第30話 【日本政府編】 暴走する天才たち
――コードネーム「賢者」――が、再び嵐のように去っていった後の、東京、西新宿の超高層ビル最上階ヘリポートは、奇妙な静寂と、抑制された熱狂に支配されていた。
後に残されたのは、大小様々な美しいガラス瓶に詰められた、色とりどりの液体。そして、何の変哲もない麻袋に、無造作に詰め込まれた、大量の石ころ。
だが、その場にいた日本の国家中枢を担うエリートたちは、それらがただの液体や石ころではないことを、魂のレベルで理解していた。
これは、神が気まぐれに置いていった、パンドラの箱だ。
その中には、人類の未来を根底から覆す希望と、そしてそれと同等の、計り知れないほどの厄災が、同時に詰め込まれている。
プロジェクト・プロメテウスの最高責任者である橘 紗英は、その神の置き土産を前に、鉄の仮面のような表情を崩さぬまま、しかしその内心では、これまでに経験したことのないほどの、巨大なプレッシャーと、そして微かな興奮に、身を震わせていた。
彼女は、背後に控えていた部下たちに、短く、しかし鋼のような厳しさで、命令を下した。
「第一級特別事態を発令。サンプル群を、二つのチームに分ける。液体サンプルは、地下の第一医療研究所へ。固体サンプルは、第二物理科学研究所へ、それぞれ厳重な警備の下、移送せよ。これより、両研究所は、私の許可なく、アリ一匹たりとも出入りを禁ずる。情報漏洩は、国家反逆罪と見なす。以上だ」
その日の深夜、東京の地下深くに、極秘裏に建造された二つの研究施設は、日本の科学史が始まって以来、最も熱く、そして最も奇妙な夜を迎えていた。
地下三百メートル。外界とは完全に遮断された、第一医療研究所、BSL-4(バイオセーフティレベル4)セクター。
そこは、致死性のウイルスや細菌を扱うために設計された、日本で最も厳重な隔離施設だった。分厚い隔壁、幾重にも連なるエアロック、そして、内部の気圧は常に外部よりも低く保たれている。
だが、今、この場所に集められた日本の医療界のトップランナーたちの関心は、ウイルスや細菌にはなかった。
彼らの視線は、中央の実験台に置かれた、たった一本の、深紅の液体が満たされた美しい小瓶に、釘付けになっていた。
『クリムゾン・ティア』。
賢者がそう呼称した、外傷治癒用のポーション。
実験台を囲むのは、いずれも、その道の頂点を極めた怪物たちだった。
ゴッドハンドの異名を持つ、帝都大学病院の天才外科医、黒崎 猛。数々の不可能と言われた手術を成功させてきた、日本の外科医療の生きる伝説。
ノーベル医学・生理学賞の最有力候補と目される、遺伝子工学の権威、神崎 麗子。ヒトゲノムの解析と、iPS細胞の研究で、世界のトップを走る才媛。
そして、彼らを取りまとめるのは、プロジェクト・プロメテウス科学者チームの狂信的リーダー、帝都大学の長谷川 健吾教授その人だった。
彼らは、宇宙服のような、陽圧式の防護服に身を包み、ヘルメットのシールド越しに、固唾をのんで、実験の始まりを待っていた。
「……始めるぞ」
黒崎が、低い、しかしよく通る声で言った。
助手が、ケージの中から、一匹の実験用ラットを取り出す。ラットは、麻酔で深く眠らされている。
黒崎は、メスを手に取ると、その鋭い切っ先で、ラットの背中を、深々と、骨にまで達するほどに切り裂いた。
生々しい傷口から、鮮血が溢れ出す。モニターに接続されたバイタルサインが、急激に低下していくのが見て取れた。
「……出血を確認。創傷深度、レベル4。通常であれば、即座に縫合しなければ、失血死に至る」
黒崎が、冷静に所見を述べる。
神崎が、マイクロピペットを手に、あの深紅の小瓶から、ほんの一滴、ポーションを吸い上げた。
そして、その一滴を、ラットの傷口の中央に、静かに滴下した。
次の瞬間。
その場にいた、日本の医療の頂点に立つ者たちが、全員、息を飲んだ。
奇跡が、起きた。
ポーションが触れた瞬間、傷口からの出血が、まるで時間を逆再生するかのように、ぴたりと止まった。
そして、裂かれた肉が、筋肉が、皮膚が、まるで意思を持つかのように、蠢き始めたのだ。
肉芽組織が、通常では考えられないほどの速度で盛り上がり、裂かれた断面が、互いを求め合うように、引き寄せられていく。
ジジジ、という、微かな、組織が再生する音さえ、聞こえてくるかのようだ。
それは、早回しの映像を見ているかのようだった。
ものの十数秒。
あれほど深々と裂かれていたはずの傷口は、完全に、跡形もなく、塞がっていた。そこには、うっすらとピンク色の、生まれたての皮膚があるだけで、傷跡さえ、残っていない。
モニターのバイタルサインは、完全に、正常値へと回復していた。
「…………馬鹿な」
