291 耐え忍ぶこと
その感覚には、どこか懐かしさがあった。
前世の日本に生きていた頃。
人生の節々に現れる壁や世の理不尽を前にして、怒りや悲しみ、苦しみの感情を抱き、その果てに自暴自棄な考えが脳裏を過ぎった時。
似たような心のあり方をしていたように思う。
だが、それは何も特別な経験という訳ではない。普通に生きていれば、多かれ少なかれ誰もがそういった状態に陥ったりするものだ。
……もっとも、それは元の世界での話。
俺がこの世界に転生して二十年弱。そんな感覚は久しく抱かなかった。
勿論、俺は聖人君子ではないので、怒りだの悲しみだのは割と頻繁に感じる。
救世の転生者として様々と事件に巻き込まれ、心を揺さぶられるような状況に直面することも比較的多いから尚更のことだ。
しかし、観測者はそういった破滅欲求に通ずるものを世界に押しつける。
そのルールは今はこの世界に生きている俺にも当然適用されており、何もかも滅茶苦茶にしたくなるような激情は感じたことがなかった。
「く、う……」
それが今、俺の中で激しく渦巻いている。
これこそがオルギスを始め、過去多くの人々を狂乱させた喇叭の人形化魔物【終末を告げる音】の滅尽・複合発露〈響く音色は本性を暴き立てる〉の力なのだろう。
根源に蓄積された破滅欲求が、喇叭の音に導かれて逆流してきているのだ。
「…………?」
と、そこまで考えて首を傾げる。
何故、自分はこうした冷静さを未だに保っていられるのだろうか、と。
確かに癇癪を起こした時の如く激しい感情が心を乱してはいるのだが……。
それと同時に「いや、それをそのまま行動に移してしまったら駄目だろう。常識的に考えて」という理性的な部分も確かに残っている。
更には、そうした葛藤染みた状態に己が陥っていることに対する疑問が、理性的な思考の割合を一層多くしてくれているようだ。
だが、そんな俺とは対照的に――。
「あ、ああああ、あああああああああっ! 【ガラテア】……【ガラテア】、【ガラテア】ッ!! お前さえ、お前さえいなければっ!!」
影の中からレンリの叫びが聞こえてきて、俺は一先ずそちらに意識を向けた。
彼女は俺とは異なり、完全に破滅欲求に飲み込まれてしまっているようだ。
しかも、その言葉。もし予想の通りなら、かなり危険な状況だ。
「ちっ、弾け飛べ!!」
だから俺は脳裏に渦巻く激情と疑問を一先ず抑え込みながら、圧縮した風を全方位に解き放ち、己が身を包み込む肥大化したオルギスの肉塊を吹き飛ばした。
爆発を起こしたかのような巨大な破裂音と共に飛び散る炎と肉の塊。
それを更に風の刃で細切れにしながら遥か彼方へと吹き飛ばす。
そうしながら一先ず〈裂雲雷鳥・不羈〉を以って戦場から大きく離れ……。
「テアッ!!」
それから俺は、影の中から彼女を速やかに引き上げて抱きかかえた。
オルギスから離れて尚、無音結界を超えて喇叭の音は響き続けている。
どうやら一度でも干渉を受けたら、無意識領域側で繋がってしまうようだ。
これでは、もはや無音結界は用をなさない。
テアも〈響く音色は本性を暴き立てる〉に晒されていると見るのが妥当だ。
しかし、戦う力のない彼女が多少暴れたところで俺に害はないし、むしろ他の皆と同じ場所にいる方が危険極まりない。
そういった考えの下、多少の警戒と共に彼女と視線を合わせる。すると――。
「イサク……怖かった……うぅ」
普段は余り表情を変えないテアが今にも泣き出しそうな顔で言いながら、縋りつくように俺に抱き着いてきた。
負の感情らしきものは微塵も感じられない。
どうやら、彼女は滅尽・複合発露の影響を全く受けていないらしい。
これは恐らく俺とはまた異なる状態であり、別の理由によるものなのだろう。
あるいは、テアが最凶の人形化魔物【ガラテア】の肉体だからかもしれない。
だが今は。そんな考察よりも彼女の安全を確保する方が先だ。
「大丈夫だ、テア。俺が守るから」
だから、一先ず彼女を落ち着かせるために柔らかい口調で宥める。
するとテアは、俺の腕の中で「うん……」と小さく頷いてくれた。
だが、直後。そんな彼女の僅かな安堵を打ち破るように。
「【ガラテア】アアアアアアアアアアアアッ!!」
絶叫と共に、影の中からレンリが飛び出してきた。
それと同時に彼女は真・複合発露〈制海神龍・轟渦〉を発動させ、俺を、いや、テアを狙って即座に襲いかかってくる。
「ひっ」
対してテアは、レンリの声と表情に滲んだ強烈な敵意に小さく悲鳴を上げ、必死に隠れようとするように体を縮こめながら俺の胸元に顔を埋めた。
その後頭部に手を添えて彼女を体に押しつけて固定しつつ、一先ずレンリに対して氷塊を突撃銃の如くばら撒いて牽制する。
そうしながら俺は現状確認のため、影に向かって口を開いた。
「イリュファ、リクル! 大丈夫か!?」
「わ、私は、何とか……抑えられて、います。ですが、リクルが……危険な状態です。一度外に出して、凍結させて、下さいっ」
俺の問いかけに応じたのは、イリュファの絞り出すような声。
その焦燥の色濃い言葉を受けて、俺は苦しげに何かに耐えている彼女の状態を問うよりも早く、リクルを影の外へと弾き出した。
イリュファの判断だ。
状況は不明瞭だが、リクルを優先すべきなのは間違いない。
