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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第26話 【ゲーム的世界編】 賢者の乳鉢亭

 実家でのあまりにも穏やかで幸福な数日間は、新田にった はじめの心に、一つの確固たる、しかし厄介な結論を植え付けた。

 究極のスローライフとは、ただ金があるだけでは、ただ時間があるだけでは、決して完成しない。

 その土台には、「絶対的な安全」という、何物にも代えがたい基盤が、必要不可欠なのだと。

 病気、怪我、そして不慮の事故。そんな、人間である限り決して逃れることのできない生物学的なリスクの影に怯えながら、どうして心から、のんびりとぐうたらに暮らすことなどできようか。

 答えは、否だ。

 彼の壮大すぎるスローライフ計画は、最後の、そして最も重要なピースを埋めるべく、新たな章へと突入した。

 究極の生命保険――すなわち、万能魔法薬ポーションの確保。

 創は、東京の自室のベッドの上で、いつものようにプロジェクト計画書のノートを開き、次なる旅の目的地となる世界の「要件定義」を、完璧に練り上げていた。

 魔法薬学アルケミーが高度に発展し、様々なポーションが市場に流通していること。

 そして、交易世界で手に入れたあの山のような金貨が、そのまま通貨として通用すること。

 彼の頭脳は、それらの条件から導き出される世界のイメージを、類稀なる精神力で、一つの鮮明なビジョンへと構築していく。

 石畳の道に、薬草を煎じる匂いと、得体の知れない鉱物を溶かす不思議な香りが立ち込める街。建物の軒先には、フラスコや乳鉢を象った木製の看板が吊り下げられている。道行く人々の中には、分厚い革のエプロンをつけたいかにも職人といった風情の、錬金術師たちの姿が混じっている。そして、街のあちこちで人々が金貨をやり取りし、色とりどりの液体が満たされた小瓶を、真剣な面持ちで品定めしている。

 そんな、活気と少しばかりの胡散臭さに満ちた、錬金術師たちの街のイメージ。


「……よし、行くか」

 創は、覚悟を決めた。

 これは、ただの金儲けではない。自らの命と、未来の平穏を盤石にするための、最も重要なプロジェクトなのだ。

 彼は、ベッドの上で胡座をかくと精神を集中させ、構築した完璧なイメージに向かって、意識の扉を開いた。


「――異界渡り」


 もはや彼の体の一部となった、あの空間そのものを捻じ曲げるかのような力強い感覚。

 一瞬の浮遊感の後、彼の五感を、全く新しい世界の空気が満たした。


 目を開けた時、創は、自分が思い描いた通りの世界の、その入り口に立っていた。

 まず鼻孔を突いたのは、複雑で、しかし決して不快ではない、不思議な香りだった。

 何十種類もの薬草を乾燥させたような、乾いた青臭い匂い。どこかの工房から漏れ出してくる、硫黄や水銀を思わせるツンとした鉱物の匂い。そして、それら全てを包み込むように、街全体に漂う、何かを甘く煮詰めたような微かなカラメルのような香り。

 視界に広がっていたのは、白亜の石で造られた美しい街並みだった。建物は、どれも三階建てか四階建てで、一階部分が店舗になっているものが多い。それぞれの店の入り口には、フラスコや天秤、あるいは蛇が絡みついた杖といった、錬金術を象徴する意匠が施された看板が掲げられている。

 道は、綺麗に磨かれた石畳で舗装され、その上を多種多様な人々が行き交っていた。分厚い革のエプロンをつけたいかにも職人といった風情の男たち、薬草の詰まった大きな籠を背負った森の民のような出で立ちの少女、そして上質なローブを身にまとい、供を連れて歩く裕福そうな顧客と思しき人々。

 そして、何よりも創の心を躍らせたのは、あちこちの店先で聞こえてくる、あの心地よい金属音だった。

 チャリン、チャリン。

 金貨が、当たり前のように日々の取引で使われている。

(……ビンゴだ。ここは、間違いなく当たりだ)

