第33話 徒花
――アデルはすべてを語り終えた。
彼の声は、一語たりとも零すことなく、盗賊たちの耳奥を越えて、鼓膜のさらに奥、胸底に深く焼きついた。
その一人がか細く、ぽつりと呟く。
「すげぇ……」
それは、あまりにも粗野で、どこまでも野暮ったい称賛であった。
だが、実に盗賊という生業に相応しい、率直にして偽らぬ言葉でもあった。
彼らは皆、剣を志す者たちではないが、剣というものの理は知っている。
ただ振るうだけで斬れるものではない。ただ鋭くあればいいのではない。
生半可な腕では、肉を裂けても、骨を断ちきるには至らぬ。
だが、今宵、彼らが目の当たりにしたのは、そうした低き次元の戦いではなかった。
瞬きよりも遥かに短く、砂粒よりも細微な時の綾 ――その中で、アデルという少年は破られた予測を即座に繕い、剣だけではなくジオラスの心までも打ち破った。
剣をもってして、勝利という遥けき境地に辿り着いた。
それは凡人、凡庸なる者、常ならざる者でさえ踏み込むこと能わぬ、剣の高み。
彼ら盗賊にとっては、遠く仰ぎ見ることしかできない異界の域 ――それでも、見上げることはできた。
ただ見上げた、その高さに、彼らの胸から自然と、言葉が零れ落ちたのだ。
しかし、その高みに立つはずのアデルは、いまだ表情に悔しさを滲ませたまま。
勝利の叫びも、歓喜の声もなく。
その姿に、敗れた男――ジオラスは、苦笑とも溜息ともつかぬものを心中に洩らす。
(はぁ、贅沢のガキだぜ。てめぇが勝鬨ひとつ上げねぇと、こっちの引き際も決まらねぇだろうが……ったく、敗者に砂までかけやがって。しゃあねぇな )
勝者が黙すならば、敗者が言うしかあるまい。
ジオラスは一言、こう言った。
「オレの負けだ……」
大将同士の一騎打ち――これにて、今宵の勝負は決した。
四千対十七という、戦史においても稀にみる対峙であり、決着、勝利――――いや、有り得ない……このようなものは常識の埒外。荒唐無稽――。
――なぜならば、四千の盗賊は無傷でいる。まだ戦える。
当然、その思いは彼らにあった。
たとえ、先刻の剣戟に心を奪われていようとも――戦意は尽きていない。
だからこそ、声が上がる。
「負け? 負けのはずがない。こんなのおかしいだろ。なぁ! そうだろ!! ジオラス!!」
「……黙れ」
「黙らねぇよ!! てめぇが負けておしまいだ? 上品な剣士様の真似事かよ!! 俺たちゃ、盗賊なんだぜ! さぁ、命令しろよ!! ガイウスもガキどもも八つ裂きにしろって、いつもみてぇに言えよ!」
一人の盗賊の叫びが、他の者たちを我に返らせた。
あちこちから柄を鳴らす音が響き、遠くでは弦が張られ、矢の息吹が闇を裂こうとしていた。
ガイウスとアスティはそれぞれ槍と剣を構え、フローラは治療を一時中断し、魔導杖を手にして、冠の蒼き魔石に魔力を集め始めた。
しかし、アデルは動かず、ただ静かにジオラスを見つめるのみ……。
ジオラスは首元に添えられていた刃を掌でずらし、その場で大の字になって地面へ寝転ぶ。
そして、先ほど叫んでいた盗賊へこう告げた。
「アデルだけじゃねぇ。こいつら全員、つえぇ~ぞ~」
「関係ねぇよ。こっちには数があんだ。これだけの数がいれば――」
「ああ、勝てるだろうよ。へへへ」
ジオラスは笑う。その笑みにはもはや、かつての獰猛な牙はない。
「だけどな、その『勝ち』には、お前も含めて、ここにいる連中の命が全部、上乗せされてるぜ 」
「――――グッ!」
「それにだ、ここでこいつらをぶっ殺しても、そのあとのデルビヨ攻略はどうするよ? お前が指揮を執るのか?」
「それはあんたがやればいいことだろ!」
この言葉に、ジオラスは両足を上げて振り下ろし、よっと起き上がるとその場で胡坐をかき、どこか力なく言う。
「オレはもう、終わったんだよ……」
「終わっちゃいねぇ! 一度負けただけだ! まだ――」
「いいや、終わったんだ。そう、オレはもう……」
ジオラスの瞳は空を仰ぎ、深い夜の星々を映す。その灰色の瞳に、一筋の光が滲んだ。
あれほどまでに狂気と野心に彩られていた男から、毒気が抜け落ちる。
それは彼の核であり、彼を突き動かしていた何か……。
たとえ薄汚れていようとも、熱を帯び、脈動していた情熱。
