第29話 【ゲーム的世界編】 ダンジョンとスキルツリー
冒険者ギルド。その血と汗とエール、そして一攫千金の夢が渦巻く坩堝のような場所で、新田 創は自らが足を踏み入れた世界の新たな、そしてあまりにも衝撃的な側面を知った。
ダンジョンスキルツリー、スキルジェム。
それは彼が、かつて現実逃避の果てに何千時間と没頭したPCゲーム『Path of Exile』の世界と、驚くほど酷似した法則に支配された現実だった。
この発見は、彼のスローライフ計画に新たな、そして計り知れないほどの可能性をもたらした。情報アドバンテージ。それは、どんな強力な魔法にも、どんな莫大な資産にも勝る究極の武器となり得る。
彼はこの「ゲーム的世界」を、休息と研究のための『別荘』であるSF世界アークチュリア、交易ビジネスの『仕事場』であるラングローブ商会の世界に次ぐ第三の、そして最も重要な拠点――すなわち自己を強化するための『トレーニングジム』であり、未知の資源を掘り出す『鉱山』と位置づけることを心に決めた。
その日から、創の生活は一変した。
彼はヴァイスブルクの街に、冒険者たちが利用する質素だが清潔な宿屋を一つ借り、そこを当面の活動拠点と定めた。そして、文字通りダンジョンに「籠もる」日々を始めたのだ。
彼の目的は、冒険者として名を上げることでも、莫大な富を築くことでもない。
第一に、この世界の法則をその身をもって完全に理解、把握すること。
第二に、その過程で産出される『魔石』を、日本政府への次なる「おみやげ」として可能な限り大量に確保すること。
彼のダンジョン攻略は、他の冒険者たちとは全く異質なものだった。
彼は決して、無謀な挑戦はしない。元プロジェクトマネージャーとしてのリスク管理能力は、ここでも遺憾なく発揮された。
朝、宿屋で目を覚ますと、彼はまずギルドへ向かい、その日の天候やダンジョン内のモンスターの活動状況、そして他のパーティからの最新情報を入念に収集する。次に、道具屋でポータルスクロールと鑑定スクロールを必要最低限だけ補充する。
そして、初心者向けのダンジョンである『始まりの洞窟』へと向かうと、彼は入り口でまず『ポータル』のゲートを開き、宿屋の自室へと繋がる絶対的な安全地帯を確保した。
そこから彼の地道で、しかし効率的な「作業」が始まる。
彼は決して深追いしない。ダンジョンの第一階層から、第三階層まで。そこは、ゴブリンやジャイアント・ラットといった比較的弱いモンスターしか出現しない安全な狩場だ。
彼は、魔法学院で培った身体強化魔法で自らの身体能力を底上げし、SF世界で理論を学んだ効率的な魔力操作でスキルジェム『ファイアボール』を、最小限の魔力で最大限の効果を発揮できるように常に最適化しながら放ち続けた。
モンスターを倒し、ドロップした魔石を拾い、そしてまた次のモンスターの群れを探す。
その姿は、英雄的な冒険者というよりも、ベルトコンベアを流れてくる製品を黙々と処理し続ける工場のライン作業員のそれに近かった。
疲労が蓄積し、魔力が尽きかけてくると、彼は躊躇なくポータルで宿屋へ帰還する。宿屋のベッドで数時間仮眠を取り、街の食堂で美味い食事を腹一杯詰め込むと、再びポータルで先ほどまでいたダンジョンの階層へと寸分の狂いもなく戻るのだ。
他の冒険者たちが、松明の明かりを頼りに何日もかけてダンジョンに野営しながら命懸けで深層を目指しているのを尻目に、彼は安全なオフィスと危険な現場をドア一枚で自由に行き来する究極のリモートワーカーのように、この世界での「業務」をこなしていった。
そんな地道な作業を繰り返すこと、約一週間。
ある日、ダンジョンの奥で一際大きなゴブリン・ホブの集団を殲滅した、その瞬間。
彼の脳内に直接、天啓のような心地よい響きが鳴り渡った。
――レベルアップ。
彼の全身を温かい光が包み込み、消耗していた体力と魔力が完全に回復する。
そして、彼の意識の中に一つの新たな感覚が芽生えた。
『スキルポイント:1』。
その無機質な文字列を認識した瞬間、創の心臓が興奮に大きく高鳴った。
彼はすぐさまポータルで宿屋に戻ると、ベッドの上に胡座をかき、静かに目を閉じた。
そして、自らの精神の最も深い領域へと意識を潜行させていく。
彼の精神世界に、広大な星空が広がった。
無数の星々が、複雑な、しかし美しい法則性を持って互いに光の線で結ばれている。
スキルツリー。
それは彼が、PCのモニター越しに飽きるほど眺めた、あのパッシブスキルツリーの盤面そのものだった。
(……すげえ……。本当に同じだ……)
創は、その神々しいまでの光景に感嘆のため息を漏らした。
彼の視線の先、星図の中心部には『デュエリスト』、『マローダー』、『レンジャー』、『シャドウ』、『ウィッチ』、『テンプラー』、そして『サイオン』という七つのスタート地点が、それぞれのクラスを象徴する星座のように輝いている。
そして彼の意識は、自然と『ウィッチ』の領域へと引き寄せられていった。
知性と魔力を司る、青白い輝き。
そこから無数の道が、星々の海へと伸びている。
創は、その光の道を記憶を頼りに辿り始めた。
(……あった……!)
