第113話
神は、不在だった。
そして神の不在の間に、子供たちは、その手にしたあまりにも強力すぎる玩具の「正しい遊び方」を巡って、地球上で最も壮大で、そして最も混沌とした会議を始めようとしていた。
場所は、日本の宇宙開発の聖地、JAXA相模原キャンパス。その最も巨大な国際会議場は、今、人類の歴史が始まって以来、最も奇妙で、そして最も重要な議題を前にして、異様な熱気に包まれていた。
円卓を囲むのは、もはやただの科学者や官僚ではなかった。
彼らは、人類の夢そのものをその双肩に担う、選ばれし預言者たちだった。
日本のJAXA、アメリカのNASA、ロシアのロスコスモス、そして欧州宇宙機関ESA。かつて冷戦時代には互いのロケットの性能を競い合い、そして現代においては限られた予算を奪い合ってきたライバルたちが、今、一つのテーブルについている。
彼らの目的は、ただ一つ。
『――一ヶ月で月に街を創る』
その狂気の沙汰としか言いようのないプロジェクトを、いかにして現実のものとするか。
会議場の空気は、期待と絶望と、そして純粋な科学者としての興奮が入り混じった、奇妙なカクテルのような匂いがした。
議長役を務めるのは、この歴史的なプロジェクトのホスト国である日本のJAXA理事長、榊だった。彼は、その胃に開いたいくつもの穴を必死で意識の外に追いやりながら、その穏やかな、しかしどこか引きつった笑顔で、会議の開始を宣言した。
「――では、皆さん。これより、『第一回・国際月面都市建設計画準備委員会』を始めたいと思います」
その声は、完璧にコントロールされていた。だが、その指先が微かに震えているのを、隣に座るNASAの豪腕理事長、マイケル・ハミルトンは見逃さなかった。
「まず、議題に入る前に、我々が共有すべき大前提を確認しておきたい」
榊は、背後の巨大なホログラムスクリーンに、一枚の画像を映し出した。
漆黒の宇宙に浮かぶ、あの神々しいまでの流麗な船体。
宇宙船『やまと』。
「……皆様ご存知の通り、我々は、この『やまと』の存在によって、宇宙開発における最大の障壁、すなわち『輸送コスト』と『移動時間』という概念から、完全に解放されました。……平たく言えば、一番厄介な宇宙旅行と物資輸送の問題は、この船が全部解決してくれます」
そのあまりにもチートじみた前提条件。
会議室にいた世界最高の頭脳たちが、一斉に深く、そして重い息を吐いた。
そうだ。
自分たちが今から挑むのは、これまでの科学の常識が一切通用しない、神の領域のプロジェクトなのだ。
「……だが、それでも問題は山積みだ」
最初に口火を切ったのは、NASAのハミルトンだった。彼の声は、アポロ時代から続くアメリカの宇宙開発の絶対的なプライドと、そして目の前の日本の後塵を拝しているという屈辱が入り混じった、複雑な響きを持っていた。
「……一ヶ月で基地を建設する。……正気の沙汰ではない。……我々が現在、アルテミス計画のために設計している月面居住モジュール。あれを一つ打ち上げるだけでも、最低半年の準備期間が必要だ。……それを、一ヶ月で、それも『都市』規模でだと? ……不可能だ」
そのあまりにも真っ当な、そしてどこまでも正しい指摘。
だが、その正論を、榊は静かに、しかしきっぱりと否定した。
「……ええ、ハミルトン博士。……おっしゃる通りです。……ゼロから設計していては、間に合わないでしょう。……ですから、流用するのです」
「……流用だと?」
「はい。……月面都市のモジュールは、各国が現在保有している試験用の月面都市モジュールを、そのまま流用するので良い。……それが、我々日本からの最初の提案です」
そのあまりにも大胆不敵な、そしてどこまでもプラグマティックな提案。
会議室が、どよめいた。
「……正気か、サカキ!」
今度は、ロシア・ロスコスモスの百戦錬磨の老理事長、ユーリ・ペトロフが、その熊のような巨体から唸るような声を出した。
「……我が国の『コーリャ』モジュールと、貴様らの『きぼう』、そしてアメリカの『ゲートウェイ』。……そのドッキングポートの規格も、生命維持システムの仕様も、通信プロトコルも、全てがバラバラだぞ! ……それらの互換性を、今から作るとでも言うのか! ……無茶な! ……できるわけがなかろう!」
そのあまりにも正論な、そしてどこまでも現実的な反論。
だが、その絶望的な現実を、榊は、まるで子供に言い聞かせるかのように穏やかに、しかし絶対的な意志を持って粉砕した。
