第23話 【グランベル王国編】 胃袋による征服
王都で頒布された『王の慈悲のクッキー』がもたらした熱狂は、もはや単なる食の流行という域を遥かに超え、一つの社会現象、いや、神話の始まりのような様相を呈していた。
あの一枚の、黄金色に輝く焼き菓子は、それを口にした者にとっては忘れがたい至福の記憶となり、口にできなかった者にとっては焦がれるほどの渇望の対象となった。王都の酒場や広場では、旅の商人たちが、故郷の家族や恋人への土産話として、そのクッキーの味を、まるで見てきたかのように、しかし百倍にも誇張して語って聞かせた。
「いいかい、あの甘さときたら、そこいらの蜂蜜なんてもんじゃない。まるで、天界に咲く花の蜜を、天使様が直接練り上げて焼いたような、そんな味なんだとよ」
「バターの香りがまた、とんでもねえらしい。そのクッキーが一枚焼かれるだけで、通り一つが三日三晩、幸福な香りに包まれたって話だ」
そんな、おとぎ話のような噂話は、整備された街道を伝って、燎原の火のごとき速さでグランベル王国全土へと広がっていった。北の雪深い山脈に閉ざされた辺境の砦から、南の温暖な海に面した活気ある港町まで、その噂は人々の口の端に上り、彼らの想像力を掻き立て、そして強烈な羨望の念を植え付けた。
特に、その噂に敏感に反応したのは、各地に領地を持つ貴族たちだった。
彼らは、王都に置いた屋敷の留守居役や、懇意にしている商人からの定期報告の手紙を通じて、その信じがたい出来事の詳細を知った。ラングローブ商会という、ただの街の商人が、国王陛下に直接謁見し、未知の調味料を献上したこと。その味に、王と姫君たちが完全に心を奪われたこと。そして、その奇跡の味のほんの鱗片が、「クッキー」という形で民衆にまで施されたこと。
一つ一つの情報が、彼らの心を激しく揺さぶった。
嫉妬、焦燥、そして何よりも、乗り遅れることへの恐怖。
そんな、王国全土の貴族たちの心が、期待と不安でさざめき立っていた、まさにその時。
国王アルトリウス三世の名において、一通の布告が、王の紋章を刻んだ封蝋と共に、王国全土の全ての貴族家へと発せられた。
『来る満月の夜、王宮にて大晩餐会を催す。グランベル王国に連なる全ての貴族は、その身分、領地の大小を問わず、一族の代表者を王都へ遣わすべし』
平時において、このような王国全土の貴族を対象とした強制力を持つ招集令は、ただ一つのことしか意味しなかった。
戦争だ。
あるいは、それに準ずる国家存亡の危機。
父王の代には、この布告が、幾度となく血なまぐさい内乱の始まりを告げたことを、年嵩の貴族たちは記憶していた。本来であれば、この招待状を受け取った貴族たちは、自領の城壁を固め、武具を磨き、最悪の事態を想定して、恐怖と緊張に身を震わせるはずだった。
だが、今回は、全く違った。
招待状を受け取った貴族たちの屋敷で上がったのは、戦慄の叫びではなく、歓喜の雄叫びだった。
「来たかっ!」
北の国境を守る、武骨で鳴らす辺境伯が、熊のような巨体を震わせて快哉を叫んだ。
「南の軟弱な連中だけが良い思いをしおってと、腹の虫が収まらぬところであったわ! 陛下は、我ら北の守護者の忠義を、お忘れではなかったのだ!」
南の港町で、異国との貿易によって莫大な富を築いた、洗練された子爵家の当主は、優雅にワイングラスを傾けながら、ほくそ笑んだ。
「ふむ。どうやら、政治の風向きが変わりそうだ。王は、我々地方の有力者に、新たな『アメ』を配るおつもりらしい。この機を逃す手はないな」
そして、彼らの妻や、特に令嬢たちの喜びようは、尋常ではなかった。
「まあ、お父様! 本当ですの!? わたくしたちも、王都へ? あの、雲の上のお城のような、甘いお菓子が、本当に食べられるのですわね!?」
彼女たちの頭の中は、もはや政争や権力争いなど、どうでもよかった。ただひたすらに、あの噂に聞く「至福の甘さ」への期待だけで、胸がいっぱいになっていた。