ゴッドハンド黒崎が、その生涯で、初めて、弱々しい、信じられないといった声を漏らした。
「……なんだ、これは……。縫合も、細胞接着剤も、何も使っていない……。ただ、液体を垂らしただけで……組織が、自己修復しただと……? しかも、この速度は……ありえない……! 我々の知る、いかなる生物の再生能力をも、これは、遥かに、遥かに凌駕している……!」
「……細胞レベルでの、観測データを」
神崎の声は、震えていた。
彼女の目の前の、電子顕微鏡に接続されたモニターには、さらに信じがたい光景が、映し出されていた。
ポーションの成分が、損傷した細胞に接触した瞬間、細胞内のミトコンドリアが、異常なレベルで活性化。細胞分裂の速度が、指数関数的に増大していく。だが、それは、癌細胞のような、無秩序な増殖ではない。周囲の、正常な細胞の遺伝子情報を、完璧に読み取り、寸分違わぬコピーとして、自らを再構築していくのだ。
「……奇跡だわ」
神崎は、ヘルメットの中で、呆然と呟いた。
「これは、もはや、薬学ではない。生物学でもない。これは、生命の設計図そのものに、直接、介入する……神の、御業よ……」
実験は、エスカレートしていった。
末期の癌細胞を移植されたラットに、『万病の霊薬』を投与する。
すると、モニター上で、禍々しい形をしていた癌細胞が、一斉に、プログラムされたかのように、自壊を始めた。まるで、悪夢が、朝日と共に消え去るかのように。
そして、最後の、禁断の実験。
老化促進処置によって、寿命の限界まで、人為的に老化させられた、老ラットの細胞。
そのシャーレに、『若返りの秘薬』を、一滴、加える。
神崎は、息を殺して、顕微鏡のモニターを見つめた。
そこに映し出された光景に、彼女は、もはや、言葉を発することさえ、できなかった。
短縮し、すり切れていたはずの、染色体の末端部分――テロメアが。
まるで、魔法のように、にょきにょきと、再生し、伸長していくのだ。
細胞は、若返っていた。
失われたはずの、生命の輝きを、取り戻していた。
「……老化は……」
神崎は、その場に、へたり込んだ。
「……老化は、克服、できる……。不治の病も、死に至る傷も……全て、過去のものになる……。私たち、人類は……今日、この日、この場所で……神の領域に、足を踏み入れてしまったのよ……!」
その、狂喜と、そして根源的な恐怖が入り混じった絶叫は、厳重に密閉された研究施設の、冷たい壁に、虚しく響き渡った。
監視室で、その一部始終をモニター越しに見ていた橘紗英は、表情一つ変えなかったが、その背筋を、氷のように冷たい汗が、一筋、伝っていくのを、感じていた。
医療革命。
そんな、生易しい言葉では、足りない。
これは、生命倫理の、社会構造の、そして、人間という種のあり方そのものの、完全な崩壊と、再定義の始まりだった。
時を同じくして。
都心某所、地下五百メートルに位置する、第二物理科学研究所。
そこでは、第一研究所の、厳粛で、どこか哲学的な雰囲気とは、全く対照的な、混沌と、そして子供のような、純粋な歓喜に満ちた、狂乱の宴が、繰り広げられていた。
主役は、もちろん、長谷川健吾教授と、彼が日本中から選りすぐった、物理学、工学、農学、あらゆる分野の、天才、あるいは変人たちだった。
彼らの目の前には、麻袋から、無造作にぶちまけられた、大量の『魔石』が、小山のように積まれている。
最初は、彼らも、極めて科学的なアプローチで、その未知の物質の解析を試みていた。
質量分析計にかけ、スペクトルを分析し、放射線量を測定する。
だが、そのデータは、どれも、彼らの常識を、小馬鹿にするかのような、矛盾と、不可解さに満ちていた。
「……分からん!」
長谷川が、頭を掻きむしった。
「この石は、組成上は、ただの変成岩の一種に過ぎん! しかし、その内部からは、我々の観測機器では捉えきれん、未知の高エネルギーが、常に、放出され続けている! なんだ、これは! 永久機関だとでも、言うのか!?」
科学者たちは、壁にぶち当たっていた。
だが、その膠着状態を、打ち破ったのは、一人の、若い、大学院生の、ほんの些細な、しかし歴史的な「うっかり」だった。
彼は、解析に疲れて、休憩を取ろうと、自分のスマートフォンを手に取った。だが、バッテリーは、無情にも、切れていた。
「……ちくしょう、こんな時に……」
彼が、悪態をつきながら、充電ケーブルを探していた、その時。
彼の手元にあった、一つの魔石が、ふと、ポケットの中で、温かく、輝いたような気がした。
彼は、何を思ったか、ほとんど無意識のうちに、その魔石を、スマートフォンの背面に、ぴたりと、くっつけた。
そして、心のなかで、強く、強く、念じた。
(……充電、しろ……!)