「――やるんですよ、ペトロフ博士」
その一言に、会議室が静まり返った。
榊の、そのいつもは穏やかな瞳に、このプロジェクトの総責任者としての鋼の光が宿っていた。
「…………できないじゃない。……やるんです。……この一週間で、日米露、そして欧州の全てのモジュールの基本設計を統一し、互換性を持たせる。……そのための第一次合同設計チームを、本日この場で発足させる。……それが、二つ目の提案です」
「…………無茶苦茶だ……」
ESAのフランス人理事長、クロード・デュボワが、その芸術家のように繊細な顔を苦痛に歪ませて呟いた。
「……設計思想が、哲学が、根本から違うのだぞ。……それを、たった一週間で……」
「極論」と、榊は言った。
「……気密性さえ、完璧に保たれていれば良い。……内装がどうだとか、居住性がどうだとか、そんなものは後からいくらでも修正できる。……なぜなら、何か問題があっても、我々は月まで15秒で技術者と資材を送り込めるのですから。……そこは、安心?してください」
そのあまりにも乱暴な、そしてどこまでも『やまと』の性能を前提とした、神の如きプロジェクトマネジメント。
それに、ハミルトンが、ついに堪えきれないといった様子で机を叩いた。
「はー、待て待て、サカキ! ……いくら後から修正できるとはいえ、ある程度は最初にしっかり機能させておかなければ、ただの宇宙のゴミを増やすだけになるぞ! ……第一、その前に解決すべき問題が山積みだろうが!」
「…………と、申しますと?」
「…………民間人の選抜は、どうするんだ!」
ハミルトンは、叫んだ。
「……君たちの政府が世界中に公募をかけてしまった、あの厄介な『観光客』たちのことだ! ……一体誰が、どの基準で、あの何億という応募者の中から、最初の月面市民を選ぶというのだ!?」
そのあまりにも現実的で、そしてどこまでも面倒くさい問題提起。
会議室の空気が、再び凍りついた。
そうだ。
忘れていた。
このプロジェクトは、ただの科学実験ではない。
全世界の注目を浴びる、巨大な政治ショーでもあるのだ。
榊は、その額に滲む冷や汗を、手の甲で拭った。
「…………それは…………」
「はー、待て待て、ハミルトン」
今度は、ペトロフがその面倒くさい議論を遮った。
「……なんで、そんなことまで我々宇宙開発局が仕切らねばならんのだ。……そんなものは、それぞれの政府にぶん投げておけばよかろう」
そのあまりにも無責任な、しかしどこまでも官僚的な提案。
だが、その提案を、榊は悲痛な顔で否定した。
「………………いやー、それがですね、ペトロフ博士……」
彼の声は、か細かった。
「…………日本政府からは、既に『選抜基準の策定と最終候補者のリストアップはJAXAに一任する』と、丸投げされておりまして……」
「………………」
「…………あいつら、クソだな……」
ペトロフは、心の底から、そして国境を超えた同志への深い共感と共に、そう呟いた。
会議室は、爆発したような笑い声と、そして深い深いため息に包まれた。
そのあまりにも人間臭い、そしてどこまでも不毛な議論の合間に、これまで黙ってデータを見ていた一人の若い科学者が、おずおずと手を挙げた。
「…………あの……」
「なんだね?」
「……そもそも、我々は月で何をすべきなのでしょうか……?」
そのあまりにも純粋な、そしてどこまでも本質的な問い。
会議室が、再び静まり返った。
「……まあまあ、月面探査もしたいですよね」
ハミルトンが、その若き科学者の心を代弁するように言った。
「…………ああ、分かる。……正直、都市を作るより先に、そっちをやりたいよな……。……未知のクレーターの底を、月の地下洞窟を、我々の手で初めて探検する。……それこそが、我々が子供の頃から夢見てきたことだ。……だが、政府は分かってねぇよ。……奴らが求めているのは、科学的な発見じゃない。……ただ、テレビ映えのするピカピカの『街』だけだ」
その科学者の魂の叫び。
それが、この会議の空気を、全く予想外の方向へと転がらせる引き金となった。
これまで現実的な議論に終始していた榊理事長の、その瞳が、ふっと遠い目になったのだ。
そして彼は、まるで夢見る少年のような声で、ぽつりと呟いた。
「………………温泉、作ろうぜ!!」
「…………………………………………は?」
会議室にいた全ての人間が、完全に固まった。
おんせん?
