第39話 理想を縛る鎖
アスティの手から、引き剥がされたバッジ。
その瞬間、柔らかな光がアスティを包み、隠されていた真実が闇を裂いて広場に現れた。
光の名残を瞳に宿しながら、群衆の視線は一斉にその少女――いや、真実の姿へと瞳が寄っていく。
ガイウスは目を見開き、エルダーは愕然とした面持ちを見せ、エミリアは唇をわななかせ、ジオラスは無言のまま大口を開けている。
ヤーロゥ・アデル・フローラの瞳もまた、驚愕と戸惑いに彩られて、ただアスティの姿を見つめていた。
舞う風は渦を巻き、そこに皆の視線が混ざり合い、その中心に立つアスティへと集束していく。
皆が目にしたのは…………人の丸耳とは明らかに違う、ピンと張った尖耳の輪郭。柔らかな桃色の唇から覗く純白の牙。
これらは――――魔族である証にして、象徴!!
彼女を見つめる視線たちには罵声も、囁きもない。
彼女は小さな息をつき、淡々と言葉を出していく。
「今まで黙っていて、ごめんなさい」
その声は、覚悟と決意と自責……そして、願いが込められている。
「見ての通り、私は魔族。人間族のあなたたちとは違う。どうして、魔族である私が人間族の町にいるのか説明するのは複雑だけど、少なくともあなたたちに敵意はないし、傷つけるつもりはない」
アスティの眼差しは真摯だった。そこには恐れも、逃避もなく、人々の視線に正面から向き合う。
彼女は涙と鼻水で顔を濡らしたジオラスへ、声を落とすように語りかけた。
「あなたはこの世界を嘘塗れと言った。裏切られるとも言った。みんな自分に嘘をついているとも言った。ええ、私は自分に嘘をついていた。自分が何者であるかを隠し、真実から目を背けていた」
アスティはここで小さく息を整え、言葉を継ぐ。
「でも、私は信じたい。この世界がすべて嘘に塗れているなんて、そんなことはないと。たとえ種が違っても、互いを信じ合い、歩み寄ることはできるはず。私は、そうおも――――え?」
だが、そこで彼女の言葉は、突如として中断された。
何故ならば、ジオラスが苦悶にも似た表情で顔を歪め、奥歯を強く噛みしめ、両の瞼に皺が刻まれるほどの力を込めて目を閉じたからだ。
彼は心中でこう漏らす。
(この嬢ちゃん、俺のくそったれな能書きに触発されて……馬鹿な真似を!)
彼は自らの内に生まれた悶えを押し殺しつつも、アスティにしか届かぬ、小さくも強い声でこう訴えた。
「今すぐ、逃げろ!」
「え?」
微かな戸惑いが、アスティの心を揺らがせた。
――逃げろとは、なに?――
思考はその意味を咀嚼できぬまま立ちすくむ。
生まれて出てしまった思考無き、儚き時間。
それは住民たちに、言葉の檻を形成する猶予を与え、アスティの肉体と心を見えざる鎖で封じ込めにかかる。
誰かがぽつりと呟いた。
「魔族……なぜ、魔族が?」
呟きは風に乗り、新たな囁きを生む。
「あの子が魔族? どうして? どういうことだ?」
囁きと囁きはぶつかり合い、言葉の波紋を生じさせ、広がっていく。
それは疑念と恐怖が混ざり合い、群衆の胸を掻き乱す。
「魔族がここにいる? お、俺たちを殺しに来たのか?」
「だ、だけど、あの子は盗賊から私たちを守って――」
「でも、魔族だぞ! なんで俺たちを助けるんだよ!?」
「もしかして、僕たちは騙されていたのか?」
「騙されるって、何をだよ!?」
交錯する声、募る混乱。
ここで、凍りついていたエミリアの唇が突如として震え、そして――激烈なる声が天へと向かって解き放たれた。
「あの魔族は――盗賊の一味だったのだわ! そうよ! そのせいで……そのせいで、お父様は――!!」
その声は鋭く、激しく、そして哀しみに満ちていた。
だがこれは、あまりにも突飛で、あまりにも無理のある糾弾。
盗賊の一味である魔族の少女が町を守り、危険を冒して盗賊の根城奥深くへ侵入し、その頭目を捕らえてきた。
そのようなこと、有り得るわけがない。
だが、ジオラスに心を蹂躙され、冷静さを失っていたエミリアは、もうそのような判断を成す余裕など持ち得ない状態だった。
理など要らない。証拠など要らない。
誰でもいい。憎しみをぶつける相手がいれば……。
自分の悲しみを、怒りを、嘆きを――ぶつけてぶつけて、ぶつけつくして!
そうしなければ! 誰かを憎まねば! 自らの心が壊れてしまう!!
