第35話 予兆の足音
――――早暁のデルビヨ
微かに暗がりが残る空の下、北門の城壁に立つ衛士のひとりが、霞む地平を指差して声をあげた。
「おい、誰かが来るぞ! こちらへ向かってる!」
その声に、傍らの同僚が身を乗り出し、双眼を細める。
「……まさか、敵襲か?」
「違う、違うぞ。あの歩きぶり、あの体躯――ガイウス様だ!」
城壁の高所からでも、その老将の巨軀と風格は容易に識別できた。
彼らはガイウスのすぐ前を歩く縄で縛られた男に目を凝らすと、たちまち顔を強張らせる。
「誰だ、あの男は? 盗賊のようだが…………」
「あ、まさか、あいつはジオラスでは!?」
「なんだって!?」
驚愕と動揺が走り、北を守る衛士たちは次々と見張り台に集い、騒然となる。
やがてガイウスら一行が門前に至ると、老将は穏やかでありながら威厳を孕んだ声で命じた。
「開門せよ!」
「はっ!」
即座に敬礼の声が返る。ほどなくして、城門の内側から閂を外す重々しい音が響き渡る。
そして、鉄と樫を重ねた巨大な門が、鈍く軋むような音を立てて、ゆっくりと開かれた。
――――町の中心部・大広場
六つの街路が交わり、石畳が敷き詰められたデルビヨの大広場は、朝靄のなかにひっそりと静まり返っていた。
まだ露店も姿を見せず、空は薄紅に染まり始めたばかり。そこに、ひときわ目を引く一団が佇む。
老将ガイウスを中心に、その傍らには両手を縛られた男――盗賊の頭目として恐れられたジオラスの姿。そして彼らを取り囲むように、町の兵士たちや早起きの住民たちが次第に集まりつつあった。
人々は、口々に漏れ聞こえてきた一報について囁き合う。
「どうやら……獅子将軍ガイウス様が、森に陣取っていた盗賊の巣窟に潜入されたらしいぞ」
「それだけじゃない。あのジオラスを、生け捕りにしたそうだ」
「嘘だろ? 四千の盗賊が潜む森に、あんな少数で入ったっていうのか……正気の沙汰じゃない」
「だが事実だ。あの方ならやりかねん。いや、やってのけたのだろうな」
熱を帯びてゆく群衆の声に、さらに別の噂が加わる。
「聞いたか? ジオラスを倒したのは、あそこにいる少年……アデルという名の少年らしい」
「門の一つを死守していた少年か!? だけど、まさか、あの盗賊の頭を……?」
「マジらしい。ジオラスと一騎討ちをし、真正面から勝利を収めたと聞いたぜ」
「それは驚きだね……あの若さでそこまでとは。いやはや、見上げたもんだよ」
ざわめきは波のように広がり、いつしか町の者たちの視線は、ひとりの少年に自然と集まっていった。
町の人々の視線が、ただ一人の少年――アデルの上に注がれるなか、その隣に立つアスティの胸中には不満が溶け込んでいた。
「あ~あ、全部アデルが持ってっちゃったよ。だけど、活躍したのは確かだし。私は見てただけだしね」
その声音は、どこか自嘲混じりではあったが笑みを帯びていた。羨望と納得とが入り混じる、年相応の複雑な感情がそこには宿る。
その呟きに応じるように、フローラが柔らかく口を開く。
「それ言うなら、わたしなんて何にもしてないよ。治療をしたくらいで」
続けて老将ガイウスも、重々しいが穏やかな調子で言葉を継ぐ。
「ワシに至っては、ただそこにおっただけであるからな。今回の作戦、アデルの力あってこその戦果よ」
やや離れた位置にいた工作員たちも、それぞれ肩を竦め、口々に悔しさとも諧謔ともつかぬ声を漏らす。
「私たちは退路の確保と攪乱が任務だったけど、森の中じゃ滅茶苦茶騒ぎながらの帰還になったし」
「陽動で火をかけたのにバレバレだし」
「斥候の俺たちもジオラスにまんまと嵌められたわけだし」
全員が全員、小さなため息を漏らした。
そこには悔しさも混ざるが、認めざるを得ない一人の少年の功績への賞賛が、苦笑とともに滲む……のだが、当のアデルは賞賛の渦中にありながらも、ここに至っても不満げな面持ちを崩さないままでいた。
ジオラスとの一騎打ち、その結末にいまだ納得がいかないのだろう。
町の人々が歓声を送る中で、彼は仏頂面を下げたまま、心ここにあらずといった風情で立ち尽くしている。