今、この日本の宇宙開発のトップは、温泉と言ったか?
「…………温泉、なんで!?」
ハミルトンが、絶叫に近い声で聞き返した。
「いやー」
榊は、照れくさそうに、しかしその目は本気で語り始めた。
「…………月面で温泉。……ロマンがあるでしょう?」
「………………」
「……考えてもみてください。……漆黒の宇宙空間に浮かぶ青い地球を眺めながら、湯に浸かるんですよ? ……これ以上の贅沢が、この宇宙にありますか? ……いや、ない!」
そのあまりにも突飛な、そしてどこまでも日本人らしい発想。
それに、最初は呆気に取られていた各国の理事長たちも、次第にその顔に興味の色を浮かべ始めていた。
「…………まあ、確かに。……悪くないかもしれんな、それは」
ペトロフが、その熊のような顔で唸った。
「……極寒の宇宙での長期滞在クルーの精神的ストレスを緩和する効果は、絶大かもしれん。……うん、合理的だ」
「…………美しい……」
デュボワが、うっとりとした表情で呟いた。
「……月の静寂と、日本の温泉文化の融合。……なんと詩的な……!」
「でしょう!?」
榊は、我が意を得たりとばかりに身を乗り出した。
「…………それに、『やまと』の積載量には、まだ十分な余裕がある! ……温泉ユニットの一つや二つ、詰め込んでもバチは当たらんはずだ!」
そのあまりにも楽観的な、そしてどこまでも風呂好きな一言。
だが、その彼の暴走を、ハミルトンの現実的なツッコミが引き戻した。
「…………いや、待て、サカキ! ……それより、物資だろうが! ……医療物資! 食料! ……それらを完全に自己生産できるシステムを構築しない限り、月面都市などただの張りぼてだぞ!」
「…………む」
「………………やまとのピストン輸送じゃ、良くないですか?」
それまで黙っていたJAXAの若い女性職員が、おずおずと、しかし的確な指摘を口にした。
「…………え?」
「……だって、15秒ですよ? ……食料が足りなくなったら、地球のスーパーに買い出しに行けばいいですし。……誰かが病気になったら、そのまま地球の病院に運べばいい。……その方が、確実で安全じゃないですか?」
そのあまりにも正論で、そしてどこまでも『やまと』の存在を前提とした、コロンブスの卵的発想。
会議室は、再び静まり返った。
そうだ。
その通りだ。
我々は、まだ古い常識に囚われすぎていた。
「…………あー」
ハミルトンが、呻いた。
「…………だが、それでは『やまと』を月面とのやり取りだけで終わらせるのは、あまりにも勿体ないぞ! ……火星にも、行きたいしなあ!」
「…………あー、そう考えると、そうですね」
榊も、唸った。
「…………月面だけで『やまと』を使い倒して終わるのは、あまりにも勿体ないですね……」
そのあまりにも贅沢で、そしてどこまでも子供じみた悩み。
神の玩具を与えられた子供たちは、その遊び方のスケールが大きすぎるが故に、新たな、そしてより高度なレベルの「問題」に直面していた。
彼らの奇妙で、壮大で、そしてどこまでも滑稽な月見会議は、結論の出ないまま、夜が更けるのも忘れて続いていった。
そのあまりにも人間臭い、そしてどこまでも愛おしい狂騒の始まりを、まだ神は知らない。
あるいは、その全てを、最高の笑顔で見下ろしているのかもしれない。




