第32話 【日本政府編】 神話を紡ぐ者たち
日本の中枢が、賢者からもたらされた神々の火を前に、そのあまりの熱量に浮かれ、そしてその扱い方に苦悩していた、まさにその裏側で。
もう一つの、より静かで、しかし遥かに奇妙で、そしてこの国の未来にとって決定的に重要な意味を持つプロジェクトが、静かに、しかし急速に、その胎動を始めていた。
プロジェクト・キマイラ。
総理大臣、宰善茂が、その老獪な政治的直感の全てを懸けて下した究極の決断。
世界を完璧に欺くための壮大な「物語」を創造する、前代未聞の国家事業。
その最高責任者に任命された橘紗英は、賢者との交渉や、暴走しがちな科学者たちの管理といった、これまでとは全く質の違う、新たな、そして底知れないほどの困難に直面していた。
科学は、数式とデータに基づいている。
だが、物語は、人の心という、最も不確かで、最も移ろいやすいものを相手にするのだから。
橘は、まず人材の選定から着手した。
宰善総理の「ありとあらゆる分野の天才たちを集めろ」という、あまりにも漠然とした、しかし本質を突いた指令に基づき、彼女は、内閣情報調査室が持つ、日本で最も詳細で、そして最もプライバシーを侵害した国民データベースを、フル活用した。
数日後、日本各地で、それぞれの分野の頂点を極めた者たちの元に、一枚の、何の変哲もない、しかし拒否することのできない重みを伴った招待状が届けられた。
『国家安全保障に関わる最重要諮問会議へのご出席を要請いたします』
召集されたのは、まさに異種格闘技戦とでも言うべき、奇妙で、そして豪華絢爛な顔ぶれだった。
一人目は、歴史学の権威、帝都大学名誉教授、渋沢 正臣。御年七十八歳。日本の古代史、特に邪馬台国や記紀神話の解釈に関する研究では、右に出る者はいないとさえ言われる、学界の生きる伝説。その穏やかな物腰と柔和な笑顔の奥には、いかなる権力にも屈しない、鋼のような学者の矜持が宿っていた。
二人目は、考古学界の若き異端児、国立歴史民俗博物館主任研究員、守屋 茜。三十代半ばにして、最新の科学技術を駆使した発掘調査で、次々と定説を覆してきたフィールドワークの天才。その情熱的で直感的なアプローチは、時に古い学界から批判されることもあったが、彼女が掘り当ててきた「真実」は、常に雄弁だった。
三人目は、現代日本を代表するSF作家、天城 蓮。その緻密な科学考証と壮大なスケールの物語で、国内外に熱狂的なファンを持つベストセラー作家。極度の人間嫌いで、滅多に公の場に姿を現さないことで有名だったが、その頭脳には、人類の未来に関するありとあらゆるパターンのシミュレーションが格納されていると噂されていた。
四人目は、その天城とはある意味で対極に位置する若き天才。ライトノベル作家、鈴木 海斗。ペンネームは、『神風カイト』。デビュー作の異世界転生ファンタジーがアニメ化もされ、社会現象的な大ヒットを記録。その荒唐無稽で、ご都合主義的で、しかし読者の欲望を的確に射抜く物語は、新しい時代の、新しい物語の形を象徴していた。
そして、最後の一人。
ハリウッドで、ブロックバスター映画の脚本家としてその名を轟かせる日系アメリカ人、ジョージ・タナカ。彼は、複雑なプロットを、万人が理解できるシンプルでエモーショナルな物語へと昇華させる、天才的なストーリーテラーだった。彼の書く物語は、文化や国境の壁を、いとも容易く飛び越えた。
歴史、考古学、ハードSF、ライトノベル、そしてハリウッド映画。
何の脈絡もない、水と油のような五人の天才たち。
彼らは、それぞれ黒塗りの政府専用車で、詳しい行き先も告げられぬまま、箱根の山奥深くへと運ばれていった。
彼らが集められたのは、政府が所有する最高級の迎賓施設だった。美しい庭園と静かな湖を望む、外界から完全に隔絶された豪奢な会議室。
そこに最初に姿を現した橘紗英の、氷のように冷たく、そして美しい姿を見た時、彼らは、自分たちがただの諮問会議ではない、何かとてつもない事態の当事者となってしまったことを、直感的に理解した。
「皆様。本日は、国家の非常事態に際し、ご足労いただき感謝いたします」
橘は、一切の感情の起伏を感じさせない声で口火を切った。
そして彼女は、これから彼らの常識の全てを破壊するであろう衝撃的な事実を、極めて事務的な口調で語り始めた。
賢者の存在。
異世界との接触。
ポーションがもたらす医療革命。
そして、魔石が約束するエネルギー革命。