 創は、内心で快哉を叫んだ。

 彼の元プロジェクトマネージャーとしての完璧な要件定義と、それを寸分違わず具現化する【異界渡り】の能力は、またしても彼を理想的な環境へと導いてくれたのだ。


 彼は、街のメインストリートと思しき大通りを、周囲の様子を興味深く観察しながら、ゆっくりと歩き始めた。

 まずやるべきことは、情報収集だ。

 この街で、最も品揃えが良く、そして最も信頼のおけるポーション販売店はどこにあるのか。

 彼は、手当たり次第に声をかけるのではなく、まずはターゲットを慎重に選定することにした。

 いかにも忙しそうな職人や、明らかに裕福で近寄りがたい客は避ける。

 狙うべきは、少しだけ暇そうで、人の良さそうで、そして何よりも金に困っていそうな地元の人間だ。

 彼の目に、一人の青年が留まった。

 年は、二十代前半だろうか。使い古された革のベストを着て、大通りの脇道へと続く路地の入り口で、壁に寄りかかりながらぼんやりと空を眺めていた。その手には何も入っていない麻袋が握られており、おそらくは日雇いの荷運びか何かの仕事を探しているが、今日はあぶれてしまった、といった風情だった。その顔つきには生活への疲労の色が滲んでいたが、決して人を騙すような悪人の目つきではなかった。

(……よし、あの青年で行こう)

 創は意を決すると、その青年へと歩み寄った。そして、できるだけ人好きのする笑みを浮かべて声をかけた。

「やあ、ちょっといいかな、兄さん」


 青年は、突然のことに少し驚いたように、創の姿を見上げた。そして、創のこの街では明らかに浮いている奇妙な服装を、いぶかしげな目で見つめた。

「……なんだい、あんた。旅の人かい? 俺に、何か用かい」

 その声には、あからさまな警戒心が滲んでいた。

「ああ、その通りだよ」

 創は、あくまで低姿勢に続けた。

「この街は、初めてでね。少し道を尋ねたいんだが、迷惑だったかな?」

「……まあ、見ての通り、暇は持て余してるからな。別に、構わねえけどよ」

 青年は、ぶっきらぼうに答えた。

「ありがとう。実は、この街で一番腕のいい錬金術師がやっているポーションの店を探しているんだ。どんな怪我や病気にも効く、最高の品を扱っているような店をね。心当たりはないかな?」

 その質問に、青年はふんと鼻を鳴らした。

「最高の店、ねえ。そりゃああんた、この街の人間なら誰でも知ってる『賢者の乳鉢亭』に決まってんだろ。街の中央広場にある、一番でかくて一番綺麗な店さ。あそこの女主人、マスター・エリザってのは、まだ若いが、王宮お抱えの錬金術師さえも舌を巻くほどの天才だからな。もっとも、あそこのポーションは、俺たちみたいな貧乏人には、一生かかっても指一本触れられねえような代物だがな」

 その言葉には、羨望と、そしてほんの少しの諦観が混じっていた。

 創は、内心でよしと頷いた。これ以上ない、有益な情報だ。

「そうか、『賢者の乳鉢亭』か。助かったよ。本当に、ありがとう」

 創は、深々と頭を下げた。そして、ここで計画の第二段階へと移行する。

 彼は次元ポケットに手を突っ込むと、一枚の鈍い輝きを放つコインを取り出した。

 交易世界で手に入れた、あのラングローブ商会の金貨だ。

「これは、ほんの心ばかりの情報料だ。受け取ってくれ」


 創がその金貨を青年の手のひらに乗せた、その瞬間。

 青年の時間が、止まった。

 彼は、自分の手のひらに乗せられた、ずしりと重い黄金色の輝きを、信じられないものを見る目で、ただただ見つめている。

 その口が、半開きのままかすかに震えていた。

「……お、おい……あんた……。こ、これ……本物の金貨じゃねえか……!」

 その声は、完全に裏返っていた。

「ああ、もちろん本物だとも」

「……冗談だろ……? 道を教えただけで、金貨一枚だぁ? あんた、正気か!? この金貨が一枚ありゃあ、俺たち一家が何もしなくても一ヶ月は腹一杯飯が食えるんだぞ!」

 青年の反応は、創が期待していた通りのものだった。

(なるほどな。この世界の金貨一枚の価値は、だいたい一般市民の一ヶ月分の生活費、といったところか。ラングローブの爺さんから貰ったあの木箱、一体いくら分になるんだ……? いや、考えるのはやめておこう)

