第100話
神は退屈していた。
そして、退屈した神が次に求めるのは、常に新たな「遊び」である。
「………………暇だ」
彼は、日本の山奥に築き上げた理想郷の究極の露天風呂の縁に腰掛け、湯気に煙る美しい日本庭園を眺めながら、心の底から呟いた。
「……なんか新しいことしたいなあ……」
その尽きることのない倦怠を紛わすため、彼は究極の愛機『テッセラクト・ボイジャー』を駆り、ただ当てもなく、まだ見ぬ世界線を観測するだけの気まぐれな旅に出ることにした。それは、征服でも救済でもない、ただの暇つぶし。神の散歩だった。
そして、彼の退屈を持て余した脳裏に、ふと、一つの最高の「遊び相手」の顔が浮かび上がったのだ。
日本の歴史。その中でも、ひときわ異彩を放つ一人の男。
『尾張の大うつけ』。
「…………よし」
創は、温泉からザブンと音を立てて上がった。
「……行くか。……俺の人生最高の歴史観察プロジェクトを!」
◇
天文一五年、西暦1546年初夏。
尾張国、那古野城周辺の空気は、戦国の世とは思えぬほどのどかな陽気に満ちていた。田植えを終えたばかりの水田が、初夏の柔らかな陽光を浴びて、鏡のようにきらきらと輝いている。その畔道を、一人の奇妙な若者が、供も連れずに闊歩していた。
年は、まだ十代半ば。その顔立ちは精悍で、その瞳の奥には、常人には測り知れぬ深い光が宿っている。だが、その出で立ちは、あまりにも常軌を逸していた。虎の皮でできた半袴を履き、上半身は湯帷子一枚。髪は茶筅髷に結い、腰には火縄銃を収めるための火打ち袋や瓢箪を、じゃらじゃらとぶら下げている。
道行く農民たちは、その姿を遠巻きに眺め、ひそひそと噂し合った。
「……見ろ、うつけ殿のお成りだ」
「……また、あのような奇妙な格好をされて。……お世継ぎが、あれではなあ」
織田 三郎 信長。
その若き日の姿は、人々の侮りと、そして微かな憐憫の対象でしかなかった。
賢者・猫となった創は、その信長の日常を、数日間にわたって観察した。
それは、噂に違わぬ奇行の連続だった。家臣の諫言にも耳を貸さず、身分を問わず町の若者たちと泥まみれになって相撲を取り、腹が減れば人の家の庭先の柿を断りもなくもいで食らう。
だが、創の神の如き観測者の目は、そのうつけの仮面の奥に隠された、もう一つの顔を見抜いていた。
一人きりになった時の彼の目。
それは、決してうつけの目ではなかった。
それは、この矮小な尾張という国を、そしてその先に広がる日ノ本の全てを、まるで掌の上の地図でも眺めるかのように、冷徹に見据える覇者の目だった。
(…………面白い)
創は、木の上で毛づくろいをしながら、にやりと笑った。
(……こいつは、本物だ。……ただの馬鹿じゃない。……自分の巨大すぎる器を、この退屈な時代の物差しで測られることを嫌い、自らうつけを演じている孤独な天才だ。……いいじゃないか。……実にいい。……最高の遊び相手になりそうだ)
その日の夕刻。
創は、ついにその時が来たと判断した。
信長は、いつものように家臣たちの目を盗んで城を抜け出すと、一人、清洲城近くの川辺へとやってきた。そこは、彼の唯一の安息の地らしかった。
彼は、うつけの仮面を脱ぎ捨て、ただの一人の若者として、その冷徹な目で遠い空を見つめていた。その手には、当時まだ極めて希少で高価な輸入品であったはずの火縄銃が握られ、彼はそれを、まるで愛しい我が子でも慈しむかのように、丁寧に、そして執拗に手入れしていた。
その静寂を破り、賢者・猫が音もなく彼の隣に現れた。そして、はっきりと人間の言葉で話しかけた。
「――面白い玩具じゃのう、それは」
信長の体が、びくりと震えた。
だが、彼は決して悲鳴を上げたりはしなかった。
彼の動きには、一切の無駄がなかった。彼は、弾かれたようにその場から飛び退くと、瞬時に腰の脇差を抜き放ち、その切っ先を黒猫へと向けていた。
そのあまりの神速。
それは、ただのうつけにできる動きでは、断じてなかった。
「…………ほう。面白いことを言う」
信長は、その冷徹な目で、喋る猫を射抜くように見つめていた。
「……お主こそ何者じゃ。狐か、狸か。あるいは、敵が放った忍びの術か。……いずれにせよ、この信長の前に姿を現したことを、すぐに後悔させてやるわ」
