第25話 【現代日本編】 プロジェクト:究極の生命保険
実家で過ごした夢のように穏やかな数日間は、魔法のように早く過ぎ去っていった。
新田 創は、母親が持たせてくれたまだ温かい煮物の入ったタッパーを次元ポケットにしまい込むと、誰にも気づかれることなく懐かしい我が家を後にした。そして一瞬の転移の後、彼は再び東京のあの殺風景なワンルームマンションの真ん中に立っていた。
窓の外からは遠ざかる救急車のサイレンと、隣の部屋から微かに漏れ聞こえるテレビの音が、都会の無機質な日常を奏でている。実家の鈴虫の声と川のせせらぎが、まるで遠い異世界の出来事だったかのように感じられた。
創は大きく伸びをすると、ドサリとソファに体を投げ出した。
ギシリと、安物のスプリングが悲鳴を上げる。
彼は、天井のいつの間にか増えたような気がする微かなシミをぼんやりと眺めながら、この数ヶ月のあまりにも激動すぎた日々を頭の中でゆっくりと再生していた。
会社を辞め、無職になったあの日。
目の前に半透明のウィンドウが現れたことから、全ては始まった。
二つの太陽が輝く広大な草原。訳も分からず、ただ生き延びるために始めたサンプル採取。それが意図せずして、日本の国家中枢を揺るがす大事件へと発展した。
身の安全を確保するため、ただそれだけのために訪れた魔法学院。そこで自分に秘められた規格外の才能に気づき、人知を超えた力をその身に収めた。
次に訪れた、活気あふれる交易都市。商人ゲオルグ・ラングローブとの出会い。胡椒と砂糖が金塊の山へと変わる、現代の錬金術師のような体験。そして、石工のジャックという奇妙な友人もできた。
最後に訪れた、完璧すぎるSF世界アークチュリア。そこは、労働も貨幣経済さえも過去の遺物となった究極のユートピアだった。そこで彼は、魔法という現象の科学的な本質と、自らの能力の本当の恐ろしさを客観的に理解した。
ファンタジー、歴史、SF。
まるでジャンルの異なる小説の世界を、次々と渡り歩いてきたかのようだ。
そのどれもが刺激的で、面白く、そしてとてつもなく面倒くさかった。
「……はあ」
創は、深い深い溜め息をついた。
「……疲れた……」
心の底から、声が漏れた。
彼は、一体何をやっているのだろうか。
彼のたった一つのささやかな願い。それは、「働かずにのんびりと安全に暮らしたい」という、究極のスローライフ計画だったはずだ。
それなのに、現実はどうだ。
国家を相手に猫の大賢者を演じ、腹の探り合いを繰り広げる。
異世界の商人と、丁々発止の駆け引きを演じる。
魔法の本質を理解するために、高次元物理学を学ぶ。
どれ一つとして、「のんびり」とは程遠い。むしろ、会社員時代にプロジェクトマネージャーとして炎上案件の火消しに奔走していた頃よりも、遥かにストレスフルで頭を使う日々ではないか。
本末転倒。
まさに、このことだった。
創は、ソファからごろりと床に転がり落ち、大の字になった。
ひんやりとしたフローリングの感触が、火照った頭に心地よかった。
彼は、ぼんやりと考えた。
俺は、本当に何を求めているのだろうか。
その時、彼の脳裏に実家のあの穏やかな光景が蘇った。
縁側で何も考えずに、ただ庭の木々を眺めていた時間。
母親が作ってくれた何の変哲もない、しかし世界で一番美味い生姜焼きの味。
父親と言葉少なげに、しかし心地よい沈黙の中で一緒にテレビの野球中継を見た夜。
あれだ。
あれこそが、俺が本当に求めていたものではないのか。
「……うーん……」
創の口から、うめき声のようなものが漏れた。
「……一周回って、日本の田舎でスローライフするってのもアリかも知れないぞ……?」
その考えは、稲妻のように彼の脳天を撃ち抜いた。
そうだ。
なぜ、今まで気づかなかったのだろう。
わざわざ言葉も文化も、物理法則さえ違う異世界に安住の地を求める必要などどこにある?
