第36話 奪われた路
エルダーの手を振りほどこうと、激情のままに身を捩るエミリア。
その姿を目にしたジオラスは、喉奥から短く鋭い息を吸い上げ、次の瞬間には、まだ瞼の重い朝の町を叩き起こすように、腹の底から哄笑を放った。
「クク……あ~はっはっはっは!!」
エミリアはすかさず、その声に反応する。
「何がおかしいのですか!?」
ジオラスは笑いを止めぬまま、口の端を上げて彼女を見下ろすように言い放つ。
「何がおかしいだって? そりゃあ決まってるぜ。公平だ? 誠実だ? 高潔だ? そんなまやかしを信じてる空っぽな貴族のお嬢様の姿が、滑稽で滑稽で、笑いがこらえきれねぇんだよ!! ぎゃはははは!!」
「お、お父様を侮辱するつもりですか!」
「侮辱じゃねぇよ、こいつぁ事実だ。ああ、たしかにあのメディウスって貴族は、オレの知る貴族の中じゃ、まだマシな部類だったかもな。だがなぁ、とんだ間抜けだ」
「な、何を……あなたは――」
「搾取してんだよ。他の村々からな。自分の町だけを飢えさせねぇために、周りから根こそぎ吸い上げている。その結果、弱いガキや老いぼれが飢え、死ぬ。そんなメディウスの、どこが公平だってんだ!? 」
「――――え? う、うそよ……そんなことに……なっているなんて……」
「へへ、まぁ、気持ちはわかるぜ。デルビヨはメディウスの領地の頭脳にして心臓。ここが潰れりゃ、全てを無くしちまう。だから、あらゆる犠牲を払ってでも守る必要がある。でもよ、それって公平か?」
「で、ですが……それは……仕方のない…………」
「はんっ、誠実だと言うがよ、王都のご機嫌伺いをして、袖の下を渡し、少しでも税を軽くしてもらおうっていう、小賢しい男のどこが誠実なんだ?」
「賄賂を? そんな話、わたくしは……」
「極めつけは、オレたちとの交渉だ。盗賊と交渉する貴族様が高潔って言えんのか? ほら、答えてみろよ――貴族のお嬢様!!」
「――――うっ!」
エミリアは、口を開こうとして、何も言葉を紡げなかった。
自分が知らなかった事実と、自分が知っている父の像との乖離を前に……。
だがしかし、メディウス自身、この一連の施策が愚かであり、歪んだ均衡の上に成り立つものであることを痛烈に理解していた。だが、正す力を、彼は持ち得なかった。
町を守る。ただひたすらに、それだけを願い、日々を凌ぎ、終わりの見えぬ人間族と魔族との苛烈な抗争が、いつか過ぎ去るのを待つこと。
彼にできるのはそれぐらいだった。
盗賊との交渉もまた同じ。
武力をもって対処せんとすれば、民と兵は疲弊し、町は荒れる。
加えて、己には兵を率いる胆力も、策を講じる才覚もないことは、誰よりも本人がよく知っていた。
だからこそ、彼は交渉の場に臨み、貢ぎ物を差し出すことで、住民の不安と負担を少しでも和らげようとした。己の保身ではない。これは、民の安寧を願っての苦渋の選択。
王都への賄賂とて、己の地位を守るためではない。課せられる税の重圧を、ほんのわずかでも和らげんがため――すべては、民のためであった。
だがその裏で、デルビヨから遠く離れた村々が、静かに、そして確実に切り捨てられていた。
彼には、その村々を救い上げるだけの才も力もなかった。
メディウスは、弱き領主だった。だが、弱きがゆえに、民の痛みと恐れに最も敏感であろうとした男でもあった――。
もし、時代が、戦の焔ではなく、穏やかな陽光に包まれた平穏の世であったならば、メディウスは民を慈しむ名領主として、長く称えられていたに違いない。
しかし、しかしだ――――ジオラスにとって、民から搾取し、外縁の村々を見捨てたメディウスは、他の貴族たちと何ら変わらぬ存在。
彼もまた、もとは一介の庶民であり、幾度も貴族たちの利のために蹂躙され、奪われてきた者にほかならない。
冷めた眼差しで見れば、先ほど口にしたように、メディウスの選択に対して理解の余地もある。
だが、搾取され続けてきた者としての心は、それを決して許すことができない。
