第142話
東の大国アステリア王国。
その王都の心臓部に位置する王城『赤竜城』は、建国以来、武勇と鉄の規律を重んじるこの国の象徴として、威風堂々とそびえ立っていた。
その玉座の間。
普段であれば、将軍たちが地図を広げ、周辺諸国への遠征や防衛について、熱く、そして厳格に議論を交わす場所である。
だが今日この広間に漂っていたのは、剣呑な殺気でも政治的な緊張感でもない。
一種異様な困惑と、そして隠しきれない「興奮」の熱気だった。
玉座に深く腰掛けた国王レグルス・フォン・アステリアは、その鷲のような鋭い瞳を細め、眼下にひざまずく男を見下ろしていた。
赤竜騎士団千人隊長ヴォルフガング・フォン・アイゼンバッハ。
王国の武の象徴であり、今回、南の大陸から来たという謎の商人集団を査察するために派遣された猛将である。
レグルス王は当初、彼らが血刀を下げて帰還することを予想していた。
あるいは、その謎の商人たちを捕縛し、後ろ手に縛り上げて連行してくるか、最悪の場合、交渉が決裂して敵の拠点を焼き払ってきた報告を受けるものだとばかり思っていた。
だが、帰還したヴォルフガングと、同行した外交官・徴税官たちの顔色は、戦場の煤にまみれたものではなかった。
彼らの顔は、まるで温泉にでも浸かってきたかのように艶やかで、そしてどこか夢見心地な幸福感に満ちていたのだ。
「……ヴォルフガングよ」
レグルス王が、重々しく口を開いた。
「……余は、そなたに命じたはずだ。『南の商人たちの正体を見極め、我が国の法に従わぬならば鉄槌を下せ』と。
……だが、そなたの報告を聞いていると、どうも要領を得ん。
魔法使いの軍団であったとか、光の矢を放ったとか……そこまではよい。
奴らが手強い相手であることは分かった。
だが、その後の話だ」
王は、手元の報告書を指先で弾いた。
「……『極上の饗応を受けた』?
『友好条約を結ぶべきである』?
……あまつさえ『彼らの食文化こそが我が国を富ませる』だと?
……騎士団長ともあろう者が、敵の毒牙にかかり骨抜きにされたのではあるまいな?」
王の声には、明らかな疑念が含まれていた。
無理もない。
軍事国家アステリアの騎士が、たった一度の会食で、ここまで手放しに相手を称賛することなど前代未聞だったからだ。
「……いいえ陛下! 断じてそのようなことはございませぬ!」
ヴォルフガングが顔を上げ、力強く否定した。
その目には一点の曇りもない、真実を語る者特有の輝きがあった。
「……彼ら『日本』の使節団は、確かに恐るべき魔法の使い手でございました。
数百の光球を同時に操り、空飛ぶワイバーンさえも素手で屠る剛の者たち。
……敵に回せば、我が国とて無傷では済みますまい」
「……うむ。それほどの強者か」
「……ですが! 彼らが真に恐ろしいのは、その武力ではございません!
彼らが操る『食』の魔法……。
これこそが、剣や槍よりも遥かに深く、人の心と身体を支配する究極の武器なのでございます!」
「……食の魔法だと?」
「……はい! その名は『カ・レー』!
黄金色のソースに秘められた、数多の香辛料の奔流!
一口食めば、身体の芯から熱が湧き上がり、戦場での疲れさえも瞬時に霧散させる活力の源!
