260 境界の先にあるもの
「セト、ラクラちゃん!?」
両親の傍にいたアロンの幻影とは違う確かな存在感。
間違いなくセトとラクラちゃん本人だ。
「これは……」
それを前に隣にいるレンリが困惑したように呟く。
反応に困っているのだろう。
眼前で展開されている光景の内容に、という訳ではない……とは言えないだろうが、どちらかと言うと切迫した状況にそぐわないものだったからに違いない。
正直なところ、俺も少し似たような気持ちだ。
「デート、でしょうか」
何とも気まずげに問い気味に呟くレンリ。
眼下のセトとラクラちゃん。
彼らは今、学園都市トコハの繁華街の中を二人で手を繋いで歩いていた。
仲睦まじそうに、笑顔で楽しそうに。
「心を捻じ曲げたのか?」
薄々セトはそうだろうと思っていたが、ラクラちゃんについては俺の中では、今後のセトの努力次第だろうか、という風な評価だった。
だから、セトの願望を実現するためにラクラちゃんの気持ちを歪ませているのではないかと疑って、険のある声で獏の少女化魔物に問う。
「違うよ。大きさに少しだけ違いはあるけれど、お互いに好きって気持ちがちゃんとあったもん。わたしはそれを叶えただけだよ」
「そ、そうか」
一季節も一緒に行動すれば、そういうこともあり得るかもしれないが……。
二人が両思いであることを図らずも知ってしまい、改めて気まずさを抱く。
レンリも同様のようだが、彼女はコホンと仕切り直すように咳払いをし、うずくまる少女を内包した動かざる巨大獏を睨みつけて口を開いた。
「これも私には不必要な話です。私は既に旦那様に想いを伝えていますから。わざわざ夢に見ずとも、現実にこうすることができます」
そう言いながら俺の隣に来て、獏の少女化魔物に見せつけるように手を握った上で腕を組んで寄り添うレンリ。
そんな彼女を肯定するように手を握り返し、俺もまた巨大獏を見据える。
「……本当にそう? 家族になって家族が増えて、もっと家族が増えてって、ずっとずぅっと幸せな夢を見ていられるんだよ? 現実には好き合っててもどうにもできないような問題だって嫌になる程あるのに」
そんな獏の少女化魔物の言葉が気に障ったのか、レンリは己の内側から突発的に噴き出した怒りに耐えるように奥歯を噛み締めた。
俺の手を握る力も大分強くなっているが、恐らく彼女の譲れない何かに触れたのだろうと小さな痛みは受け入れる。
「どうして怒ってるの?」
「それが、分からないのなら……やはり貴方は間違っているのです」
「うーん……」
レンリの返答に当惑したような声を出し、獏の少女化魔物はしばらく沈黙する。
何ごとか考え込んでいるようだ。
恐らく彼女自身の考えでは完全に善意からの行動であるだけに、こうまで否定されることが全く理解できないのだろう。
その辺り、もっと踏み込んでいけば、あるいは暴走の理由も明らかにすることができるかもしれない。その一歩目として――。
「……君、名前は?」
「え? わたし? わたしはリーメアだよ」
名を問うた俺に答えてくれた彼女、リーメアに僅かに表情を和らげて頷く。
「そうか。リーメア。確かにこの世界は幸せを享受することができるんだろう。それを必要とする人がいても不思議じゃない」
「だったら――」
「けど、望んでいない人に無理矢理見せるそれは、絶対に間違っている」
彼女は幸せな夢で全世界を包もうとするパターンのラスボスのようなもの。
そうした考えは物語の主人公に徹底的に否定されることが多い。
しかし、俺はそこまで悪いものとは思っていなかった。
世の中、厳しい現実を受け止めて頑張れる人間ばかりじゃない。
逃げ場はあっていいと思う。
とは言え、まだ頑張っている者、まだ頑張ることができる者を引きずり込むことは好ましくない。頑張ることができなくなってからでも遅くはないだろう。
「自発的に望んだ者にだけ夢を見せるんじゃ駄目だったのか?」
「……ダメだよ」
「何故?」
「現実は、もうすぐ壊れてしまうから」
そう言えば、さっきもそんなようなことを言っていた。
