第98話
魔法。
『意思の力で因果律を改変する能力』。
サイト・アスカの地下深く、『セクター・グリモワール』と名付けられた区画は、今や日本の、いや日米両国の歴史上、最も奇妙で、そして最も困難な挑戦の舞台となっていた。
賢者から賜りし、あのあまりにも安っぽい青い表紙の教科書、『サルでもわかる! 魔法入門』。
そのあまりにも非科学的で、そしてどこまでも精神論的な教えは、当初、日米の最高の頭脳たちを深い混乱の渦へと叩き込んだ。だが、あの最初の成功者、佐倉研究員の指先に灯った小さな光が、全てを変えた。
『可能である』という、揺るぎない事実。
その事実は、被験者として選ばれた日米両国の特殊部隊員たちの、鋼のように鍛え上げられた精神の最後の枷を、いとも容易く破壊した。
一度その感覚を掴んでしまえば、その先は驚くほどに早かった。
彼らは、まるで水を得た魚のように、次々と新たな魔法を習得していった。
その日のセクター・グリモワールは、まるで魔法学校の運動会のような、制御された、しかし熱狂的な混沌の渦に包まれていた。
広大な訓練場では、陸上自衛隊特殊作戦群の隊員とアメリカ陸軍デルタフォースのオペレーターが、互いの新たな「力」を競い合うように、常識を超えたデモンストレーションを繰り広げていた。
「――うおおおおおおっ!」
特殊作戦群の隊員の一人が、雄叫びを上げる。彼の全身が、淡い翠色のオーラに包まれる。
『身体強化』。
次の瞬間、彼は、まるで砲弾のように地を蹴った。その速度は、ウサイン・ボルトの全盛期を遥かに凌駕する。彼は、訓練場の壁際に置かれていた重量五百キロはあろうかという巨大なコンクリートブロックを、まるで発泡スチロールの塊でも持ち上げるかのように軽々と頭上へと掲げ、そしてそれを遠投した。ブロックは、轟音と共に数十メートル先の壁に激突し、粉々に砕け散った。
そのあまりの光景に、ガラス張りのモニタリングルームでそれを見ていた防衛大臣の岩城剛太郎が、子供のようにはしゃいでいた。
「素晴らしい! まさに超人! これぞ、我が国が誇る新たな『鬼神』よな!」
だが、その日本の鬼神のパフォーマンスを、アメリカの超人が鼻で笑った。
「――Not bad, samurai. But check this out.(悪くないな、サムライ。だが、こいつを見てみな)」
デルタフォースのオペレーターが、その筋骨隆々の巨体から、同じように翠色のオーラを迸らせる。
彼は、助走もつけずにその場から跳躍した。
彼の体は、まるで重力の法則を無視したかのようにふわりと宙を舞い、訓練場の天井近く――地上から十数メートルの高さ――まで達すると、そこから近くの壁へと三角飛びをし、そして音もなく、猫のように軽やかに着地してみせた。
「……なんという跳躍力と、身のこなしだ……!」
岩城が、今度は悔しげに唸る。
「……身体能力の向上率に、人種的な差でもあるというのか……!?」
「まあまあ、岩城大臣。落ち着いてください」
その横で、プロジェクト・プロメテウス科学者チームの狂信的リーダー、長谷川健吾教授が、恍惚とした表情で解説を加えた。
「……これは、単純な筋力や敏捷性の向上ではございません。……彼らは、自らの肉体を構成する原子レベルで、魔力による最適化を行っているのです。……骨密度を高め、筋繊維の収縮率を上げ、そして何よりも、自らの体重そのものを魔力によって『軽く』している。……まさに、歩くオーバーテクノロジー。……ハリー・ポッターの世界観、そのものではありませんか! ……ビューティーふぉー! ビューティーふぉー!」
彼の隣では、アメリカ側のチームリーダーであるエヴリン・リード博士が、その燃えるような赤毛を揺らしながら、冷静に、しかしその目の奥に抑えきれない興奮の色を浮かべてデータを分析していた。
「……ええ、本当に。……まるで子供に戻ったみたいに、楽しいですわね、教授。……この魔法という名の新たな物理法則は、我々の知的好奇心を、これ以上ないほどに刺激してくれる」
訓練は、さらに高度なレベルへと移行していく。
『レビテーション』で宙を舞いながら『ファイアボール』を放ち、空中で模擬戦闘を繰り広げる魔導士たち。
『リペア』の魔法で破壊された訓練設備を、一瞬にして修復する後方支援部隊。