「役立たずの私なんて、いっそ……いっそのこと……」
案の定と言うべきか、影から出てきた彼女の顔は見るからにヤバかった。
破滅欲求が完全に内側に向いてしまっているようで、頭を抱えて絶望の表情を浮かべるリクルは今にも自らを傷つけて命を絶とうとしてしまいそうだ。
そうでなくとも精神に引きずられて衰弱死しかねない。
だから俺はイリュファの指示通り、リクルを〈万有凍結・封緘〉で氷漬けにすることによって彼女の身動きを封じ、状態を停止させた。
そのまま、再び影の中に放り込んでおく。
雑な扱いになってしまって申し訳ないが、火急の事態だ。
彼女も許してくれるだろう。
しかし、そうこうしている間に。
「【ガラテア】、【ガラテア】【ガラテア】ッ!!」
破滅欲求が外に向いたレンリが、尚もテアを狙って眼前に迫ってくる。
頭ではテアが【ガラテア】そのものではないことは理解しているはずだが、心のどこかには割り切れない部分もあったのだろう。
そうした無意識の部分が滅尽・複合発露〈響く音色は本性を暴き立てる〉の力で破滅欲求と結びつき、【ガラテア】への敵意という形で暴走している訳だ。
「イリュファ。テアを影の中に匿えるか?」
「申し訳、ありません。私も……レンリ様と同じです。テアを前にすると、【ガラテア】への憎悪が、膨れ上がって、抑え切れるかどうか……」
俺の問いかけに、申し訳なさそうに答えるイリュファ。
とは言え、何の要因によってかは分からないが、彼女はレンリとは違って僅かながら〈響く音色は本性を暴き立てる〉に耐性があるようだ。
しかし、俺のように戦闘に耐え得るレベルで抑え込める訳ではないらしい。
度々目の当たりにしてきた彼女の【ガラテア】への強い憎悪を思い出せば、それも仕方がないとしか言いようがない。
「……分かった。テア、このまま我慢できるか?」
「イサクが守ってくれるなら」
ギュッと俺に抱き着く力を強めて言うテアに頷き、彼女をしっかりと抱き返してレンリと……遠く吹き飛ばされた先で再生して更に肥大化したオルギスを見る。
再び間近に直接転移してこられたら、レンリやテアが〈灰燼新生・輪転〉の影響を受けてしまいかねない。
こうなれば無音結界を解除し、徹底的に防御を固めるべきだろう。
喇叭の音は聴覚を超えて頭の中に響いているので、無音結界は既に無意味だ。
そう判断した俺は、自分自身とテアを包み込むように細かい風の刃を内包した激しい風の流れを発生させた。
これならば、炎や肉壁がテアを害するようなことにはならない。
「【ガラテア】ッ! お前のせいで、旦那様はっ!!」
そこへ、レンリが何十本も鞭状に束ねた水をテアに打ちつけようと放ってくる。
各々が異なる軌道で迫るそれらは、三大特異思念集積体であるリヴァイアサンの少女化魔物ラハさんの力の賜物。それだけに絶大な威力を持つが……。
救世の転生者たる俺が、同じ三大特異思念集積体たるジズの少女化魔物アスカの力で守りに徹すれば防ぎ切ることは容易い。
まして破滅欲求に囚われて、本来の技術まで失われて行動が単調となった彼女に後れを取るようなことはあり得ない。
オルギスは……今度こそアクエリアル帝国の兵に襲いかかっている。
彼らには申し訳ないが、状況が状況だ。
最終的に彼ら全員も救うために、今は囮として時間を稼いで貰うことにする。
「イリュファ。レンリやリクルはああなってしまっているのに、何故イリュファは耐えることができているんだ?」
「恐らく、ですが……私は、かつて……長らく暴走していた時期が、あります。そのおかげで、若干、ですが……慣れているのだと、思います」
彼女の返答に、成程と思う。
暴走を経験したことのある者には、ほんの少しだけ耐性があるようだ。
そして恐らく。それは俺に対する影響が乏しい理由にも通じているのだろう。
前世では破滅欲求を世界に押しつけることができず、自らの中で昇華しなければならなかった。二十年も生きていれば、人並みの忍耐力ぐらいはある。
それが〈響く音色は本性を暴き立てる〉への耐性として作用している訳だ。
元の世界の平均的な人間ならば、間違いなく当たり前に耐えられる程度のもの。
しかし、この世界のルールの中で生きる人間は、幼い頃から少しずつ培われていく我慢強さ、忍耐力を成長させることができず、破滅欲求を抑え込めないのだ。
勿論、こういった特異な状況でもない限りは基本的に争いが起きにくくなる訳だから、こちらの世界のあり方にも一定のメリットはあるが……。
そのせいで定期的に【ガラテア】が現れて世界が危機に瀕し、救世の転生者が必要となることを考えると、デメリットが大きい気もする。
ともあれ、今はそこから導き出された事実が活路となる。
滅尽・複合発露〈響く音色は本性を暴き立てる〉は対象を操る力ではない。
ただ単に、破滅欲求を逆流させるだけのもの。
つまり、狂化隷属の矢で何度も暴走状態を経験している彼女達ならば、戦うことはできずともイリュファのように一時的に抑えるぐらいはできるということだ。
そう俺が結論するのを待っていたかのように。
「ちょ、ちょっと、何よ、この状況」
「うぅ、この喇叭の音、気持ち悪いよお……」
「……何だか無性にイライラしまするな」
タイミングよく、目を覚ました三人の不愉快げな声が俺の耳に届いた。






