221 模造陸獣
視線の先の空間。そこに現在進行形で大博物館の出口へと移動する何かがある。
その微かな違和感にジズの少女化魔物たるアスカとの真・複合発露〈支天神鳥・煌翼〉を用いた探知によって気づいた俺は、即座にそれの拘束を試みた。
同じく〈支天神鳥・煌翼〉を使用して周囲の空気を支配下に置き、その何かが身動きできないように風の檻を作り出す。
「さあ、姿を現せ。さもなくば……」
続けて俺は、風によって捕らえた存在を脅すように傍の空間を凍結させた。
大博物館一階はヒュリエウスの宝物庫を複製改良した構造物に過ぎない。
つまりは最大でも第五位階。
それ故に敵意や害意の有無に関わらず、第六位階の複合発露であれば、どのようなものであっても行使することが可能だ。
勿論、今回のような非常事態でもない限り、攻撃系のそれを国立の大博物館の館内で使うことは間違いなく法令違反となるだろうが。
それはともかく――。
「逃げようとしても無駄だ。氷漬けになりたいのか?」
最初の脅しに屈することなく何とか風の檻から抜け出そうと足掻いている不可視の存在に対し、声を更に低くして告げる。
しかし、できれば凍結させるのは避けたいというのが俺の本音だった。
この謎の存在が件の怪盗ルエットだったとして、警護対象であるところの第六位階の祈望之器国宝アスクレピオスの現状が分からない。
少なくとも奪い取られてしまったことは事実なのだろうが……。
この存在が現在進行形で携えているとすれば、捕らえることを優先して無理に凍結してしまうとアスクレピオスが破損してしまう可能性がある。
もしそうなったら目も当てられない。本末転倒にも程がある。
彼女を拘束したまま、この不可視の状態を穏便に解除する術を持つ者が応援に来るのを待つか、あるいは彼女自身が観念して複合発露をとめるまで待つしかない。
「お前は、何者だ」
そう考えて後者を促すために対象を厳しく見据え続けていると、そう間を置かずに、少女の姿が何とも違和感のある声を発しながら現れた。
風属性を示す緑色の髪と瞳。それ以外の特徴はこれと言ってない。
少女化魔物らしく顔は整っているが、髪型や服装は没個性と言わざるを得ない。
意図的に大衆に埋没しようとしているかのようだ。
その右手には、地下二階で見た精巧な複製品と全く同じ形の杖が握られている。
これが彼女の本当の姿ではないのだろうが、怪盗ルエットと見て間違いない。
声に感じた違和感は恐らく、その口調が色々な人のそれを重ね合わせたかのような複雑怪奇なものだったからだろう。
事前情報からすると、その体の話し方を必要とあらば模倣するはずだが……。
計画を邪魔されたことに対する動揺が少なからずあるのかもしれない。
「まさか、お前が救世の転生者なのか?」
「さて、それはどうかな」
忌々しげに俺を見る怪盗ルエットの鋭い視線を受け流して曖昧な答えを返しながら、その頭と右手以外を素早く凍結させて近づく。そして――。
「何はともあれ、アスクレピオスは返して貰う」
俺は彼女の手を強引に開いて、警護対象たるそれを奪還した。
「か、返せっ!!」
「盗人猛々しいぞ。これはお前のものじゃないだろうに。……ライムさん」
拘束を力任せに振り解こうとする怪盗ルエットの往生際の悪い様子に眉を潜めながら、その推移を傍らで見守っていたライムさんへと即座に渡す。
それと同時に彼はルシネさんと共に真・複合発露〈千年五色錯誤〉を使用し、怪盗ルエットの認識から外れたようだった。
「なっ!?」
最強クラスの身体強化の効果もある〈支天神鳥・煌翼〉を発動中の俺にはもはや通常の精神干渉は通じないが、まともに影響を受けた彼女は驚愕の声を上げる。
彼らが視界の中から突然消え失せたかの如く、ルエットは認識したことだろう。
計画の失敗を受け入れ、なるべく自らの意思で投降して欲しいところだが……。
「さあ、大人しく縄につけ」
「あ、ああ……」
そうした意図を持った俺の言葉は全く耳に届いていないらしく、彼女は嫌々をするように首を振りながら目を見開き――。