彼は見つけた。
ライフ最大値を増加させる赤い輝きを放つ『ヘルス』のノード群。
マナ最大値とその回復速度を向上させる青い輝きの『マナ』のノード群。
そして、ライフとは別に魔法の障壁として機能する白い輝きの『エナジーシールド』のノード群。
体力、魔力、そして魔法障壁。
その三つの要素がこの世界の生存法則の根幹をなしていることを、彼はかつてのゲーム知識と現実の体験とを照らし合わせ、完全に理解した。
(……なるほどな。ヘルス、エナジーシールド、マナ。全部PoEと全く同じ概念だ)
彼は手に入れた貴重な1ポイントのスキルポイントを、どこに振るべきか慎重に、そしてどこか楽しげに検討し始めた。
まるで、久しぶりに再開した古い趣味に没頭するかのように。
(まずは生存力を確保するのが定石だ。となれば、ライフかエナジーシールドか……。俺は魔法学院の魔法も使えるし、どちらかと言えばインテリジェンス(知性)依存のエナジーシールド型の方が相性は良いかもしれないな。だが、序盤は装備が整わないとエナジーシールドは脆い。やはり、手堅くライフを伸ばすべきか……)
彼は、かつて自分が育てたキャラクターのビルドを懐かしく思い出しながら、思考を巡らせる。
電撃を操り、全てを薙ぎ払ったエナジーシールド型のソーサレス。
ゴーレムの軍団を召喚し、自分は後ろで悠々と高みの見物をしていたネクロマンサー。
どのビルドも強力で、そして何よりも使っていて楽しかった。
「……楽しいな、これ」
創は、思わず声に出して呟いていた。
そうだ。
楽しいのだ。
この自分の成長を、自らの手で自由に設計していく感覚。
会社員時代、他人の決めた仕様と他人の決めたスケジュールの中で、ただ歯車として動き続けてきた彼にとって、この全てを自分で決定できるという絶対的な自由は、何物にも代えがたい快感だった。
彼は結局、最も堅実で生存率の高い選択肢として、ウィッチのスタート地点から最も近い位置にある『ライフ最大値+10%』のノードに、その最初の1ポイントを迷いなく振り分けた。
その瞬間、星がひときわ強く輝き、彼の体の中に確かな生命力そのものが流れ込んでくるような感覚があった。
こうして、ダンジョンに籠もり、レベルアップを重ね、少しずつ、しかし着実にスキルツリーを伸ばしていくという地道な、しかし充実した日々がさらに数週間続いた。
そして、その日は唐突に訪れた。
創がダンジョンの第五階層で、スケルトンの群れを新たなスキルジェムである『アーク』――敵から敵へと連鎖する強力な電撃魔法――で一掃した時。
彼のレベルは、ついに10に到達した。
同時に、彼の次元ポケットの中には、彼が当初の目標としていた量を遥かに上回る、大小様々な魔石が麻袋にいくつも満杯になっていた。
創は最後の魔石を拾い上げると、満足げに息を吐いた。
「……おっと。魔石集めは、このくらいで終わりにするか」
プロジェクトのマイルストーン(中間目標)は、達成された。
ならば、次なるフェーズへと移行する時だ。
「……よし。日本に戻るか」
彼は宿屋に最後のポータルを開くと、この奇妙で、しかしどこか居心地の良くなってしまったゲーム的世界に、しばしの別れを告げた。
そして、日本のあの殺風景なワンルームマンションへと、その身を転移させた。
窓の外からは、聞き慣れた都会の喧騒。
だが、今の創にとって、その喧騒はもはや彼を苛むストレスの源ではなかった。
それは、壮大な冒険の合間に訪れる心地よい休息の時間を告げる、ファンファーレのように聞こえていた。
創は日本に戻ると、まずシャワーを浴びて、数週間分のダンジョンの埃と血の匂いを洗い流した。
そして、お気に入りの着古したスウェットに着替えると、ソファに崩れ落ちるように身を沈めた。
「……ふう」
彼は冷蔵庫から、キンキンに冷えた缶ビールを取り出すと、その黄金色の液体を一気に喉へと流し込んだ。
全身の細胞に、炭酸の刺激と麦の旨味が染み渡っていく。
