第101話
尾張国、那古野城の空気は張り詰めていた。
城の最も奥深くにある、練兵場。そこは、普段であれば、若き兵たちの鬨の声と、武具のぶつかり合う音で満ちているはずだった。だが、今日のその場所を支配していたのは、重苦しい沈黙と、百戦錬磨の家臣たちが放つ疑念と困惑のオーラだけだった。
彼らの視線の先、練兵場の中央に立つのは二人の男。
一人は、この織田弾正忠家の当主、織田信秀。虎の如き猛将として知られ、その知略と武勇で、この分裂した尾張国をまとめ上げつつある戦国の雄。その顔には、深い疲労と、そしてそれ以上に、目の前の己の息子に対する理解不能な感情が渦巻いていた。
そして、もう一人。
その息子、織田三郎信長。
その日の彼の出で立ちは、いつものうつけのそれとは全く違っていた。
彼は、簡素な黒の小袖の上に、一枚の壮麗な羽織をまとっていた。その羽織は、陽光を反射して、まるで溶けた黄金のようにきらきらと輝いている。だが、その輝きは、絹や金糸のそれではない。もっと有機的で、まるで生き物の鱗粉が舞っているかのような、神々しいまでの光だった。
彼の顔には、いつものうつけの空虚な笑みはない。
そこにあるのは、絶対的な自信と、そして父である信秀を試すかのような、不遜なまでの挑戦的な光だった。
「…………三郎」
信秀が、低い、唸るような声で言った。
「……貴様、今、何と申したか。……もう一度、この父の耳に聞こえるよう、はっきりと申してみよ」
その声には、怒りと、そしてそれ以上の戸惑いが滲んでいた。
「はっ!」
信長は、その若々しい声を練兵場全体に響き渡らせた。
「申し上げました! この織田三郎信長、先日、この国の未来を憂う神仏のお遣いとまみえ、この二つの神宝を授かりましたと!」
彼は、その身にまとった黄金の羽織と、自らの胸を指差した。
「この『不死鳥の羽衣』は、いかなる刃も通さぬ絶対の守り! そして、我が身に宿りしこの力は、人の理を超えた神仏の剛力! ……そして、そのお遣いはこう仰せられた! 『その力をもって、この日ノ本の乱れた世を平らげ、天下をその手に布くべし』と!」
そのあまりにも荒唐無稽で、そしてどこまでも大それた宣言。
練兵場の隅で成り行きを見守っていた家老衆――林秀貞や平手政秀といった、信長の傅役を務めてきた男たちの顔が、絶望に青ざめていく。
(……終わった……)
林秀貞は、内心で天を仰いだ。
(……うつけも、ここに極まれり。……殿は、ついに本当の狂人となられてしまわれた。……もはや、この織田家に未来はない……)
だが、信秀の反応は、彼らの予想とは少しだけ違っていた。
彼は、怒りも呆れもしなかった。
彼は、ただ静かに、そしてその鷹のように鋭い目で、自らの息子の瞳の奥の真実を見極めようとしていた。
そして、彼は言った。
「………………面白い」
「……殿!?」
平手政秀が、驚きの声を上げる。
「……面白いではないか、平手よ」
信秀は、ゆっくりと立ち上がった。
「……我が息子が、ただのうつけではなく、神仏に愛されし天命の子であると、そう申しておるのだ。……ならば、この父として、その真偽を確かめてやるのが務めであろう」
彼は、練兵場の隅に控えていた、織田家最強と謳われる一人の武将を手招きした。
「……柴田!」
「はっ!」
呼ばれた男、柴田権六勝家が、その巨体を揺らし、一歩前に進み出た。
「……権六よ。……お主のその剛腕で、我が息子のその派手な羽織を、試し斬りにしてやれ。……手加減は無用だ」
「…………御意」
勝家は、一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにその鬼神の如き顔に獰猛な笑みを浮かべた。
彼は、腰に差した愛用の太刀を抜き放つ。その刀身は、初夏の日差しを浴びて、不気味なほどの輝きを放っていた。
「……よろしいですかな、若」
「うむ。……存分にやれい、権六」
信長は、全く動じなかった。
彼は、ただ静かに、その黄金の羽織をまとっただけの無防備な背中を、勝家に見せつけていた。
勝家は、深く息を吸い込んだ。
そして、その全身の筋肉を爆発させる。
「――チェストォォォォォォッ!!!!」
鬼神の雄叫びと共に、必殺の一撃が振り下ろされた。
太刀は、空気そのものを切り裂き、信長の背中に迫る。
家臣たちの間から、悲鳴が上がった。
だが、次の瞬間。
彼らは、信じられない光景を目撃した。
キィィィィィィィィィンッ!!!!!!
