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元勇者、魔王の娘を育てる~父と娘が紡ぐ、ふたつの物語~  作者: 雪野湯
第二章 子どもたちの目指す道

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第39話 理想を縛る鎖

 アスティの手から、引き剥がされたバッジ。  

 その瞬間、柔らかな光がアスティを包み、隠されていた真実が闇を裂いて広場に現れた。



 光の名残を瞳に宿しながら、群衆の視線は一斉にその少女――いや、真実の姿へと瞳が寄っていく。

 

 ガイウスは目を見開き、エルダーは愕然とした面持ちを見せ、エミリアは唇をわななかせ、ジオラスは無言のまま大口を開けている。

ヤーロゥ・アデル・フローラの瞳もまた、驚愕と戸惑いに彩られて、ただアスティの姿を見つめていた。

 

 舞う風は渦を巻き、そこに皆の視線が混ざり合い、その中心に立つアスティへと集束していく。

 皆が目にしたのは…………人の丸耳とは明らかに違う、ピンと張った尖耳の輪郭。柔らかな桃色の唇から覗く純白の牙。


 これらは――――魔族である証にして、象徴!!



 彼女を見つめる視線たちには罵声も、囁きもない。


 彼女は小さな息をつき、淡々と言葉を出していく。

「今まで黙っていて、ごめんなさい」


 その声は、覚悟と決意と自責……そして、願いが込められている。

「見ての通り、私は魔族。人間族のあなたたちとは違う。どうして、魔族である私が人間族の町にいるのか説明するのは複雑だけど、少なくともあなたたちに敵意はないし、傷つけるつもりはない」


 アスティの眼差しは真摯だった。そこには恐れも、逃避もなく、人々の視線に正面から向き合う。


 彼女は涙と鼻水で顔を濡らしたジオラスへ、声を落とすように語りかけた。

「あなたはこの世界を嘘塗れと言った。裏切られるとも言った。みんな自分に嘘をついているとも言った。ええ、私は自分に嘘をついていた。自分が何者であるかを隠し、真実から目を背けていた」


 アスティはここで小さく息を整え、言葉を継ぐ。

「でも、私は信じたい。この世界がすべて嘘に塗れているなんて、そんなことはないと。たとえ種が違っても、互いを信じ合い、歩み寄ることはできるはず。私は、そうおも――――え?」


 だが、そこで彼女の言葉は、突如として中断された。

 何故ならば、ジオラスが苦悶にも似た表情で顔を歪め、奥歯を強く噛みしめ、両の瞼に皺が刻まれるほどの力を込めて目を閉じたからだ。



 彼は心中でこう漏らす。

(この嬢ちゃん、俺のくそったれな能書きに触発されて……馬鹿な真似を!)

 彼は自らの内に生まれた悶えを押し殺しつつも、アスティにしか届かぬ、小さくも強い声でこう訴えた。


「今すぐ、逃げろ!」


「え?」


 微かな戸惑いが、アスティの心を揺らがせた。

――逃げろとは、なに?――


 思考はその意味を咀嚼できぬまま立ちすくむ。

 生まれて出てしまった思考無き、儚き時間。

 それは住民たちに、言葉の檻を形成する猶予を与え、アスティの肉体と心を見えざる鎖で封じ込めにかかる。



 誰かがぽつりと呟いた。

「魔族……なぜ、魔族が?」

 呟きは風に乗り、新たな囁きを生む。

「あの子が魔族? どうして? どういうことだ?」


 囁きと囁きはぶつかり合い、言葉の波紋を生じさせ、広がっていく。

 それは疑念と恐怖が混ざり合い、群衆の胸を掻き乱す。  


「魔族がここにいる? お、俺たちを殺しに来たのか?」

「だ、だけど、あの子は盗賊から私たちを守って――」

「でも、魔族だぞ! なんで俺たちを助けるんだよ!?」

「もしかして、僕たちは騙されていたのか?」

「騙されるって、何をだよ!?」

  

 交錯する声、募る混乱。  

 ここで、凍りついていたエミリアの唇が突如として震え、そして――激烈なる声が天へと向かって解き放たれた。



「あの魔族は――盗賊の一味だったのだわ! そうよ! そのせいで……そのせいで、お父様は――!!」



 その声は鋭く、激しく、そして哀しみに満ちていた。

 だがこれは、あまりにも突飛で、あまりにも無理のある糾弾。


 盗賊の一味である魔族の少女が町を守り、危険を冒して盗賊の根城奥深くへ侵入し、その頭目を捕らえてきた。

 そのようなこと、有り得るわけがない。


 だが、ジオラスに心を蹂躙され、冷静さを失っていたエミリアは、もうそのような判断を成す余裕など持ち得ない状態だった。

  


 (ことわり)など要らない。証拠など要らない。  

 誰でもいい。憎しみをぶつける相手がいれば……。

 自分の悲しみを、怒りを、嘆きを――ぶつけてぶつけて、ぶつけつくして! 

 そうしなければ! 誰かを憎まねば! 自らの心が壊れてしまう!!

