第45話 勇者の言霊、覇の真言
ヤーロゥは小さな、しかし深く息を吸い込むと、一歩、心の裡にある扉を開いた。
意識の在り処を、ただの父から―――かつて『勇者ジルドラン』と呼ばれた男へと切り替える。
その姿に纏う空気が、わずかに変わる。
さきほどまで民衆を包んでいた歓声が、音もなく潮が引くように静まっていく。
ジルドランは歩みを始めた。
アスティ、フローラ、アデルの三人が立つ円環の中心へと、諦観を持って……。
(もはや、ここまで来てしまった以上、フローラの話に合わせるしかない。あとのことはあとで考えるとして、昔みたいにそれっぽく語るか)
彼の前に立ちはだかっていた人々は、無言のうちに左右へと分かれ、自然と道が拓かれていく。
人の生け垣を縫い、彼は語り始めた。
記憶を辿るように、淡々と、抑えた声で……。
「十五年前、私は勇者の名を後進へと譲り、表舞台を退いた。人間族の剣であり、盾であるという役目を若き者に託して……静かに消えた。だが――その決断に至るまでの時、私は魔王ガルボグという男と対峙し、語り合った。互いに剣を交え、命を削り合い、やがて剣を納めて語らった。彼は語った―――理想を。争いなき世界を、種を越えた共存を……そして、村を創ったと…………いや、かてぇな。はは、らしくなさすぎる」
不意に彼は歩みを止めて、笑みを漏らし、語りをやめた。
これには周りの群衆にどよめきが走る。
誰かが何かを口にせんとしたそのとき――――ジルドランは天地を裂くような大声を張り上げ 、再び歩み始めた。
「無用な争いのせいで苦しいだろう! 辛いだろう! これまで希望など見えぬ日々が続いてきたのだろう! だが、今日ここより世界は変わる!!」
彼は最後の歩みを進め、アスティの隣に立つ。
そして、無言でその肩を抱き寄せ、群衆へ向き直ると、全身から発する声を絞り上げた。
「魔王ガルボグの娘プリムにして、俺の大切な娘。アスティニアとともに世界は変わる!! 千年の業を断ち切り、終わりなき争いに終止符を打つために ! 俺はそのために戻って来た!! おまえらぁぁぁぁ!!」
その叫びは、空を震わせ、町に響き渡った。
彼は目の前にいるすべての存在を新緑の眼に取り込み、飾ることもせず、誇張もせず、旧き友へ向けるかのように、温かな言葉をぽつりと落とす。
「よく耐えたな。だが、もう大丈夫だ。俺がいる」
たったそれだけ。たった、それだけの言葉。
それなのに、その声音には、あまりにも多くのものが込められていた。
それは、千の演説よりも力強く、万の詩歌よりも深く人の心を打つ――その声は、途方もない年月を越えて帰ってきた伝説そのもの。
彼の言葉に演出はなかった。技巧もなければ、華美な修辞もない。
だが、そこにはただ一つ、世界が飢えに飢えていたものがあった――『信じていい』という、ゆるぎない確信が。
まるで、迷い子に差し出された手のように。
凍えた心を包み込む、あたたかな火のように。
人々は静かに、黙って、目を潤ませながら、その言葉を、心の奥へと沈めていく。
言葉が静かに沈み、深奥の魂へと触れたその瞬間――人々の胸中に眠っていた感情が、抑えきれぬ奔流となって爆ぜた。
「うおおおおおおお!! 勇者ジルドラン!!」
「もう、終わったんだな! こんなにも苦しい世界が!!」
「で、でも、ほんとうに可能なのか? 魔族との争いを終わらせ、共に生きるなんて……」
それは長く根を張っていた疑念の芽……。
だが、その芽を踏みにじるように誰かが声を上げる。
「馬鹿言え! あの勇者ジルドランが戻って来たんだぞ! それも魔王の娘を託されて!! 魔王の娘と勇者が手を結んだんだ!! こんな奇跡、聞いたことがあるか!? 俺たちは今、歴史の最中に立ってるんだ!! 凄いものを見てるんだぜ!!」
ここで間髪入れず、フローラの声が風に乗り、広がっていく。
「勇者ジルドラン、魔王の娘アスティニア! この二つが揃ってもなお、不安を拭えぬ者もいるだろう。それは無理もない。なぜなら、お前たちは時代に弄ばれてきた者たちだからだ――!」
その言葉に、幾人もの者が小さく頷いた。
そう、生まれたばかりの希望もまた、やがて権力にねじ曲げられ、失われてゆくのではないか。
そんな根深い不安が、彼らの胸中に残っていた。
だが、フローラの強固な言葉は、それを真っ向から打ち砕く。
「時代、歴史。そして、変革。それらは大きな力によって変化してきた。王たちの手によって動かされてきた。偉人たちの力によって塗り替えられてきた。しかし、此度の変革は違う!! 世界に変革をもたらすのは、ここにいる一人ひとりの力――お前たちの力なのだ!!」
その言葉は、まっすぐに人々の心臓を貫く。
「勇者と魔王の娘だけでは、何も為せぬ。支える者がいてこそ、変革は成る。だからこそ、支えてやれ! 共に歩め! お前たち自身が時代の力――新たな世界を産み出す力となるのだ!」