それが今、彼の中から、音もなく零れ落ちていく。
だけど、盗賊の男は、それをどうしても受け容れることができなかった。
「ふざけんなよ! ジオラス! てめぇは俺たちに語ってくれたじゃねぇか!! 俺たちは奪われるばかりだった。だからこれからは、奪われる側に回るってよ。奪って奪って、奪いつくして! 俺たちの居場所を作るって語ってくれたじゃねぇか!」
「…………わりぃ」
「謝るなよ! てめぇはそんなできた人間じゃねぇだろ! クッソ最低で頭を下げるなんて絶対にしねぇ。なぁ、ジオラス? まだ終わっちゃいねぇんだ。デルビヨの町が手に入れば、王国だってそう簡単に手出しできねぇ。なにせ、交易の要で、街道を封鎖すりゃ十万の軍だって動きが鈍る! そう簡単には――――」
「……すまねぇ」
「だから謝んなよ! ふざけるなよ、ふざけるなよ! 俺たちは……奪われるだけだった俺たちは、ようやく目標を見つけたんだぜ。お前のおかげでよ! そいつがどんなに穢れた夢でも、俺たちの、生きる理由が !!」
盗賊の男は、叫びながら涙を零す。叫びながら、嘆きながら、それでも尚、かつての頭目を奮い立たせようと必死だった。
だが――ジオラスは、ただ穏やかに、どこか寂しげで、それでいて満ち足りたような笑みを浮かべた。
「どうやら、オレの物語はここで終いのようだ。夢ばかり見ていた偽物のクソガキは盗賊に転げ落ちて、希望に満ちた本物の少年に負けたとさ、ちゃんちゃんってな」
おどけてみせるジオラスの姿を目の当たりにした盗賊の男は、闇をも切り裂かんばかりの咆哮を放った。
「ふざけんなって言ってるだろうがぁぁあ!! お前の夢に魅せられて、俺たちはここに集ったんだよ。それを、てめぇ一人の胸先三寸で終わらせていいと思ってんのか!! ああ、終わらせねぇ。ジオラス、てめえの物語はここでおしまいなんかじゃねぇ。お前らぁぁぁ!!」
男は剣を高く掲げ、森を埋め尽くす四千の盗賊たちの耳と心へ声を届かせんと、喉奥から血反吐を交えた叫びを上げる。
「ジオラスの目を覚まさせっぞ!! このガキどもを――」
「ラッカーレッドの滝だ!!」
前触れもなく、怒声をかき消すほどの凄烈な一声――ジオラスの声が空気を裂いた。
虚を突かれた盗賊の男は、言葉を失い、その場に言葉ごと立ち尽くす。
胡坐をかいていたジオラスは、どっかと立ち上がると、四千の盗賊へ最後の演説を始めた。
「ラッカーレッドの滝の裏に洞窟がある!! そこにはオレ様がしこたまため込んだお宝が眠っている! そいつを、お前らにくれてやる!!」
思いがけぬ一言に、盗賊たちの間にざわめきが走る。
その様を見て、ジオラスは口角を持ち上げ、次いで腹の底から大笑いを響かせた。
「クク、ククク、あ~はっはっはっは!! こいつは俺からの餞別ってやつだ。さぁ、早い者勝ちだぜ! ほら、どうした? お宝の場所は聞いただろ! さっさと行かねぇと独り占めされちまうぞ。こいつがオレが盗賊としての、実らぬ夢に殉じた男としての――徒の花道ってやつよ! は~はっはっはっは!!」
剣を抜きかけていた盗賊たちは、その宣告に動揺を覚え、動きを止める。
隣にいる者と目を交わし、あるいは独りごちるような呟きが漏れ始める。
「ど、どうするよ? 頭のお宝ってことは相当……」
「でもよ、こんな状況で行っていいもんなのか? 」
「頭のお宝……隠し財産……ってことは、一生遊べるくらいは」
「盗賊なんてしなくても、十分に食っていける。酒も女もやりたい放題……」
盗賊――それは、ただの殺しを愉しむ者たちではない。中には、戦を悦ぶ異常者もいただろう。
だが、多くは生きるため、追われる日々を抜け出すため、貧苦の果てに盗賊へ身を沈めた者たちだった。
命を懸けて剣を振るうよりも、安全と黄金とを天秤にかければ、答えは自ずと明らか。
一人が、逡巡の末に足を引き 。
一人が、ためらいながらも背を向け。
一人が、目を伏せて歩き出す。
それを見た誰かが、馬に飛び乗る。
別の誰かがそれを奪おうと飛びかかり――馬を得た者は笑い声と共に森の奥へと駆けてゆく。
その奔流が起これば、もはや誰にも止めようはなかった。
意志という名の炎は掻き消され、皆は欲望に飲み込まれ、宝を目指して森の外へと雪崩れ込んでいく。




