第37話 嘘の宿り木
十八歳の青年・騎士エルダー。
彼の言葉には、悪意など微塵もなかった。
むしろ、それは誇り高き正義の名のもとに語られたもの。清廉にして真摯なる条理の表明であった。
大勢を殺め、略奪を重ね、悪逆の限りを尽くした盗賊。
この男は、領主の命を奪い去ったばかりか、その遺された娘の心までも、鋸の如き言葉でぐちゃぐちゃに斬り潰した。
だからこそエルダーは、彼の発する声を、ただの癇癪として軽んじ、唾棄して見せた。
この一言……もし、エルダーの言葉に支配階級たる悪意が溶け込んでいたならば、ジオラスも受け流していたであろう。
しかし、彼にはそれがなかった。
正論を正論として、ジオラスの顔に唾を吐き捨てた。
悪意のなく、無知であるがゆえに、どこまでも誇り高き貴族としての言葉。労苦の痛みも苦しみ知らぬ言葉はジオラスの心を抉る――――――――それは、全てを諦め、己の破滅をも受け容れんとしていたジオラスの心奥に眠っていた憎悪の火を再び灯し、炎として蘇らせてしまった。
「はっ、癇癪ね……てめぇら貴族はいつだってそうだ」
「何を言っている?」
「力でオレたちを抑えつけ、束縛し、一方的に与えられた道を歩かせながら、自業自得だとのたまいやがる」
「貴族批判をしたければすればいいが、それとお前の所業は全くのべつもの――っ!?」
「別物じゃねぇんだよ!! このクソガキがぁぁあ!!」
ジオラスは憤怒のままエルダーへ詰め寄らんとする。
縛めを操る工作員が懸命に縄を引くも、その力を持ってしても、彼の歩みを止めるには足らない。
ジオラスはなおも前進し、もう一人が駆け寄って必死に縄を引き留めることで、ようやくその動きを制した。
それでもなお、ジオラスは顔を、胸を、エルダーへ乗り出し、口角泡を飛ばす。
「全部が繋がってんだよ!! てめぇらはオレたちから奪っていきやがる! 奪うばかりだ!! 手を土に浸して大切に育てた小麦も、指先を痛めて紡いだ小物も、わずかな利を積み重ねた蓄えも、何もかもだ!!」
「――――ッ!」
エルダーは怒気に染め抜かれた表情の前に声を詰まらせ、唇を噤んだ。
もはや言葉はジオラスひとりのものとなり、彼の胸中からは、心の堰を破って激情が溢れ出す。
「奪い、奪い、奪いつくされて、何一つ残らねぇ! 奪うものがなけりゃ、今度は罪人に仕立て上げ、大切な家族を奴隷として売り払おうとする! それだけじゃねぇ。兵が足らねぇからと言って、オレの兄貴と親父を奪っていきやがった!」
「へ、兵役は、領民の義務だろ。だから――」
「くだらねぇ魔族との戦争のためにがか!?」
「そ、それは……」
この一言で、エルダーは完全に言葉を失った。
何故ならば、彼自身がいま、魔族との戦を推し進める王を諫めるべく、ガイウスと共に王都へと向かっている最中であったからだ。
まさしく、ジオラスの言葉どおり、無意味な戦と、それに伴う過酷な負担を終わらせるために。
ジオラスはその場に膝をつき、縛られた手で地を掴んだ。
美しい白の石畳にこびりついていた土を、指先で、爪の先で、深く握り締めながら、静かに語り出す。
「働き手だった兄貴と親父がいなくなって、家は一気に貧しくなった。与えられた扶持は雀の涙。オレは剣に覚えがあったが、まだ十四で戦場に立てる年じゃねぇ。それにお袋もいたから、オレまで家を空けるわけにはいかなかった」
彼は拳のなかで、土を固く、固く、押し固める。
「だからオレは必死に働いた。なんでもした。どんな理不尽にも歯を食いしばって耐えた 。オレには、目標としている人がいたから。その人のようにいつか『本物』になりたいと願って……だがな……それさえも奪われたんだよ。お前ら貴族たちに……」
その瞳には、底知れぬ深淵が宿る。
それを直視することができず、エルダーは、そっと目を背けた。
「……なぁ、オレは間違っていたのか? オレのどこが間違っていたんだ? 教えてくれよ…………クク、ククク、あはははははッ!」
突如、狂気を帯びたような笑声を漏らしつつ、ジオラスは拳で地を打ち据え、再び顔を上げた。