彼女は、言葉だけでは信じないであろう彼らのために、決定的な「証拠」を提示した。
会議室の巨大なスクリーンに、極秘に撮影された、あの地下研究所での狂乱の記録映像が映し出されたのだ。
ラットの裂かれた背中が、数秒で再生する様。
癌細胞が、一斉に自壊していく顕微鏡映像。
そして、科学者たちが子供のようにはしゃぎながら、コーヒーカップを宙に浮かせ、トマトを一瞬で実らせる、あのあまりにも非現実的な光景。
会議室は、水を打ったように静まり返った。
五人の天才たちは、それぞれの専門分野のプリズムを通して、目の前の発狂物の事実を、必死で理解しようと努めていた。
渋沢名誉教授は、わなわなと震えていた。その顔は、恐怖ではなく、学究人生の最後に本物の「神話」に遭遇してしまった学者の、至上の喜びに打ち震えていた。
「……なんと……なんということだ……。古事記に、日本書紀に記された常世の国からの来訪神……スクナヒコナノミコトの伝説……。あれは、ただの神話ではなかったというのか……!」
守屋茜は、考古学者の目で、魔石が放つ未知のエネルギーの波形データに釘付けになっていた。
「……このパターン……。ありえない……。私が先日、与那国島の海底遺跡から引き上げた謎のオリハルコンの碑文から検出された残留エネルギーのパターンと、完全に一致している……! まさか、古代の超文明は……!」
天城蓮は、SF作家としての冷静な分析力で、目の前の現象を解体しようとしていた。
「……理解不能だ。これは、我々の既知のいかなる物理法則にも当てはまらない。だが、現象としてここに実在する。ならば、我々がまだ知らない新たな上位の物理法則が存在すると、考えるしかない……。高次元、ワームホール、量子トンネル……。いや、そんな陳腐な言葉では追いつかん……!」
そして、神風カイトは、ライトノベル作家らしく、目を少年のようにキラキラと輝かせていた。
「…………すげー」
彼の口から、ただその一言だけが漏れた。
「すげー……! なんだこれ! 俺が今まで書いてきたどんなチート設定よりも、遥かに、遥かにすげえじゃねえか……!」
ハリウッドのジョージ・タナカだけが、少し違った反応を見せた。彼は頭を抱え、呻くように言った。
「……Oh, my God……。なんだ、このプロットは……。こんなデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)を、冒頭でいきなりぶち込んでくるなんて……。どんな三流の脚本家でもやらないぞ……。リアリティが、なさすぎる……!」
だが、それは紛れもない現実だった。
彼らは、数時間にわたる質疑応答の末、ようやく、自分たちが人類史の分岐点に立たされているという、あまりにも重い事実を受け入れざるを得なかった。
「……さて」
橘は、彼らの知的な興奮と混乱が、少しだけ落ち着くのを待って本題を切り出した。
「皆様には、このあまりにも荒唐無稽な、しかし紛れもない『真実』を、世界から隠蔽するための『偽りの物語』を、創造していただきたいのです」
彼女は、宰善総理が下したプロジェクト・キマイラの概要を説明した。
「我々が今経験している、この科学技術の異常な飛躍の全ての原因を、賢者様の存在ではない、別の、もっともらしい、しかし誰も検証不可能な一つの巨大な『嘘』で覆い隠す。それが、皆様に課せられた使命です。どうか、皆様のその類稀なる知性と創造力の全てを、この国の未来のためにお貸しいただきたい」
そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも不遜な依頼。
五人の天才たちは、しばらく呆然としていた。
そして最初に我に返ったのは、やはり一番現実から遊離した場所にいる、神風カイトだった。
「えーーーーーーーーっ!?」
彼の甲高い、素っ頓狂な声が、静まり返った会議室に響き渡った。
「マジですか!? 俺たちに、国を挙げて、世界を騙すための壮大な『設定』を考えろってことですか!? なにそれ! 最高に面白そうじゃねえですか!」
そのあまりにも不謹慎で、しかしあまりにも的確な一言。
それが、この奇妙で、そして人類の未来を左右する史上最大のブレインストーミングの、始まりを告げる号砲となった。
「……では、始めましょうか」
橘が、巨大なホワイトボードの前に立つ。
「まず、基本的な方向性から決めたいと思います。皆様、何かアイデアは?」
その問いかけに、最初に手を挙げたのは、考古学者の守屋茜だった。
