第38話 真実の剥露
元は一介の剣士にして、庶民に過ぎなかったジオラスの嘆き。
町の住民たちは恨みと憎しみを抱きながらも、彼の心に根差す想いに己らを重ねてしまい、押し黙った。
数多の戦乱と試練をくぐり抜けてきた老将ガイウスもまた、貴族の身でありながら、その言葉の重さを理解していた。彼は瞑目し、沈黙を纏う。
――だが、エミリアは違った。
彼女は貴族の娘として生まれ、貴族の論理の中で育まれた少女。
庶民の苦悩や、搾取される弱き者の視点など、彼女の世界には存在しない。
ゆえに、ジオラスの悔恨など、父親の命を奪った男の戯言にしか聞こえなかった。
彼という存在の成り立ちが、貴族という力に翻弄された末の、歪んだ果てであると、思い至ることもない。
ただ、娘として、父を殺した男が憎くて憎くて堪らなかった。
男がどれほど悔いていようとも、いかなる言葉を並べようとも、父を殺した罪は消えはしない。
その事実だけが、今の彼女にとっての全て。
若き騎士エルダーもまた、エミリアと同じく、ジオラスに対する同情はごく薄いものだった。
どれほどの苦難を背負おうとも、それが他者を害し、命を奪うことの正当な理由とはなり得ない――その信念が、彼の心の核に厳として根を張っているからだ。
アデルやフローラもまたそう。
ジオラスが歩んできた道――力に抗えず翻弄され、ついには堕ちたその軌跡に、哀れみの情は抱いても、決して肯定はできない。
いかなる事情があろうと、道を踏み外すことは間違っているという思いが強くある。
エルダー、アデル、フローラはとても聡明は若人たちだ。
だが、人生の複雑さ――光と影が幾重にも交錯し、善と悪が容易く入れ替わる現実の重みを知るには若すぎた。
この世界においては、正義は常に純粋ではなく、悪は常に邪悪でもない。
その境は、時として風に吹かれた砂のように曖昧で、脆く、儚い。
しかし今の彼らには、まだそれを見極める眼差しも、受け容れるだけの余白もなかった。
ジオラスの言葉は、聴く者の胸にそれぞれ異なる波紋を広げ、情動はまるで様々な色を帯びた絵具のように、その人の心根を映し出した。
その中にあって、最も濃く、最も深く揺れ動いていたのは ――――アスティだった。
彼女はジオラスが吐露した慟哭のような言葉の数々を反芻していく。
――この世界は虚飾と汚物に塗れてる。
(本当に、そうなのかな……?)
――いつか、お前たちは裏切られる。救おうと伸ばした手を切りつけられる。
(そんなはずない。互いが理解し合い、信じ合い、助け合うことは正しいはず)
――全部嘘っぱちなんだよ! そうだ、この世界は嘘塗れだ!!
(違う、違う。世界に嘘なんてない――)
――み~んな、自分に嘘をついて、誤魔化して、現実から目を背けて、生きていく。
(――――っ!?)
「自分に……嘘を……」
アスティの細い声が漏れる。
彼女はそっと懐へと手を伸ばし、そこに隠していたものに触れた。
(私は……みんなに嘘をついている。私は、本当の私は、こんな姿じゃない。耳が尖り、牙を持つ魔族。でも、誤魔化して……それはどうして? 現実から――いえ、真実から目を背けてるから?)
ふと、周囲にいた町の人々に視線を巡らせる。
その中で、アスティのことをよく慕ってくれている兵士長の姿が黄金の瞳に宿る。
(兵士長さん……私が魔族だと知ったら、嫌いになっちゃうのかな? みんなも私のことを……いや、そんなわけない! 私はみんなのことを信頼したい! 自分に嘘をつきたくない!!)
《この世界は嘘に塗れてなんていない――これが私の真実!!》
アスティは懐に隠していた変装用のバッジを握りしめて、それを剥ぎ取った。
――時はわずかに遡る。場面は、ヤーロゥへと移る。
蒼穹が仄かに白みを帯びる頃――。
ヤーロゥは夜を徹して駆け続け、ようやくデルビヨの町。その西門前へと辿り着いた。
彼はそこで足を止める。
そして、荒く波打つ呼吸を整えようと、両膝に手をついて上体を折り、胸を大きく上下させた。
「ぜぇぜぇぜぇぜぇ、こ、この年で夜通しの強行軍なんて ……お、おぇ……はぁ、はぁ、はぁ、さすがに、きつい……はぁ、はぁ」
土産物を購入した村とデルビヨの町は、元勇者の脚をもってしても、朝に出立して夕方に到着する距離。
それを夜に発ち、一睡もせずに走り続け、早朝に戻って来たのだ。
いかに元勇者とは言え、彼は四十五の中年男性。スタミナは若い頃と同じとはいかない。
燃えるような肺を宥めながら、彼はふと背後を振り返る 。
(街道を盗賊が封鎖していると聞いていたが、そんな連中いなかったな。代わりに、馬防柵が打ち捨てられたように残り、場は荒れ、何者かが急ぎ立ち去った痕跡だけがあったが)
周囲に視線を巡らせる。
(城壁の一部には矢傷。所々に燻ぶりの焦げ跡も残る。地面には遺体を引きずって片付けた跡。色濃く残る血の匂い。戦いの痕跡は残っている)
次に閉ざされたままの西門を見上げる。
(守備兵が一人もいない。戦の最中であろうがなかろうが、常時兵士がいるものだろうに。かといって、城門は破れていない……何が起こっている?)
