第43話 深謀――理想と偽りの狭間に揺蕩う才
魔王ガルボグの娘――――アスティニアことプリム。
名が轟き、生まれたのはあまりにも長すぎる空白の時間。
風さえも息を潜め、沈黙は空を満たす黒布のごとく、町を覆い尽くした。
名を受けてなお、一切の応答もない。誰もが理解を拒み、否認することすら忘れたように、ただただ動かず……視線の奔流、そのすべてがアスティ一人に注がれる。
エミリアも、エルダーも、語を紡ぐには至らず。声は干からび、ただ愕然とその小さな少女を凝視するのみ。
膝を折って地に伏すジオラスは、喉の奥より、音とも呼べぬ喘ぎを漏らし、老練なるガイウスすら、瞳を見開いたまま言葉の形を探せずにいた。
そして、誰より深く衝撃を受けていたのは――ヤーロゥ、その人だった。
(フ、フ、フローラ!! な、何故、この場でそんな危険カードを切った!?)
魔王ガルボグの娘――アスティニアの正体。
それは明かされてはならぬ絶対の禁忌。
なぜならば、彼女とプリムラの双子の姉妹は、この世界における均衡の支柱。
異界からの侵略を退ける唯一の光であり、同時に、あらゆる勢力にとって『奪い、封じ、利用すべき標的』となる、過剰なる力の象徴だったからだ。
侵略者にとっては恐怖と憎悪の象徴。
対抗する勢力にとっては切り札。
魔王カルミアにとっては簒奪の脅威。
人間族にとっては外交と謀略の駒。
その身一つが、世界の均衡を崩壊させる。
多くの勢力が利用せんと、命を奪わんとされる存在。
だからこそ、その出生を知る者は、ヤーロゥ、アデル、フローラ、そしてアスティ自身だけ。
それは、血の誓いに等しい秘密。
それを、今、ここで――己の意志で、フローラは切り捨てた。
ヤーロゥの思考は混乱し、波打つ焦燥が理性をかき乱す。
だが、混沌の海を押し返し、彼は必死に思考の船を漕ぎ出す。
(住民たちの感情を抑えるためか? それだけのために! アスティを危険に晒し、こんなことをしたのか、フローラ!!)
そこにあったのは娘を思う父としての直感――だが、彼が導き出したその答えは、フローラの真意からは、あまりにも遠く外れていた。
ここに生まれようとする新たな道……それは誰一人として見抜けぬもの。
いや、ただ一人、その気配を肌で感じ、未来の輪郭をぼんやりと捉えた者がいた――それはガイウスだ。
剛毅なる将軍の眉間に深く皺が寄る。
刻まれた皺の奥深くに眠るのは、かつて評したフローラへの才。
『彼女の声は数多の者たちの心へと届く。齢や経験に関わらず、彼女の言葉は人の胸奥に届く。勇士であれ、童であれ、彼女の声を聞けば心を痺れさせて、音に酔う。三人皆に人を惹きつける才があるが、その中でも彼女は群を抜いておる。それは恐ろしいほどに……』
あの時感じた漠たる杞憂が、今、確信として彼の胸に迫る。
まさにいま――その『声』が、世界の扉を開こうとしている。
(フローラよ……言葉を、世界へ響かせるつもりか? だがそれは、我が君、レオナルド陛下へ害為す行為)
それは、一人の少女が踏み出した世界変革の歩み。
口先の激情や衝動にとどまらず、言葉を力とし、語を理想と変え、現実を凌駕せんとする序章。
響き始めた鐘の音は、理を覆す布告――。
だが、なお足らぬ。と、ガイウスは己の胸に問い直す。
(仮に――アスティが本当に魔王ガルボグの娘であったとしても、民の心を打ち震わせるには至らぬ。驚きこそあれど、それだけだ。魔王の名は、ここでは畏怖よりも異邦の象徴にすぎぬ)
沈黙、焦燥、深慮……諸々の思いが澱のごとく町を覆いかけた、そのとき。
そこに不似合いな二つの声が飛び込み、緊張の鎖がほどける。
