第144話
時計の針を、少しだけ戻そう。
それは、日本政府が異世界『ネオ・ジャパン(仮称)』への門を開き、自衛隊による先遣隊を送り込んだ直後。
世界がまだ、日本の地下で進行する巨大な野望に気づいておらず、あのアマテラス・ベースが、まだ産声を上げたばかりの頃の話である。
東京、西新宿。
政府専用のヘリポートは、いつものように厳重な警戒態勢と、それ以上に重苦しい緊張感に包まれていた。
だが、その緊張の色は、以前とは少し異なっていた。
かつては未知の怪物に対する恐怖であったものが、今や「予測不能な神の気まぐれ」に対する、胃の痛くなるような業務上のプレッシャーへと変わっていたからだ。
宰善茂総理大臣、橘紗英理事官、そして綾小路俊輔官房長官。
この国の運命を握る三人が、純白の狩衣という、現代日本においてはあまりにも場違いな装束に身を包み、祭壇の前で直立不動の姿勢をとっている。
空間が歪む。
世界が軋むような感覚と共に、彼らの「神」が降臨した。
賢者・猫。
夜の闇を纏った黒猫の姿をした、異界の超越者。
「うむ。ご苦労」
賢者は、祭壇に積まれた「献上品」――今回は最高級のマスクメロンと、職人が鍛え上げた日本刀のセットだった――を一瞥すると、満足げに髭を震わせた。
そして、いつものように次元ポケットへとそれらを収納した後、彼はふと思い出したように、懐(といっても猫の毛皮の中だが)から一冊の本を取り出した。
それは、以前渡された『サルでもわかる! 魔法入門』と同じような手作り感満載のノート……ではなく、今回はもう少し本格的な革張りの重厚な魔導書だった。
表紙には金文字で、何やら複雑な魔法陣が描かれている。
「……賢者様、それは?」
橘が慎重に問いかける。
神が新たなアイテムを取り出す時、それは常に世界のルールが変わる合図だ。
「うむ。……これか?
これはな、新しく開発した『回復魔法』の術式を記した魔導書じゃ」
「……回復魔法……?」
宰善総理が身を乗り出した。
現在、日本政府が喉から手が出るほど欲している技術の一つだ。
『怪我治癒ポーション』は確かに奇跡だ。
だが、その供給は完全に賢者の気まぐれに依存しており、数は有限。
消費すれば無くなる。
国家戦略として、あまりにも不安定なリソースだった。
「そうじゃ。……ポーションは便利じゃが、消耗品じゃろ?
いちいちワシが補充してやるのも面倒じゃし、お主たちも心許なかろうと思ってな。
……先日、魔法学校の学長と話をして、研究してもらったのじゃ」
賢者は前足で魔導書をポンと叩いた。
「……これを読み、そこに記された魔法(因果律改変能力)を学べば、あの『怪我治癒ポーション』の効能を模倣した、人体修復の魔法が使えるようになるぞ」
「……なっ……!?」
その場にいた全員が息を飲んだ。
ポーションの「生産」ではなく「再現」。
それは魚を与えるのではなく、釣り方を教えることに等しい。
いや、命を救う技術という意味では、それ以上の価値がある。
「……し、しかし賢者様」
綾小路が冷静さを保ちつつ尋ねる。
「……以前、回復魔法は高度な専門知識が必要で、習得が困難であると伺っておりましたが……」
「うむ。従来はその通りじゃった。
……だが、この術式は、ポーションの持つ『あるべき姿に戻る』という概念干渉を魔法式に組み込むことで、そのハードルを大幅に下げたものじゃ。
……才能ある者なら、習得は可能じゃよ」
「……おお……! 素晴らしい……!」
宰善の手が震える。
これで日本の医療は、いや人類の生存戦略は劇的に進化する。
「……ただし」
賢者の目が鋭く光った。
甘い話には必ず裏がある。
それが、この神の流儀だ。
「……燃費が悪いからのう」
「……燃費でございますか?」
「うむ。……ポーションという物質を使わず、己の魔力のみで他者の肉体を修復するのじゃ。