ヤーロゥが思案を巡らせ、訝しげに眉を寄せたそのとき、町の奥より、突如として大きな声が湧き上がった。
「なんだ? 声は悲鳴じゃない。これは歓声。まったく、何が何やら。ともかく、中に入ろう。とはいえ、門は閉じたままなのに門番はいないし……跳ぶか? いや、ここはヴィナスキリマに頼ろう」
腰に差していたナイフ姿の芙蓉剣ヴィナスキリマへ手を添えた。
心の内に静かなる念を込めると、その刃はしなやかな縄へと姿を変え、先端には鉤爪が形を成す。
「さて、こいつを使って壁を越えるかね」
――――
デルビヨへと入り、大通りを慎重に進みゆく。
その途上にあったのは、数多の人々が家々より飛び出し、ひとえに町の中心を目指して走る光景。
人波の只中、ヤーロゥは己が姿を悟られぬよう、ローブのフードを深く被り、足取りを早めながら、人々に紛れて広場へと向かう。
――デルビヨの中心部・六つの街路が交わるデルビヨの大広場
石畳の敷き詰められたこの場所に、今、何百という群衆が集い、ひとつの輪となって、静謐なる包囲を形作っていた。
そう、静謐。
これほどの人数が居ながら、声一つ発さず――ある者はただ鋭き眼差しを向け、ある者は目を逸らし、またある者は両の手の平で顔を覆っていた。
ただ、輪の中心より唯一、女の怒声のみが響き渡っている。
ヤーロゥは群衆の隙間より、静かにその中心を覗いた。
そこに居たのは――――
(アスティ? アデルにフローラも?)
女性が縄で縛られた沈黙の男をひたすら嘲罵し、その男の後ろに子どもたちと十数人の男たちが並び立つ。
その中に、見知った人物を見つけた。
(ガイウス!? なんであのおっさんと――って、もう爺さんか。いや、そんなことはどうでもいい。なんでガイウスと一緒にアスティたちがいるんだ?)
訝しみつつ、大声で叫び続けている女性へと視線を移す。
彼女は赤黒のドレスに細やかな金糸の刺繍をまとい、声に怒気を滲ませながら縄目の男へ激しく罵倒を繰り返す。
(貴族の令嬢、か……内容から察するに、父君をその男に殺されたか)
女に罵られる男に目をやる。
白きバンダナ、緑革の軽鎧、無精髭。
理由はわからないが、表情は空っぽで気の抜けた様子を見せている。
裏腹に、確かな剣筋を思わせる肉体。一瞥するだけで、その男が只者ではないと察せられた。
(……あれが盗賊の首領ということか? ってことは、ガイウスは一団を打ち破り、捕らえた。アスティたちは、その加勢をした――そういうことか。まったく、なんて危険な真似を。何かあったら、秘密の場所で合流する手はずだっただろうが…… )
娘たちの行動に思うところはあるが、なにはともあれ、ようやく、出来事の輪郭が朧げに見えてきた 。
だが、それでも腑に落ちないのは、町の住人たちの沈黙。
ガイウスもアスティたちも一言も発することもなく、盗賊の男も何も言わない。
彼らは目の前の光景に何の言葉も持たず、ただ息を潜め、声を殺し、思い思いの心情を胸の内に潜ませている様子。
この事態、何が起こっているのか? それはヤーロゥに全くわからなかった。
(ようわからんが、危険はないと踏んでよさそうだな。だったら、あとは様子を見て、アスティたちに声をかけよう。そのときに尋ねればいい)
そう思い、フード越しからアスティへ視線を送った。
すると彼女は、そっと懐に手を入れて、何かをまさぐっている。
やがて、彼女の拳が青色のサーコートの下で固く結ばれた。
(何をしているんだ?)
ヤーロゥは目を細め、その拳に視線を注ぐ。
アスティは躊躇うように一瞬その手を止めたが、やがて決意とともに拳を抜き上げようとする。
その刹那の間に、手に握られていたものを――ヤーロゥは見た。
娘が握っていたものを……それは魔石が散りばめられたバッジ――――人を魔族に、魔族を人に変えることのできるバッジ。
(ま、まさか!)
「やめ――――!」
咄嗟に声を放とうとしたヤーロゥだったが、その声が空気を裂く前に――アスティの指が、バッジを力強く引き剥がしていた。




