第145話
日本の医療は、静かな、しかし劇的な革命の只中にあった。
それは、最新鋭の医療機器の発明でもなければ、画期的な新薬の開発でもない。
『魔法』という、科学の徒である医師たちが最も忌避すべきオカルトが、物理的な現実として手術室に持ち込まれたことによる、概念の崩壊と再生の物語だった。
東京、東都大学医学部附属病院。
その最上階にある特別隔離病棟は、これまで「死を待つ場所」として恐れられてきた。
現代医療の敗北が蓄積する場所。
手の施しようのない末期癌、進行性の神経難病、先天性の免疫不全症候群。
だが今、その病棟は奇跡の震源地となっていた。
無菌室の中。
七歳の少年、翔太君は、生まれてから一度もガラスの外に出たことがなかった。
重症複合免疫不全症(SCID)。
彼の身体には、外界のありふれた細菌やウイルスと戦う力が備わっていなかったのだ。
その彼の前に、防護服ではなく、白衣を纏っただけの男が立っていた。
プロジェクト・キマイラ医療班の中核、御子柴医師だ。
彼はその手に何も持っていなかった。
メスも、注射器も、点滴もない。
ただ、その右手に、目に見えない「魔力」という名の灯火を宿しているだけだ。
「……翔太君、怖くないかい?」
「うん。……先生、僕、外に出られるの?」
「ああ。出られるとも。サッカーだって、学校だって、行けるようになる」
御子柴は、少年の痩せ細った胸に、そっと手をかざした。
彼の脳裏に、賢者の魔導書に記された術式が展開される。
『免疫システムの再構築』。
『胸腺の機能不全の修正』。
『造血幹細胞の正常化』。
それらの医学的知識が、魔力という燃料を得て、物理的な干渉力へと変換される。
「――癒えよ(ヒール)」
淡い春の日差しのような緑色の光が、少年の体を包み込んだ。
モニターのアラームが鳴り響く。
だがそれは警告音ではない。
バイタルサインが劇的に、そして信じられない速度で「正常値」へと書き換わっていく、歓喜の歌だった。
数分後。
光が収まった時、翔太君の顔色は、陶器のような青白さから、林檎のような健康的な赤みへと変わっていた。
血液検査の結果を待つまでもない。
御子柴には分かっていた。
彼の体の中で眠っていた免疫細胞たちが、爆発的な勢いで産声を上げていることを。
「……先生、なんか体が熱いよ。……力が湧いてくるみたいだ」
「……ああ。それが『生きる』ってことだ」
ガラスの向こうで母親が泣き崩れていた。
翔太君は、その日、人生で初めてマスクなしで母親を抱きしめた。
奇跡は続いた。
隣の病室では、全身に癌が転移し、モルヒネで意識を混濁させていた五十代の男性が、魔法の光を浴びた翌日に「腹が減った」と言って起き上がった。
画像診断では肺や肝臓を埋め尽くしていた腫瘍の影が、まるで嘘のように消失していた。
認知症病棟では、自分の名前さえ忘れていた老婦人が、術後に涙を流しながら娘の名前を呼び、謝罪と感謝の言葉を口にした。
萎縮していた海馬が、神経細胞が、魔力によって再生したのだ。
「治る。……治るのだ!」
「もはや不治の病など存在しない!」
「我々は死神に勝ったんだ!」
医師たちの間には熱狂が広がっていた。
それは、長年「死」という絶対的な敵に対し、敗北を積み重ねてきた者たちが、初めて手にした完全なる勝利の美酒だった。
万能回復魔法無双。
彼らは自らが「神の手」を持つ者となった全能感に、酔いしれていた。
だが。
魔法には、対価が必要だった。
◇
異変は静かに、しかし確実に進行していた。
御子柴は医局のソファに、深々と沈み込んでいた。
手には空になった栄養ドリンクの瓶が握られている。
これで今日、五本目だ。
激しい動悸。
鉛を詰め込まれたような身体の重さ。
そして視界の端が常にチカチカと明滅するような奇妙な感覚。
賢者・猫は言っていた。
『通常の魔法使いで月一回が限界。医術に精通していても週一回がせいぜいじゃろう』と。
そして、『使用後は魔力欠乏症となり、無理をすれば命に関わる』と。
だが御子柴は、その警告を無視していた。
いや、無視せざるを得なかったのだ。
彼のデスクの上には山のような「治療待ちリスト」が積まれている。
余命一ヶ月の少女。
明日にも呼吸が止まるかもしれない青年。
彼らの命の砂時計は、医師の休息を待ってはくれない。
目の前に確実に救える手段があるのに、それを「疲れているから」という理由で先延ばしにすることは、彼にとって殺人にも等しい罪悪感だった。
(……まだいける。……あと一人。……あの子の手術までは……)
彼は震える手で立ち上がろうとした。
だが膝に力が入らない。
世界がぐるりと回転する。
地面が顔に向かって迫ってくる。
ドサッ。
鈍い音が、静まり返った深夜の医局に響いた。
「……御子柴先生!? おい、しっかりしろ!」
同僚の医師が駆け寄る。
だが御子柴からの応答はなかった。
彼の顔は、まるで死人のように白く、その呼吸は浅く不規則だった。
魔力枯渇による重篤な生命力の低下。
それは現代医学の常識では説明のつかない、魂のガス欠状態だった。