金属音。
それも、ただの金属音ではない。
巨大な寺の鐘を攻城槌で打ち鳴らしたかのような、甲高く、そしてどこまでも重い音が、練兵場全体に響き渡った。
勝家のその剛腕から放たれたはずの太刀が、信長の背中の羽織に触れたまさにその寸前で、ぴたりと、まるで見えない壁にでも阻まれたかのように、完全に静止していたのだ。
そして、その衝撃波だけで、勝家の巨体は数歩後方へと吹き飛ばされた。
「…………なっ……!?」
勝家は、自分の両手を見つめ、わなわなと震えていた。
その掌には、刀を握りしめていたはずの感覚が、痺れて残っていない。
そして、信長は。
涼しい顔で、ゆっくりと振り返った。
その黄金の羽衣には、傷一つ、糸のほつれ一つついていない。
「………………」
練兵場は、死んだように静まり返っていた。
誰もが呼吸を忘れ、ただ目の前のありえない光景に凍り付いていた。
「………………はは」
その静寂を破ったのは、信秀の乾いた笑い声だった。
「………………はははははは。……なるほどな。……面白い。……実に面白い羽織ではないか」
彼は、次に、もう一人の屈強な家臣を呼びつけた。
「……佐々!」
「はっ!」
「……お主の自慢の鉄砲で、あやつを撃ってみよ」
そのあまりにも非情な命令。
だが、もはやそれを諌める者はいなかった。
佐々成政と呼ばれた若い武者は、最新鋭の火縄銃を構えた。
そして、狙いを定め、引き金を引いた。
轟音と白煙。
鉛の弾丸が、一直線に信長の胸へと向かう。
だが、結果は同じだった。
キン、という軽い音と共に、弾丸は彼の胸の前で無残にひしゃげ、力なく地面へと転がり落ちた。
「………………ふむ」
信長は、自らの胸元を軽く手で払うと、満足げに頷いた。
「……どうやら、この羽織は本物のようじゃな、父上」
「…………うむ」
信秀は、もはやその顔に驚きの色さえ浮かべてはいなかった。
彼の頭脳は、この神の如き防御力がもたらすであろう、計り知れないほどの軍事的なアドバンテージを、冷静に、そして冷徹に計算していた。
「……だが、それだけではあるまい。……貴様が授かったという、もう一つの力。……その『神仏の剛力』とやらを、見せてもらおうではないか」
「御意」
信長は、にやりと笑った。
そして、彼は柴田勝家に向き直った。
「……権六。……今度は、手合わせを願おうか」
「………………」
勝家は、もはや言葉もなかった。
彼は、ただ、この目の前の若き主君が、もはや自分が知るうつけの若様ではない、何か人知を超えた恐るべき存在へと変貌を遂げてしまったことを、その武人としての本能で感じ取っていた。
彼は、無言で木刀を構えた。
そして、織田家最強の猛将と、神の力を宿した魔王との、あまりにも一方的な模擬戦が始まった。
それは、もはや戦いですらなかった。
勝家が渾身の力で振り下ろす木刀を、信長は、まるで子供の遊びでも相手にするかのように、指一本で受け止める。
そして、彼が軽く腕を振るうだけで、勝家のあの巨体が、まるで木の葉のように宙を舞い、練兵場の壁に叩きつけられた。
「…………ぐはっ……!?」
勝家は、その場に崩れ落ち、完全に気を失っていた。
そのあまりにも圧倒的な、そしてどこまでも絶望的な力の差。
練兵場は、再び深い、深い沈黙に包まれた。
そして、その沈黙の中心で。
信長は、ただ静かに立っていた。
その顔には、勝利の喜びなど微塵もなかった。
そこにあったのは、自らの内に宿るあまりにも巨大すぎる力を、持て余しているかのような、深い、深い孤独の色だけだった。
「………………まさに、神仏の力だな」
観覧席で、信秀が呻くように呟いた。
その時だった。