そして、その目に烈火の激情を宿し、エルダー――いや、この国のすべての貴族に向けて、咆哮を放つ。
「親父と兄貴は戦場で死んじまった! それを聞いたお袋は心を病んで命を絶った! 残されたオレは、税が足りねぇってだけで、奴隷として売られそうになった! だからオレのことを捕らえに来た兵士と貴族をぶっ殺した――ひひひ、クソ貴族様は必死に命乞いをしてやがったぜ。散々威張り散らかしたってのによ……そこでオレはようやく理解したんだ。悟ったんだ」
――力がないから奪われる。だから、力が必要だ。その力で、貴族のように奪う側に回ってやる――
「ってな……」
ジオラスはふらつく足取りで立ち上がると、指先に食い込んだ土と、爪から滲み出す血潮とを黙然と見下ろした。
爪の下にこびりついた泥は、まるでこの世界の穢れを象徴するかのように、彼の手から離れようとしない。
「この世界は糞ばかりだ……」
低くくぐもった声が、大地に染み入るように吐き出される。
「貴族様はこう仰せになる。宿敵の魔族を滅ぼし、人間族に平和と安寧をって。その終わりはいつだ? 十年後か? 二十年か? オレたちはいつまで耐えればいいんだ? いや、終わりなんてねぇんだ。戦が終わっても、別の理由で搾取され続ける。それが庶民ってもんだ」
彼は深く息を吸い、瞳に滲んだものを必死に堪えながら、蒼穹を仰いだ。
その眼差しは、天へと、己が慟哭を託さんとするかのような姿。
「――――ああああああああ! 全部嘘っぱちなんだよ! 平和? 安寧? 笑わせるなよ――そりゃ、てめえら貴族様だけのもんだろ! そうだ、この世界は嘘塗れだ!! 誰もが怯えながら偽りにしがみついて生きてやがる!!」
彼の激情は鎮まる気配はない。
ゆえに、ガイウスが言葉に寄り添いを籠めて、諫めようとするが……。
「……ジオラス、もうよかろう」
「よかねぇよ! 全然だ! 全くだ! こんな何も知らねぇ貴族のクソガキに小利口な説教されてよ。これがオレの最期かよ、ふざけやがって! あはは、似合いっちゃあ、似合いか!」
「ジオラス……」
そう言葉を零し、ガイウスは無力に目を伏せる。
「なぁ、ガイウス。あんたは立派な人物だ。それはオレの腐った鼓膜にまで響いてるさ。あんたは大貴族なのに、常に前線で踏ん張ってた。だから、理不尽な死や飢えも知ってるだろうよ。だけどな、あんたは経験したことがあるか? 自分の家族が飢えに喘ぎ、干からびた唇で水を乞う姿を!?」
「……ないな」
「そうだろうな! だがオレたち庶民はそれが当たり前のように付きまとう! そいつはすべての庶民にだ!!」
ジオラスは周囲の群衆をぐるりと一瞥し、唇を強く噛みしめてから叫んだ。
「ここは裕福な町だ。だが、その豊かさが、どれだけの搾取によって成り立っているか……お前らだって、知ってるだろ!? それが永遠には続かねぇことにも、な!!」
彼の声は怒りに震え、語るごとに熱を帯びていく。
「この町の豊かさも穏やかさも賑やかさも、しょせんは嘘。嘘で嘘を塗り固めてできた薄っぺらな世界なんだよ!!」
ジオラスの言葉は止まらない。同じ庶民である彼らに己の叫びをぶつけ続ける。
「弱い者から削られ、切り捨てられ、残るは貴族様だけ。 オレたちに明日なんてない。常に怯えて、いつ見捨てられる側になるのかと怯える毎日。それのどこに平和があんのかよ! どこに安寧があんのかよ!!」
ここでジオラスは、アスティ・フローラ・アデルへ崩れた笑いと顔を見せる。涙と鼻水が混じり合い、そこにはもう、凶賊ジオラスの面影はない。
彼は、静かに三人の子らへと視線を向け、ゆるやかに語りかけ始めた。
「お前たちは……まだ真っ直ぐで、世界の穢れなんて知らねぇんだろうな。だが、すぐに気づくさ。この世界は虚飾と汚物に塗れてるってな」
この言葉にアデルとフローラは戸惑いを覚え、アスティは目を伏せる。
彼の声は低く、どこか諦念に染まる声を生み続ける。
「いいか、世の大半は、自分のことで手一杯なんだ 。誰かを助ける余裕なんざ、ありゃしねぇ。ましてや命を賭してまでなんて……そりゃあ、馬鹿のすることだ。だってのに、どんだけお人よしなんだよ、フフ」