彼女の瞳はただ紅蓮に染まり、己の痛みを他者へとぶつける凶刃と化す。
彼女にとって魔族とは、父の命を奪った災厄の象徴。
そう、心が判断した。
理性など、燃ゆる憎しみの火に焚べて、すべて消し炭としてしまえ!!
――だがだ!
アスティは町を守ってくれた! その事実を皆は見ていた! 命を賭して戦いに身を投じた彼女の背中から、幾人もの民や兵士が勇気を貰い、恐怖を押し退け、共に抗おうと立ち上がったではないか!
だからこそ、声が上がる――――――――が、人の心とは余りにも弱きもの……。
アスティから勇気をもらった誰かが、そっとこう述べる。
「で、でも、あの子はわたしたちを守ってくれたじゃないか? 事情はわからないけど、少なくとも敵じゃ――――」
「何を言ってんだよ、相手は魔族だぞ!?」
「で、でもさ、エミリア様の言い分じゃ、少し無理があると思うんだ。だって…… 」
「もう一度言うぞ。相手は魔族! 子どもでも魔族だ! なんかやべー企みがあって、この町にいるかもしれねぇんだぞ!」
「そ、それは……」
言葉が詰まった彼の肩を、誰かが怒気を孕んだ声で叩いた。
「お前はエミリア様と魔族の言うこと、どっちを信用するんだよ!!」
「それは……その……」
答えきれぬ声が途切れる。
その横から、なおもアスティへの擁護の言葉が――だが、それは無情な一言によって打ち砕かれる。
「落ち着けって! たしかにあの少女は魔族だけど、僕たちを守ってくれたんだぞ! それなのに――」
「お前、それ! 魔族の味方をするってことか!!」
――この一言によって、全てが決した。
以後、アスティのために誰も口を開こうとはしなかった。
アスティを擁護する声は、すなわち魔族を弁護する声。
それは、民の間に背く者、裏切り者と見なされる。
どれほど胸の内に矛盾と葛藤があろうとも、正しき疑問を抱こうとも、それを言葉にする者は、もはやいない。
誰しも、我が身が――――可愛いのだから……。
群衆の一人が、ふと目を凝らし、少年を指差した。
「あの子たちも、魔族なのか……?」
その声は野に放たれた狼煙のように広がり、視線はアデルとフローラへと一斉に注がれる。
その苛烈な注視に対し、アデルはこめかみに怒気の色を滲ませながら言い放つ。
「んだよ! 俺は人間族だよ! ってか、アスティはみんなのために頑張ったんだぞ! それなのに――」
「黙れ、魔族め! 俺たちを騙そうとしてるんだろ!!」
「だから違うって――」
「魔族の小僧めが!!」
「何を企んでやがる!!」
「ガイウス様、早くこいつらを叩き斬ってくれ!!」
罵声は雪崩のように膨れ上がり、怒号は激流となってアデルの声を押し潰す。
アデルが必死に言葉を返そうとするも、何十、何百と重なる咎声の奔流を前に、もはや口を開くことすら叶わなかった。
そのとき、負傷した兵士が足を引き摺りながら、フローラの前に進み出た。
そして、恐れと疑念とを宿した瞳で、問う。
「ほ、本当に、あなたは魔族……なのですか?」
その問いに、フローラはわずかに瞼を閉じ、静かに息を吐いた。
「……ふぅ」
そして、蒼黒いドレスの懐に手を入れ、そこにつけていた変装用のバッジをためらうことなく取り外した。
途端、淡き光が彼女を包み、すぐに消え失せる。
しかし、光のあとに現れた彼女の姿は、さほど大きくは変わらなかった。
それを見て、兵士は怯えと困惑を入り混ぜた声を漏らす。
「ひっ……あ、あれ? あまり変わって……ないような?」
「わたしは人間族と魔族のハーフですから。あまり目立った魔族の特徴はないんですよ」
その一言が放たれた瞬間、空気が凍りつく。
兵士の顔が蒼白に染まり、わずかに後ずさる。
そして、彼の背後から、誰かの声が上がった。
「に、人間族と魔族の――!? そ、それは禁忌の……忌み子じゃないか!!」
その言葉に誘われるように、周囲の者たちが数歩ずつ、ゆっくり、しかし確実に後退する。
まるで、そこに穢れがあるかのように。
忌避と嫌悪が、アスティの正体が明かされたときよりも、濃く、深く、この場を支配していく。
そのとき、誰かがふと兵士へと声を投げた。
「あ、あんた、そんな子に治療されたのかよ……」
兵士は一瞬動きを止め、顔を強張らせる。
そして、戸惑いと羞恥の色を濁らせながら、慌てて叫ぶ。
「ち、ちがうっ! 俺は別に!!」
彼はその手で、血のにじむ包帯を乱暴に引き剥がした。
その包帯は、フローラが差し出した優しさと献身の証――彼は、それすらも否定し、拒絶したのだ。
己の命を繋いだその手を――忌むべきものとして。