その光景は、もはやただの軍事訓練ではなかった。
それは、神の玩具を与えられた二つの超大国が、その新たな力の使い方を夢中で学び、そして互いに見せつけ合う、壮大な、そしてどこか無邪気な遊びのようだった。
「いやー、素晴らしいですね、本当に!」
モニタリングルームで、宰善茂総理大臣が、心の底から感嘆の声を上げた。
「……これほどの力が、我が国の、そして同盟国の兵士たちの手に渡った。……これでもう、いかなる国の脅威にも屈する必要はない。……真の平和が、訪れるやもしれんな」
そのあまりにも楽観的な、しかし指導者としての当然の感慨。
だが、その平和な空気に一つの冷たい影を落としたのは、やはりこの国の影の女王、橘紗英だった。
彼女は、その氷のような瞳で、訓練場の片隅で行われている別の実験の映像を、静かに見つめていた。
そこでは、一人のベテラン隊員が分厚い鋼鉄の盾を構え、その盾に向かって、別の隊員が対戦車ライフルを撃ち込むという、常軌を逸した実験が行われていた。
「…………どうです、橘理事官」
長谷川教授が、少しだけ残念そうな声で言った。
「……『対重火器シールド』の魔法陣。……教科書の最終章に記されていた、あの高難易度の防御魔法ですが……。……やはり、まだ我々人類には早すぎるようですな」
映像の中では、対戦車ライフルの徹甲弾が隊員の構えた盾に命中した瞬間、その表面に展開された微弱な魔力のシールドをいとも容易く貫通し、盾そのものを無残に吹き飛ばしていた。
「……教科書によれば、この魔法は、術者の周囲の空間そのものを歪め、運動エネルギーを別次元へと逸らす究極の防御魔法であると、記されております。……ですが、その発動には、あまりにも膨大な魔力と、そして何よりも、世界の理そのものを書き換えるという、神の如き強靭な『意志』が必要とされる。……今の我々のレベルでは、小石を弾くのが精一杯ですな」
「……ええ、分かっていますわ」
橘は、静かに頷いた。
「……ですが、いずれは必ず。……この魔法こそが、我が国の真の『盾』となる。……研究は、決して諦めないでください、教授」
「もちろんですとも!」
その時だった。
モニタリングルームの扉が開き、官房長官の綾小路俊輔が、その蛇のような顔にいつもの皮肉な笑みを浮かべて入ってきた。
「……いやはや、皆様。……ずいぶんと楽しそうですな。……まるで、ホグワーツ魔法魔術学校の課外授業でも見学しているかのようですわい」
そのあまりにも不謹慎な物言いに、岩城大臣が眉をひそめる。
「綾小路君! 貴様、この国家の未来を左右する重要な実験を、子供の遊びとでも言うつもりか!」
「おや、これは失礼」
綾小路は、肩をすくめた。
「……ですが、大臣。……子供の遊びほど、厄介なものはありませんぞ。……なぜなら、子供は手に入れた玩具を、いつか必ず家の外に持ち出して、友達に自慢したくなるものですからな」
彼はそこで、一旦言葉を切った。
そして、その声のトーンを、氷のように冷たくした。
「…………そして、その玩具を悪用する悪い子供が、必ず現れる。……我々は、その『もしも』の事態に、そろそろ本気で備えるべき時では、ありませんかな?」
そのあまりにも不穏な問いかけ。
モニタリングルームの空気は、一瞬にして凍りついた。
綾小路は、続けた。
「……この『魔法』という名の究極の力。……これを、いつまでも我々国家だけで独占し続けることは、果たして本当に可能なのでしょうか? ……この力は、あまりにも魅力的すぎる。……悪用されるリスクを考えれば、これは本来、民間には決して下ろしてはならない禁断の力です。……国家だけが、その責任において管理すべき絶対的な暴力装置。……そう、私は考えております」
そのあまりにも冷徹な、そしてどこまでも現実的な意見。
それは、この場にいる誰もが、心の底では理解していながら、あえて目を背けていた不都合な真実だった。
「……ですが」と、綾小路は言った。
「……賢者様が我々に与えてくださった、あの『教科書』。……あれは、あまりにも分かりやすすぎる。……あまりにも、再現性が高すぎる。……もし、万が一、この情報が民間に漏洩した場合、どうなるか。……あるいは」
彼の目が、すう、と細められる。