次の瞬間。
彼のスマートフォンの画面が、ぱっ、と明るく点灯した。
そして、画面の右上に表示された、バッテリーのアイコンが、凄まじい勢いで、充電されていく。
1%、10%、50%、80%、そして、100%。
満充電まで、わずか、数秒。
「………………は」
大学院生は、自分の目を疑った。
そして、次の瞬間、彼は、研究所中に響き渡るほどの、甲高い、素っ頓狂な絶叫を上げた。
「うわあああああああっ! う、動いた! 充電できた! こ、こいつ! スマホを、充電しやがったぞおおおおおっ!」
その一言が、狂乱の始まりだった。
それまで、難しい顔で、数式とにらめっこしていた科学者たちが、一斉に、彼の元へと殺到した。
「なんだと!?」
「馬鹿な! ケーブルも、電源もなしに、どうやって!?」
そして、彼らは、理解した。
この石は、物理的な法則で、解析するものではない。
もっと、原始的で、もっと、直感的な、別の法則に、支配されているのだと。
『術者の「意志」に呼応する』。
賢者が残した、あの言葉。
その意味を、彼らは、ようやく、その肌で、理解したのだ。
そこからの研究所は、もはや、学会などという、高尚な場所ではなかった。
それは、新しい、そして最高に面白い「玩具」を与えられた、子供たちの、巨大な遊び場へと、変貌した。
「おい、見てくれ!」
一人の、普段は気難しい顔しかしない、量子力学の老教授が、子供のようにはしゃいでいる。
彼が、机の上の、一つの魔石に向かって、「浮け!」と、強く念じると、彼のコーヒーカップが、ふわり、と宙に浮き上がったのだ。
「おお……! 浮いた! 浮いたぞ! ハッハッハ! これぞ、真の、マクスウェルの悪魔よ!」
すぐに、他の科学者たちも、その遊びに、参加し始めた。
「俺だって!」
「こっちもだ!」
研究室の中を、ペンが飛び、書類が舞い、ホッチキスが、編隊を組んで、宙を旋回し始めた。
まるで、魔法使いの見習いたちが、初めての魔法に成功して、はしゃいでいるかのようだった。
その混沌の、さらに中心にいたのは、長谷川教授だった。
彼は、魔石の、もう一つの能力、『栄養強靭』の検証に、取り憑かれていた。
彼は、無菌室の、栄養素を完全に管理された、滅菌済みの土が入ったプランターを用意させた。
そして、魔石を、乳鉢で、丁寧に、丁寧に、粉末状になるまですり潰した。
その、キラキラと輝く粉末を、土に、混ぜ込む。
そして、一粒の、何の変哲もない、トマトの種を、そこに植えた。
彼は、そのプランターの前に、椅子を持ち込み、まるで愛しい我が子でも見守るかのように、一晩中、その場を、動かなかった。
そして、翌朝。
研究所に、長谷川の、雷鳴のような、歓喜の咆哮が、轟き渡った。
「来たあああああああああっ!!!」
他の科学者たちが、何事かと駆けつけると、そこには、信じがたい光景が広がっていた。
たった一晩。
たった一晩で、種を植えたはずのプランターから、緑の、力強い芽が、天を突くほどの勢いで伸び、青々とした葉を茂らせ、黄色い花を咲かせ、そして、その枝には、ゴルフボールほどの大きさの、真っ赤な、艶やかな実が、鈴なりに、実っていたのだ。
「……ど、どうなってんだよ、これ……!?」
若い農学の研究者が、腰を抜かしていた。
「たった一日で、発芽から、結実まで……!? しかも、この土には、水以外、何の栄養素も与えていないはず……! これは、もはや、農業ではない……! 錬金術、いや、生命の創造そのものだ……!」
長谷川は、その、奇跡のトマトを、一つ、もぎ取った。
そして、まるで聖体を拝領する神父のように、厳かに、それを、一口、かじった。
次の瞬間、彼の目に、大粒の涙が、溢れ出した。
「……美味い……」
彼は、嗚咽を漏らした。
「……美味すぎる……! 甘味、酸味、旨味……! 生命に必要な、全ての味が、この一粒に、完璧な形で、凝縮されておる……! これこそが、エデンの園の、果実の味に、違いあるまい……!」
彼は、その場で、崩れ落ちるように、ひざまずいた。
そして、天を仰ぎ、両腕を広げ、腹の底から、叫んだ。
「……まさに、神の火だ! プロメテウスが、天から盗み、人類にもたらした、あの火と、同じものだ! 我々は、新たな、火を手に入れたのだ!」
その、あまりにも劇的な、預言者のような叫びに、周りの科学者たちも、もはや、自分たちが、歴史の、いや、神話の、目撃者となっていることを、確信せずにはいられなかった。