練兵場の屋根の上に、何の気配もなく、一匹の黒猫がちょこんと座っていた。
「うむ。……元気そうじゃな、小僧よ」
そのあまりにも場違いな、そしてどこまでも呑気な声。
信長は、その声に気づくと、それまでの魔王の如き貌を、ぱっと輝かせた。
その顔は、もはや覇王でも魔王でもなかった。
それは、尊敬する師に自らの成長を褒めてもらいたいと願う、ただの少年の顔だった。
「おお、賢者殿! ご覧になられておりましたか!」
信長は、興奮気味に空を見上げた。
そして、彼は完全に呆然としている父、信秀に向き直った。
「父上! この御方こそが、私にこの力を授けてくださった神仏のお遣い! 賢者・猫殿にございます!」
「…………なっ……!?」
信秀が、そしてその場にいた全ての家臣たちが、一斉に屋根の上を見上げた。
そこにいたのは、確かにただの黒猫だった。
だが、その猫が、再び人間の言葉を話した。
「うむ。……ワシが賢者・猫じゃ」
そのあまりにも現実離れした光景。
信秀は、もはや自らの常識の全てを放棄せざるを得なかった。
彼は、その場に深々とひざまずいた。
「…………おお……! ……まこと、神仏のお遣い様でございましたか……! ……この織田信秀、知らぬこととはいえ、あまりにも無礼を……!」
「まあ、よい」
賢者は、屋根の上からふわりと飛び降りると、信長の足元に音もなく着地した。
「……どうじゃ、小僧よ。……その力には、もう慣れたか?」
「ええ、バッチリですよ、賢者殿!」
信長は、得意げに胸を張った。
「手始めに、先日、城下で民を苦しめておった悪徳商人どもを、この力で懲らしめてやりましたわ!」
「…………ほう」
「……ええ! まさに神の鉄槌! 奴ら、私の姿を見るなり腰を抜かし、涙ながらに悪行を悔い改めておりました! はっはっは、実に痛快でございましたぞ!」
そのあまりにも無邪気な、そしてどこまでも危険な武勇伝。
それを聞いていた信秀の顔が、さっと青ざめた。
「…………おい、三郎! それは聞いておらんぞ!」
彼は、父親の顔に戻っていた。
「……勝手に、そのような危険なことをするでない! ……もし、万が一、お前の身に何かあったら、どうするつもりだ!」
「ははは。済まない、父上」
信長は、悪びれる様子もなく笑った。
「……だが、力は本物だったのだ。……この羽衣と、この力がある限り、この信長に怪我などという言葉は、もはや存在せぬわ!」
そのあまりの自信と、そして若さ故の傲慢さ。
信秀は、もはや言葉もなかった。
彼は、ただ、この神の如き力が、自らの愛する息子を、良い方向にも、そして悪い方向にも変えてしまったことを痛感し、深い溜め息をつくしかなかった。
「……うむうむ。……なかなか、その力を使いこなしておるようじゃな」
賢者は、満足げに頷いた。
「……さて。……今日、ワシがここに来たのはな。……お主のその成長ぶりを褒めてやるためだけではない。……お主に、さらなる力を与えるためじゃ」
「…………さらなる力……?」
信長の目が、ギラリと輝いた。
賢者は、次元ポケットから一つの、青黒い、鈍い輝きを放つ石を取り出した。
魔石だ。
「……これを見るといい」
「……石ですかな?」
「うむ。……これは『魔石』と言ってな。……持ち主の意思の力を具現化する。……つまり、妖術が使えるようになる石じゃ」
「…………妖術!」
その言葉に、信長だけでなく、信秀や家臣たちの目も色めき立った。
「……これを、持って、そこに転がっておる権六の刀に向かって、『浮け』と念じてみるがよい」
信長は、言われるがままに魔石を手に取ると、気を失っている柴田勝家の傍らに落ちていた太刀を見据えた。
そして、念じた。
(……浮け!)