「……もし、我々が知らないだけで、既にこの世界のどこかに、この理に自力でたどり着き、密かに魔法を使っているような輩が存在しないと、誰が断言できるのですかな?」
そのあまりにも衝撃的な、そしてあまりにもありえそうな仮説。
司令室は、水を打ったように静まり返った。
そうだ。
考えてもみれば、当たり前のことだった。
賢者がもたらした奇跡は、魔法だけではない。
ポーション、魔石、そして鑑定スクロール。
世界には、既に『奇跡』という名の、常識を超えた現象が溢れかえっている。
その中で、人々が、「もしかしたら、大昔に語られていた魔法や魔術は、本当に実在したのではないか?」と考え始めるのは、むしろ当然の帰結だった。
「…………奇跡とされていたのは、魔法(因果律改変能力)だったのではないか? ……とね」
綾小路は、とどめを刺した。
「……あー、アメリカさん、流石ですね。……その可能性は、日本政府も既に考えておりましたよ。……巷に、我々の知らない魔法や魔術を使える奴らが、潜んでいるのではないかと」
彼は、エヴリン・リード博士の方をちらりと見た。
彼女は、静かに頷いた。
「……ええ。……我々も、同じ結論に達していますわ、ミスター・アヤノコウジ。……我々は、プロジェクト・オラクルのデータを再検証し、世界中の神話や伝説の中に登場する『奇跡』の数々を、魔法という観点から再分析しました。……その結果、驚くべき相関関係が、浮かび上がってきたのです」
彼女は、手元の端末を操作し、モニタリングルームのスクリーンに一枚の画像を映し出した。
それは、中世ヨーロッパで描かれた、聖人が病人を癒している宗教画だった。
「……例えば、この『聖者の奇跡』。……我々がポーションの効果を分析したデータと照らし合わせると、その治癒のプロセスに、驚くべき類似点が見られます」
次に映し出されたのは、日本の古い絵巻物だった。そこには、空を飛ぶ天狗や、姿を消す忍者が描かれている。
「……あるいは、これらの東洋の『妖術』や『忍術』。……これもまた、我々が今習得しつつある『レビテーション』や『インビジビリティ』の魔法の、原始的な形態であったと、仮説を立てることができます」
「…………つまり」
宰善総理が、呻くように言った。
「……我々が、初めての魔法使いではなかったと。……そういうことかね」
「……はい、総理」
橘が、静かに頷いた。
「……その可能性は、極めて高いと、判断せざるを得ません。……そして、もしそうだとしたら、我々は早急に手を打たねばなりません。……無法な魔法使いたちが、社会に混乱をもたらす前に」
「…………法整備ですな」
綾小路が、呟いた。
「……そうです。……魔法という新たな概念を、我々の法体系の中に組み込むための、全く新しい法律。……『超常能力管理基本法』とでも名付けましょうか。……そして、その法の下に、国内に存在する全ての潜在的な魔法使いたちを登録させ、管理し、そして国家の管理下に置くのです」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも官僚的な解決策。
だが、それこそが彼らにできる唯一の、そして最善の手だった。
「……そして、この問題は、もはや我が国だけの問題ではない」
外務大臣の古賀が、震える声で言った。
「……魔法は、国境を越える。……これは、人類全体で取り組むべき課題です。……G7でも提言し、国際的な法整備を急がねばなりませぬ! ……これは、核兵器の管理以来の、最も重要な国際協調のテーマとなりますぞ!」
そのあまりにも正論で、そしてどこまでも理想主義的な提案。
だが、その提案に対し、これまで黙って議論を聞いていた岩城防衛大臣が、低い声で唸った。
「…………えー、G7に共有するのか?」
その声には、あからさまな不満の色が滲んでいた。
「…………アメリカ政府と、日本政府だけでいいじゃん」
そのあまりにも率直な、そしてどこまでも本音の言葉。
司令室の空気は、再び凍りついた。
理想と、現実。
国際協調と、国益の独占。
神がもたらした新たな力は、彼らに無限の可能性を示すと同時に、無限の、そしてどこまでも人間臭い悩みの種を植え付けていた。
彼らの終わりなき議論と苦悩の旅は、まだ始まったばかりだった。