こうして、グランベル王国の歴史上、最も奇妙で、最も幸福な期待に満ちた、貴族たちの大移動が始まった。王国中の街道は、それぞれの家紋を誇らしげに掲げた、豪華絢爛な馬車の行列で埋め尽くされた。彼らは、戦に向かう兵士のような悲壮な覚悟ではなく、一生に一度の祝祭へと向かう巡礼者のような、浮き足立った高揚感をその身にまとっていた。
晩餐会の当日、王宮の『黄金の間』は、人の熱気と、宝石の輝きと、そして渦巻く欲望と期待で、爆発寸前の様相を呈していた。
王国全土から集った、数百名の貴族たち。その服装は、それぞれの領地の特色を反映し、多種多様だった。北の貴族は、熊や狼の毛皮をあしらった重厚な礼服を、南の貴族は、異国情緒あふれる色鮮やかな絹の衣装を。誰もが、自らの家門の威光を最大限に示そうと、富の限りを尽くして着飾っていた。
彼らの会話は、穏やかで、礼儀正しい。だが、その裏では、互いの腹を探り合う、激しい情報戦が繰り広げられていた。
「ほう、辺境伯殿。その毛皮、見事なものですな。今年の冬は、ことさら厳しかったと伺っておりますが」
「ふん、宮中伯殿こそ、その指輪、また新しいものではござらんか。王都の税収は、相変わらず潤沢なようで、羨ましい限りですな」
そんな、棘を含んだ会話が、あちこちで交わされる。
だが、彼らの視線が、ある一点に集中した時、その全ての駆け引きは、一瞬にして意味を失った。
晩餐会が始まる前、王の特別な計らいとして、広間の一角に設けられた展示台の幕が、静かに取り払われた。
そこに現れたのは、二つの、あまりにも異質な『宝』だった。
一つは、水晶の台座の上に鎮座する、人の頭ほどもある、完璧なダイヤモンド。
『グランベルの暁星』。
シャンデリアの光をその身に受け、それは、まるで内側から恒星が輝いているかのように、神々しいまでの虹色の光を放っていた。宝石には目のない貴婦人や令嬢たちは、そのありえないほどの美しさに、うっとりとしたため息を漏らし、その場から動けなくなっていた。
「まあ……なんて、輝き……」
「あれこそ、真の王家にふさわしい宝玉ですわ……」
そして、もう一つ。
その眩い輝きを放つダイヤモンドの隣に、まるでその光を全て吸い込んでしまうかのように、静かに置かれた、一つの黒い茶碗。
『夜天』。
多くの貴族は、その価値を理解できず、なぜこんな地味な器が国宝の隣にあるのかと、首を傾げた。
だが、一部の、高い教養と審美眼を持つ年嵩の貴族たちは、その器が放つ、異様なまでの存在感に気づき、戦慄していた。
「……なんだ、あれは……」
歴史学に精通した老侯爵が、震える声で呟いた。
「あの形、あの静けさ……。我が国の、いや、この大陸の、いかなる時代の、いかなる文明が生み出したものでもない……。まるで、夜の空そのものを、掬い取って固めたかのようだ。あれを見ていると、魂が、吸い込まれそうになる……」
彼らは、本能的に理解した。
王が手に入れた力は、ただ富や美食といった、分かりやすいものではない。もっと根源的で、自分たちの理解を遥かに超えた、異質な文明の力なのだと。
この、静と動、光と闇を象徴するかのような二つの至宝の展示は、これから始まる饗宴が、ただの食事会ではないことを、貴族たちに雄弁に物語っていた。
やがて、ファンファーレと共に、国王アルトリウス三世が入場する。
王は、集まった全ての臣下の顔を、一人一人確かめるように見渡すと、満足げに頷き、晩餐会の始まりを告げた。
そして、最初の料理が、運ばれてきた。
その瞬間から、黄金の間は、驚嘆と、感嘆と、そして至福のため息だけで支配される空間へと変貌した。
料理は、まさに味覚の革命だった。
純粋な塩味が、とれたての野菜の甘みを、天上のものへと昇華させる。
刺激的な胡椒が、野性味あふれる猪の丸焼きを、洗練された王者の肉料理へと変貌させる。
複雑なスパイスの魔法が、何の変哲もない魚のスープを、飲んだ者の魂を慰める、奇跡の霊薬へと変える。
「これを食べたら王に忠誠を誓わない存在がいるのだろうか?」という問いは、もはや問いですらなかった。それは、この場にいる全ての人間が、その舌で、その胃袋で、その魂で、痛感している、絶対的な真理だった。
