだろうな……)
彼は、少しだけ興味をそそられた。
あの狸女と、変人科学者、そしてその後ろにいる日本のエリートたちが、頭をひねって考え出した壮大な言い訳。
少しだけ、面白い見世物になるかもしれない。
その時、彼の心に、ほんの微かに、ちくりと罪悪感にも似た感情が芽生えた。
(……なんか、とんでもなく大事にしちゃって、悪い気がしてきたな……)
そうだ。
俺は、ただスローライフがしたいだけだったはずなのに。
俺のほんの気まぐれな行動が、一つの国のトップエリートたちを昼夜を問わず奔走させ、人類の未来がどうとか、世界のパワーバランスがどうとか、そんな壮大すぎる物語の中心に、無理やり据えてしまっている。
(……まあ、いいか)
だが、その微かな罪悪感は、すぐに彼の根源的な怠惰の精神によってかき消された。
(……俺が考えたって、仕方ねえし。面倒なことは、優秀な奴らに任せておけばいいんだよ。うん、それが一番だ)
彼はそう自己完結すると、再びPoEの世界へと、その意識を戻していった。
翌日、昼過ぎ。
創は、再びあの西新宿のヘリポートに、賢者・猫の姿で舞い降りていた。
出迎えたのは、いつものように橘紗英と長谷川教授。
だが、今日の彼らの雰囲気は、これまでとは少しだけ違っていた。
そこには、未知の奇跡に対する戸惑いや畏怖よりも、むしろ、新たなプロジェクトに挑む研究者とマネージャーのような、ある種の自信と高揚感が漂っていた。
「ようこそ、お越しくださいました、賢者様」
橘のその完璧な一礼は、もはや儀礼的なものではなく、ビジネスパートナーに対する敬意に満ちていた。
「早速ですが、ご報告に入らせていただきます」
彼女は、賢者・猫を、ヘリポートに特別に設置された巨大な半球状のドーム型のプレゼンテーションルームへと案内した。
ドームの内壁全てが、高精細のディスプレイとなっており、そこに一つの壮麗な紋章が映し出された。
それは、燃え盛る不死鳥と、蛇と、獅子が絡み合った、キマイラの紋章。
「……まず、賢者様の御存在を秘匿するためのカバーストーリーについて。我々は、これをプロジェクト・キマイラと命名し、その基本方針を策定いたしました」
橘は、静かに語り始めた。
それは、箱根の山中で、日本の最高の天才たちがその魂を削って紡ぎ出した、人類史最大級の嘘の物語だった。
飛鳥の地下神殿。
未来を予見した、悲劇の巫女王、星見子。
彼女が、未来の日本を救うために遺した、無数のアーティファクト群。
そして、その遺産の正当なる後継者として、未来の日本の統治者を指名したという、石板に刻まれたメッセージ。
橘は、そのあまりにも壮大で、そしてあまりにもご都合主義的な物語の全てを、淡々と、しかし完璧なロジックで説明していく。
その物語が、いかにして今後の賢者様からの新たな奇跡の出現に対応可能であるか。
いかにして、諸外国からの干渉を躱すための完璧な言い訳となり得るか。
そして、いかにして、日本国がこの奇跡を独占するための、歴史的、かつ法的な正当性を与えるか。
その完璧すぎるほどの物語の設計図を前にして。
賢者・猫の姿をした創は、ただ黙って聞いていた。
そして、橘が全てを語り終えた時、彼はただ一言、満足げに喉をグルグルと鳴らした。
「……なるほどのう。考えたものじゃな」
彼は、心の底から感心していた。
(すげえな、こいつら……。ただの嘘じゃねえ。これは、国家の未来、百年を見据えた完璧な情報戦略だ……)
「……正当性を、そう主張するとはな。古代の女王の遺言とあらば、他国も文句のつけようがあるまい。そして、アーティファクトが『群』であるという点。新しい物を提出するのにも、対応できておる。……うむ。良いと思うぞ。それで、進めるがよい」
「はっ。御裁可、感謝いたします」
橘は、深々と頭を下げた。その鉄の仮面の奥で、安堵の息が漏れたのを、創は見逃さなかった。
「次に」と、橘は続けた。
「魔石の初期分析結果について。こちらは、長谷川教授よりご説明いたします」
そう促された長谷川教授は、待ってましたとばかりに一歩前に進み出た。
その顔は、もはや大学教授のそれではなかった。
それは、新たな神の教義に触れた、狂信的な大司教のそれに近かった。
「賢者様! この魔石! まさに神の火! プロメテウスの恩寵にございますぞ!」
彼は、興奮のあまり唾を飛ばしながら、まくし立て始めた。
ドームのスクリーンに、無数の数式とグラフが映し出される。
彼らは、魔石が術者の意志(思考)に呼応し、量子レベルで真空からエネルギーを取り出し、物理現象へと変換するという、驚くべきメカニズムを突き止めていた。
「……我々は、この現象を『意志励起型・真空エネルギー変換』と、仮説を立てました! これは、もはやエネルギー革命ではございません! 科学という学問の、そして人間という種のあり方そのものを変える、パラダイムシフトにございます!」