……その負担は並大抵ではない。
……通常の、そこそこ魔法が使える程度の人間では、一度この魔法を使えば魔力が枯渇する。
……頻度としては、そうじゃな……月一回、一人の怪我を治すのが限界じゃろう」
「……月一回……」
橘が計算する。
ポーションの即効性と連用可能性に比べれば、確かに効率は悪い。
「……しかもな。
……使用後、しばらくの間は『魔力欠乏症』……いわゆるガス欠状態になる。
……その間は、光球を出す程度の弱い魔法しか使えなくなる『弱体化』のオマケ付きじゃ。
……無理をして連発すれば、命に関わるぞ」
「……なるほど。……リスクはあるということですな」
「うむ。……まあ、熟練すれば、あるいは魔力の扱いに慣れれば、十日程度まで短縮できるかもしれんがな。
……それでも、緊急時の切り札としては、持っておいて損はない技術じゃろ?」
賢者はニヤリと笑った。
「……それに、面白い話があってな。
……魔法学校の学長が言っておったのじゃが、この術式は『術者のイメージ』に強く依存するらしい。
……つまり人体の構造、血管の走行、神経の繋がり……そういった『医術』に精通している者が使えば、魔力の無駄遣いが減り、コストが低くなるらしいぞ?」
「……医術に精通している者……」
橘の目が、きらりと光った。
「……ワシは医者ではないから、詳しくはないがな。
……どこまでコストを落とせるかは不明じゃ。
……まあ、お主らの国には優秀な医者が山ほどおるんじゃろ?
……良い医者を見繕って、実証試験でもしてみるがいい」
賢者は立ち上がった。
「……じゃあ献上品は貰ったし、ワシは行くぞ。
……異世界ではしゃぎすぎるんじゃないぞ。
……ではな!」
シュンという音と共に、賢者の姿は消えた。
残されたのは、一冊の重厚な魔導書と、そして「医療革命」という名の巨大な宿題を背負わされた政治家たちだけだった。
「…………すぐに」
宰善総理が、絞り出すような声で言った。
「……すぐに、国内の医師を集めろ!
……最高峰の外科医、内科医、あらゆる分野のトップだ!
……名目は何でもいい!
『新たなアーティファクトが医療改革をもたらす』とでも言っておけ!
……早急に人を集めるんだ!」
「……御意!」
日本の医療界を揺るがす極秘プロジェクトが、ここに始動した。
◇
数日後。
茨城県つくば市、サイト・アスカ。
その地下深くにある『セクター・グリモワール』の講堂には、日本中から緊急招集された五十名の医師たちが集められていた。
大学病院の教授。
ゴッドハンドと呼ばれる脳外科医。
戦場医療の経験を持つ元自衛隊医官。
そして地域医療を支える総合診療医。
共通しているのは、確かな腕と、そして柔軟な思考を持つと判断された者たちだ。
彼らは一様に、困惑と期待の入り混じった表情で演壇を見つめていた。
「……皆様。本日はご多忙の中、国家の招集に応じていただき感謝します」
演壇に立ったのは、プロジェクト・プロメテウス科学班チーフ、長谷川健吾教授だった。
彼は白衣を翻し、熱っぽく語りかけた。
「……単刀直入に言いましょう。
……本日、皆様にお集まりいただいたのは、ある『技術』を習得していただくためです。
……それは、現代医療の常識を根底から覆す夢の技術です」
ざわめきが広がる。
長谷川は手元の魔導書を掲げた。
「……我々は、かの『賢者様』より、新たな知識を授かりました。
……それは『怪我治癒ポーション』の効能を、人の手で、人の意志で再現するための術式……。
……すなわち『回復魔法』です!」
「……はぁ!?」
「……魔法だと!?」
「……馬鹿げている! 我々は科学者であり、医師だぞ!」
当然の反応だった。
怒号に近い反論が飛び交う。
だが長谷川は動じなかった。
彼は合図を送った。
隣に控えていた自衛隊の特殊作戦群隊員が一歩前に出る。
彼は何も言わず、右手を掲げた。
ボッ!