この日本に、最高の場所があるじゃないか。
彼の妄想は、一気に加速していく。
金なら、ある。
日本政府から約束された現金二十億円と、十億円相当の暗号通貨。そして、ラングローブ商会から彼の商人魂の全てとして受け取ったあの黄金の山の木箱。次元ポケットの中には、一つの国の国家予算に匹敵するほどの富が、文字通り眠っているのだ。
もはや一生、いや十生遊んで暮らしても使い切れないほどの金。
その金を使って、日本のどこか景色の良い山奥の温泉地に、広大な土地を買う。
そこに、最新の設備を備えたモダンで、しかしどこか温かみのある巨大な平屋の豪邸を建てる。
露天風呂は、源泉掛け流しだ。
リビングには、壁一面の巨大なスクリーンと、最高の音響システムを設置する。
キッチンは、世界中のどんな料理でも作れるように、プロ仕様のものを。
そして何よりも重要なのは、最強のインターネット回線。
朝は鳥の声で目覚め、温泉に浸かる。
昼は縁側で昼寝をするか、Netflixで今まで見たくても見れなかった映画やドラマを片っ端から見ていく。
腹が減れば自分で料理をするのもいいし、面倒ならUber Eatsが届く範囲に拠点を構えるのもアリだ。いや、いっそお抱えの料理人を雇ってもいい。
誰にも、何も言われない。
納期も仕様変更も、面倒な人間関係も何もない。
ただひたすらに自分の好きなことだけをして、だらだらと時間を溶かすように生きていく。
「…………最高じゃねえか」
創は、呟いた。
その光景を想像しただけで、全身の力が抜け、幸福なため息が漏れた。
これだ。
これこそが、俺が本当に求めていた究極のスローライフの完成形だ。
異世界だの、魔法だの、SFだの、そんな面倒なものはもういらない。
俺はただ、日本の片田舎で静かに、穏やかに、ぐうたらに暮らしたいのだ。
創は、興奮してむくりと身を起こした。
そして、いつものようにプロジェクト計画書のノートを取り出すと、目を輝かせながら新しい計画のタイトルを書き記した。
【プロジェクト名:最終目標・日本の田舎で究極のぐうたらスローライフ計画】
彼は、子供のように夢中で理想の家の間取り図や、一日の理想のスケジュールをノートに書き連ねていった。
その時間は、彼にとって何よりも幸福な時間だった。
だが。
その計画を完璧なものとして突き詰めていけばいくほど。
彼の元プロジェクトマネージャーとしてのあの厄介で、心配性で、そして常に最悪の事態を想定する思考回路が、彼の幸福な妄想に冷や水を浴びせかけ始めた。
彼は、ふとペンを止めた。
そして、一つの根本的な、しかし決して無視することのできない「不安」の存在に気づいてしまったのだ。
それは、彼の計画の最も土台となるべき部分に存在する、巨大な構造的欠陥だった。
(……本当に、それで『安全』なのか……?)
安全性。
そうだ。究極のスローライフとは、ただ金があるだけでは決して成立しない。
『絶対的な安全』が保障されていて初めて、人は心からのんびりと、ぐうたらに暮らすことができるのだ。
今の俺の状況は、本当に安全と言えるのだろうか?
彼は、ノートの新しいページに現状の「リスク」を冷静に、そして冷徹に書き出していった。
【現状のリスク分析】
リスク要因①:日本政府との関係性
現状、彼らは俺を「賢者様」としてVIP待遇で扱ってくれている。だが、それは俺が彼らにとって未知で、計り知れない力を持つ有益な取引相手だからだ。その関係は、いつまでも続く保証があるだろうか?