その声は若々しかったが、その響きには、既に人の上に立つ者の絶対的な威厳が宿っていた。
「くくく……」
賢者・猫は、その殺気を前にして、全く動じなかった。
彼は、ただ心底楽しそうに喉を鳴らした。
「ワシは、ただの通りすがりの賢者じゃよ。……お主の『うつけ』ぶりがあまりに面白いのでな。少し、からかいに来ただけじゃ」
「賢者だと?」
信長は、眉をひそめた。
「……ならば、その賢者殿に一つ問おう。……お主は、この信長がただのうつけではないと、見抜いた上でここに来たのか?」
「うむ。……お主のその瞳は、うつけの目ではない。……この矮小な尾張ではなく、その遥か先を見ておる。……そうだ、この日ノ本全てをその手に握らんと欲する、覇王の目じゃ」
そのあまりにも的確な、そして誰も理解してくれなかった自らの本質を言い当てられて。
信長の顔から、初めて警戒の色が消えた。そして、その代わりに浮かび上がったのは、深い、深い孤独の色だった。
「………………」
彼は、ゆっくりと脇差を鞘に収めた。
そして、その場にどかりと胡座をかいた。
「…………面白い。……面白いぞ、化け猫。……お主、名を名乗れ」
「……ワシには、名などない。……賢者・猫とでも呼ぶがよい」
こうして、歴史上最も奇妙で、そして最も危険な友情の、あるいは共犯関係の最初の対話は始まった。
二人の間で、言葉と言葉、魂と魂がぶつかり合う、静かで熾烈な腹の探り合いが続いた。
信長は、自らの壮大な野望を、そしてそれを阻む家中の鬱屈を、初めて誰かに語って聞かせた。
賢者・猫は、その全てを、ただ黙って聞いていた。
そして、信長が全てを語り終えた時、彼は静かに、しかしきっぱりと言った。
「………………なるほどのう。……面白い。実に面白い夢じゃ。……だがな、小僧よ。……お主は、あまりにも脆すぎる」
「……何だと?」
信長の声に、険が宿る。
「お主のその野望は、あまりにも巨大すぎる。……故に、それは必ずや数多の敵を生むであろう。……暗殺者、裏切り者、そして嫉妬に狂った凡人ども。……お主のその脆い人の身では、その野望の半ばで必ずや凶刃に倒れるか、あるいは病にその身を蝕まれて終わるのが、関の山じゃ」
そのあまりにも冷徹な、そして否定しようのない未来予測。
それは、信長自身が、その心の最も深い場所で、誰よりも恐れていた真実そのものだった。
「………………」
「……まあ、よい」
賢者は、立ち上がった。
「……お主のその壮大な見世物、このワシが最後まで見届けてやれぬのも、少しばかり面白くない。……故に、くれてやろう。……このワシからの、ささやかな、しかし絶対的な『保険』をな」
彼はそう言うと、何もない空間から、まるで手品のように二つの奇跡の道具を取り出した。
一つは、一枚の畳まれた布だった。
彼は、それを川辺の草の上にふわりと広げた。
それは、陽光を反射して、まるで溶けた黄金のようにきらきらと輝く、この世のいかなる織物とも違う、神々しいまでの羽衣だった。
「…………なんだ、これは……?」
信長は、そのありえないほどの美しさに息を飲んだ。
「……『不死鳥の羽衣』じゃ」
賢者は、こともなげに言った。
「……まあ、見ての通り、ただの派手な羽織よ。……だが、こいつは、いかなる刃も、火縄銃の弾丸さえも通さん。……燃えもせず、切れもせず、そして汚れても勝手に綺麗になる。……便利な一張羅よ」
彼は、その羽衣の端を信長の脇差で突いてみせた。
だが、鋼鉄の切っ先は、その柔らかな布に触れた瞬間、まるで粘土にでも突き刺さったかのように、その勢いを完全に殺され、弾き返された。
「………………なっ!?」
信長は、絶句した。
だが、賢者の奇跡はまだ終わらない。
「……そして、これじゃ」
彼が次に差し出したのは、一つの小さな、しかし大地を思わせる力強い茶褐色の輝きを放つ宝石だった。
スキルジェム、『身体強化』。
「……お主のその魂は、確かに非凡じゃ。……だが、その器である肉体は、あまりにも脆い。……それでは、魂の力に肉体が耐えきれず、いずれ自滅するぞ。……これを、その身に宿すがよい。……それは、お主の肉体を、その魂にふさわしい器へと作り替えるであろう」
「………………」