そして倒れたのは、彼だけではなかった。
全国に配置された魔法医たちが次々と、原因不明の意識喪失や重度の衰弱で搬送される事態が相次いだのだ。
救うはずの者が、救われる側になる。
医療現場は、パニックに陥りつつあった。
◇
数日後。
総理大臣官邸、地下危機管理センター。
緊急招集されたプロジェクト・キマイラ首脳陣の会議は、これまでにないほど重苦しく、そして殺伐とした空気に包まれていた。
議題は、ただ一つ。
『回復魔法使用に関する規制と、医師の生命保護について』。
円卓を囲むのは、宰善総理、橘理事官、綾小路官房長官。
そして医療チーム代表として長谷川教授と、点滴スタンドを引きずりながら車椅子で参加した御子柴医師。
さらに厚生労働省の事務次官や、日本医師会の代表も顔を揃えていた。
「……現状を報告します」
橘紗英が、氷のような声で事実を淡々と述べた。
スクリーンには全国の魔法医たちの稼働状況が表示されている。
その大半が『活動不能』を示す赤色で埋め尽くされていた。
「……現在、政府認定の魔法医五十名のうち、三十名が魔力枯渇による入院、または自宅療養中。
そのうち三名は意識不明の重体です。
……原因は明らか。過剰な魔法行使によるオーバードーズです。
彼らは賢者様の定めた『クールタイム(休息期間)』を無視し、連日治療を行いました。
その結果、彼ら自身の生命力が削り取られたのです」
「……馬鹿な連中ですな」
綾小路が、扇子で口元を隠しながら冷たく言い放った。
「……自らのキャパシティも把握できずに暴走するとは。
……彼らは貴重な国家資産ですぞ。
……使い潰してどうするのですか。
……これでは元も子もない」
「……言葉を慎んでいただきたい!」
車椅子の御子柴が、弱々しくも怒りに震える声で反論した。
彼の瞳は深く窪んでいたが、そこには医師としての矜持の炎が燃えていた。
「……我々は遊びで魔法を使っているわけではありません!
……目の前で患者が死んでいくのです!
……『あと一日待てば治せる』と言っている間に、呼吸が止まる子供がいるのです!
……『来週まで待ってください』と、余命宣告された患者に言えますか!?
……我々には、それができる力があるのに!
……見殺しにしろと言うのですか!」
「……見殺しにするのです」
綾小路は即答した。
その言葉に、会議室の空気が凍りつく。
「……なっ……!?」
「……御子柴先生。感情論で国家は運営できません。
……いいですか?
……あなた方魔法医は、代わりの利かない存在です。
……あなたが一人生き残れば、将来的に何千、何万という命を救える可能性がある。
……だが、あなたが今日無理をして一人の患者を救い、その結果死んでしまえば、将来救えるはずだった数千の命も同時に失われることになるのです。
……一人の命のために、数千の未来の命を犠牲にする。
……それはトリアージ(選別)の観点から見て、もっとも愚かな選択だと言わざるを得ません」
そのあまりにも正論で、そしてあまりにも冷徹な功利主義。
御子柴は唇を噛み締め、拳を震わせた。
頭では分かっている。
だが心は、それを拒絶していた。
「……それは……数学の話です……。
……医療は算数じゃない……!
……目の前の命の重さは、皆等しいはずだ……!」
「……ですが、リソース(魔力)は有限です」
厚労省の次官が、困惑した顔で口を挟む。
「……現状、需要と供給のバランスが完全に崩壊しています。
……全国から寄せられる治療の嘆願は数十万件。
対して魔法医が万全の状態で治療できるのは、月に数百人が限界。
……このまま現場の判断に任せていれば、全員が共倒れになります。
……規制は不可避です」
「……では、どう規制するというのだ」
宰善総理が、重苦しい声で問うた。
彼はこの議論の行く末にある残酷な結論を、予感していた。
橘が一枚の書類をテーブルに置いた。
「……『魔法医療適正化ガイドライン』案です」
彼女は、その内容を読み上げた。
「……第一に、魔法医の連続使用を厳格に禁止します。
……一回の治療につき、最低十日間のインターバルを義務付け、
その間は専用のモニタリングデバイスで魔力値を監視。
基準値を下回る状態での魔法行使は、物理的に不可能となるよう、首輪型のリミッターを装着させます」
「……くっ……我々を家畜扱いか……」
医師会の代表が呻く。
「……第二に」
橘は無視して続けた。
「……治療対象の厳格な選別を行います。
……現在、あらゆる疾患に対して魔法が使われていますが、これを制限します。
……『既存の医療で治癒可能なもの』、および『延命してもQOL(生活の質)の向上が見込めない末期状態』への使用は原則禁止。
……魔法の適用は『魔法でなければ救えない』、かつ
『治療により社会復帰が可能で、将来的に国益に寄与する可能性が高い若年層や重要人物』に限定します」
その言葉が落ちた瞬間、御子柴が激昂した。
「……ふざけるなッ!!!」
彼は車椅子から立ち上がろうとして、よろめいた。
「……国益だと!?