 創は、自分の持つ資産のあまりの巨大さに、改めて眩暈を覚えそうになった。


「ははは……」

 青年は、乾いた笑い声を漏らした。

「へへへ……。い、いいのかい、旦那……。こんな、こんな大金を、本当にもらっちまって……」

 彼の顔からは警戒心は完全に消え失せ、代わりに、目の前の幸運が信じられないといった純粋な混乱と、そして抑えきれない喜びが浮かび上がっていた。

「もちろんさ。君のおかげで、貴重な時間が節約できたんだからな。当然の報酬だよ」

 創のそのあまりにも鷹揚な態度に、青年は、目の前のこの男がただの旅人ではなく、自分の想像を遥かに超えたとんでもない大物であるということを、ようやく理解した。

 彼の態度は、一瞬にして、ぶっきらぼうなものから、これ以上ないほどに丁寧なものへと変わった。

「あ、ありがとうございます、旦那! なんて、なんて気前のいいお方なんだ……!」

 彼は、その金貨をまるで神からの授かり物のように、大切に懐へとしまった。

 そして、何かを思い出したように顔を上げた。

「そうだ、旦那! こんな大金をいただいたお礼と言っちゃあなんですがね! もし、この街で美味い飯と美味い酒が飲みたくなったら、俺に任せてくださいよ! この辺りで、安くて一番美味い店を知ってるんです! 最高の酒場を紹介しますぜ!」


 そのあまりにも分かりやすい変わり身の早さに、創は苦笑した。

 だが、その提案は彼にとっても渡りに船だった。

「ほう? それは、ありがたいな。じゃあ、ぜひ教えてもらおうか」

「へい、お任せを! この先の三本目の角を右に曲がったところに『樽鳴亭』って酒場があるんですがね、そこのエールと猪肉の黒ビール煮込みは、まさに絶品でして!」

 青年は、先ほどまでの気怠そうな態度はどこへやら、目を輝かせ、生き生きとその酒場の魅力を語り始めた。

 創は、その話ににこやかに相槌を打ちながら、情報を引き出す。

 こうして彼は、ポーション販売店の場所だけでなく、この街の地理や庶民の生活レベルに関する貴重な生きた情報を、いとも容易く手に入れることができたのだった。


「じゃあ、兄さん。本当に助かったよ」

 創は、青年に別れを告げると、中央広場へと向かって歩き出した。

「あ、お待ちください、旦那!」

 青年が、背後から呼び止める。

 創が振り返ると、青年は、少しだけ照れくさそうに、そして決意を秘めたような目でこちらを見ていた。

「旦那! もし、もしこの街で何か力仕事が必要になったり、あるいは道案内やちょっとした使い走りが必要になったりした時は、いつでもこの俺を呼んでください! 俺は、レオって言います! この辺りで、『荷運びのレオ』って言やあ、誰でも知ってますから! この御恩は、必ず、必ずお返ししますんで!」

 そのあまりにもまっすぐな言葉に、創は少しだけ驚いた。

 そして、ふっと笑みを漏らした。

「はは、そうかい。分かったよ、レオ。もし何か困ったことがあったら、君を頼ることにするよ」

 創はそう言うと、最後の、そして最高の「投資」として、もう一枚金貨を次元ポケットから取り出した。

 そして、それをあっけにとられるレオの胸のポケットに、そっとねじ込んだ。

「これは、前金だ。その時まで、達者でな」

 レオが何かを言う前に、創はくるりと背を向け、今度こそ人混みの中へと消えていった。

 後に残されたレオは、胸のポケットに入れられた二枚目の金貨の、信じられないほどの重みと温かさを感じながら、ただ呆然と、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 創は、レオと別れると、彼に教えられた通り、街の中央広場へと向かった。

 広場は、これまでの通りとは比較にならないほど洗練され、そして荘厳な雰囲気に満ちていた。中心には、美しい女神像が立つ巨大な噴水。その周りを、白い大理石で作られた壮麗な建物が取り囲んでいる。錬金術師ギルドの本部、市庁舎、そしておそらくは貴族たちの屋敷。

 その中でも、ひときわ大きく、そして美しい建物が、創の目に飛び込んできた。

 三階建ての、優美な曲線を描く白亜の建物。その壁にはステンドグラスが嵌め込まれ、太陽の光を受けて七色の輝きを放っている。入り口には、磨き上げられた真鍮の扉。そして、その上には、乳鉢の中で賢者の石が輝く様をデザインした、芸術品のような看板が掲げられていた。