その様子を横目で見ていたアスティは、思わず眉間に皺を寄せ、声を荒げた。
「いい加減に納得しなさいよ。勝ちは勝ちなんだからさ」
「う~、でもさぁ……」
「ほら、せっかく町の人が声をかけてくれてるんだから、手でも振ってあげたら? 」
「……そんな気分じゃない」
この素っ気ない返答に、アスティの眉間にはさらに皺が寄り、苛立ちを隠そうともしないまま、縄で縛られたジオラスの方へと視線を投じた。
「ジオラスの言葉じゃないけど、めんどくさいなぁ」
「だろ! こいつ、くっっそめんどうだよな!?」
何故か嬉々として同意を示したジオラスは、両目を輝かせながら頷いた。そんな反応に、アスティは眉を寄せたまま、冷ややかな声で言い放つ。
「私は盗賊と馴れ合うつもりはないよ」
「チッ、そりゃまた冷てぇな 。もうすぐ、死んじまうオレに最期くらい優しくしろよ、嬢ちゃん――おっと、どうやら、オレ専属の死神様がお出ましのようだな、へへ」
そう言ってジオラスは、どこか投げやりな笑みを口に浮かべつつ、ゆっくりと正面を見据えた。
正面にひしめいていた群衆がざわめきとともに割れ、そのあいだに静かなる道が拓かれた。
若き騎士エルダーが、デルビヨの領主メディウスの令嬢――エミリアを伴い現れる。
エミリア――齢は十九。赤みを帯びた栗毛の長い髪は、両側を丁寧に三つ編みにし、後頭部にて一つにまとめられて背へと流す。
その身を包むは、細やかな刺繍が縫い込まれた赤黒のドレス。精緻な意匠の中には、貴族の自尊心と若々しい高慢さが漂っていた。
彼女は、縄で縛られたジオラスの姿を見つけた途端、凍えるような氷蒼の瞳に紅蓮の怒りを宿らせ、付き添いのエルダーを後方に残し、黒のハイヒールを石畳に響かせながら、ためらうことなく歩みを早めた。
次の瞬間――エミリアはジオラスの前に立ち、その頬を平手で打ち据えた。
「よくもお父様を!!」
鋭く響いたエミリアの叫びが、大広場の空気を震わせた。乾いた音が石畳に木霊し、あれほど熱狂に包まれていた群衆のざわめきは、潮が引くように消え去った。
まるで時が止まったかのような静寂の中、エミリアはなおも怒りを燃やし、その目を縛られたジオラスに据える。
「お父様は……和平を望んでおられた。あなたのような下賤の者を相手にしてなお、対等の眼差しを忘れず、いや、誰に対しても分け隔てなく、公平に、誠実に接してこられた――高潔なお方でした……それなのに……それなのに!」
彼女の声は震えながらも、なお強く、鋭く――。
「その尊き志を、あなたは踏みにじった……! お父様の心を、思いを、無惨に蹂躙した!! わたくしは、絶対に、許しません!!」
再び、彼女の平手がジオラスの頬を打つ。
ジオラスは痛みに一瞬目を細めたが、すぐに口元に薄く歪んだ笑みを浮かべた。
その無表情に近い冷笑は、彼女の憤怒にさらに油を注ぎ、燃え上がった激情は指先にまで伝わっていく。
彼女は三度目の打擲を加えようと腕を振り上げたが――その手はエルダーにしっかりと掴まれ、止められた。
「エミリア様、どうかご自重を!」
次いで、老将ガイウスの重厚な声が静かに割って入る。
「感情を抑えよ、エミリア嬢。気持ちは痛いほどに察するが……されど、怒りに身を任せることが、父君の意志に報いる道とは思えぬ 」
「ですが、ですが、ですが!!」
抑えられた両の手を振りほどこうとし、エミリアは激しく身を捩る。
アスティたちはそんな領主の娘の姿に呆気を取られて、言葉を失っていた。
それは町の人々もそう。
その人々の静寂の只中で、ただひとり、ジオラスだけが心のうちで乾いた笑いを漏らす。
(へへ、死神様は随分と粋な舞台を用意してくれるぜ。いいだろう、出来損ないの盗賊だったが、せめて最期くらい――とことん糞ったれな盗賊として、思いっきり糞をぶちまけて死んでやろうじゃねぇか! )
この、ジオラスの自暴自棄にも似た覚悟……まさかこれにより、この場において、アスティたちが窮地に立たされることになるとは誰にも予想できなかった。
そして、これが世界に大きな変革をもたらす出来事になることも――――。