長谷川の報告は、もはや科学報告というよりも、情熱的なポエムに近かった。
だが、創は、その熱狂的な報告を、どこか冷めた目で聞いていた。
彼の賢者・猫の頭の中に、先日ダンジョンで手に入れた魔石を、『鑑定の書』で鑑定した時の、あの美しいウィンドウが浮かび上がっていた。
(……ふーん……)
彼は、内心で呟いた。
(……長谷川教授たちの言ってることは、まあ、間違ってはいないんだろう。だが……なんだか、小難しい理屈ばかりで、本質が見えていない気がするな……)
彼にとって、魔石とは何か。
『鑑定の書』が示したテキストは、シンプルで、詩的で、そして何よりも本質的だった。
『この石は、術者の「意志」に呼応し、その内に秘められた純粋な魔力エネルギーを、様々な現象へと変換する、奇跡のエネルギー源である』
これ以上でも、これ以下でもない。
(……科学者たちの分析も面白いが……。やはり、『鑑定スクロール』が表示する、あの適切なテキストの方が、よほどしっくりとくるな。ある意味、彼らの何百億円もするスーパーコンピューターよりも、あの羊皮紙の巻物の方が、よっぽど高性能というわけか……)
創は、一つの結論にたどり着いた。
(……あの『鑑定スクロール』こそが、本当のチートアイテムなのかもしれないな……!)
報告が、終わった。
創は、満足げに頷いた。
「うむ。ご苦労。お主たちの探究心、そしてその成果、見事であった。引き続き、解析を進めるがよい」
彼はそう労うと、橘に向き直った。
「では、ワシはこれで失礼する。また何か、面白い『おみやげ』が手に入ったら、顔を出すとしよう」
彼は、来た時と同じように、何の前触れもなく、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、新たな、そしてより巨大な宿題を与えられた、日本の頭脳たちだけだった。
東京の自室に戻った創は。
ソファに寝転がりながら、今日の会議の内容を反芻していた。
(……よし。カバーストーリーは、完璧だ。あれなら、俺が何を持ち込んでも大丈夫だろう。ポーションと魔石の研究も、順調に進んでいるようだ。全て、計画通りだな)
彼は、満足げに頷いた。
そして、彼の思考は、自然と次なるアクションプランへと移行していた。
(……あの『鑑定スクロール』。あれは、やはり使える。次に、あのゲーム的世界に行ったら、まとめ買いしておかないとな……)
そして、彼はふと思いついた。
それは、ただの気まぐれだった。
だが、その気まぐれこそが、またしても世界の歯車を大きく狂わせるきっかけとなることを、彼はまだ知らない。
(……そういえば、あの魔石。あれ、交易世界のラングローブの爺さんたちに、少し分けてやるのも面白いかもしれないな……)
彼の脳裏に、あの狸親父の興奮しきった顔が浮かんだ。
(……あの世界は、魔法の概念がない。そんな世界に、この意志の力で現象を起こせる石を持ち込んだら、一体どうなるんだろうか……?)
彼のゲーマーとしての好奇心が、疼いた。
それは、まるでシミュレーションゲームで、未開の文明にオーバーテクノロジーを与えてみるような、神の視点に近い遊び心だった。
(……特にあの『栄養強靭』の効果。砕いて肥料にすれば、栄養豊富な野菜や果物が促成栽培できるってやつ。あれは、中世レベルのあの世界にとっては、まさに農業革命そのものじゃないか? 飢饉の心配もなくなるだろうし、国の力が一気に増大する。……もしかしたら、あのグランベル王国が、俺のせいでとんでもない魔法大国になっちまったりしてな。……はは、そりゃ面白そうだ)
その光景を想像しただけで、創は楽しくなってきてしまった。
それに、ラングローブ商会やグランベル王国が、より豊かに、そして強力になれば、それは巡り巡って、自分自身のビジネスの安定にも繋がる。
それは、極めて合理的な投資でもあったのだ。
「…………よし」
創は、ソファからむくりと起き上がった。
その目には、新たな、そして最高に面白そうなサブプロジェクトを見つけた、プロジェクトマネージャーの輝きが宿っていた。
「……やってみよう!」
彼は、再びノートパソコンを開いた。
だが、彼がクリックしたのは、メールのアイコンではなかった。
『Path of Exile』のアイコン。
「……その前に、まずは腹ごしらえと情報収集だな。うん。これも、全ては次なる計画のための重要な準備だ。決して、遊びではない」
彼は、誰に言うでもなくそう力強く宣言すると、昨日中断した最高難易度のマップへと、その意識を再びダイブさせていくのだった。
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、彼自身の尽きることのない好奇心によって、もはや誰にも止められない速度で、暴走を始めていた。