「……はい。私、よろしいでしょうか」
彼女の目は、フィールドワーカーとしての情熱の炎に燃えていた。
「……古代遺跡、というのはどうでしょう」
彼女は、ホワイトボードにペンで日本地図を走り書きした。
「例えばです。日本アルプスの地下深く、これまで誰も足を踏み入れたことのなかった巨大な鍾乳洞の奥で。我々は、発見したのです。縄文時代、あるいはそれよりも遥か、遥か古代に、この日本列島に存在していた未知の超古代文明の遺跡を」
彼女の言葉は、熱を帯びていく。
「その遺跡は、我々の現代科学では到底理解不可能なテクノロジーで建造されていた。そして、その遺跡の最深部、王墓とも言うべき石室の中から、我々は発見したのです。その文明が遺した、究極の遺物を……!」
「……ほう。遺物ですか。面白い」
歴史学者の渋沢名誉教授が、その穏やかな目で頷いた。
「そのアイデア、乗らせてもらいましょうかな、守屋さん。その超古代文明とは、もしや古事記に記された神々の時代、高天原の名残ではないかな? あるいは、海の向こうから知識をもたらしたとされるスクナヒコナノミコトが残していった、置き土産というのはどうじゃろう。それならば、我が国の最も古い神話と結びつけることができる」
「待ってください」
その二人の歴史と神話に基づいた、ロマンあふれる物語に冷や水を浴びせたのは、SF作家の天城蓮だった。
彼は、その神経質そうな顔で腕を組んでいた。
「……話が飛躍しすぎている。遺跡、遺物、結構。だが、その『遺物』が、なぜ半永久的にエネルギーを生み出し、なぜ細胞を再生させるのか。その科学的な裏付けが全くない。そんな御都合主義的な説明では、世界中の物理学者が一瞬で嘘だと見抜くぞ」
彼は、ホワイトボードに数式を書き殴り始めた。
「その遺物がもしエネルギー源であるならば、その原理を説明しなければならない。例えば、それは安定した未知の超重元素で構成された、常温核融合炉であったとか。あるいは、異次元からゼロポイント・エネルギーを汲み上げるための、量子的なゲートウェイであったとか……。物語には、リアリティが必要だ」
そのあまりにも理屈っぽく、そしてあまりにも面倒くさそうな指摘に。
今度は、ハリウッドのジョージ・タナカが、やれやれといった風に首を振った。
「……ノー、ノー、アマギさん。あなたは分かっていない。観客が求めているのは、そんな小難しい科学考証じゃないんですよ」
彼は、まるで映画のピッチングでもするかのように、情熱的に語り始めた。
「大事なのは、エモーション。感情移入できるストーリーなんだ。古代遺跡、素晴らしい! 遺物、最高だ! だが、それだけじゃ足りない。そこに、ドラマが必要なんですよ。例えば、こうだ。『その遺跡は、古代の悲劇の女王の墓だった。彼女は、不治の病に苦しむ民を救うため、自らの命と引き換えに、この癒しの力を持つ奇跡の石を創り上げた。だが、そのあまりにも強大な力を恐れた時の権力者によって、彼女は歴史から抹殺され、その存在は永遠に封印された……。そして今、我々は、数千年の時を超えて、その女王の封印された遺志を解き放ったのだ!』……どうです? これなら、泣けるでしょう?」
そのあまりにもハリウッド的で、そしてあまりにもドラマチックな物語に。
会議室にいたほとんどの人間が、思わず引き込まれ、感動しかけていたその時。
空気を全く読まない一言が、投下された。
それは、これまで黙って目をキラキラさせながら議論を聞いていた、ライトノベル作家、神風カイトだった。
「…………いや、あのー、すみません」
彼は、おそるおそる手を挙げた。
「……なんか、皆さん、話、難しく考えすぎてませんかね?」
そのあまりにも場違いな一言に、全員の視線が彼に集中する。
「……そもそも、なんで嘘つかなきゃいけないんですか?」
「……は?」
橘が、初めて声を発した。
「……いや、だから。異世界とか言い出しても、どうせ誰も信じないでしょう? 分かりますよ。そんな突拍子もないこと、いきなり言われたってねえ?」
カイトは、へらへらと笑った。
「でも、一番おかしいのって、真実なんじゃないですかね? よく言うじゃないですか。『事実は小説より奇なり』って。まあ、俺の小説の方がよっぽど奇なりですけど」
彼は、そこでつまらない自画自賛を挟んだ。
「……だから、思うんですけど。いっそ、正直に言っちゃえばよくないですか? 『賢者様がいました!』って」
