第44話 伝説の復活
勇者ジルドラン――。
その名が空に鳴り響き、瞬きほどの時、すべての音が止んだ。
風も、息も、囁きさえも。
ただ静寂が、世界を覆った。
だが次の瞬間、誰もが一斉に、フローラが示した一人の男――フードを目深にかぶるその男へと視線を向けた。
フードを被った男……ヤーロゥことジルドランは両目を強く瞑り、迷いを残しつつも受け入れざるを得なかった。
(なんて無茶苦茶な真似を……だが、ここはもう、彼女の虚言に乗るしかないか)
もはや、元勇者であっても少女の言に抗えず。
この場を支配していたのは、十五歳の少女フローラだった。
元勇者ジルドラン――今はただのヤーロゥとして生きてきた男は、ゆっくりと、己を覆っていたフードを取り払う。
顔を晒すその所作は、あまりにも静かで、あまりにも重々しかった。
新たな朝の光が、町の広場を照らす。
その光が、彼の素顔をあらわにしたとき――人々は、思わず息を呑んだ。
彼の周りにいた民衆は数歩後ろへ足を引き、疑問を纏う。
「勇者……ジルドラン……?」
「ほ、本物なのか!?」
「本当に、本当にこの方が、あの……?」
言葉は断続的にしか紡げなかった。
十五年――勇者ジルドランが活躍していた時代は、少年が大人になるほどの昔。
まして、彼は王都と戦場を往復する日々に在り、デルビヨの町のような大陸内部の地に姿を現すことなど、稀中の稀。
人々はただ、神話の登場人物のようにジルドランの存在を語っていた。
だが、この町には彼をよく知る人物が二人いた。
そのひとり、老将ガイウス。
常に落ち着きを孕んだ彼には珍しく、沈黙のうちに目を見開き、深く刻まれた眉間の皺が、さらに一筋、濃くなる。
驚きに言葉は形作れず、掠れる声を洩らすばかり。
そして、もう一人は――――
「う……そ。うそ、だろ……あなたは……」
嗄れたような声が洩れた。
それは、地に膝をつき、魔族であるアスティを唯一、守ろうとした盗賊の頭目、ジオラス。
幾多の罪を背負い、命の崖に立つ男の、言葉にならぬ呟き。
彼の暗灰色の瞳は湿り気を帯び、揺れる。
「あなたは、あのジルドラン。十七年前、オレの村を救ってくれた。あの……」
彼は――震えていた。
それは恐れか、慟哭か、あるいは魂の奥底から湧き上がる、名もなき感情か。
全身を小刻みに揺らしながら、覚束ない足取りで立ち上がる。
そして、呻くように言葉を継ぐ。
「あの時は……あなたが勇者だったなんて、知らなかった。あとになって知って、救ってもらったことを誇りに思い、オレは、オレは、オレは……」
絞り出すように、彼は続ける。
「オレは……あなたに憧れ……あなたのように――――っ!?」
その言葉が終わらぬうちに、彼の瞳は、ヤーロゥの――勇者ジルドランの新緑の瞳と重なった。
その瞬間、彼は理解してしまったのだ。
全身を貫いていた震えの正体を……。
震えは、畏れではなかった。
悔しさでもなかった。
怒りでも、絶望でもなかった。
その正体は――――羞恥!!
かつて崇め、慕い、己の理想と仰いだその男の瞳に、今の自分の無残な姿が……ありのままに映り込んでいた。
憧れと現実が乱雑に心を塗り潰していき、ジオラスは恐慌状態へと陥っていく。
「オレはあなたに憧れて……だってのに、なんでオレはここにいるんだ?」
震える両手を見つめる。
縄で縛られ、自由も誇りも失った両手を。
「なんだこれ? なんだこれ? ちがうちがうちがうちがう! 違うんだ! こんなはずじゃなかった!! オレはあなたのようになりたくて!!」
顔が歪み、感情が崩れ、涙が堰を切ったように頬を伝う。
力強かったはずの声が、幼子の叫びへと還ってゆく。
「なんでだよ! なんでここにオレがいるんだ!? 嫌だ、嫌だ! オレはこんな風になりたかったわけじゃねぇ!! ぜ、全部夢だ! そ、そうなんだ!! オレは、おれは、おれは……あああああああああ!!」
彼はその場に崩れ落ちた。
己の腕を抱きしめ、膝を抱え、石畳の上で身をよじりながら、泣きじゃくる。
「ひっぐ、ひっぐ、違うんだ!! こんなの現実じゃない! こんなはずじゃなかったんだよ! お願いだ、これは夢だと言ってくれ! 誰でもいい、嘘だと言ってくれ!! お願いだから、お願いだから――――こんなオレを、見ないでくれぇぇえぇぇぇ!!」
ジオラス……十七年前、当時十歳だった彼は、流浪の剣士こと勇者ジルドランに村を救ってもらった。彼に憧れ、剣の腕を磨き、学び、清廉に生きようと誓ったが、時代がそれを許さなかった。
信じた正しさは嘲られ、力は欲望と暴力に塗れ、清き心は一つずつ、失われていった。
気づけば両手を血に濡らし、堕ちて、堕ちて、ひたすら堕ちて……。
凶賊ジオラス――――あれほどまでに不遜で、屈強で、豪壮だった男が、石畳の上で暴れ狂い、涙を流し、勇者に憧れた少年の魂が、現実を忌避して叫び続ける。
フローラは静かに彼を見下ろす。
アスティ、アデルは目を伏せることすらできずに、その姿を見つめた。
