第41話 世界に響く始まりの鐘音
今――この場、この狂乱の坩堝にあって、ただ一人、フローラのみが遥かなる高みより、下界を見下ろしていた。
半魔たる彼女を、忌まわしき存在として蔑み、嘲り、罵る者たち。
その手に握られているものは、地に転がる無垢なる石。
しかし、いまやそれは、鈍く輝く殺意の象徴。
中には――己の命を救われたことへの感謝と、忌避すべき異形への嫌悪との間で揺れ動く者も、わずかにいた。
しかし、その微かな良識もまた、周囲の悪意に染められ、やがては濁流に呑まれる。
そんな無明の狭間、フローラは、ただ静かに、小さく――呟いた。
「……だまりなさい」
しかし、その声はあまりに小さく、怒号と罵声のうねりに呑み込まれ、掻き消える。
彼女は呟きを重ねる。今度は、荒く、低く、怒りを帯びた調べで。
「だまれっ」
だが、当然の如く届くことなく、狂乱の大気にかき消されていく。
フローラは全身を魔力で満たす。すると、言葉の調子に魔力の奔流が宿り始めた。
彼女は天を仰ぎ、ひと息、深く息を吸い込む。
次の瞬間、全身に宿る魔力を余すことなく言霊に乗せ、天を裂き、地を穿たんばかりの声を放った。
「――――黙れっつってんだろうが、てめえら!!」
それは、礼節と穏やかさを常とする彼女の口から出るには、あまりに下卑た荒々しい怒声。
だが、その一語一語には激情と哀惜、そして煮え滾るような断罪の念が込められていた。
音に乗せた魔力は、言葉という名の雷霆となり、空気を震わせ、空間を裂き、人々の鼓膜を打ち、心臓を貫く。
叫びは轟きとして広がり、群衆の喉を、舌を、そして魂を一瞬にして麻痺させる。
そこに、矮小なる存在の意志など介在する余地はなかった。
人々はただ、その場に立ち尽くし、言葉を忘れた。
まるでその瞬間、この世に『沈黙』という名の魔法が降りたかのように――。
フローラは、沈黙の園へと、一歩、静かに足を踏み入れる。
その身に纏うは、凛と澄みきった真理の声。
その歩みは、町の隅々――否、この世界に生きる人々の心……その最も深き処へ届かんとする、静謐なる威厳を宿す。
「わたしたちは、旅をしている。それは、実に苦難と困難に満ちた、険しき旅 ……」
言葉を紡ぎながらフローラは静かに顔を巡らせ、沈黙の律を破ろうとした者があれば、蒼く冴えわたる瞳に一閃の殺気を宿し、視線一つでその口を封じた。
そうして、沈黙を守り、言葉を綴っていく。
「旅の仲間は人間族のアデル。魔族のアスティニア。そして、人間族と魔族の血を併せ持つ、わたし。フローラ 」
人間族・魔族・半魔。
この異質なる三者が共に旅するという現実は、集う者たちの耳に異様であり、到底受け入れがたいものだった。
幾人かが息を呑み、声を上げかけたが……フローラは静かに手のひらを差し伸べ、言葉なきままに「静寂を保て」と命じた。
誰もが、その指先に込められた力に呑まれ、再び沈黙する。
「お前たちにとって、わたしたち三人は――滑稽で、歪で、あり得ぬ同盟に見えるだろう。だが、わたしたちにとっては、これは当たり前のこと。なぜなら――わたしたちは、人間族と魔族が共に生きる世界で育った。互いを憎しみではなく、敬意と愛で結ぶ世界。その中で、わたしは、魔族の母と人間族の父に祝福され、この世に生を受けた」
ざわりと、人々が色めき立ち、集う者たちの感情が揺れた。
人間族と魔族が共に生きる? 交わる? 愛し合う――だと?