だからこそ、ジオラスの口からこぼれる言葉は、貴族という存在そのものへの呪詛であり、罵倒であった。
「ケケケ、結果はどうだ? 高潔な領主様とやらはまんまとオレに騙されて、胴から首を無くしちまう始末。な、間抜けだろ」
「あ、あなたは~~」
「そうそう、そのご立派な領主様はな、オレたちの前で糞と小便を垂れ流しながら命乞いしたんだぜ。お高そうな服を茶色に染めてな! あれは、実に、愉快だった。ぎゃはははははは!!」
ジオラスの顔に浮かぶは、歪みに歪んだ笑み。
あまりにも残酷で、底の知れぬ闇を湛えたそれは、エミリアの胸を怒りで焼き尽くした。
「許さない、許すものですか……」
エミリアは呟くように言葉を漏らしていく。
「縛り首などでは生ぬるい ……鞭で打ち据え、四肢を断ち、舌を抜き、眼を抉り、獣に食わせ――」
「エミリア様、どうかお気をお鎮めください!」
エルダーは咄嗟にエミリアとジオラスの間にその身を割って入れ、熱を帯びていくエミリアの声が住民に届くより先に、自らの声を用い膜を張ることで言葉を閉じさせた。
傍らでは、ガイウスがジオラスへと一度、静かに首を横に振って見せる。
「そこまでにしておけ。十分であろう」
「――へッ、全然足りねぇけど、これで勘弁してやらぁ」
これは、死にゆく者に与えられた最後の告解の時間――。
ガイウスは、そのつもりでジオラスに言葉を許していた。
せめて最期には、吐き出すものを吐き、魂を穏やかに鎮めさせようと。
だが、過ぎたるは及ばざるがごとし。
想像以上に乱暴で、毒気を孕んだ言葉が次々と溢れ出るさまを目の当たりにし、そして、激情に身を焦がすエミリアの有様を見た彼は、これは少々甘い采配であったかと、心の奥底で密かに悔いた。
ガイウスはジオラスの紐を手繰っていた者へ、彼を牢へ連れていくようにと指示を与えようとした。
だが、そこで――――エルダーが何気なく口にした一言が、まるで燠火に油を注ぐが如く、ジオラスの心に眠っていた憎悪を焚きつけた。
「まったく、盗賊め。自ら堕ちたくせに、子どものような癇癪を見せるなんて」
静まり返った空気が、わずかに軋んだ。
ジオラスの顔が、ぐいと上がる。
「…………おい、そこのお坊っちゃん。今、なんて言いやがった?」
「ん? 下らん癇癪で人を傷つけるなと言ったんだ」
エルダーは、淡々と告げる。その若々しい瞳には、揺らぎも躊躇いもない。
「癇癪、だと……?」
その呟きには、にわかに熱が帯びていた。
押し殺された咆哮の予兆のような、不穏な揺らぎが潜む。
それを感じ取れることのできないエルダーは、過分な言葉を積み上げていく。
「ああ、癇癪だろう。人は皆、道を選ぶことができる。どのような境遇であれ、自らの選択で生きてゆく。貴様がどのような道を歩んだか知らないが、他者を蹂躙してよい理由にもならないし、今のように癇癪を見せてもよい理由にはならないだろう」
これはたしかに、正論であろう。
人生を歩む中で、様々な選択肢を迫られ、それを自らの意思で選び、歩む。
善か、悪か、義か、利か。
ゆえに、道を誤れば、己の責任となる――そう語るのは、倫理の上では正しい。
だが、人生というものは、それほど単純で潔癖な構造ではない。
望んでもいない選択肢を突きつけられることがある。
選びたくもない二者択一しか与えられないことがある。
時には、選ぶという行為そのものが幻であり、強いられた路をただ進まされるだけのこともある。
人生には、抗いようもなく、歩まされる道というものがある。
人はたしかに選ぶ。
だが、選択肢を与えられる者と、選択肢の中身を決められる者とでは、その重さが違う。
エルダーは若く、そして下級とはいえ、貴族としてガイウスの庇護のもと、飢えや寒さとは無縁の生活を送ってきた
だからこそ、正論に過ちはなく、文字通り、正しいものだと思い込んでいた。
だが、それは過ちのない未熟さにすぎない。
経験の足りなさ故に、人生が孕む複雑さを、歪みを、エルダーは未だ知らない。
この無垢な刃が、ジオラスの心を抉り、剥き出しにする。