だから、夢の世界でしかもう誰も幸せになることはできない、と。
「何故、現実が壊れてしまうんだ?」
「恐ろしいものが、どんどん大きくなってるから」
「……恐ろしいものとは、何のことですか?」
厳しい表情ながらも大分冷静さを取り戻した様子のレンリが問いかける。
俺もまた、視線に同じ疑問を乗せてリーメアの端末と思しき巨大獏を見た。
「あなた達は知らない方がいいよ。わたしも怖くてたまらなくて、夢の世界に逃げ込んじゃったぐらいだから」
「それって……」
巨大獏の中でうずくまる少女に視線をやる。
本体ではないにせよ、本物も似たような状況にあるのかもしれない。
となると、俺達と応対しているのは暴走・複合発露が生み出したプログラム、あるいは彼女が見ている夢というところか。
「私達は、何も知らずに受け入れることなどできません。もしも、それを知った上で貴方の言い分が妥当だと思えば受け入れましょう」
「…………そう。そんなに言うなら、見せて上げる。怖い思いをさせることになると思うけど、それも夢の世界に身を委ねれば全て忘れられるから安心してね」
リーメアがそう配慮するように告げると、再び視界が切り替わる。
そこにあるものはより抽象になってしまい、もはや何が何やら理解できない。
しかし感覚的に下、より深いところと分かる方向の先に――。
「何だ、あれは」
怖気が立つような赤く黒い巨大な何かが存在することだけは分かった。
腕にかかる力が強まり、レンリへと目線を向ける。
彼女は目を見開き、恐れを抱いているように体を震わせていた。
「見えるよね。夢の中の奥の奥。誰も手を出すことができない深いところに、赤くて黒い塊があるのが」
「誰も手を出すことができない?」
「もう少し先まで踏み込んだら、多分もう戻ってこれない。わたしやあなたを隔てる境界を踏み越えた先にあるから」
自我の境界線の更に先。完全なる集合的無意識の領域、という訳か。
あの赤く黒い巨大な塊は、そこに属するものらしい。
鮮血のような赤。宇宙を思わせる漆黒。
それは時に人を魅了する破滅を思わせる。
しかし、それらが入り混じったような赤黒い部分が重なるように存在し、破滅に付随する苦痛や憎悪、負の感情によって酷く穢れているようにも見える。
憧憬と忌避感。相反する感覚に、一層嫌悪感が湧く。
「そうか。あれこそが……」
その様子に気づく。
思えば、人形化魔物が滅び去る時、似たような赤黒い何かへと変質して世界に溶け込むようにして消え去っていた。
即ち、この赤黒い塊はそれらの大本。
「蓄積された破滅欲求そのもの」
俺の呟きにレンリはハッとしたようにこちらを向き、それから強い意思で恐れを抑え込んで無意識の奥底にあるそれを睨みつける。
「人形化魔物全ての、そして【ガラテア】の根源……」
呆然と呟く彼女に頷き、その結論に同意を示す。
ここにそれがあるのは、当然と言えば当然のことだったのかもしれない。
観測者の内に生じた思念が蓄積するとすれば、人の心の奥底。
深い深いところにある集合的無意識の領域だろうから。
そしてそれはこの世界全体との繋がりを持ち、そこを通じて魔物が現出し、少女化魔物や人形化魔物を生み出し、複合発露という力が行使されるのだ。
「この塊は日に日に大きくなってる。そして、いつか現実を壊してしまう。だからその前に、一人でも多くの人に喜びの夢を見させるの」
「それは……」
リーメアの言葉に、トリリス様達が言っていた実験の話を思い出す。
あるいは、彼女もまた本能的にこの破滅欲求を抑制する手段になるかもしれないと判断したが故に、このような真似をしたのかもしれない。
そう考えると同情の気持ちが幾分か強くなる。
レンリもそうと気づいたのか怒りを鎮め、複雑な感情を表情に滲ませた。
「理解、してくれた? だったら、今度こそ一緒に幸せな夢を見よう?」
そんな俺達の様子にどこか安堵したように言うリーメア。
だが、その声色には焦燥の気配が感じ取れる。
「ね?」
縋るように問いかけてくる彼女への俺達の返答は……。