それは夢物語――悪夢にも等しき禁忌の幻想。
多くの者たちの心に、『それは許されざること』という価値観が根を張っていた。
特にこのデルビヨの町のように、前線からほど遠い場所ほど、魔族を知らぬがゆえに、忌避感が顕著。
だが、それでもなお――人々の耳は、フローラの言葉に惹かれ始めていた。
彼らの中には、デルビヨを守るための三人の姿が思い起こされ、彼女の吐く言葉が、ただの空想で終わらないと本能で察し始める者もいた。
ざわめきが再び、渦となって渦巻こうとしたが、フローラが唇をわずかに動かすと、言葉を逃すまいと皆は耳を澄まし、彼女へと向ける。
馬鹿げた話、下らぬ話。だが、それ以上に、彼女の語る物語に人々は心を奪われる。
フローラは、遥か北方、果てなき蒼穹を見上げる。
そのまなざしに導かれ、民衆もまた空を仰いだ。
彼女の声は、世界の歪みに触れるかのように、静かに放たれる。
「なぜ、お前たちは苦しみを抱えている? なぜ、この満ち足りたはずのデルビヨに、不安の影が差す? なぜ、未来を語ろうとすれば、言葉が詰まり、瞳が曇る?」
言葉の一つ一つが、真実を掘り響かせる鎚音のように、群衆の胸奥を打つ。
「その根源にあるのは……幾星霜のあいだ繰り広げられてきた、終わりなき戦争ではないのか?」
その瞬間、誰かの心臓が鼓動を止めたかのように、空気が張り詰めた。
戦争という、この大陸に生まれ出た者なら、父や母よりも常に寄り添う存在。
それに対する言及……人々の中には気づいた者もいた。
彼女が今、触れようとしているものが――長きにわたり、語ることさえ忌避されてきた、理想であることに。
「互いに覇権を唱え、大陸を二分したまま、千年もの間、血を流し続けてきたこの世界。終わりなき戦いは、もはや種族の絶滅さえも視野に入れた、地獄の戦となった」
フローラは一歩、地を踏み鳴らす。
その声が空を裂いた。
「だが!! そのような戦いを続けて、未来があるというのか!? 荒野しか残らぬ世界に、子を生み、託せるというのか!? それでもなお、お前たちは目を閉じ、耳を塞ぐのか!!」
強く握りしめた拳が、まるでこの世界そのものを打ち砕かんばかりに殴りつける。
「争いが争いを産み、怨嗟が怨嗟を育てる。そんな愚かなる連鎖の果てに、何が残る! だからこそ――わたしたちは旅をしている! 人間族と魔族が手を取り合い、ともに歩む未来を創るために! 血の歴史を断ち切り、戦場を希望の野に変えるために!」
これらは全て虚構だ。
フローラたちにそのような目的など全くない。
アスティとアデルは戸惑い、ヤーロゥもまたフローラの終着点が見えずに困惑の色を隠せなかった。
(理想を語ることで煙に巻くつもりか? しかしな、そんなことが通じるほど、世界は甘くはないぞ、フローラ)
町に再び、沈黙が満ちる。
だが、この沈黙はフローラの纏う圧に押されてのものではない。
ヤーロゥが心に抱いた思いと同じ、あまりにも荒唐無稽と思える理想の言葉を前に、誰もが返す言葉を持たなかっただけだ。
その沈黙を破ろうとした者が一人――エミリア。
しかし、彼女の声は、烈火の如き叫びにより、踏みにじられる。
「馬鹿馬鹿しい! そんなくだらない妄想をよくも――――」
「黙れ!」
「な、なんですって……?」
フローラの声は鋭く、冷徹に、空間を斬る。
「父の命を奪われ、領主の娘としての責務も果たさず、屋敷に籠りただ泣いていただけの存在が、何をほざくか」
「あ、あなたは……私を愚弄――――」
「ああ、愚かだと断じている! 領主の娘として、町が戦場と化したとき、その中心に立つべき者だった。だが、貴様は何もせず、人々が傷つき、倒れるのを黙って見ていただけではないか!!」
「そ、それは、わたくしには、荒事など……」
「剣を振るわずとも、手を差し伸べ、支えることはできたはず。癒すことも、慰めることも、糧を与えることも――それらすべてを、貴様は放棄したのだ。己の嘆きに溺れながら」
「わ、わたくしはお父様の命を奪われ、そのような心境では――」
「それは皆同じだ! それでもなお、町の民は歯を食いしばり、血を流し、傷を抱えながら、互いに支え合って立ち続けた。だが貴様は、己の私情に沈み、領主としての責務の一片たりとも果たさずにいた。そんな貴様に語る資格など、一語たりともない!!」
「――――っ」
エミリアは言葉を失い、青ざめた唇が、わずかに震える。
フローラの声は、ジオラスの罵声をも超え――エミリアの内に宿っていた、わずかな尊厳すら、跡形もなく削ぎ落としていった。