その掌の上に、眩い光球が出現した。
照明魔法『ライト』。
それはいかなるトリックも介在しない、純粋な超常現象だった。
「………………」
会場が静まり返る。
医師たちの目が点になっていた。
「……ご覧の通りです。
……魔法は実在します。
そして訓練次第で、誰にでも……とは言いませんが、素質ある者ならば習得可能な技術なのです」
長谷川は続けた。
「……そして賢者様は仰いました。
『この魔法は、人体の構造を熟知している者ほど、その効果を高く、そして効率的に発揮できる』と。
……つまり皆様です。
……皆様が、その医学的知識をもって魔法を行使した時、そこには真の医療革命が起きるのです!」
沈黙。
だがそれは、否定の沈黙ではなかった。
目の前の現実(光球)と、長谷川の言葉が示す可能性に、医師たちの科学者としての魂が震え始めていたのだ。
「……やってみましょう」
最前列に座っていた一人の男が、立ち上がった。
東都大学病院の救命救急センター長、御子柴医師だ。
彼は鋭い眼光で、長谷川を見据えた。
「……もしそれが本当なら。
……我々が救えなかった命を、救えるようになるかもしれない。
……ならば悪魔の契約だろうが魔法だろうが、試さない理由はない」
その言葉が堰を切ったように、会場の空気を変えた。
「……そうだな。やるだけやってみよう」
「……医学の進歩とは、常に常識への挑戦だったはずだ」
彼らは覚悟を決めた。
こうして、日本最高峰の頭脳集団による、前代未聞の「魔法研修」が始まったのである。
◇
研修は過酷を極めた。
医学の知識はあっても、魔力を感じるセンスは別物だ。
論理的思考に凝り固まった医師たちの頭を、「信じる力」へと切り替える作業は難航した。
「……先生方! 疑わないでください!
光は出ると信じるのです!
理屈じゃありません、イメージです!」
指導役の自衛隊員(魔法の先輩)が叫ぶ。
「……くそっ、イメージと言われてもな……。
光子の放出プロセスを考えてしまう……」
御子柴医師は、額に汗を浮かべながら掌を睨みつけていた。
だが彼らには共通した素質があった。
それは「人を救いたい」という強烈な意志と、そして何よりも高い集中力だ。
一週間後。
ついに御子柴の指先に、小さな、しかし確かな光が灯った。
「……おお……! できた……!」
「……やったぞ、御子柴!」
一度コツを掴めば、彼らの学習能力は高かった。
次々と光球を出すことに成功し、身体能力強化の基礎も習得していった。
そして、いよいよ本番。
『回復魔法』の実証試験の日がやってきた。
実験室の中央には、手術台が置かれていた。
その上には麻酔で眠らされた実験用のビーグル犬が横たわっている。
彼は足が骨折にしていた。
「……では始めます」
術衣に身を包んだ御子柴が、静かに宣告した。
彼の周りには長谷川教授や他の医師たち、そして政府関係者が固唾をのんで見守っている。
御子柴は深呼吸をした。
彼の脳裏には賢者の魔導書の内容と、そして彼自身が長年培ってきた解剖学の知識が鮮明に浮かび上がっていた。
(……骨折箇所は左大腿骨。
……骨膜の損傷、周囲の筋肉の挫滅、血管の断裂……。
……これらを元の状態に『戻す』。
……細胞一つ一つに働きかけ、時間を巻き戻すように、あるいは超高速で再生させるように……)
彼は右手を患部にかざした。
「……治れ……!」
彼が魔力を練り上げた瞬間、彼の手から淡い緑色の光が溢れ出した。
それは、ポーションの輝きにも似た生命の光だった。
光が患部に吸い込まれていく。
レントゲンモニターを見ていた技師が叫んだ。
「……こ、骨が……!