彼らは、次々と、長谷川の周りにひざまずき、まるで、新たな神の誕生を祝うかのように、ただ、ただ、その奇跡の光景を、拝んでいた。
「すげー……」
「すげー……!」
彼らの口からは、もはや、そんな、語彙力を失った、純粋な感嘆の言葉しか、出てこなかった。
その、あまりにも混沌とし、そしてあまりにも熱狂的な、二つの研究所からの、断片的で、そして異常なほどにテンションの高い報告書を、橘紗英は、自らのオフィスで、冷徹な、しかしどこか疲労の滲む目で、読んでいた。
医療チームからは、『人類の進化と、それに伴う、社会倫理構造の、再構築に関する、緊急提言』と題された、三百ページに及ぶ論文が、送られてくる。
物理科学チームからは、『魔石を用いた、浮遊物による、第九交響曲の、再現実験の成功について』と題された、訳の分からない動画ファイルが、添付されてくる。
彼女が、今、総理大臣に提出するために、喉から手が出るほど欲しいのは、そんな、ポエムや、お遊戯会の記録ではない。
ポーションの、正確な治癒効果の範囲と、その限界値。
魔石一つが、安定して供給できる、エネルギーの、具体的なワット数と、その持続時間。
そんな、具体的で、冷静で、そして国家の戦略として利用可能な、「データ」だった。
彼女は、内線で、両研究所の責任者、すなわち、神崎麗子と、長谷川健吾を、同時に、呼び出した。
モニターに、二人の、天才科学者の顔が、映し出される。
神崎は、どこか夢見るような、恍惚とした表情を浮かべている。
長谷川に至っては、トマトの果汁を、口の周りにつけたまま、子供のように、目をキラキラと輝かせていた。
「……お二人とも」
橘の声は、絶対零度の、氷のようだった。
「一体、どういうことです。私が要求したのは、冷静な、科学的分析報告書です。あなた方が送ってきた、これは、何です? 宗教的な啓示録と、学生の文化祭のビデオ日記ですか?」
その、あまりにも辛辣な言葉に、二人は、はっと我に返った。
「も、申し訳ありません、橘理事官!」
長谷川が、慌てて、口元を拭う。
「し、しかし! これは、我々の想像を、あまりにも、超えておりまして……! その、可能性が、無限大すぎて、どこから、手をつけていいものか……!」
「そうですわ、理事官」
神崎も、それに同調する。
「これは、一つ一つ、慎重に、そしてあらゆる可能性を、検証する必要が……。そう、我々は、まだ、検証の、ほんの入り口に、立ったばかりなのです!」
「……検証中、ですか」
橘は、その言葉を、氷のように冷たい声で、繰り返した。
モニターに映る、天才たちの、その言い訳と、その、隠しきれない、純粋な好奇心と、探究心という名の、子供のような輝き。
橘の、完璧なポーカーフェイスの、その、ほんの数ミリ奥で。
彼女の、冷静沈着な、マネージャーとしての魂が、静かに、しかし、はっきりと、呟いた。
(……検証中? ……遊んでいるだけの、間違いでは、なくて?)
彼女は、もはや、彼らに、何を言う気も失せていた。
彼女は、ただ、静かに、通信を切った。
そして、一人、静まり返ったオフィスで、深く、深く、息を吐き出した。
彼女は、理解した。
自分に与えられた任務の、本当の困難さを。
それは、神の如き力を持つ、予測不可能な存在と、交渉することではない。
それは、神の玩具を与えられて、完全に理性のタガが外れてしまった、この国の、最高の、そして最も手に負えない、天才たちを、管理し、制御することなのだと。
彼女は、頭痛をこらえるように、こめかみを押さえた。
プロジェクト・プロメテウスは、もはや、彼女の手を離れ、科学者たちの、純粋で、そして最も危険な好奇心によって、どこまでも、暴走を始めていた。
その先に待つのが、輝かしい未来なのか、あるいは、破滅なのか。
その答えを、今の彼女は、知る由もなかった。
最後までお付き合いいただき、感謝します。
異世界で手に入れた金貨の山よりも、政府が必死でかき集めた国家予算よりも、読者の皆様からの「ブックマーク」と「評価(☆☆☆☆☆)」こそが、私の執筆モチベーションを維持する最高純度の魔石(エネルギー源)です。
もし「続きが読みたい」「政府の慌てっぷりをもっと見たい」と思ってくださったなら、ぜひページ下部より応援をお願いします。