……あれこそは、戦士のための食! 王のための食にございます!」
ヴォルフガングは熱弁を振るった。
その隣で、普段は冷静沈着で知られる外交官までもが、深く頷いている。
「……陛下。ヴォルフガング殿の仰る通りです。
……あの料理は、単なる美味という次元を超えておりました。
……あれを我が国に取り入れることができれば、国民の士気向上はもちろん、新たな交易品としての価値も計り知れません。
……我々は、彼らとの敵対ではなく、全面的な提携を選ぶべきです」
レグルス王は沈黙した。
彼の信頼する部下たちが、ここまで口を揃えて言うのだ。
そこには、彼の想像を超える「何か」があるに違いない。
そしてレグルス王自身、根っからの美食家でもあった。
アステリア王国は北方に位置し、気候は冷涼。
食材は保存食が中心で、味付けも塩とハーブ程度の簡素なものが多い。
「美味いもの」に対する渇望は、王といえども、いや王だからこそ人一倍強かった。
「……ふむ」
王は顎髭をさすった。
「……そこまで言うなら、試さぬわけにはいくまい。
……して、その『カ・レー』とやらはここにあるのか?」
「……はっ!
彼らより、その秘伝の製法と必要な材料一式を託されております!
『ぜひアステリア国王陛下にも味わっていただきたい』と!」
ヴォルフガングが合図を送ると、従者たちがうやうやしく木箱を運び込んできた。
その中には、日本からのお土産として渡された『業務用カレールー(甘口・中辛・辛口アソート)』の巨大な塊と、最高級の『ジャポニカ米』、そして付け合わせの福神漬けのパックが収められていた。
「……これが魔法の食材か……」
王は銀紙に包まれた茶色の塊を手に取り、まじまじと観察した。
見た目はただの粘土のようだが、包みを開けた瞬間、鼻腔をくすぐるスパイシーな香りに、思わず喉が鳴った。
「……よろしい。
宮廷料理長ガストンを呼べ!
今宵の晩餐は、この異国の料理とする!
……ヴォルフガング、お前たちはその『味』を知っているな?」
「……はっ! 骨の髄まで記憶しております!」
「……ならばお前たちが『味見役』となれ。
彼らの味が再現できるまで、厨房から出すでないぞ」
「……御意ッ!!!」
ヴォルフガングたちの顔に、隠しきれない歓喜の色が浮かんだのを、王は見逃さなかった。
(……こやつら、ただもう一度食べたいだけではないか?)
そんな疑念を抱きつつも、王の腹もまた、期待にぐぅと鳴るのだった。
◇
アステリア王宮大厨房。
そこは今、戦場と化していた。
宮廷料理長ガストン。
代々王家に仕える料理人の家系に生まれ、その腕前は大陸でも五指に入ると言われる巨匠。
その彼が今、脂汗を流しながら巨大な鍋と格闘していた。
「……ええい! 火加減はどうだ!
野菜の切り方はこれで合っているのか!?
……くそっ、異国のレシピとは、なんと難解なのだ!」
彼の手元にあるのは、東郷が書き残してくれた『美味しいカレーの作り方(直筆イラスト付き)』のメモだけだ。
「肉と野菜を炒める」「水を入れ煮込む」「火を止めルーを溶かす」「とろみがつくまで煮込む」。
工程自体はシンプルだ。
だが、シンプルだからこそ誤魔化しが効かない。
ガストンは、日本の『中辛』ルーを鍋に投入した。
茶色の塊がスープに溶け出し、厨房全体が暴力的なまでのスパイスの香りに支配される。
「……すごい香りだ……。
これほどの香辛料を一度に使うなど……正気の沙汰ではない……。
だが……」
味見のスプーンを口に運び、ガストンは戦慄した。
「……まとまっている!
数十種類のスパイスが互いを殺すことなく、一つのシンフォニーを奏でている!
……これが異世界の錬金術か……!」
料理人としての本能が告げている。
これは傑作になると。
そして第一作目が完成した。
銀の皿に盛られた白米(日本の炊飯指導を受けた部下が完璧に炊き上げた)と、黄金色のカレーソース。
「……できたぞ! 味見役!」
厨房の隅に待機していたヴォルフガングたち騎士団員が、待ってましたとばかりに飛びついてきた。
「……いただきますッ!」
彼らはスプーンを鷲掴みにし、カレーを口へと運ぶ。
咀嚼。沈黙。そして――。
「……ぬるいッ!」
ヴォルフガングが叫んだ。
「……ガストン! 味は良い! 味は確かにあの『カ・レー』だ!