小さな笑いを落とし、なおも語りを続ける。
「いつか、お前たちは裏切られる。救おうと伸ばした手を切りつけられる。理不尽だが、みんな生きるのに必死なんだ。お前たちよりも大切なモノを守るために、裏切るんだ。これはある意味仕方ねぇことだ。だけどな、若いお前らはきっと傷つくだろうな。その傷は、心に深く刻まれ、癒えぬまま疼き続ける」
彼は結われた両手で自身の心臓をポンっと軽く叩き、肩を竦めてみせた。
「で、出来上がったのがオレってわけだ。み~んな、自分に嘘をついて、誤魔化して、現実から目を背けて、生きていく。掲げた夢も希望も、すべては幻。大きな力に踏みにじられる運命さ。だから、あんまお人よしはやめとけよ」
それは実に奇妙な忠告だった。
敵であったアスティたちへの気遣いとも取れたが、同時に――裏切りという現実を否定せず、むしろ『恨むな』と諭すようでもあった。
裏切られることが必然の世界。嘘をつかれること、嘘をつくことが当然の世界。嘘は呼吸のように吐かれ、信じるという行為すら愚かとされる。
ジオラスの言葉は、そうした現実を理解しろという、あまりに悲しい教育。
理想と夢の衣を纏った虚構と、剥き出しの現実との乖離――それを知った上で歩めという、彼の言葉。
言葉を紡ぎ終えたジオラスは、がくりと項垂れた。
魂の灯火を失ったかのように、その身そのものもまた垂れた。
その沈黙を、切り裂くように放たれた声が上がる。
ここまで黙していたエミリア――いや、怒りを胸に煮え滾らせていた少女が、感情を爆ぜさせる。
「よくもまぁ、抜け抜けとくだらない戯言を!」
人差し指をジオラスへと突きつけ、彼女の心に溢れる父への思いが怒声となって響き渡る。
「だから、何だというのですか!? そのようなお父様を侮辱する意味不明な告白で、あなたの罪が昇華されるとでも! わたくしのお父様の命を奪ったことが許されるとでも!? そんな愚かな話――あるわけないでしょう!!」
彼女は言葉の刃を振るい続けた。それは止めどなく、痛烈に。
だが、ジオラスは一言も返さない。
ただ黙し、光を失った灰色の瞳を地に伏せていた。
沈黙の中、エミリアの声だけが響く。
群衆は何も語らず、その視線は彼女を避け、ジオラスに注がれる。
――なぜ、町の皆は沈黙なのか? 盗賊如きに罵倒され、奪われ、痛みを受けたはずの彼らは、なぜ言葉を返さないのか? ――
力なく頭を下げているジオラスの姿を前に、老人が小さく頷き、若い母親の唇を噛む音が響く。
ジオラスは盗賊。このデルビヨの町を脅かし、先の戦においては知人や友人を傷つけ、命すら奪った存在。
だからこそ、エミリアのように罵倒を浴びせることが自然でなかろうか?
そうであるのに、彼らは言葉を産み出せずにいた。
それは、理解してしまったから、ジオラスの気持ちを――その底に流れていたものを!!
彼らもまた庶民。搾取される側。
終わりの見えぬ魔族の戦い。増え続ける税。強制徴募。
それはデルビヨから離れた村からゆっくりと、だが確実に行われていった。
ひたりひたりと、足音を立てて近づいてくる破滅。
それはいつ来るのか。数年後か? 来年か?
このデルビヨの町に初めて訪れた際、ヤーロゥが感じ取った、あの違和の正体がここに浮かび上がる。
《栄えているように見えるが、どうも住民にいま一つ生気がないような? 何やら未来を憂いる沈痛な色が見え隠れしているな》※第二章15話
不安。
未来が見えない。
終わりしか見えない。
破滅の輪郭が、日に日に濃くなってゆく
愛する者と歩むべき道は、絶望で覆われている。
子らに夢を語ることすら、もはやできない。
どれほど町が栄えて見えようとも、心の奥底には鬱々たる現実が巣食っていた
だからジオラスの言葉が心に響いていた。響いてしまった。
彼が綴る残酷な現実……今まで目を背けていた現実が心に突き刺さる。
彼はただの盗賊ではない。
あれは、自分たちの『行き着く先』なのではないか。
そして、破滅の先にあるのが、ジオラスの姿ではないのかと。
破滅の……末の姿ではないのか――と。