北の武骨な辺境伯、ダグラム・フォン・シュタインメッツは、中央の軟弱な貴族たちを心の底から軽蔑し、王家に対しても、絶対的な忠誠心というよりは、国境を守る者としての義務感と、利害の一致で仕えている、という意識の強い男だった。彼は、この晩餐会も、王都の連中の、華美で中身のないお遊びだろうと、冷めた目で見ていた。
だが、胡椒と数種類のハーブで完璧に焼き上げられた猪の丸焼きが、彼の前に置かれた瞬間、彼の世界は変わった。
故郷の雪山で、自らが仕留めた猪の、力強い味わい。それを、これほどまでに気高く、そして奥深い味わいへと昇華させる料理が、この世に存在するとは。
彼は、貴族としての体面も忘れ、骨についた肉を、手で掴んでしゃぶりついた。
そして、その一口を、エールで流し込んだ瞬間。
彼の、厳つい、戦傷の残る顔に、一筋の涙が伝った。
(……美味い……)
心の底から、声が漏れた。
(……こんな、こんな美味いものが食える国ならば……。この味を、守るためならば……! このダグラムの、骨の最後の一片まで、この王に捧げても、惜しくはない……!)
それは、理屈ではなかった。
彼の、武人としての本能が、魂が、この味を生み出す王への、絶対的な忠誠を、その場で誓っていた。
宮廷で、その老獪さと猜疑心の深さで知られる宮中伯、オズワルド・フォン・リヒターは、全く別の意味で衝撃を受けていた。
彼は、この晩餐会も、王が貴族たちを掌握するための、巧妙な政治的罠だと見抜いていた。彼は、この料理の一口一口に、どんな毒が、どんな甘い罠が仕掛けられているのかを、その計算高い頭脳で分析しながら、慎重にフォークを口に運んだ。
だが、舌の上に広がる、あまりにも複雑で、あまりにも完璧に調和のとれた味わいは、彼の、鉄壁の理性を、いとも容易く麻痺させた。
(……分からん……)
彼は、目を閉じた。
(……この味の、構造が、全く理解できん。塩味、甘味、酸味、辛味、そして香り……。無数の要素が、まるで完璧な軍隊のように、一糸乱れぬ連携で、この舌という戦場を、完全に制圧してくる……。これは、罠だ。だが、なんと幸福な罠なのだろう……)
彼は、いつしか分析することも忘れ、ただ純粋な、子供のような喜びで、その味に身を委ねていた。
そして、ふと、思った。
(……もしかしたら、わしは……この、たった一皿の料理を食べるためだけに、今日まで、この汚れた世を、生き抜いてきたのかもしれん……)
「これを食べるために生まれてきたと言っても過言ではない」という言葉は、まさに、彼の心の叫びそのものだった。
派閥も、領地の違いも、過去の確執も、この絶対的な「美味さ」の前では、全てが無意味だった。
黄金の間にいる全ての貴族が、その夜、生まれて初めて、食という行為を通じて、一つの、揺るぎない共同体となっていた。
そして、その饗宴が、甘美な狂乱の頂点に達した時。
晩餐会の、最後の、そして真の主役が、登場する。
楽団が、それまでの荘厳な曲から一転、夢見るような、甘く優しいワルツを奏で始める。
広間の巨大な扉が開かれ、銀のワゴンに乗せられた、巨大なデザートの軍勢が、ゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を放ちながら、姿を現した。
それは、もはや単なるデザートではなかった。
お菓子の芸術品による、壮麗なパレードだった。
前回、姫君たちを虜にした、純白のクリームと果物で飾られた巨大なケーキ。
色とりどりの砂糖菓子が、ステンドグラスのように輝くタルトの数々。
繊細な飴細工で作られた、白鳥やペガサスの彫像。
そして、チョコレートと呼ばれる、誰も見たことのない、甘く、そして僅かに苦い、魅惑的な香りを放つ、漆黒の焼き菓子。
その、あまりにも幻想的で、甘美な光景に。
それまで、かろうじて貴婦人としての体面を保っていた夫人たち、そして何よりも、この日を夢見て、遥々田舎からやってきた令嬢たちから、一斉に、うっとりとした、悲鳴に近いようなため息が漏れた。
「まあ……!」
「なんて、なんて美しいお菓子たち……!」