『賢者の乳鉢亭』。

 レオが言っていた、この街で最高のポーション販売店だ。

 その佇まいは、もはやただの店ではなかった。それは、神殿か、あるいは高級な宝飾店のような、近寄りがたいほどの気品と格調高さを漂わせていた。

 創は、一度だけ深呼吸をすると、その真鍮の扉をゆっくりと押し開けた。


 カラン、という澄んだベルの音が響く。

 店内に一歩足を踏み入れた瞬間、創は、自分の想像を遥かに超えた光景に息を飲んだ。

 そこは、薬草の匂いや鉱物の匂いが立ち込める、雑然とした工房のような場所ではなかった。

 店の中は、静かで清浄な空気に満ちていた。

 床には柔らかな深紅の絨毯が敷き詰められ、壁際の棚は、黒く艶やかな光沢を放つ黒檀で作られている。そして、その棚の一つ一つの区画に、まるで最高級の宝石でも飾るかのように、様々な色と形の美しいガラス瓶が、柔らかな光を受けて静かに鎮座していた。

 赤い液体、青い液体、黄金色に輝く液体。中には、星屑のようにキラキラと輝く粒子が舞っているものもある。

 一つ一つの瓶には繊細な銀の細工が施され、そのラベルには、流麗な筆記体で何かの名前が記されていた。

 ここは、もはやポーションの店ではない。

 奇跡を売る、美術館だ。

 創がそのあまりの美しさにしばし見惚れていると、店の奥から、凛とした、しかしどこか柔らかな女性の声が聞こえてきた。

「――ようこそ、『賢者の乳鉢亭』へ。お客様、何かお探しでございますか?」


 声のした方を見ると、そこには一人の女性が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

 年は、二十代後半だろうか。長い栗色の髪を後ろで一つに束ね、錬金術師が着るものとしてはあまりにも清潔で仕立ての良い、純白のローブを身にまとっている。その顔立ちは、知性と、そして自らの仕事に対する揺るぎない自信に満ち溢れていた。

 彼女こそが、この店の主、マスター・エリザに違いなかった。

「やあ、どうも」

 創は、少しだけ気圧されながらも、努めて平静を装った。

「私は、旅の者なんだがね。少し特殊な事情があって、効果の高いポーションを探しているんだ」

「効果の高い、でございますか」

 エリザと名乗る女性は、その美しい眉をわずかに上げた。

「当店のポーションは、全て最高品質の材料と最新の錬金術理論に基づいて精製された、一級品であると自負しております。お客様は、具体的にどのような効能のポーションをお望みでございましょうか?」

 その口調は、どこまでも丁寧でプロフェッショナルだった。


「いや、それがね」

 創は、少しだけ困ったように頭を掻いた。

「正直に言うと、私自身はポーションの目利きというものが全くできなくてね。だから、君に一つ一つその効能を説明してもらいたいんだ。そして、私が『これは』と思ったものを、ありったけ買い占めたいと思っている」