「失敗……失敗したら……私は……私は、怪盗ルエットでは……いられない……」
それから息を荒げ、声を震わて焦点の合わない瞳を彷徨わせ始めた。
そんなルエットの尋常ならざる様子に脳裏で激しく警鐘が鳴り響き、俺は咄嗟に凍結の範囲を広げて彼女の全身を氷漬けにした。
絶望に満ちた表情を浮かべた少女を内包した氷の塊ができ上がる。
このまま恙なく収監することができればいいのだが……。
「ライムさん達はアスクレピオスを持ってミュゼさんのところへ」
「分かった」
嫌な予感がして、俺は念のために二人には急いで退避するように早口で伝えた。
その意図を察した彼らは一つ頷くと、即座にアスクレピオスを手に地下へと向かう階段の方へと駆けていった。正にその直後。
「あ、あ、あああああああああっ!!」
第六位階、真・複合発露の力によって作り出された氷に囚われて身動きも声を上げることもできないはずの怪盗ルエットが、喉を潰さんばかりに絶叫した。
と同時に表面に亀裂が入っていき、次の瞬間、破裂するように氷が弾け飛ぶ。
その刹那の間に、怪盗ルエットの体が急激に肥大化していくのが視界に映った。
まさか盗みの成否などにそこまでの執着を持っているとは思わなかったが、頭の片隅で懸念した通り、暴走してしまったようだ。
そして彼女の肉体は箍が外れたように、膨れ上がっていく。
すぐさま大博物館の大きさを上回りそうな勢いで。
「まずいっ!」
だから俺はその変化が終わる前に〈裂雲雷鳥・不羈〉を用いて初速から最高速度で翔け、〈支天神鳥・煌翼〉の身体強化に任せて彼女に体当たりをした。
その勢いそのままに大博物館の出入口をぶち抜いて外へ。
そうする間にもルエットの肉体の肥大化は急激に進み、重量が増していく。
対して俺もまた〈支天神鳥・煌翼〉の力を更に解放し、空で対峙した時のアスカに近く、しかし、人型を保った巨大な存在へと変じていく。
「とにかく、とにかく人のいない場所、広い場所へ」
そうしながら俺は、周囲を見回して真っ先に目についた人気のない場所、首都リベランジェから離れたまだ人の手の入っていない荒野へとルエットを放り投げた。
現在進行形で膨張していく肉体が、弧を描いて地面に叩きつけられる。
その衝撃は大地を砕いて激しく震わせ、砂埃を巻き上げた。
しかし、それは最終的に数百メートル級の山のような巨躯と化したルエットを覆い隠すには至らない。上空から見下ろす俺の目に、その全貌が映し出される。
「な、何だ、これは……」
巨大化を終えた彼女は、サイの如き四足獣と成り果てていた。
その余りの変貌振りに、思わず呆然と呟く。
ドッペルゲンガーの少女化魔物たる彼女。
少女化魔物の誰かの姿形を模倣したならば、その複合発露を使用することもできるという話だったが、一体これは何なのか。
暴走しているにしても、余りにも異質過ぎる。
「これは……ベヒモス、でありまするな」
と、影の中から俺の問いに応えてアスカが、緊張の色濃い声で告げる。
「ベヒモス? ベヒモスって確か――」
「はい。ワタシと同じ、三大特異思念集積体が一体。海を司るリヴァイアサン、空を司るジズと同格の存在、地を司るベヒモスでありまする」
俺の確認に、即座に肯定するアスカ。
これが、ベヒモス。
いや、勿論、本物ではなく、あくまでもコピーではあるのだろうが……。
それは即ち世界のどこかにベヒモスの少女化魔物が既に発生していて、ルエットは彼女と接触したことがあるということになる。
三大特異思念集積体の所在が明らかになっていないのは、懸念すべき事実だ。
しかし、今は何よりも、まず眼前の存在をどうにかしなければ。
「ドッペルゲンガーの少女化魔物……厄介にも程があるな」
いくら模造品と言っても、性能において必ずしも本物に劣るとは言い切れない。
暴走状態であるなら尚更のことだし、直感的に何か別の脅威も感じる。
だから俺は、アスカの時以上の緊張感を抱きながら、同じ三大特異思念集積体たるジズの少女化魔物の力と共に山の如く巨大な四足獣と正面から向かい合った。