だが何かが足りん!
あの時ポルト・リーゼの天幕の下で食べた時の、あの爆発するような熱情が足りんのだ!」
「……ななんだと!?」
ガストンが憤慨する。
「……具体的に言え!」
「……分からん! だが違うんだ!
……とりあえず確認のために、もう一杯食わせろ!」
「……俺もだ! 判定のために、もう一皿必要だ!」
「……ライス大盛りで頼む!」
騎士たちは文句を言いつつも、皿を舐めるように平らげ、おかわりを要求した。
「……貴様ら、ただ食いたいだけだろうが……!」
ガストンは悪態をつきつつも、第二作目の調理に取り掛かる。
二回目。
今度は隠し味に、アステリア特産の赤ワインと、すりおろしたリンゴを加えてみた。
「……どうだッ!」
騎士たちが群がる。
「……むぅ……。
……コクは増した。深みも出た。
……だが上品すぎる!」
徴税官が首を振る。
「……あの時のカ・レーは、もっとこう野性的で、ガツンとくる衝撃があった!
……これは王宮料理としては完成されているが、『カ・レー』としての魂が足りない!
……判定不能! とりあえずおかわり!」
「……またかよッ!」
三回目。
今度は肉を焼く際に、もっと焦げ目をつけ、スパイスの香りを立たせるために、炒め玉ねぎを増量した。
さらに日本側から「お好みでどうぞ」と渡されていた『ガラムマサラ』を追加投入する。
「……これならどうだ!」
厨房の熱気は最高潮に達していた。
騎士たちも満腹に近づきつつある腹をさすりながら、しかしその目は真剣そのものだった。
「……むぐっ……」
ヴォルフガングが一口食べる。
目を閉じる。
そしてカッ! と目を見開いた。
「…………こ、これだァァァッ!!!」
彼は雄叫びを上げた。
「……この刺激! この香り!
……口に入れた瞬間に脳髄を駆け巡る、稲妻のような衝撃!
……そして飲み込んだ後に広がる、母の愛のような優しさ(甘み)!
……完璧だガストン! これこそが、我々が求めていた『カ・レー』だ!」
「……おお……!」
他の騎士たちも、涙を流しながら頷いている。
「……やっと……やっと辿り着いたか……!」
「……これなら陛下にお出ししても恥ずかしくない……!」
「……あ、すまん。残りのルー全部食っちまった。おかわり」
「……いい加減にしろ貴様ら!!!」
ガストンは怒鳴りつつも、その顔には職人としての達成感が満ち溢れていた。
異世界の未知の料理を、自らの手で再現したのだ。
それは彼の料理人人生における、新たな金字塔だった。
「……よし! 本番だ!
……最高の状態で、陛下にお持ちしろ!」
◇
王宮のダイニングルーム。
そこにはレグルス王と王妃、そして二人の王子と王女が席についていた。
普段の晩餐会のような堅苦しい正装ではない。
王は家族だけでリラックスして食事を楽しみたい、という意向を示していた。
「……父上、今日は珍しい異国の料理が出ると聞きましたが」
第一王子のフレデリックが、興味津々で尋ねる。
「……どんな料理なのですか?」
「……うむ。余も詳しくは知らん。
だが、あのヴォルフガングが理性を失うほど絶賛しておった。
……期待して良いだろう」
やがて扉が開かれた。
ガストンを先頭に、給仕たちが銀のワゴンを押して入ってくる。
その瞬間。
ダイニングルームの空気が変わった。
蓋を開ける前から漏れ出す、圧倒的な香気。
それは王族たちの優雅な食欲を、野性的な飢餓感へと変貌させる魔力を持っていた。
「……陛下。
……異世界『ニホン』伝来の宮廷料理、『カ・レー・ラ・イ・ス』にございます。
……付け合せの赤き漬物(福神漬け)と共に、よく混ぜてお召し上がりください」
ガストンが恭しく皿を置く。
純白の磁器の中で、黄金色のソースと白い米が、美しいコントラストを描いている。
レグルス王はスプーンを手に取った。
そしてヴォルフガングたちの言葉を思い出しながら、ソースと米をすくい、口へと運んだ。
…………。
王の手が止まった。
王妃が心配そうに声をかける。
「……あなた? いかがでしたか?」
王は答えなかった。
ただゆっくりと噛み締めるように、咀嚼を続けた。
そして飲み込んだ。
次の瞬間。
王の厳格な瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……あなた!?」
「……父上!?」
家族が動揺する中、王は震える声で呟いた。
「…………美味い…………」
それは心の底からの、飾り気のない言葉だった。
「…………美味い、美味いぞ!!!