「見てくださいまし、お母様! あの、黒くて艶やかなお菓子……! なんという、芳しい香りでしょう……!」
令嬢たちは、もはや自分たちの席に座っていることさえできず、そのデザートワゴンに、まるで蜜に吸い寄せられる蝶のように、ふらふらと引き寄せられていく。
彼女たちの瞳は、爛々と輝き、その頬は、期待と興奮で、美しく上気していた。
やがて、それらのデザートは、給仕たちの手によって、一人一人の皿へと、美しく盛り付けられていく。
令嬢たちは、その一口を、口に運んだ。
その瞬間、彼女たちの世界は、甘美な光に満たされた。
「……これがあの……お噂に聞いていた『甘い』という感覚……」
一人の、内気な子爵令嬢が、恍惚とした表情で呟いた。
蜂蜜でもない。熟した果物でもない。
もっと、ずっと純粋で、強烈で、そして脳髄を直接、幸福感で満たすような、絶対的な甘さ。
それは、もはや味覚ではなかった。
それは、感情そのものだった。
「……まさに、至福の一時、ですわ……」
彼女たちは、完全に、その甘さの虜囚となっていた。
フォークが、止まらない。
一口、また一口と、その奇跡の味を、自分の体の中に、魂の中に、刻み込むように、夢中で食べ続ける。
普段は、ライバルとして火花を散らしている令嬢たちが、互いに顔を見合わせ、その感動を分かち合うように、うっとりと微笑み合っている。
「エレオノーラ様……この、黒いお菓子……チョコレートと仰るのかしら。少しだけ苦くて、でも、それがこの上なく甘さを引き立てて……まるで、禁断の恋の味ですわね……」
「ええ、ブリュンヒルデ様……。そして、この白いクリームの、雲のような軽やかさ……。これを口にしていると、まるで、天国で天使様と踊っているような気分になりますわ……」
彼女たちの間で、この甘さを知っているかどうかが、新たな、そして絶対的なカーストを形成しつつあることを、まだ誰も気づいていなかった。
いや、彼女たち自身が、その新しい世界の秩序を、今まさに、その舌の上で、創造していたのだ。
晩餐会が、その熱狂と、甘美な幸福感の内に、幕を閉じようとしていた時。
アルトリウス王が、満足げな表情で、玉座から立ち上がった。
広間は、水を打ったように静まり返る。
「皆、今宵の饗宴、満足してくれたか」
その問いに、貴族たちは、まるで一つの生命体であるかのように、万雷の拍手と、熱狂的な歓声をもって応えた。
「陛下、万歳!」
「このような、このような奇跡を、我らに与えてくださるとは!」
王は、その熱狂を手で制すると、静かに、しかし広間の隅々にまで響き渡る声で、告げた。
「この奇跡の味は、忠実なる臣下への、朕からの褒美である。そして、この国に尽くす全ての者への、希望の光である」
王は、ゲオルグ・ラングローブを手招きした。
「今後、これらの調味料は、ラングローブ商会を通じて、皆の、王家への貢献度に応じ、公平に、分配を行うものとする。励め。そして、この国の更なる繁栄のために、その力を尽くすがよい。さすれば、皆の食卓は、常に、この至福の味で満たされることになろう」
それは、あまりにも甘美な、そしてあまりにも抗いがたい、約束だった。
貴族たちは、もはや、その言葉に逆らうことなど、考えられもしなかった。
彼らは、一斉に、その場にひざまずいた。
その動きは、もはや儀礼的なものではない。
心からの、腹の底からの、絶対的な忠誠の誓いだった。
この一夜にして、アルトリウス王は、グランベル王国全土の貴族の、胃袋と、心と、そして魂を、完全に掌握した。
それは、歴史上、いかなる偉大な王も成し遂げ得なかった、血を流すことのない、完璧なまでの征服だった。
甘美なる味覚による、絶対的な支配。
その新たな時代の幕開けを、黄金の間のシャンデリアだけが、静かに見下ろしていた。
そして、その壮大な歴史の転換点の、全ての始まりが、遠い異世界の、ただ怠惰に、そして平穏に暮らしたいと願う、一人のぐうたらな男の、ほんの気まぐれな取引にあったという、壮大で、そしてあまりにも滑稽な真実を、まだ、この世界の誰も知る由もなかったのである。