次の瞬間。
太刀が、ふわりと宙に浮き上がった。
「おおおおおっ! 浮いた! 刀が、浮いたぞ!」
「……妖術じゃな!」
信長は、子供のようにはしゃいだ。
「……それだけではないぞ?」
賢者は、続けた。
「……この魔石を砕いて土に混ぜると、美味い米が、たったの一日で出来るぞい」
「…………何!?」
今度は、信秀が絶叫に近い声を上げた。
米が、一日で。
その一言が持つ、あまりにも巨大な戦略的な意味を、この戦国の雄が見抜けないはずがなかった。
飢饉の克服。兵糧の安定供給。
それは、天下を左右する力、そのものだった。
「…………ほほう。……素晴らしい……! ……魔石と申したか。……賢者殿、ぜひ、その石を我が織田家に……!」
信秀は、必死の形相で懇願した。
だが、その言葉に対し、賢者は静かに首を横に振った。
「……うむ。……ただでは無理じゃな」
「…………え……?」
「……こう見えても、ワシは世界を股にかける商人でのう」
賢者・猫は、その翠色の瞳を、商人のそれへと変えていた。
「…………金が欲しいのう」
そのあまりにも直接的で、そしてどこまでも俗な要求。
信秀は、一瞬呆気に取られた。
だが、次の瞬間、彼の顔に、深い、深い安堵の色が浮かび上がった。
「…………ほう。……ほうほう。……金でございますか」
彼は、立ち上がった。
そして、目の前の神の化身に向かって、初めて対等な交渉相手として向き直った。
「…………なるほど。……利益を求めるというのは、実に分かりやすいですな。……何もせず、ただ気まぐれに力をくれる神仏よりも、よっぽど納得ができるというもの」
そのあまりにも老獪な、そしてどこまでも現実的な為政者の言葉。
賢者・猫(創)は、内心でほくそ笑んだ。
(……さすがは、信長の親父。……話が早くて助かるわい)
「うむ」
賢者は、満足げに頷いた。
「……とりあえず、その魔石、お主たちに一つくれてやろう。……その効果を、その目で確かめてみるが良い。……そして、その価値がお主たちに理解できた時、改めて商談の席を設けようではないか。……お代は、後日で良いからのう」
彼はそう言うと、手元にあった魔石を信長の足元へと転がした。
そして、彼は自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは。
神の不在の静寂と、その神が置いていったあまりにも巨大すぎる奇跡の種と、そしてその種を前にして、畏怖と興奮と、そして計り知れないほどの野心に打ち震える、織田家の父子の姿だけだった。
信秀は、床に転がる魔石を、震える手で拾い上げた。
そして、自らの息子、信長に向き直った。
その目は、もはやうつけを見る目ではなかった。
それは、自らの野望を、そしてこの織田家の未来を託すに足る、神に選ばれし後継者を見る目だった。
「…………三郎よ」
彼の声は、静かだった。
「…………面白くなってきたではないか」
「…………ああ」
信長は、不遜に、そして力強く頷いた。
「…………面白くなるのは、これからよ、父上」
歴史の歯車は、今、確実に、そして誰も予測し得なかった神の介入によって、その回転を、狂おしいほどに早め始めていた。
尾張のうつけが、真の魔王へとその貌を変える、その本当の物語は、まだ始まったばかりだった。