……命に価値をつけろと言うのか!
……金持ちや政治家は救うが、貧乏人や老人は見捨てろと!?
……そんなものが医療と呼べるか!
……それは悪魔の選別だ!」
「……悪魔にならねば、救えるものも救えないのですよ」
綾小路が静かに言った。
その目は、いつになく真剣だった。
「……御子柴先生。
……我々は神ではありません。
……全ての人間を救うことはできない。これは決定事項です。
……ならば、誰を救い、誰を見捨てるか。
……その血塗られた決断を、誰かが下さねばならない。
……それをあなた方医師に押し付けるのは酷だと思い、我々政治家が泥を被ろうと言っているのです」
「……詭弁だ……!
……目の前で苦しむ患者を見捨てることのどこに正義がある!」
「……では、あなたが倒れた後、あなたの帰りを待っている次の患者はどうなるのです?」
「……うっ……」
「……あなたが倒れれば、その患者も死ぬ。
……共倒れです。
……それは誰にとっても、幸福な結末ではないはずだ」
綾小路は畳み掛けた。
「……医者の命は重いのです。
……それは特権意識ではなく、責任の重さです。
……あなた方は、もはや一人の人間ではない。
……『治療装置』という国家のインフラなのです。
……インフラを維持するためには、メンテナンスが必要です。
……無理な稼働は、システム全体を崩壊させる」
御子柴は唇を噛み締め、俯いた。
反論できなかった。
現に自分が倒れたことで、予定されていた手術がキャンセルされ、救えたはずの命が危険に晒されているという現実がある。
自分の「善意の暴走」が、結果として医療崩壊を招いているという事実。
それは医師として、最も辛い現実だった。
「……医者が優先か、患者が優先か」
宰善総理が天井を見上げて呟いた。
「……究極のトロッコ問題だな。
……だがレールの切り替えスイッチを握っているのは、我々だ」
総理は決断した。
「……ガイドラインを承認する。
……ただし、適用基準については第三者委員会を設置し、透明性を確保すること。
……決して金や権力だけで命が選別されることのないよう、最大限の配慮を行え」
「……承知いたしました」
橘が頷く。
「……そして御子柴先生」
総理は車椅子の医師に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「……すまない。
……君たちに一番辛い役目を背負わせてしまうことになる。
……『助けられるのに、助けてはいけない』という命令を守らせることは、君たちの良心を殺すことと同義だろう」
「……総理……」
「……だが頼む。
……生きてくれ。
……君たちが生きていてくれなければ、未来の希望も消えてしまうのだ。
……どうか自分自身を大切にしてほしい。
……これは一国の総理としてではなく、一人の老人からのお願いだ」
総理の目には涙が浮かんでいた。
御子柴は震えながら、ゆっくりと頷いた。
「…………分かりました……」
彼は血の味がするほど唇を噛み締めて言った。
「……従いましょう。
……ですが忘れないでください。
……我々が見捨てる命の重さを。
……その罪を、我々は一生背負っていくのだということを」
「……ああ。共に背負おう」
こうして日本に、新たな法が生まれた。
『特級医療従事者保護法』。
それは魔法医の過重労働を防ぎ、その生命を守るための法律であると同時に、
救うべき命と救わざるべき命を冷徹に選別するための、残酷なルールブックでもあった。
全国の病院で、魔法医たちに首輪型のリミッターが装着された。
彼らは患者の懇願を前に涙を流しながら、「できません」と告げなければならなくなった。
病院の待合室では、選別から漏れた患者や家族たちの怒号と悲鳴が響き渡った。
「なぜだ! 魔法があるんだろう!?」
「金なら払う! いくらでも払うから助けてくれ!」
「人殺し! お前たちは医者じゃない!」
その罵声を、医師たちは無言で受け止めるしかなかった。
彼らの心は傷つき、摩耗していく。
だがそれでも彼らは、残された魔力で選び抜かれた命を、確実に救い続けていた。
それが今の日本に許された、ギリギリの正義だったからだ。
ある日の深夜。
リミッターの解除期間を待つ御子柴は、病院の屋上で夜空を見上げていた。
月が冷たく輝いている。
(……賢者様……)
彼は、まだ見ぬ神に問いかけた。
(……あなたは、こうなることを予見していたのですか?
……力が人を救うと同時に、人を苦しめることを。
……これが我々に与えられた試練なのですか……?)
答えはなかった。
ただ風が吹き抜けるだけだった。
だが彼は知っていた。
どんなに苦しくても、自分はこの手を汚し続けなければならないことを。
それが神の火を手にした人間の、逃れられない業なのだと。
日本の医療は、光と闇の狭間で新たな時代を歩み始めていた。
救済と選別。
希望と絶望。
その矛盾を抱えながら、それでも彼らは今日という日を生きる命のために、戦い続けるのだった。