……なんだこれは……!
……辛いのに甘い……!
……熱いのに止まらない……!
……体中の血が、喜びで沸き立つのを感じる……!」
王はスプーンを動かす手を止められなかった。
二口、三口と夢中でカレーを口に運ぶ。
額には汗が滲み、頬は紅潮している。
「……こんな……こんな力強い料理がこの世にあったとは……!
……余は今まで何を食べていたのだ……!
……これに比べれば、これまでの晩餐など色あせた絵画のようなものだ!」
「……そ、そんなに……?」
王妃も恐る恐る一口食べた。
そして目を見開いた。
「……まあッ!
……なんて……なんて情熱的なお味……!
……それでいて、どこか懐かしいような安心感がありますわ……!」
「……うまい! 父上、これ最高だよ!」
「……辛いけど……でも美味しい……! お水ちょうだい!」
王子と王女も、夢中で食べ始めた。
王家の食卓において、これほどまでに食器の音が鳴り響き、そして「おかわり」の声が飛び交ったことは、建国以来初めてのことだった。
部屋の隅で控えていたヴォルフガングたち騎士団員も、その光景を見て我が意を得たりとばかりに満面の笑みを浮かべていた。
(……よし、これで勝った)
(……陛下も完全に『カ・レー』の虜だ)
(……これで堂々と、日本との交易予算を請求できるぞ……!)
食事が終わった後。
レグルス王はナプキンで口元を拭い、満足げに息を吐いた。
その顔には一国の王としての威厳と共に、美味しいものを腹いっぱい食べた人間特有の、底抜けの幸福感が漂っていた。
「……ガストン。大儀であった」
「……ははっ! 光栄にございます!」
「……そしてヴォルフガング」
「……はっ!」
王は騎士団長を見据えた。
「……そなたの判断は正しかった。
……このような素晴らしい文化を持つ国と剣を交えるなど、愚の骨頂。
……日本との交易を、国家の最重要事項とせよ」
王は宣言した。
「……『カ・レー』を、我が国の新たな国民食とする!
……この味を余だけのものにするのは罪だ。
……兵士たちにも、そしていずれは民たちにも、この活力を分け与えよ!」
「……御意ッ!!!」
騎士たちの歓喜の声が響き渡った。
こうしてアステリア王国は、日本にとっての最大のお得意様となった。
彼らは定期的に大量の金貨や鉱物資源を持ち込み、代わりに大量の『カレールー』と『米』を持ち帰るようになった。
アステリア王国の騎士団は、遠征の際にも飯盒炊爨でカレーを作り、その香りで敵の戦意を喪失させたとか、させなかったとか。
後に『カレー騎士団』と呼ばれるようになる彼らの勇名は、この夜の晩餐会から始まったのである。
一方、日本の司令室では。
送られてきた大量の鉱物と金貨の山を見て、綾小路官房長官が扇子で顔を仰ぎながら呟いていた。
「……ふむ。
……国民食で国を落とすとは。
……やはり『胃袋を掴む』というのは、外交の基本ですな」
日本の異世界侵略(文化的な意味で)は、止まるところを知らなかった。
次なるターゲットはいずこか。
カレーの香りは国境を越えて、風に乗っていく。