 彼女の瞳はただ紅蓮に染まり、己の痛みを他者へとぶつける凶刃と化す。

 

 彼女にとって魔族とは、父の命を奪った災厄の象徴。

 そう、心が判断した。

 理性など、燃ゆる憎しみの火に焚べて、すべて消し炭としてしまえ!!


 

――だがだ!

 アスティは町を守ってくれた! その事実を皆は見ていた! 命を賭して戦いに身を投じた彼女の背中から、幾人もの民や兵士が勇気を貰い、恐怖を押し退け、共に(あらが)おうと立ち上がったではないか!



 だからこそ、声が上がる――――――――が、人の心とは余りにも弱きもの……。


 アスティから勇気をもらった誰かが、そっとこう述べる。

「で、でも、あの子はわたしたちを守ってくれたじゃないか? 事情はわからないけど、少なくとも敵じゃ――――」

「何を言ってんだよ、相手は魔族だぞ!?」


 

「で、でもさ、エミリア様の言い分じゃ、少し無理があると思うんだ。だって…… 」

「もう一度言うぞ。相手は魔族! 子どもでも魔族だ! なんかやべー企みがあって、この町にいるかもしれねぇんだぞ!」

「そ、それは……」


 言葉が詰まった彼の肩を、誰かが怒気を孕んだ声で叩いた。

「お前はエミリア様と魔族の言うこと、どっちを信用するんだよ!!」

「それは……その……」


 答えきれぬ声が途切れる。

 その横から、なおもアスティへの擁護の言葉が――だが、それは無情な一言によって打ち砕かれる。


「落ち着けって! たしかにあの少女は魔族だけど、僕たちを守ってくれたんだぞ! それなのに――」

「お前、それ! 魔族の味方をするってことか!!」



――この一言によって、全てが決した。

 

 以後、アスティのために誰も口を開こうとはしなかった。


 アスティを擁護する声は、すなわち魔族を弁護する声。  

 それは、民の間に背く者、裏切り者と見なされる。  


 どれほど胸の内に矛盾と葛藤があろうとも、正しき疑問を抱こうとも、それを言葉にする者は、もはやいない。

 


 誰しも、我が身が――――可愛いのだから……。




 群衆の一人が、ふと目を凝らし、少年を指差した。

「あの子たちも、魔族なのか……?」


 その声は野に放たれた狼煙のように広がり、視線はアデルとフローラへと一斉に注がれる。

 その苛烈な注視に対し、アデルはこめかみに怒気の色を滲ませながら言い放つ。

「んだよ! 俺は人間族だよ! ってか、アスティはみんなのために頑張ったんだぞ! それなのに――」

「黙れ、魔族め! 俺たちを騙そうとしてるんだろ!!」


「だから違うって――」


「魔族の小僧めが!!」

「何を企んでやがる!!」

「ガイウス様、早くこいつらを叩き斬ってくれ!!」



 罵声は雪崩のように膨れ上がり、怒号は激流となってアデルの声を押し潰す。  

 アデルが必死に言葉を返そうとするも、何十、何百と重なる咎声(とがごえ)の奔流を前に、もはや口を開くことすら叶わなかった。


 そのとき、負傷した兵士が足を引き摺りながら、フローラの前に進み出た。

 そして、恐れと疑念とを宿した瞳で、問う。


「ほ、本当に、あなたは魔族……なのですか?」


 その問いに、フローラはわずかに瞼を閉じ、静かに息を吐いた。  

「……ふぅ」


 そして、蒼黒いドレスの懐に手を入れ、そこにつけていた変装用のバッジをためらうことなく取り外した。

 途端、淡き光が彼女を包み、すぐに消え失せる。


 しかし、光のあとに現れた彼女の姿は、さほど大きくは変わらなかった。  

 それを見て、兵士は怯えと困惑を入り混ぜた声を漏らす。


「ひっ……あ、あれ? あまり変わって……ないような?」

「わたしは人間族と魔族のハーフですから。あまり目立った魔族の特徴はないんですよ」

 

 その一言が放たれた瞬間、空気が凍りつく。

 兵士の顔が蒼白に染まり、わずかに後ずさる。


 そして、彼の背後から、誰かの声が上がった。  

「に、人間族と魔族の――!? そ、それは禁忌の……忌み子じゃないか!!」


 その言葉に誘われるように、周囲の者たちが数歩ずつ、ゆっくり、しかし確実に後退する。

 まるで、そこに穢れがあるかのように。

 忌避と嫌悪が、アスティの正体が明かされたときよりも、濃く、深く、この場を支配していく。

 

 そのとき、誰かがふと兵士へと声を投げた。

「あ、あんた、そんな子に治療されたのかよ……」


 兵士は一瞬動きを止め、顔を強張らせる。

 そして、戸惑いと羞恥の色を濁らせながら、慌てて叫ぶ。  

「ち、ちがうっ! 俺は別に!!」

 

 彼はその手で、血のにじむ包帯を乱暴に引き剥がした。

 その包帯は、フローラが差し出した優しさと献身の証――彼は、それすらも否定し、拒絶したのだ。


 己の命を繋いだその手を――忌むべきものとして。

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