 そのあまりにも常識外れな申し出に。

 エリザの、常に穏やかだった表情が、初めてほんの少しだけ揺らいだ。

 彼女は、創のこの店には全く不釣り合いな奇妙な服装と、そしてその言葉の裏にある計り知れない財力を、その鋭い観察眼で一瞬にして見抜こうとしていた。

「……ありったけ、でございますか」

「ああ、そうだ。金なら、ある」

 創はそう言うと、わざとらしく、次元ポケットからずしりと重い金貨の袋を一つ取り出し、カウンターの上にドンと置いてみせた。

 革袋の口から、眩い黄金色の輝きが溢れ出す。

 そのあまりにも直接的で、そして雄弁な「説得」を前にして。

 エリザの目に、商人の、そしてそれ以上に一流の職人としての、強い好奇心の光が宿った。

「……承知いたしました。お客様が本気であられることは、よく分かりましたわ。では、このマスター・エリザが、責任を持って当店の至宝の数々をご紹介させていただきます」

 彼女はそう言うと、カウンターの内側から出てくると、創を店の奥にある特別な陳列棚へと案内し始めた。


「では、まずはこちらから」

 エリザが最初に指し示したのは、鮮やかな深紅の液体が満たされた、流麗な曲線の小瓶だった。

「これは、『クリムゾン・ティア』。最も基本的な、しかし最も需要の高い外傷治癒用のポーションです。原料となるのは、夜明けの最初の朝露を浴びた〝太陽草〟の葉。これを三日三晩じっくりと煮詰め、最後にサラマンダーの鱗の粉末を混ぜ合わせることで完成します。この一滴を傷口に垂らせば、ナイフで切った程度の傷であれば、ものの数秒で完全に塞がります。骨折でさえ、これを数本飲めば、一晩で繋がるでしょう」

 その説明は簡潔で、しかしその効果の絶大さを十二分に伝えてくるものだった。


「次に、こちらを」

 彼女は、隣の棚へと移った。そこには、穏やかな乳白色の液体が入った、質素な陶器の瓶が置かれている。

「これは、『万病の霊薬パンアシア』。その名の通り、この世のほぼ全ての病を癒すと言われている万能薬です。ただし、呪いや魂に直接かけられた魔法的な病には、効果はございませんが。原料となるのは、千年に一度しか花を咲かせぬという伝説の〝月光花〟の花弁と、聖なる泉から汲み上げた清浄な水。精製には一月以上の時間を要し、その工程は秘中の秘とされております。風邪や熱病はもちろんのこと、この国でかつて不治の病と恐れられていた『黒死病』でさえ、これを飲めば三日で完治いたします」


「……ほう」

 創は、思わず声を漏らした。

 これだ。これこそが、彼が求めていたものの一つだ。


 だが、エリザの紹介はまだ終わらない。

 彼女は、店の最も奥、ベルベットのカーテンで仕切られた特別な一角へと創を導いた。

 そこには、たった一つだけ、ガラスケースの中に厳重に保管された小瓶が、まるで王冠のように鎮座していた。

 その小瓶の中には、虹色に、まるでオーロラのようにゆっくりと揺らめく、神秘的な液体が満たされていた。

「そして、これこそが当店の、いえ、この大陸の至宝」

 エリザの声には、深い敬意と誇りが滲んでいた。

「……『若返りの秘薬エリクサー・オブ・ユース』にございます」

 その名前に、創の心臓がどくんと大きく跳ねた。

「この秘薬は、かの伝説の錬金術師パラケルススが、その生涯の最後に残したとされる究極のレシピに基づいて、私が再現したものです。原料は、もはやお話しすることさえできません。ただ一つだけ言えるのは、この一瓶を飲み干した者は、その肉体が、きっかりと十年前の最も生命力に満ち溢れていた頃の状態へと回帰する、ということでございます」

「……十年、若返る……?」

「はい。ただし、記憶や経験はそのままに。そして、使用できるのは生涯にただの一度きり。二度目は、ありません。あまりにも神の領域に近づきすぎた禁断の秘薬……。それが、このポーションでございます」


 エリザは、そこで一旦言葉を切った。

 そして、創の目をまっすぐに見つめた。

「もちろん、他にも、一時的に筋力を増強するポーション、知力を高めるポーション、そしてこれは少し特殊ですが、例えば生まれつき目が見えない方がこれを飲めば、一日だけ健常者と同じように世界を見ることができるようになるという、『光の雫』というポーションもございます」

 彼女は、次々と奇跡のようなポーションを紹介していく。

 創は、その全ての説明を黙って聞いていた。

 そして、エリザが全てを紹介し終えたのを確認すると、静かに、しかしきっぱりと告げた。


「……分かった。ありがとう、素晴らしい説明だった」

 彼は、にこりと微笑んだ。

「では、今、君が説明してくれたそのポーション全て。ここに在庫がある限り、全部いただこうか」


 そのあまりにも現実離れした言葉に。

 さすがのマスター・エリザも、一瞬言葉を失い、その美しい瞳を驚きに見開いていた。

「……ぜ、全部、でございますか……? お客様、正気で……いえ、失礼いたしました。ですが、これら全てとなりますと、そのお代は、もはや小さな城が一つ買えるほどの金額になりますが……」