「……くぅーっ! たまらん!」
これだ。
この全てを終えた後の一杯のために、俺は頑張っているのだ。
彼はしばらく、その至福の時間を満喫していた。
だが、彼の元プロジェクトマネージャーとしての魂は、長期の休暇を許してはくれなかった。
彼は飲み干したビールの缶をテーブルに置くと、ノートパソコンを開いた。
そして、あの日本政府との唯一の連絡窓口であるフリーメールのアカウントにログインした。
彼は新規メールの作成画面を開くと、極めて簡潔で、しかし相手にとっては神の託宣にも等しいであろう一文を打ち込んだ。
件名:【業務連絡】
本文:
『明日、昼。いつもの場所で。新しい「おみやげ」がある』
送信ボタンをクリックすると、彼はパソコンを閉じた。
これでいい。
面倒な挨拶も、時候の挨拶も不要だ。
彼とあの狸女との間には、もはやビジネスライクな、それでいて絶対的な、奇妙な信頼関係が成り立っているのだから。
翌日、昼過ぎ。
東京、西新宿のあの超高層ビルの最上階ヘリポートは、もはや創にとって勝手知ったる打ち合わせ場所のようなものだった。
前回と同様、物々しい、しかし見えない警備網が張り巡らされているのだろうが、彼はもはやそれを気にすることさえなかった。
白い円の前に、いつものように橘紗英と、そして彼女の影のように付き従う長谷川健吾教授が、緊張した面持ちで立っていた。
創が何の前触れもなく、その円の中心にすっと姿を現すと、長谷川教授が「おお……! 賢者様!」と感極まったように駆け寄ろうとし、それを橘が冷徹な視線で無言のまま制した。
「やあ、橘さん。急に呼び出してすまないね」
創は、もはや猫の大賢者を演じるのも面倒くさくなり、素の新田創としての口調で気さくに声をかけた。
そのあまりにもフランクな態度に、橘は一瞬だけその完璧なポーカーフェイスを崩し、眉をひそめたが、すぐにプロフェッショナルな表情に戻った。
「……いえ。お待ちしておりました、賢者様。して、本日のご用件は」
「ああ、うん。まあ、大したことじゃないんだがね」
創はそう言うと、次元ポケットからいくつかの品物を、テーブル代わりに用意されていた台の上に取り出し始めた。
まず彼が取り出したのは、マスター・エリザから購入した、様々なポーションが詰め込まれた美しいガラス瓶の数々だった。
「これ、例の錬金術が発達した世界で新しく見つけてきたポーションなんだがね」
創は、こともなげに言った。
「外傷用、病気用、あとこれは十年若返るらしい。まあ色々あるんだが、俺も正直、細かい効果まではよく分からん。だから、そっちで効果の検証、頼むよ。安全性の確認とか、副作用の有無とか、まあいつものやつだ。よろしく」
そのあまりにも軽い口調で語られる、あまりにも衝撃的な内容に。
長谷川教授が、わなわなと打ち震え始めた。
「じゅ、十年若返るですと……!? ま、まさかテロメア伸長をこれほど直接的に……!? 賢者様! これは一体、どのような原理で……!?」
「さあ?」
創は、首を傾げた。
「その原理を調べるのが、君たちの仕事だろう? 丸投げするから、後はよろしく頼むよ」
その「丸投げ」というビジネス用語に、橘の眉がぴくりと動いた。
そして創は、本命の「おみやげ」を取り出した。
彼は次元ポケットから、ずしりと重い麻袋をいくつもいくつも、台の上に無造作にドンドンと積み上げていく。
袋の口からは、様々な色合いの鈍い輝きを放つ石ころが溢れ出していた。
魔石だ。
「それと、これ」
創は言った。
「こっちはまた別の世界で見つけてきた『魔石』っていう面白い石でね。まあ、いわば使い捨ての超小型バッテリーみたいなもんだと思ってくれればいい」
彼はその中から、F級の魔石を一つ手に取った。
「こいつは意志の力で、熱を出したり、物を動かしたりできる。まあ、コップ一杯の水を沸騰させるくらいならお手の物だ。他にも色々、種類があるらしいがね」
その何気ない説明に、長谷川教授の目が点になった。
