第52話 過ぎる想いは夢への枷
あれほど猛っていた感情が、一気に冷水を浴びせられたように冷めていく。
最悪の未来が脳裏をよぎり、胸の奥が凍りついたその時――ガイウスが、ずしりとした足音を響かせながら俺に歩み寄ってきた。
「ジルドラン」
「なんだよ」
――次の瞬間、彼は太い肩を揺らしながら、短く声を放った。
「ふんぬ!」
「ぐはッ――!?」
避ける間もなく、剛拳が横っ面に炸裂した。
衝撃で体ごと吹き飛び、脇腹を執務机にしたたかに打ちつける。
肋骨に鈍い痛みが走り、思わずその場でうずくまった。
「いっ、た、わき腹……歯、折れてない? うわ、唇から血が……」
「ふむ……ワシの拳も避けられぬとは、衰えたにも程がある」
「ふざけんな! あの近距離であんたほど人間から殴られたら、そう簡単に避けられるかよ!!」
そう言い返す俺を、ガイウスは鼻で笑う。
「ふん、まったくやかましい男だ。十五年ぶりに再会し、少しは成長したかと思えば……相変わらず未熟者のままではないか」
「なんだと?」
「聞け、少年時代のお前は未熟だった。勇者と呼ばれた時代も未熟だった。そして――親になった今もなお、未熟だ。はぁ~……まったく」
嘆息。深く、重たく、わざとらしいほどに長い。
それが癇に障り、自然と言葉に棘をつく。
「なんだよ、そのため息は? 親として未熟? 子を心配する親の何が悪いんだ?」
「それが過ぎる、と言っている」
ガイウスの返答に、思わず目を見開く。
「はっ?」
「お前はあの子たちを未熟と決めつけ、己の枠内に収めようとしている。だがな、ジルドラン。あの子たちが旅に出た時点で、一人の戦士として接してやるべき存在なのだ」
「何を言っているんだ。あの子たちはまだ旅に出たばかりで、右も左もわからない。しっかり導いてやらないと」
「はぁ、これは重傷だな……」
「だから何がだよ!?」
「お前の少年時代はどうだった? 十四という若さで村を飛び出して、手を引く者など誰一人おらず、誰にも庇われず……十五では、あの過酷なヒメシャラの戦いに参加した。そうやって、自らの足で立ち上がってきた男だろう」
「それは、そうだが……だからこそ、あんな悲惨な状況に遭わないようにだな――」
「それが余計な世話だと言っているんだ!」
ガイウスの声が部屋の空気を裂く。だが俺は、裂かれた空気をさらに裂くように声を上げた。
「余計な世話だと!? 親として子を守りたい! 危険な場所から遠ざけたいと思うのは当然の想いじゃないか!!」
「ああ、それは当然の想いだ! だが、二度言うぞ――それが過ぎる! 過ぎれば、子の毒になる!」
「毒だと!?」
「旅という大きな変化を前に、あの子たちは自らの信念に誓い、覚悟を決めた! だからこそ、このデルビヨの町を守るために残ったのだぞ。その覚悟を、親だからといって踏みにじって良いはずがなかろう!」
「そうであっても、そんな危険な真似を――――」
「まだ言うか!」
雷鳴のごとき怒声が執務室を震わせた。
そして、俺の心を突き刺す言葉を続ける。
「親だから、子を! 親であるからこそ、子を! その想いは尊い。だがな、お前が行ったことは、大切な子たちの想いを否定することばかりではないか!」
「そ、それは……」
「子が夢を語る。それを真っ先に親が肯定してやらずにどうする!? 肯定し、そこから助言を与えるべきであろうが!!」
「いや、だが……あまりにも……あれは……」
「ああ、夢が大きすぎる。お前にもワシにも測り知れない夢。勇者については、友ゼルムとの誓いがあるため、取り乱したのは理解できるがな」
「…………」
「それでも、頭ごなしに否定をする必要はなかった」
「そ、そうは言うが……ガイウスだって、勇者を歩む道がどれほど過酷なものか知っているだろう」
「もちろん知っている。知っているが、否定から始まらず、現実と理想の乖離を伝え、それを子が知り、それでもなお歩むというならば、支えてやるべきだ」
「あんな……自分の人生を捨て去るような道を歩もうとしているのに? 娘が、普通の幸せから遠ざかろうとしているのに?」
「辛いのはわかる。だがな、親にできることは伝えるだけ。判断は子にある」
「しかし――――」
ここでガイウスは静かに、だが確信をもって言った。
「ジルドラン……いまお前がやってることは、かつて、お前が貴族批判を行ったときに放った言葉と同じものだと、なぜ気づかない?」
「どうして、そこで貴族批判の話が出てくる?」
「当時、二十歳であった騎士ロドスは前線に赴き、民のために戦おうとした。それを危険だと言って両親は止めた。そのとき、若いお前はこう言った。『なんて連中だ、親なら子の背中を押してやれよ』とな」
「――――うっ」
「またある時は、ある貴族が領民を戦場に送り出しながら、自らの子だけは屋敷に閉じ込め、子を守ろうとした。お前はそれを批判した。『過保護が過ぎるんだよ、子どもの気持ちの邪魔をするなよ』とな」
「う……ぐっ……」
「たしかに、貴族と庶民では背負う義務の重さは違うかもしれん。それでも、過去のお前と今の自分、お前自身はどう感じておる?」
俺は言葉を飲み込んだまま、ただ黙した。
過去の俺は確かにそう言った。
誰かのために立ち上がろうとする意志を、親が止めることを醜いと、批判の声で罵った。
だが今、自分が親になってみて、理解してしまった。
あのとき彼らは、貴族としてではなく――親として、我が子を守りたかったんだ。
それを無理解のまま、俺は声高に糾弾した。
そして今、俺自身が同じ立場に立って、己の手で、我が子の可能性を檻に閉じ込めようとしている。
だが、だが、だが……。
「失うのが、怖い……怖いんだ。俺は、どうすればいい?」
「子を、信じるしかあるまい。アデルとフローラのご両親が、我が子を信じて送り出したようにな」
「親……ジャレッド、ヒース、ローレ――――カシア!」
彼女の名前を口にして、いまさらながら胸が締めつけられた。
「どうした、ジルドラン?」
「アデルの母カシアは旅に出るその瞬間まで、反対していた。涙を流し、息子を引き留めようとした。だが、最後にはアデルを信じ、背中を押してやった。あの時俺は、彼女の心を真に理解していなかった」
どれほどの苦悩だったんだろうか? どれほどの痛みだったのだろう?
――思い出す。あの時彼女は、必死に微笑もうとしていた。
けれど、その頬は震えていた。
信じるということが、どれだけの痛みを伴うのか――あのときの俺は、わかっていなかった。
惜しみない愛を注ぎ育ててきた息子が死地へ旅立つ。
たとえ引率者が元勇者であろうと、旅では何が起こるかわからない。
自分の手の届かぬ場所で、命を失うかもしれない。
そのような不安に押しつぶされそうになりながらも、息子を信頼して送り出した。
逆の立場なら、俺は受け入れられただろうか?
アスティが俺と離れ、旅をする。その不安に耐えられただろうか?
俺はうつむき、ぽつりと言葉を落とす。
「……俺は、親として……誰よりも未熟だったんだな……」