ガイウスもまた、拳を握りしめながら、少年が失われた場所を目にしていた。
エルダーは言葉もなく、ただ静かに目を閉じていた。
町の人々も――彼の無様な姿に、驚愕し、言葉を失っていた。
だが、皮肉なことに、そのすべてを曝け出した姿。心の底から流れる懺悔と涙。
その姿こそが、フードの男がジルドランであるという、何よりも真実味ある証明となっていた。
ヤーロゥは泣き崩れる男――ジオラスの姿から静かに視線を外し、厳しい眼差しでガイウスを見つめた。
その老将もまた、無言のまま視線を受け止め、深く、静かに首を縦に振る。
次の瞬間、ガイウスは毅然たる声で高らかに宣言した。
「その者こそ、紛うことなき勇者ジルドラン!! 我が友にして、幾多の戦場を共に駆け抜けた戦友にして、英傑なる者!! 」
その一声は、朝日を帯びた蒼の空を震わせ、民衆の心へと轟いた。
ヤーロゥ――いや、ジルドランは微笑を浮かべて静かに応える。
「ああ、ガイウス。本当に久しぶりだ。すっかりしわくちゃのジジイだな」
「やかましいわ。お前こそ、見るも無残なおっさんになりおって」
二人の笑みは、時の流れと、積み重ねた信頼の証。
その親しき言葉の交歓は、何よりも雄弁にして確かな証明となった――この男こそ、かの伝説の勇者ジルドランである、と。
これにより、フローラが指し示し、フードを取り払った男がジルドランであるという証明が完全になされた。
数歩足を後ろへ引いていた民衆はさらに足を引き、やがて円を描くように彼を囲んだ。
誰一人、言葉を発することもなく、ただ、その場に立ち尽くす。
だが、沈黙はやがて波紋となって崩れ――最初の声が、震えるように空へ舞った。
「ガイウス様がお認めになった……」
それは耳に掠るほどの呟きだった。
されど、それが引き金となり、抑えられていた声が堰を切ったように溢れ出す。
「本物の勇者……」
「あの魔王ガルボグと対等に渡り合ったという」
「あり得ぬほどの力を持ちながら、民のために剣を抜いたという、あの伝説の……!」
「あ、あの勇者ジルドラン!」
ざわめきは熱を帯び、歓声となって町に満ちてゆく。
「勇者ジルドランが……!」
「ジルドランが戻って来たんだ!!」
「伝説が……十五年の時を越えて、今、ここに甦ったんだぁぁ!!」
民衆は一斉に歓喜と畏敬をもって膝を折り、頭を垂れる者、涙を拭う者、声を上げる者と、さまざまであった。
ジルドラン――彼の名は、風となり、伝説となり、もはや現実には存在しないものと思われていた。
だが今、確かにその男はここに立っている。
歓声が町を満たす中、その中心に立つヤーロゥ――かつての勇者ジルドランは、澄ました顔を見せながらも、内心では深く長いため息を吐いていた。
(はぁ~~~~……死ぬほど目立ってるな。もう、何かを秘密にするとか、どうでもいい状況だぞ)
フローラの唐突なる暴露により、抱えるべき火種は天を覆うほどに膨れ上がった。
最も深刻なのは、娘アスティ――すなわち、魔王ガルボグの血を引く『姫君にして侵略者に対する切り札』という存在。
人間族も魔族も、否、世界のあらゆる勢力が、こぞってその名に群がるであろう。
欲望と野望が形を成し、彼女の身に触手を伸ばすのは必定。
それをいかにして斬り捨て、守り抜くか――想像するだけで、頭が痛い。
(それだけじゃないな。アルダダスに嘘をついたことがバレるだろうし、村長リンデンにもバレるだろうし……ますます信用無くすなぁ、はぁ~。ま、別にいいんだが……対応がひたすら面倒なだけで)
ひとつ、眉間に皺が寄る。
それを、往年の盟友――老将ガイウスは見逃さなかった。
彼はジルドランと視線を交わし、無言のまま、視線に意を乗せて語りかける。
(ジルドラン、このような状況で面倒くさがっておる場合か!)
(人の心を読むなよ!)
(正直、ワシも状況が把握できておらん。魔王ガルボグの娘をお前が育ててたなどと、一体どういう――)
(あとで話す、あとで話す。あ~、もう。とりあえず、この場を収拾するか)
視線と心の交差……言葉は一言も交わされぬまま、会話が成立する。
フローラはうっすらと、二人の間で何かのやり取りが行われいるのを察していたが、内容まではわからない。
だが、その内容よりも彼女にとって今は、己の目的を完遂することが最優先だった。
彼女もまた視線でそれを促す。
(お願いします、ヤーロゥさん)
(あ~、わかった。だが、あとできっちり、説明してもらうからな!)
(はい、もちろんです)
普段は、子どもたちに対し怒りをあらわにすることなど滅多にないヤーロゥだったが、この時ばかりは怒気を孕んだ心をそのままに託した。
しかし、フローラはそれを涼やかに受け流す。
その態度はヤーロゥの知るフローラのものではなかった。
彼女は、大きく変わりつつ――――いや、すでに以前のフローラとは違う、異質な存在へと昇華していた。
言葉を武器に、虚構と真実を操り、世界を動かす意思を示す存在へと……。