そして次の瞬間、彼はもはや橘の制止も振り切り、子供のようにその魔石の山へと駆け寄っていた。
「い、意志の力で現象を……!? ま、まさかこれは、思考を直接物理エネルギーに変換する究極のインターフェース……!? これさえあれば……これさえあれば、エネルギー革命が……!?」
彼は一つの魔石を震える手で拾い上げ、まるで恋人でも見るかのような熱っぽい目で見つめている。
「賢者様! こ、この奇跡の石は、まだ他にも!?」
「ああ、まだまだあるよ」
創は、鷹揚に頷いた。
「ダンジョンってところでゴブリンとかを倒せば、いくらでも手に入るからな。まあだから、これもそっちで徹底的に調べてくれ」
彼は橘に向き直ると、静かに、しかしきっぱりと告げた。
「この魔石が、この君たちの世界でも同じように機能するのかどうか。そして、これを安全に、安定的にエネルギー源として利用するための基礎研究。それも全部、君たちに丸投げする。いいね?」
そのあまりにも壮大で、あまりにも無茶な、しかしあまりにも魅力的な「宿題」を前にして。
橘紗英は、初めて感情を隠すことができなかった。
彼女の常に冷静だった唇の端が、微かに吊り上がっている。
それは、笑みだった。
挑戦者を前にした武者のような、獰猛で、そして美しい笑み。
「…………御意。賢者様のそのご期待、この日本国、いえ、我々人類の全ての叡智を結集し、必ずやお応えしてみせます」
「じゃあ、後は任せたよ」
創は満足げに頷くと、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さずすっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、奇跡のポーションとエネルギー革命の種を前に興奮に打ち震える科学者たちと、そして世界の運命を左右する新たな、途方もないプロジェクトの始まりを前に、静かに闘志を燃やす一人の鉄の女だけだった。
その頃、全ての面倒事を優秀な部下に丸投げし終えた、我らがプロジェクトリーダー新田創は。
東京の自室のソファの上で、再び缶ビールを片手に満ち足りた表情を浮かべていた。
「……ふう。これで当分、またのんびりできるな……」
彼は、テーブルの上に置かれたノートパソコンに視線を移した。
デスクトップには、見慣れたあのゲームのアイコンが、彼を誘うかのように鎮座している。
『Path of Exile』。
彼は、にやりと笑った。
「……久しぶりに、PoEでもやるか」
その呟きは、しかし、すぐに彼自身の元プロジェクトマネージャーとしての言い訳によって上書きされた。
「……いや、違うな。これは遊びじゃない。あの世界の予習であり、勉強だ。そうだとも。次なるダンジョン攻略フェーズに向けた、高度なシミュレーションなんだ。うん、決して遊びではない」
彼は誰に言うでもなく、そう何度も自分に言い聞かせると、満足げに頷き、パソコンの電源を入れた。
モニターが明るくなる。
見慣れたログイン画面。
そして、そこに表示された一つの鮮やかなバナー広告。
『――新シーズン『エクリプス・コンフリクト』、明日開幕! 新たなスキル、新たなアイテム、そして新たな挑戦が君を待つ!』
「……おおっ!」
創の目が見開かれ、その顔が少年のような純粋な喜びに輝いた。
「……新シーズン、明日からか! マジかよ、最高のタイミングじゃねえか!」
日本政府が、人類の未来を賭けてポーションと魔石の解析に死力を尽くしている、まさにその裏で。
全ての元凶である男は、壮大すぎるスローライフ計画のことなどすっかり頭の片隅に追いやり、ただひたすらに、明日から始まる新たなゲーム内での冒険に胸を躍らせていた。
「……しばらくは、ゲーム三昧かな?」
そのあまりにも呑気で、あまりにもぐうたらな呟きは、ビールの泡と共に東京の夜の空気の中へと、静かに溶けて消えていった。
彼の本当のスローライフは、まだ始まったばかりなのかもしれない。