彼らは、国家だ。国家というものは、常に管理し、支配しようとする本能を持つ。
いつか必ず彼らは、俺という金の卵を産むガチョウを完全に管理下に置き、その力の全てを国家のために独占しようと動き出すだろう。その時、俺はどうやって抵抗する? あの狸女、橘紗英の氷のような瞳を思い出すと、決して楽観はできなかった。
リスク要因②:海外の諜報機関、及びその他の脅威
日本政府が、今のところ見事な情報統制で防波堤となってくれている。だが、それもいつまで続くか分からない。アメリカのCIA、中国の国家安全部、ロシアのSVR。彼らが、この情報の価値に気づかないはずがない。彼らは、日本のガードをこじ開け、俺という存在にたどり着くために、ありとあらゆる手段を講じてくるだろう。
そうなれば、俺の平穏な田舎暮らしは、スパイ映画の真っ只中に放り込まれることになる。
リスク要因③:俺自身の生物としての脆弱性
そして、何よりもこれだ。
俺は、結局のところ、ただの生身の人間だ。
病気にもなるし、怪我もする。
癌になるかもしれないし、交通事故に遭うかもしれない。
不慮の事故で、あっけなく死ぬ可能性だって常にある。
不老不死が当たり前の権利として享受されているあのSF世界アークチュリアを知ってしまった後では、この「限りある命」という当たり前の現実が、ひどく、ひどく脆く、そして不安なものに感じられてならなかった。
究極のスローライフとは、金があるだけではダメなのだ。
いつ誰にその平穏を脅かされるか分からないという微かな不安の影が、心のどこかにある限り、人は本当の意味で心からのんびりすることなどできはしないのだ。
この根本的な不安を解消するための、新たな、そして絶対的な「保険」が必要だ。
創は、そう結論付けた。
「さて……」
創は、椅子に深く座り直し、指を組んだ。
「……次、何をするかだな」
彼の思考は、もはや日本の田舎でのぐうたら生活にはなかった。
彼のプロジェクトマネージャーとしての脳が、再びフル回転を始めていた。
次のプロジェクトの目的は、明確だ。
日本政府との関係性をより強固な、決して揺らぐことのないものへと変え、同時に、俺自身の生物としての脆弱性を完全に克服すること。
その二つの難題を同時に解決できるような、そんな都合の良いアイテムは果たして存在するのだろうか。
彼の思考は、魔法学院で読んだ無数の魔導書、交易世界で聞いた吟遊詩人の物語、そしてファンタジーRPGに夢中になった学生時代の記憶の海へと、深く、深く潜っていった。
そして、一つのあまりにも魅力的で、そしてあまりにも分かりやすい答えにたどり着いた。
「…………ポーション」
そうだ。
魔法薬。
ファンタジーの世界には、必ずと言っていいほど登場するあの奇跡の液体。
どんな深い傷も、一瞬で塞ぎ。
どんな deadlyな病も、一夜で治癒する。
欠損した手足さえも再生させるという、伝説の霊薬エリクサー。
これだ。
これこそが、全ての答えだ。
彼の頭脳は、その「ポーション」というアイテムがもたらすであろう計り知れない価値を、猛烈な勢いで分析し始めた。
まず、対日本政府。
これを新たな取引材料として、あの橘紗英の前に提示すればどうなる?
彼らは、狂喜乱舞するだろう。
反重力技術や不老化技術も、確かに素晴らしい。だが、それらは実現までに長い年月と、莫大なコストを必要とする未来への投資だ。
だが、ポーションは違う。
もっと直接的で、圧倒的に分かりやすい「奇跡」だ。
目の前で瀕死の重傷を負った人間が、その液体を一口飲んだだけでピンピンして立ち上がる。
末期の癌患者が、完治する。
これ以上の説得力が、あるだろうか。
このポーションの独占供給権を俺が握っている限り、日本政府は絶対に、絶対に俺に手出しなどできなくなる。それどころか、ありとあらゆる国家の脅威から、俺という存在を神を祀る神殿でも守るかのように、必死で守り続けるだろう。
これは、新たな、そして最強の「アメ」だ。
そして、対自分自身。
これこそが、究極の生命保険だ。
このポーションさえあれば、俺は病気や怪我、そして不慮の事故による死の恐怖から、完全に解放される。
たとえ特殊部隊に狙撃されようと、交通事故でトラックに轢かれようと、問題ない。
ポーションを、ぐいっと一杯呷るだけだ。
それこそが、絶対的な安全。
究極のスローライフを実現するための、最後の、そして最も重要なミッシングピース。
「……これだ……! これっきゃねえ……!」
創は、興奮に打ち震えていた。