……骨折線が消えていきます!
……仮骨形成のプロセスを飛ばして、一気に癒合していく……!
……筋肉も、血管も……!
……信じられない、数秒で……!」
魔法が完了するまで、わずか十数秒。
光が収まった時、そこには傷一つない健康な犬の足があった。
「……はぁ……はぁ……」
御子柴がガクリと膝をついた。
彼の顔色は真っ白で、全身から脂汗が吹き出していた。
「……御子柴先生!」
「……大丈夫だ……。……ただ、酷く疲れた……。
……まるでフルマラソンを走った直後に、十時間の手術をしたような気分だ……」
彼は荒い息をしながらも、自分の手を見つめた。
そして、まだ眠っている犬を見て、満足げに笑った。
「……ふぅ。なるほど。
……今の私の魔力残量……光球を出すのがせいぜいですね」
彼は指先に力を込めたが、そこには蛍火のような弱々しい光しか灯らなかった。
賢者の言っていた通りだ。
「魔力欠乏症」。
しばらくは、まともな魔法は使えないだろう。
だが。
「……ワンッ!」
麻酔から覚めたビーグル犬が、元気に尻尾を振って立ち上がった。
骨折していたはずの足で、しっかりと地面を踏みしめている。
「……これは……素晴らしい!!!」
長谷川教授が絶叫した。
拍手が巻き起こる。
「……成功だ! 完全な治癒だ!」
「……手術もギプスもリハビリも必要ない……!
……これが回復魔法の力か……!」
医師たちは興奮に震えていた。
彼らは今、医療の歴史が変わる瞬間を目撃したのだ。
「……それで、コストの方はどうでしたか?」
冷静さを取り戻した橘紗英が、データを見ながら尋ねた。
「……賢者様は『通常の魔法使いで月一回』と仰っていましたが」
長谷川教授がモニターの数値を指差した。
「……驚くべき結果です。
……御子柴先生の魔力消費量は、理論値の約三割で済んでいます。
……つまり、医学的知識による補正が、確かに働いている!」
「……三割ですか」
「……ええ。回復速度も、おそらく十日……いや、一週間程度で全快するでしょう。
……つまり、優秀な医師が魔法を使えば、賢者様の想定以上に効率よく治療が行えるということです!」
「……なるほど」
橘は頷いた。
それは日本にとって、大きなアドバンテージとなる。
「……実践投入するべきです!」
御子柴が支えられながらも、力強く言った。
「……この技術があれば、救える命が確実に増える。
……リスクはあるが、それを補って余りある恩恵だ。
……まずは軽症の患者から実証試験を開始するべきです。
……もちろん、万が一魔法が不発だった場合や、術者が倒れた場合に備えて、従来の医療チームによるバックアップを完全にする必要がありますが!」
「……そうですね」
宰善総理が決断を下した。
「……許可しよう。
……まずはプロジェクト関係者や、同意の取れた特殊な症例に限定して臨床試験を開始する。
……とりあえず軽症患者から、万能回復魔法の検証を行うということで!」
「……了解しました!」
こうして日本政府は、新たな切り札を手に入れた。
ポーションという「物」に頼らない、自らの力による「医療技術」。
それはまだ不安定で、コストも高い技術ではある。
だが、その可能性は無限大だった。
医師たちが熱心に議論を交わす姿を見ながら、綾小路官房長官がポツリと呟いた。
「……やれやれ。
……これでまた『日本の医者はゴッドハンドだ』なんて噂が、世界中に広まるわけですな。
……また忙しくなりそうです」
彼の顔には皮肉っぽい笑みと共に、確かな期待の色が浮かんでいた。
日本の異世界技術の解析と応用は、着実に、そして確実に進んでいた。
神の気まぐれな贈り物は、子供たちの手によって、世界を変えるための確かな力へと磨き上げられつつあったのだ。