「構わんよ」

 創は、こともなげに言った。

「それで、金貨でどれだけあれば足りるかな?」


 エリザは、はっと我に返ると、すぐにプロの顔に戻った。

 彼女は、傍にあった算盤のような道具を、猛烈な速さで弾き始める。

「……そうですね。これだけの量、そして何よりもあの『若返りの秘薬』が含まれますので、ポーションそのものが極めて貴重品でございます。ですが……お客様がお持ちの金貨、先ほど拝見いたしましたが、あれは我が国で流通しているものよりも遥かに純度が高い、極めて良質なもの。その価値を考慮いたしますと……」

 彼女は一度計算の手を止めると、少しだけ申し訳なさそうな顔で、一つの金額を提示した。

「……この木箱に、三箱分ほど頂戴できればと思いますが……いかがでしょうか」

 創は、次元ポケットから、ラングローブに貰ったあの巨大な木箱の一つを、ドン、とカウンターの上に出現させた。

 そのあまりにも常識外れな光景に、エリザは再び息を飲む。

「……これで、足りるかな?」

「……は、はい! 充分にございます! お釣りが、出ます!」


「じゃあ、そういうことで」

 創は、鷹揚に頷いた。

「ポーションは、全部もらう。釣りは、いらない。その代わり、一つ頼みがある」

「な、なんなりと、お申し付けください!」

「今後も、私は定期的に君の店にポーションを買い付けに来る。大丈夫かな?」

 その言葉に、エリザは少しだけ困ったような顔をした。

「……そうですね。ありがたいお話ではございますが、特に『万病の霊薬』や『若返りの秘薬』は、精製に数ヶ月、あるいは数年単位の時間がかかるものもございます。常に在庫があるとは、お約束できかねますが……」

「そうか」

「……まあ、もしどうしてもとおっしゃるのでしたら、特別料金をお支払いいただくことで、お客様のためだけに優先的に材料を確保し、発注をかけるということも可能ではございますが……」

 そのいかにも商人らしい提案に、創はにやりと笑った。

 それこそが、彼が待っていた言葉だった。


 彼は、カウンターの上に、さらに金貨の詰まった木箱を二つ、三つと次々に出現させた。

 ドン、ドン、ドン、と重々しい音が、静かな店内に響き渡る。

 目の前に、突如として出現した黄金の小山。

 そのあまりにも圧倒的な光景を前にして、エリザは完全に思考を停止させていた。

「……おい、アンタ……」

 創は、もはや敬語を使うのも面倒くさくなったかのように、言った。

「アンタに、この金貨の木箱、丸ごと預ける」

「……は……?」

「これからの俺の注文の支払いは、全部そこからやってくれ。材料費も、アンタの特別料金とやらも、全部含めてだ。もしこの金が足りなくなりそうだったら、その時にまた俺に教えてくれればいい」


 そのあまりにも規格外で、あまりにも豪快な提案に。

 エリザは、しばらくただぱくぱくと口を動かすことしかできなかった。

 やがて、彼女の常に冷静沈着だった顔が、くしゃりと崩れた。

 そして、プロの仮面が剥がれ落ちた、一人の錬金術師としての純粋な、子供のような笑い声を上げた。

「は……はは……。あははははは! すごい……! すごいですね、貴方という人は……!」

 彼女は、涙を浮かべながら笑い転げている。

「分かりました……! 分かりましたわ、旦那様! これだけの、これだけの誠意を見せられて、断る錬金術師がこの世におりますものですか!」

 彼女は立ち上がると、深々と、そして美しく一礼した。

「このマスター・エリザ、いえ、私個人の生涯をかけて、貴方様のためだけの最高のポーションを作り続けることを、ここに、お誓いいたします!」

 その顔には、もはや商人の打算はなかった。

 そこにあるのは、最高のパトロンを得た一人の天才職人の、純粋な創造意欲と喜びだけだった。


「はは、頼んだぜ、マスター」

 創は、満足げに笑った。

 こうして彼は、究極の生命保険と、そして最高のポーションを未来永劫供給してくれる強力なパートナーを、同時に手に入れたのだ。

 彼のスローライフ計画は、また一つ、その完成へと大きく近づいた。

 彼は、エリザが心を込めて梱包してくれた奇跡のポーションの数々を次元ポケットにしまい込むと、上機嫌な足取りで、夕暮れの錬金術師の街へと踏み出していくのだった。


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