「おいおい、それ言っちゃダメな奴だろ!! ヤーロゥさんから怒られるぞ!!」
「ええ~!! なんで言っちゃったの、私たちだけの秘密だったのに……」
驚きのあまりアデルとアスティは自分の中に渦巻いていた感情を吹き飛ばし、いつも通りの、且つ、いかにも子どもらしい声色で普段通りに応じる。
その、あまりにも場違いで、滑稽とも言える応酬に、場の全員がずるりと肩を落とした。
――が、そこには、紛れもなく真実が潜んでいた。
たしかに、このアスティは『魔王の娘』とは思えぬほど無垢で、年相応で素直な少女だと感じさせる。
だが、だからこそ逆説的に、今までの彼女の在り方、剣を取り、人を救い、皆と語らった姿が、王族の血に由来するものだと納得がいく者たちもいた。
一度は瞳を伏してしまった兵士長はぼそりと呟く。
「戦場で剣を振るい、人を惹きつける姿。そうか、王族の血を引いていたから……」
言葉は近くにいた兵士へ伝播する。
「たしかに、あの歳であの立ち居振る舞い、ただ者じゃなかった」
「本当に……本物なのかもしれないな……」
「でも」「だけど」「けれども」
彼女は『魔族の王』の娘。
それは、すなわち『敵』の血を受けた者。
憎むべき存在であって、敬意を払う存在ではない。
……そう、魔族であれば魔王の娘と言う存在は心に響いたであろう。
しかし、ここは人間族が支配する大地であり、人間族しか存在しない場所。
そのような場で、魔王の娘という単語は驚きこそ招くが、ただそれだけにとどまる程度のもの。
感嘆と納得が、すぐさま警戒と憎悪に変わる。そこに利己的な計算も交わる。
王国という場に照らせば、彼女の存在はまさに戦略資源。
いまここで彼女を捕らえ、差し出せば……地位も報酬も、保証されよう。
人々は、算盤の珠に指先を伸ばし、得られる利益を現そうとする。
それを――――フローラが許すはずがない!
彼女は彼らが手にした小さき算盤を、巨大な黄金で圧し潰したのだ!
フローラは言葉を綴る。その声に宿るは、悲しみと怒り、慈しみと希望。
情感のすべてを籠めて、彼女は叫んだ。
「魔族の娘? 魔王の娘? 王族とはいえ敵――ええ、納得できないだろう。これだけでは理想には遠く、現実には険しき話。だが、それでも……それでも、魔王ガルボグの理想を受け継ぐ者は、まだいたのだ!」
その声に合わせて、彼女はゆるやかに舞いを始める。
しなやかな指先が空を裂き、優美な足取りが石畳を叩く。
黒藍のドレスが翻り、橙の髪が風と舞い、見る者の心を縛る。
ただの言葉ではなく、ただの少女でもない。
そこにいたのは、理想を語る者……世界を導かんとする者。
「魔王ガルボグは、理想を託した……その手を、彼に差し伸べて。そう、宿命の敵であったにもかかわらず、相容れぬ者同士でありながら、彼らは手を取り合った。千年の憎悪を断ち切り、共に未来を築かんと誓い合ったのだ」
フローラの言葉を鼓膜に響かせるたびに、ヤーロゥは瞳を見開いていく。
(おい、まさか――――!!)
「魔王ガルボグは希望の象徴たる娘を――プリム様を、彼に託した。彼は、その少女にアスティニアと名を与え、愛を与え、父として生きた。誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも遠くを見据えていた。そして彼は、ここにいる全て者たちへ、希望をもたらし続けた存在。そうであろう――」
その瞬間、彼女の舞は止まる。
風のように揺れていたドレスが静かに落ち、彼女の広げた手が、ただ一人をまっすぐに指した。
「勇者ジルドラン!!」