そのあまりにも単純で、そしてあまりにも思考を放棄したかのような提案に。
会議室は、一瞬、完全に凍りついた。
天城蓮がこめかみを押さえ、ジョージ・タナカが天を仰いだ。
だが、カイトは続けた。
「だって、その方がシンプルで分かりやすいじゃないですか。それに、一番カッコよくないですか? 『我々は神と出会った』って。俺の作品なら、絶対そうしますね。その方が、読者、喜びますから。それに、下手に嘘ついて後からボロが出たらどうするんです? その方が、よっぽどヤバいですよ」
それは、子供の理屈だった。
だが、そのあまりにも純粋でまっすぐな正論は、奇妙な説得力を持っていた。
「……まあ、事実が一番おかしいというのは、よくあることだからなあ……」
渋沢名誉教授が、ぽつりと呟いた。
確かに、歴史を振り返れば、その時代の常識では到底信じられないような事実が、後世になって真実であったと判明することは、珍しくない。
だが、その奇妙な説得力に満ちた空気を断ち切ったのは、やはり、このプロジェクトの唯一の現実主義者、橘紗英だった。
「……却下します」
彼女の声は静かだったが、絶対的な拒絶の響きを持っていた。
「鈴木先生。貴方のおっしゃることも、物語としては魅力的です。ですが、これは物語ではありません。国家の存亡を賭けた、情報戦です」
彼女は立ち上がると、ホワイトボードの前に立った。
「『賢者がいました』。そう正直に公表したとしましょう。その結果、どうなるか。世界は、我が国、日本をどう見ますか? 『自らの意思を持たず、超越的な存在の気まぐれな恩寵によって力を得た、哀れな操り人形の国』。そう見なされるでしょう。我々は、永遠に賢者様の属国として見られ続ける。主体性は、完全に失われる。それは、断じてあってはならない」
彼女の言葉は、冷徹なリアリストのそれだった。
「我々が創り出すべき物語の主人公は、賢者様ではありません。我々、日本そのものでなくてはならないのです。『我々は、自らの手で古代の叡智を掘り当てた』。『我々は、自らの力で未来への扉をこじ開けた』。そうでなくてはならない。主体は、あくまで我々。賢者様の存在は、完全に消し去る。それが、このプロジェクト・キマイラの絶対的な前提条件です」
そのあまりにも揺るぎない、国家の指導者としての覚悟を前にして。
五人の天才たちは、もはや何も言うことができなかった。
彼らは、ようやく、自分たちがただの物語作りのブレーンとして集められたのではないことを理解した。
自分たちは、この国の新たな「神話」を創造するための、神官として選ばれたのだと。
「……分かりました」
渋沢名誉教授が、静かに頷いた。
「……橘理事官のお覚悟、しかと受け取りました。ならば、我々もまた、学問の、創造の、その全ての矜持を賭けて、この壮大な嘘を創り上げてみせましょうぞ」
その言葉を皮切りに、他の天才たちも次々と頷いた。
彼らの目は、もはやただの学者や作家のそれではなかった。
それは、歴史の創造者としての覚悟と、そして何よりも、この途方もない知的挑戦への歓喜に燃えていた。
「……では、改めて方向性を定めましょう」
橘が言った。
「……やはり、守屋先生と渋沢先生がご提案された、古代遺跡、及び遺物を発掘したという路線が、最も現実的で、かつコントロールしやすいかと思いますが、皆様いかがでしょう」
その提案に、今度は誰も異を唱える者はいなかった。
天城蓮も、ジョージ・タナカも、そして神風カイトでさえも、その壮大な嘘のキャンバスを前にして、自らの創造力が刺激されているのを感じていた。
「……いいだろう」と、天城が言った。「ならば、そのアーティファクトの科学的設定は、私が担当する」
「オーケー」と、ジョージがウインクした。「そのアーティファクトを巡る感動的なドラマは、この僕に任せてくれ」
「じゃあ、俺は、そのアーティファクトで無双する主人公のキャラ設定を考えます!」と、カイトが元気に叫んだ。
そのあまりにもずれた発言に、会議室に初めて微かな笑いが起きた。
プロジェクト・キマイラは、今まさにその産声を上げた。
箱根の静かな山奥で、人類史最大級の嘘が生まれようとしていた。
その嘘が、やがて世界をどのような未来へと導いていくのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
彼らはただ、目の前の、あまりにも面白すぎる知的挑戦に夢中になっていただけだったのだから。