日本の田舎でのぐうたら生活という、少しばかり矮小な夢は完全に吹き飛んでいた。
彼の心は、再び壮大なプロジェクトを前にしたプロジェクトマネージャーとしての、あのスリリングな興奮に満たされていた。
彼は、いつものようにノートを取り出すと、震える手で新しいプロジェクト計画を、猛烈な勢いで書き殴り始めた。
【プロジェクト名:究極の生命保険確保計画】
【目的(Goal)】
あらゆる傷病を即座に、かつ完全に治癒する高性能なポーションを入手する。
それをもって日本政府との交渉における絶対的優位性を確立すると同時に、術者(俺)自身の生物学的リスクを完全に排除し、究極のスローライフ実現のための、絶対的な安全基盤を構築する。
【ターゲット世界の要件定義】
次なる転移先の世界は、以下の条件を満たす必要がある。
① 魔法薬学の高度な発展:
ポーション作りが一部の隠された秘術などではなく、学問、あるいは産業として高度に体系化され、発展していること。様々な種類、様々な効能のポーションが、市場に安定して流通している必要がある。できれば、錬金術師ギルドのような専門家たちが集う組織が存在する方が、情報収集の観点から望ましい。
② 金本位制経済の確立:
ラングローブ商会から受け取ったあの大量の金貨を、そのまま基軸通貨として使用できること。両替などの面倒で、足のつきやすいプロセスは極力避けたい。金貨の価値が、社会的に安定している必要がある。
③ 比較的安定した社会情勢:
言うまでもなく、戦争状態や無法地帯では、安全な取引など望むべくもない。国家による法制度や、商業ギルドによる規律が、ある程度機能している安定した文明社会であることが絶対条件。
【実行計画】
本プロジェクトは、以下の四段階のフェーズに分けて実行する。
フェーズ1:探索
上記の要件定義に合致する最適な世界を、【異界渡り】の能力を用いて探索、特定する。
フェーズ2:調達
特定した世界へ転移。次元ポケットに満載した金貨を元手に、その世界で流通しているポーションを種類を問わず、手当たり次第に可能な限り大量に買い集める。効果が不明なもの、怪しげな露店で売られているものも含め、あらゆる可能性を網羅する。
フェーズ3:検証
買い集めた全てのポーションを、日本の安全な拠点(この部屋)へと持ち帰る。
そして、その効果の検証、成分分析、副作用の有無の確認といった最も面倒で専門的な作業の全てを、我らが優秀なビジネスパートナー、日本政府の科学者チーム(特にあの狂信的な天才、長谷川教授)に丸投げする。
「いやー、面白い薬をまた別の世界で見つけてきたんでね。ちょっと解析してみてくれませんかね?」といつもの調子で依頼すれば、彼らは狂喜乱舞して徹夜でその任にあたってくれることだろう。
フェーズ4:交渉
解析結果が出揃い、最も効果が高く、かつ価値のあるポーションが特定できた段階で、満を持してあの狸女、橘紗英との次なる交渉のテーブルに着く。
最強のカードをちらつかせ、こちらの要求を全て完璧に飲ませる。
「…………よし」
創は、ペンを置いた。
「……これで行こう」
計画は、完璧だった。
リスクもリターンも、その全てが明確に計算されている。
彼は、満足げに自分が書き上げた計画書を眺めた。
創は立ち上がると、窓の外に広がる東京の眠らない夜景を見下ろした。
日本の田舎でのスローライフ。その夢は、少しだけ遠のいたかもしれない。
だが、今彼がやろうとしていることは、その夢を絶対に誰にも脅かされることのない、完璧で揺るぎない本物の「理想郷」へと昇華させるための、最後の、そして最も重要な仕事なのだ。
彼の心は、もはや迷いや不安にはなかった。
そこにあるのは、再び未知の世界へと旅立つことへの冒険心。そして、壮大で困難なプロジェクトを自らの手で成功へと導く、プロジェクトマネージャーとしてのあの懐かしい、燃えるような興奮だった。
彼は、ベッドの上に戻ると胡座をかき、静かに目を閉じた。
そして、新たな世界のイメージを、その類稀なる精神力で構築し始める。
(……ポーションの薬草の、そして得体の知れない鉱物の不思議な匂いが立ち込める、活気のある市場……)
(……金貨のチャリンチャリンという音が、あちこちの店先で心地よく響き渡っている……)
(……そして、街のあちこちに工房を構える、変わり者だが腕は確かな錬金術師たちの街……)
彼の終わりなきスローライフへの探求は、またしても新たな、そして極めて実利的な目的を持って、次なる世界への扉を開けようとしていた。