信長は、もはや言葉もなかった。
彼は、目の前で繰り広げられる神の如き御業と、そしてその神が自分に与えようとしているものの、あまりにも巨大すぎる価値を前にして、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼は、神に願うような男ではない。
だが、今この瞬間だけは、彼は己の矮小さを認めざるを得なかった。
彼は、その場に深々と、そして完璧な武士の礼をもってひざまずいた。
「…………賢者殿……。……この織田三郎信長、生涯の不覚……! ……貴殿は、まこと神仏の類にございましたか……!」
「……まあ、似たようなものじゃな」
賢者は、鷹揚に頷いた。
そして、そのスキルジェムを、信長の胸の中央にそっと押し当てた。
ジェムは眩い光を放ち、彼の着流しを通り抜け、その胸の皮膚の中へと、すう、と音もなく吸い込まれていった。
信長の体が、びくりと震えた。
「…………ぐっ……! おおおおっ……!」
彼の脳内に、直接、膨大な情報の奔流が叩き込まれる。
力とは何か。
肉体とは何か。
そして、その二つをいかにして融合させ、人の限界を超えるのか。
彼の全身の細胞が、その神の教えによって再起動されていく。
骨は鋼のように、筋肉はしなやかな鞭のように。
数秒後、その情報の奔流が収まった時。
彼が顔を上げると、その瞳は、もはやただの覇王のそれではなかった。
そこには、人の理を超えた魔王の如き、神々しい光が宿っていた。
「…………素晴らしい……!」
信長は、自らの両手を見つめ、わなわなと震えていた。
「……力が……! 力が漲ってくる……! これさえあれば……! これさえあれば、この信長、天下さえもこの手に……!」
そのあまりの変貌ぶりに、創は満足げに頷いた。
(……よしよし。……これで、俺の『主人公』が途中で雑魚キャラに殺される心配はなくなったな)
彼は、立ち上がった。
「……さて、小僧よ。……ワシからの贈り物は、以上じゃ」
賢者は、言った。
「……その神の玩具をどう使いこなすか。……うつけのまま終わるか、あるいは真の魔王となるか。……全ては、お主次第じゃ。……せいぜい、このワシを楽しませてくれるがよい」
彼はそう言い残すと、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、神の不在の静寂と、神の玩具を手にした一人の若き魔王だけだった。
信長は、しばらく呆然としていたが、やがてその口元に、深い、深い、そしてどこまでも残酷な笑みを浮かべた。
彼は、不死鳥の羽衣をその身にまとい、その黄金色の輝きを夕日に晒した。
「…………くくく……。……あっはっはっはっはっは!」
彼の高らかな笑い声が、尾張の空に響き渡った。
「……面白い! ……面白いではないか、化け猫よ! ……見せてやろう! この織田信長が、お主のその退屈を吹き飛ばすほどの、最高の見世物をな!」
歴史の歯車は、今、確実に、そして誰も予測し得なかった方向へと、その回転を始めた。
織田信長という男の、本当の伝説。
その本当の幕開けは、神の気まぐれな、ほんの些細な「お節介」から始まったのである。
◇
その全ての顛末を。
創は、日本の山奥の自室の、究極のホームシアターの巨大スクリーンで、まるで最高の歴史大河ドラマでも観るかのように、リアルタイムで観戦していた。
彼は、ポップコーン(もちろん、フード・レプリケーター製)を頬張りながら、満足げに呟いた。
「……いやー、面白くなってきた! ……こりゃあ、最高の暇つぶしが見つかった。……さて、次はいつ顔を出して、ちょっかいを出してやろうかな」
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、歴史そのものを自らの娯楽として消費するという、新たな、そして最も不遜なステージへと、その駒を進めたのだった。
彼のそのあまりにも無邪気で、そしてどこまでも無責任な神の遊びが、この後の日本の歴史に、どれほどの血と混沌と、そして新たな物語をもたらすことになるのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。