彼女の声に心を揺り動かされた人々の目に、ゆっくりと熱が宿る。
「私たちが……」
「世界を……」
「変える……?」
フローラは続ける。声に確信を宿して。
「その通りだ。ここにいる皆が手を携え、支えなければ、事は為せない。誰かが、『凄いもの』を見ていると言ったな。見て終わるのではない。誰もが、その『凄いもの』になれるのだ。時代を変えることができるのだ」
彼女は大きく腕を広げ、町を見渡し、天を仰ぐように宣言する。
「時代という巨大で見えぬ流れに押し流されてきた者たちよ! これからはお前たちが時代という力を生み出す! 勇者ジルドランと魔王の娘アスティニアの姿を目にした者たちが変革をもたらす。支えた者たち全てが、歴史に名を刻む存在となるのだ!!」
「歴史に……」
「俺たちが……力に……」
一人の男が拳を握り締めて、前を見た。
瞳に宿るは、勇者と魔王の娘。
「…………やれる。やれるぞ、俺たちにも……!」
「ああ、できる。なにせ、勇者と魔王の娘がいるんだ」
「私たちで二人を支え、世界を変えてやる――」
「そうだ、俺たちには勇者がいる。そして、勇者が育てた魔王の娘がいる!!」
想いはひとつへと収束し、熱を孕み、輝き始める。
その熱に触れ、ジルドランが静かに問いかけた。
「力を貸してくれるか?」
飾らぬ言葉。
まるで昔の友人に話しかけるような、素朴で、平坦な響き。
なのに、どうして、こんなにも心を揺さぶるのか。
一人の男が涙をこぼし、天を仰ぐ。
「勇者が、あの勇者ジルドランが、俺たちを頼りに――――くぅ~、俺はやるぜ、やってやるぜ!!」
一人の女が頬を紅潮させ、声を張る。
「力、貸します! 私の力なんてちっぽけなものでしょうけど――――それでも、あなたと一緒に戦いたい!!」
一人の老人が語る。
「馬鹿げた話だ……だが、絶望の中で朽ちるより、希望を見て歩く方が百倍マシじゃ。老骨に何ができるかわからんが……ワシも、力を貸そう」
熱は、希望へと変わっていく。
人々はジルドランを見つめ、その名を、思いの丈と共に呼び始める。
「ジルドラン、ジルドラン」
「ジルドラン! ジルドラン!」
「「「ジルドラン!! ジルドラン!! ジルドラン!! ジルドラン!!」」」
あれほどまでに憎しみと狂気が渦巻いていた場が、勇者ジルドランの名を核として、澄んだ希望の色に静かに染まっていく。
その渦中にあっても、ジルドランは涼しげな顔を崩さぬまま、人々に向けて、慣れた手つきで軽く手を掲げる。
ただそれだけの、飾り気も誇張もない一動作。
しかし、人々はそれを歓喜と受け取り、より一層、熱を帯びた声で彼の名を連呼する。
その姿を、アスティは静かに見つめていた。
(これが……勇者としてのお父さん? すごい……あっという間にみんなの心を変えちゃった)
父の眼差しがふと娘へ向けられる。
その眼差しは、さきほどまでとは異なるものだった。
鋼鉄の意志を湛えた勇者の面影は和らぎ、かつて日々の食卓を囲みながら、些細な笑みに満ちていたあの父、ヤーロゥの表情がそこにあった。
アスティの胸は熱くなる。
民衆が歓声を上げるその中心で、自分だけが受け取った微笑み。
心の奥に流れる熱き血潮が、明確な言葉を生み出していく。
(みんなを導く、勇者。みんなに希望と勇気を与える存在。これが、お父さんなんだ。私の言葉は全然届かなかったのに……)
彼女は自らの胸にそっと手を添え、その感情を確かめるように、きゅっと指を握りしめた。
(勇者……凄い存在なんだ。私も、なりたい。そうなりたい。誰かの希望になれる、そんな存在に――)
――群衆の歓呼が空を割る中、老将ガイウスはその中央に立つ旧友の姿を、深く双眸に映していた。
(相も変わらず、荒削りな演説よ。だが、それでこそ奴らしいか。言葉の妙ではなく、心で訴える。それはさておき――――)
瞳を揺らし、一人の少女――――フローラへと向けた。
(彼女の声の力、纏う空気に危うさを覚えていたが、その懸念が現実のものと……いや、それ以上か。あの子の纏う力は、王としての才。しかもそれは、民と共にあり、王の歩む道を歩む――――というものではない!)
ガイウスは空を仰ぎ見、口を強く噤む。
(王道にあらず! 彼女が歩むは、仁や徳の上に成り立つ道などではない。むしろ――自らが切り拓いた未踏の道に、人々が吸い寄せられるかのように従い歩み出す……)
彼女の力は、法でも剣でもない。
されど、その言葉は万人の胸に種を植え、やがて芽吹かせる。
それはまさに、言葉の武力によって人心を掴む覇の力――
(……覇道だ)
額に手を当て、深く息を吐く。
(やれやれ、まさかこの年で、時代の変革とやらに立ち合うことになるとはな……)




